さいわい、街三つくらい隔てた、あの「四国めたん」さんが働いているスーパーに「大きなひきわり」があったので保護。その週の「納豆の日」は、無事、過ごすことができた。
四国めたん「同一商品です」
四国めたん「いつもありがとうございます」
めたんさんの声が店中で聞けるのはうれしいが、ここでしか買えないのはまいったなぁ。
その後、余裕を持ってスーパーめぐりをしてみると、イトーヨーカドー系ならありそうかな、という感触を得ている。
味にこだわるあまり、食の選択肢がせばまってしまうのはよろしくないのではないかと思うのだが、細君はごはんを待つ雛鳥のように口を開けてピーピー鳴くだけなので楽である。イヤなものには顔をそむけるだけ。むぅ。親鳥の身にもなってよ……。
先日、X68000Z界で知られている、はぅさんとみゆさんご夫妻と食事をした。そのとき「細君はこだわりが強くて、納豆がね……」という話をしたら、お二人はポテトチップスにこだわっていて、なんと工場で味が違い、特定の工場のポテチはおいしいので、製造番号で商品を選んでいる、とのこと。oh、すごい……。
わたしは、そういう食へのこだわりはかなり少ない方だと自負している。昆虫食やゲテモノも、これも人生経験だと試してみてもいいかな、と思う程度には嫌悪感がない。
もちろん、ある程度の好き嫌いはあるし、体調が悪くなるので食べられない食品はある(生ネギとか)。それでも出されれば、「無知のグルメ」のコケ山さんの食レポのように、「まぁいいか……」でなんでも食べてしまうタチだ。
思えば、食以外、日常生活でも「こだわり」がだいぶなくなってきたように思う。
以前は、部屋が片づいていることにこだわりがあり、散らかし癖がある細君とは、この点、何度もぶつかったものだが、ここ数年、ついにわたしが折れた。今はもう、部屋中、モノであふれている。
わたしの人生は、こだわりを捨てる人生だなぁ。
オーディオ趣味は、CDの登場でやめた。いまやmp3で十分だ。
ソニーのAVにこだわったときもあったが、VHSでいいやとベータマックスを捨て、LDも見切りをつけ、DVDははなから集めず、いまはスマホでサブスク再生。
冊子体の書籍へのこだわりもとうに放棄。いまは電書をツンでいる。
融通無碍の境地とまではいかないが「こだわりがないのがこだわり」くらいならいけそうだ。
というわけで、このブログの、週二回、水土更新というこだわりも、とうに捨てたのである。
うむ。自由闊達。
2026年05月06日
【日記】こだわり その2
posted by 結城恭介 at 23:59| 日記
2026年04月01日
【日記】こだわり その1
我が家は、まかないをやっているわたしの負担を減らすため、木曜の夜は納豆で軽く済ます、ということになっている。
わたし自身は、納豆は好んで食べることはないが、食べられないことはない、という感じ。
細君は納豆が好きで、お刺身などの生臭い系のおかずのときは、むしろ一人だけ納豆を出してあげた方が喜ぶのであった。
で、そんな細君が、料理研究家リュウジさんの動画を見て「すごくおいしい納豆があるんだって。あなたでも喜んで食べられるかもよ」と言う。
それが、あづま食品の「大きなひきわり」。

