2017年05月26日

【日記】アッシュハンド

五月にしてはやけに早い夏日のある日、父の手伝いで、親戚宅の庭木の剪定をやって、右腕がパンパンである。
わたしの父は田舎育ちであるので、自然が好きだ。そして、緑化が上手い。自宅の庭の手入れもマメである。季節季節の花々も見事に咲かせ、ここ数年は素人ながら旨い葡萄をならせたりもしている。

こういう、緑と縁が深く、植物を愛し、愛され、自然と共存していける人物を「グリーンハンド」という。わたしの父はまさしく「グリーンハンド」である。

が、残念ながら、わたしはその血をまったくひかなかった! わたしは手にする植物を次々と枯らしてしまう手を持つ男である。
まず小学生の頃、ヒヤシンスの水栽培に失敗した。夏休みの観察日記である朝顔は芽の段階で死んだ。ヒマワリだけは勝手に成長したが短くみすぼらしい花だった。

大人になってからは、それなりに部屋に植物を飾りたくもなり、観葉植物を置いてみたりする。子どもの頃とは違うので、いろいろ本を読んで気を遣ってあげてみた。

しかし、枯れやがったorz

その後、何度か違う植物でチャレンジしたが、全滅。なんとサボテンさえも枯れた。
どうにも、認めなければいけない。わたしは、植物全般から愛されていないのである。
愛されていないのに愛するというのは苦痛に他ならない。というわけで、わたしも植物を愛さないようになった。
観葉植物なんて、ゴム製の偽物で十分である。

わたしの父のように、緑化が上手い人を「グリーンハンド」と呼ぶと知ったとき、「ああ、じゃあ俺は、なんでも灰にしてしまうアッシュハンドだ」と、ボヤいたのであった。

実際の英語では、わたしのように植物を枯らしてしまう人は「ブラウンハンド」「ブラックハンド」と言うらしい。が、わたしは自分で命名した「アッシュハンド」が気に入ったので、以降、これを使っている。

ちなみに、細君も「アッシュハンド」な人。彼女も結婚後、いろいろな植物の栽培にチャレンジしたが、見事に全部枯らしてしまうのであった。
当時はまだ「グリーンハンド」という言葉も知られていなかったので(当然「アッシュハンド」というわたしの造語もなかった)、いろいろ苦心しながらそれでも枯らしてしまって悔しがる細君に「俺らはだめなんだよ。そういう植物育てるのに向いてないの」と、何度も諭したものだった。

細君の「アッシュハンド」ぶりを見ていると、納得できるところもある。面倒をみるときは熱中して徹底的にやるのだが、暑い日にそのまま直射日光の下に忘れて土をカラカラにしてしまう。毎日コツコツと、少しずつ面倒をみるということをしない。
端的に言って「植物の心をわかっていない」のである。

わたしはといえば、もともと「植物に心なんてあるわけないじゃん」と思っているから、細君よりあきらめが早かった。「グリーンハンド」という言葉を知ってからは「俺らはアッシュハンドなんだから植物なんて育てらんないの。無駄な努力はやめなさいよ」と言う立場。
細君は熱中するとがんばるが、飽きると放り出して片づけもしないタイプである。細君がベランダに放置した雑草の生えペキペキに割れたプランター類を捨てるのはわたしの役目。いいかげんそれにも業を煮やし、細君に「俺らはアッシュハンドなの!」と説教をしなければいけないわたしの情けない状況を読者諸兄は察していただきたい。

そうして細君もやっと、自分の「アッシュハンド」ぶりを自覚してくれたので、植物関係のチャレンジはしなくなり、わたしの生活に安寧が戻ったのである。

話を最初に戻して、今日一日、剪定鋏を振り回して緑と格闘して思うのは、「ああ、やっぱり俺って、緑が好きじゃないんだなぁ」ということだった。面倒くさくて、つまらない。疲れるばかりで厄介だ。
そして気づいた。植物がわたしを愛してくれないから、わたしが植物を愛さなくなったのではなかったのだ。わたしが根本的に、植物に心なんかないと最初から思っているから、植物から愛されることがないのだ、と。

それがわかったところで、わたしの「アッシュハンド」は変わらないのである。

わたしは人工環境が好きだ。コンクリートとアスファルトの街に住めることが嬉しい。買ったばかりの工業製品のトランスの焼ける匂いに幸せを感じる。
有機物である植物の心はわからないくせに、無機物である機械の心はスッとわかるときがある。この感覚は機械が好きな方なら、おわかりいただけると思う。「グリーンハンド」ならぬ「シリコンハンド」である。

PCが苦手な人は「なにもしてないのに壊れた」と定番の台詞を良く言う。これの植物版が「アッシュハンド」なのだろう。
わたしは内心、こういう「なにもしてないのに壊れた」という人を「シリコンハンド」に相対する言葉として、内心、「コンタミハンド」と命名している。なにもしてないはずないでしょう? あなたのPCがいっぱい汚染されてるからこうなってしまったの! という意味で。

自分が「アッシュハンド」な人なので「コンタミハンド」の人に腹を立てたりはしない。
あーでも、わたしが「アッシュハンド」なのを自覚したら楽になったのと同じように、「コンタミハンド」の人にも自覚はしてほしいかな、とは思ったり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年05月25日

【回想録】もものすけさんの思い出

これもインターネット黎明期の頃の、思い出のサイト話である。
「もものすけ」さんはウェブマスターのお名前。サイト名は「もものすけはきたい」ではなかったかな?

サイトはbekkoameで開かれていて、全体的なデザインは黒地をベースに赤字で書かれていたような記憶もあるが、とても読みやすかったという覚えもあるので、それはbekkoameの印象(bekkoameはそういうアダルトサイトが多かった)に引きずられて、記憶が変質しているのかもしれない。

そう、もものすけさんがお作りになられていた「もものすけはきたい」は、ウェブマスターのもものすけさんが体験された風俗のレポート話がメインの、アダルトサイトであった。
わたしは風俗と縁のない人生を送ってきているので、そういったところの実地レポートが読めるというのは興味津々で、よく拝読させていただいていた。

もものすけさんはなんといっても、文章が上手かった。風俗レポートをお書きになられているのに、いやらしいところがなく、謙虚で、ユーモアがあった。行間に優しいお人柄がにじみ出ているような感じで、嫌みなところがない。そう、風俗系のサイトだというのに、今で言う草食系な人という雰囲気。

わたしが風俗に詳しくないので、そのあたりの記憶は曖昧なのだが、もものすけさんはわりと、本格的な風俗店(ソープランドとか)ではなく、ライトな風俗店(デリヘル?)をよくご利用になられていたと思う。

けっこう日記的なところも多く、軽い性病になられたり、風俗の女の子を好きになってしまったりというような内容もあったような。

最後は確か、かなりボカしていらっしゃったが、どこかの風俗店の女の子と結ばれて、サイトは寿閉鎖したと思う。
ひとりの愛読者としては残念だったが、もものすけさんの新たな出発を心からお祝いしたものだった。

サイト名の「もものすけはきたい」がちょっと謎なのだが、もものすけさんご自身は、最後までその謎解きをなされなかったと思う「もものすけは期待」なのか「もものすけ穿きたい」なのか、「もものすけ覇気たい(?)」なのか、今でも謎である。
もものすけさんが、今でもどこかで、元気でいらっしゃることを祈りつつ筆を置く。

     *     *

と、書いたところで、ちょいと尺が短いので、わたしの唯一の風俗体験レポートを!
わたしの住む地方都市には、ちょっと有名な風俗街があるのだが、ある初夏の朝、クルマで細君を所用で送っていったあと、その街の狭い通りを徐行していたら、そこの歩道で、ゴルフクラブの素振りをしている男性がいたのである。
なんだろう、練習熱心だな、と思いつつ、ゆっくり横を通り過ぎようとしたら、窓を拳でコツコツ、と叩かれた。頭からはてなマークを出しながら窓を開けると――
「お兄さん、お風呂入っていきませんか?」
「え、お風呂ならゆうべ入りましたけど……」
「あ、じゃあいいんです」
クルマを再び出して、バックミラーを見ると、彼はまた、悠々と素振りの練習をしている。スーパー銭湯かなにかのお誘いだったのだろうか?
頭からはてなマークを三つくらいだして、信号三つくらい越えてから、ああーっ、とわかった。なんて間抜けで莫迦なわたし。「お風呂」って、そういう意味だったのですね(笑)。
「いいですねー。今日も暑くなりそうだし、朝からサッパリしていきましょうか」
などと応えなくて良かった! と、ひとりで苦笑しながら帰宅したわたしなのであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年05月24日

【映画評】メッセージ

お菓子の「ばかうけ」が宇宙船になってやってくると話題の映画。
原作はテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」。でもわたしは未読である。
トレーラーから楽しみにしていたので、2ちゃん映画板の該当スレも読まずにいた。そしてそれは両者とも正解だった。



良い映画だった。ラストの伏線の折りたたみ方が素晴らしい。しかしそれを書くわけにはいかない。この記事ではネタバレはしないと決めた。あのシャマラン監督の映画よりラストの落とし具合が感動に結びつく映画だと思うからである。

ギリギリ書ける線で言えば「叙述トリックの一発ネタ」である。ああ、これすらも書くべきではないのかもしれない。しかしこの感動は一発ネタを越える。

さて、物語の核となっているテーマのひとつは「言語体系は思考をつかさどる」「言語体系を変えれば思考は変わる」である。これは実際、他国語を真剣に学んだ者なら誰しもが体験することだろうし、また、人工言語であるコンピュータ言語でもそうである。

以前、非常に古いタイプのMS-BASICしか知らない方に、Cでのプログラミングをお教えしたとき、「ローカル変数を使う意味がわからない」「ルーチン(関数)を最初に宣言する意味がわからない」「ループからの抜け出しにGOTOを使ってはいけない理由がわからない」の、ないないづくしであった。要するに、その人の言語体系に「構造化プログラミング」という思考がなかったわけである。
かく言うわたしはPerlが大嫌い。あの、何でも簡略化して書けるコードは気持ちが悪い。あれを好きなプログラマは、おそらく日常でも「メシ、フロ、ネル」亭主ではないか(古いな)。

さて、本作「メッセージ」を観終わったので、いろいろな方の映画評を読んで楽しんでいる。多種多様な意見が出る映画はそれだけで良い作品の証だ。
本作では「ヒロインは宇宙人の言語(ヘプタポッド語)を理解できるようになるに従い、未来を観る能力≠得た」という解釈が多いようだが、(正確には、過去、現在、未来という時制を越え時間を流れとしてではなく全体として眺望できる能力≠得たというべきだが、話を簡単にするためにこのように書く)むしろここに入れる言葉は「能力」ではなく「思考」の方が正しいのではないだろうか。
前述の通り、言語体系が変えることはできるのは「思考」である。英語がわかるようになったからと言ってベースボールができるようになるわけではない。
「能力」ではなく「思考」だからこそ、未来に悲しい出来事が起きることがわかっていても、それを受け入れ、将来を変えようと考えなくなったのである。

ヒロインはヘプタポッド語という新しい言語体系を身につけることで、決定論的な未来を受け入れる「思考」ができるようになった、ということなのだと思う。そして「思考」は「行動」を変えるのだ。

映画「マトリックス」の中で、仮想空間のトレーニング場で闘い息を上げた主人公ネオに対し、モーフィアスは言う。「Do You think that's air you're breathing now?(その息は本物か?)」

同じように、本作のヒロインも「未来はわからない」という固定概念的思考をヘプタポッド語の習得により変えることが可能になったが故に、未来を観ることができたのである。
超能力と言ってしまえば超能力だし、ファンタジーだと言ってしまえばファンタジーだし、SFだと言ってしまえばSFだ。
しかしヒロインが、これから訪れる、悲しい未来の出来事を知りながら、それを変えることなく受け入れ生きていこう、という姿勢になったのは、思考を変えたからなのである。

「未来はすべて決まっていて変えられない」という決定論的な本作の結末を受け入れられない、という方は多いようだが、決して未来は変えられない、と断定しているわけではない、とも思う。
ヘプタポッド語もコミュニケーションのための言語である以上、変化していくだろうし、完成された言語というものが存在するはずもない。
また、ヘプタポッド語自体が難解であることは想像に難くなく、解釈の仕方によっては違う未来があるかもしれない。

ただ言えるのは、ヘプタポッド語を習得したヒロインも、ヘプタポッド語を操るヘプタポッド人も、未来を変えようという「意思」がないから、未来を知ることができるのである。ここのところ、因果が逆なのだ。

「我々ヘプタポッド語未習得の地球人が、未来を観ることができないのは、未来を変えようという意思があるからこそなのである」
これこそが、ヘプタポッド人が三千年後に求めているという、人類への救いなのではないだろうか?

などと、これは、原作未読のわたしが映画を観て、帰り道につらつら考えたことを日本語にしてみたものである。あまり脈絡がないこと、ご容赦。

わたしは泣き虫なので、子どもを病気で失ったヒロインという同じ境遇もあり、かなり泣くかと思っていたが、要所要所ではウルッと来はしたものの、大泣きまではいかなかった。

それにしても、ヘプタポッド語が「円」を基本にしているのは素晴らしいと思う。わたしは「円」、それも「円周率」が好きだ。円周率は無理数で永遠に続き、その中に、デジタイズされたあらゆる物語が含まれている。
冬の寒い日、バスを待つ道路でマンホールを眺めながら、この円の中に、わたしという人間の物語の、その喜びも、涙も、すべてが含まれているのだと思うと、不思議な気分になる。
この段落、少し言葉足らずのきらいもあるが、これはそのうち、機会があったらまた書こう。

わたしには珍しく、細君を誘って、ふたりでもう一度観にいこうか、迷っているところである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評