Amazonではずっと「品切れ」だ。
納豆好きな細君が喜ぶなら、と、いつものスーパーへ行ってみたら、おっ、あるぞ。というわけでカゴへ。
それにしても納豆のコーナーには、なんと多くの種類のそれがあることよ。なんなん? みんなどうしてこんな腐れ豆が好きなん? 信じられないのだ(ずんだもんの声で)。
で、家族みなで食べてみた。
うん、確かに、今までの納豆より食べやすい。納豆苦手勢で舌バカのわたしでもわかる。
細君も老父母も「これはうまい」と太鼓判。細君などは「これを食べたらほかの納豆は食べられないよ!」とまで。
それはよかった、と、木曜日の夜の食卓には、このあづま食品の「大きなひきわり」を出すことにしたのであった。
そして数ヶ月――
「大きなひきわり」を売っていたスーパーが一週間の改装をした。その間は買いだめしておいた「大きなひきわり」があったので大丈夫だったのだが、明けて店に行ってみると、なんと、ない! 納豆売場から「大きなひきわり」が消えている。
もとから、数を入れてはいなかったのだが、今回の改装で仕入れをやめてしまったらしい。
ほかの納豆は種類も多く並んでいるのが憎らしい。
ここで伏線が効いてくる。
細君「これを食べたらほかの納豆は食べられないよ! ょ ょ(エコー)」
ずーん……。
なんということだ。わたしが楽をするために、「木曜夜は納豆の日」と決めたのに、その納豆を探して、市内のスーパーをクルマで回ることになってしまったのだ。
わたし「ほかの納豆じゃだめ?」
細君「だめ!」
そう、細君は「こだわり」が強いのである。
つづく!
わたし自身は、納豆は好んで食べることはないが、食べられないことはない、という感じ。
細君は納豆が好きで、お刺身などの生臭い系のおかずのときは、むしろ一人だけ納豆を出してあげた方が喜ぶのであった。
で、そんな細君が、料理研究家リュウジさんの動画を見て「すごくおいしい納豆があるんだって。あなたでも喜んで食べられるかもよ」と言う。
それが、あづま食品の「大きなひきわり」。

Amazonではずっと「品切れ」だ。
納豆好きな細君が喜ぶなら、と、いつものスーパーへ行ってみたら、おっ、あるぞ。というわけでカゴへ。
それにしても納豆のコーナーには、なんと多くの種類のそれがあることよ。なんなん? みんなどうしてこんな腐れ豆が好きなん? 信じられないのだ(ずんだもんの声で)。
で、家族みなで食べてみた。
うん、確かに、今までの納豆より食べやすい。納豆苦手勢で舌バカのわたしでもわかる。
細君も老父母も「これはうまい」と太鼓判。細君などは「これを食べたらほかの納豆は食べられないよ!」とまで。
それはよかった、と、木曜日の夜の食卓には、このあづま食品の「大きなひきわり」を出すことにしたのであった。
そして数ヶ月――
「大きなひきわり」を売っていたスーパーが一週間の改装をした。その間は買いだめしておいた「大きなひきわり」があったので大丈夫だったのだが、明けて店に行ってみると、なんと、ない! 納豆売場から「大きなひきわり」が消えている。
もとから、数を入れてはいなかったのだが、今回の改装で仕入れをやめてしまったらしい。
ほかの納豆は種類も多く並んでいるのが憎らしい。
ここで伏線が効いてくる。
細君「これを食べたらほかの納豆は食べられないよ! ょ ょ(エコー)」
ずーん……。
なんということだ。わたしが楽をするために、「木曜夜は納豆の日」と決めたのに、その納豆を探して、市内のスーパーをクルマで回ることになってしまったのだ。
わたし「ほかの納豆じゃだめ?」
細君「だめ!」
そう、細君は「こだわり」が強いのである。
つづく!
posted by 結城恭介 at 23:59| 日記
2026年03月18日
【日記】細君、がん闘病記 その後3
2026/03/12は、細君のがん手術後、4回目の検診であった。
このところの千葉は、三寒四温。ちょうど寒い谷に入っているのか、朝夕はひどく凍える。
細君は高血圧で、がん手術をしたC病院とは違うSK病院にも通っているので、今日は病院をハシゴである。
予約制ではないSK病院は、朝早くから並ばないと午前中いっぱいつぶれることになってしまうので、07:30、クルマで家を出る。
細君をSK病院近くでおろし、わたしはクルマを少し離れた駐車場に止めて、千葉駅近辺のスタバへ入る。
細君は早くいったおかげで、18番を取れたとLINEをくれた。
わたしはBigme B6で読書したり、折りたたみキーボードを開いてこれを書いたり。
今日は順調に診察に進めたということで、09:45、スタバに来た細君と合流。
まだ時間があったので、細君をスタバに残し、先日、わたしが不注意で壊してしまった常用メガネ――

を新調するため、同じビルにあるJINSへ。
今回は軽さを追求したく、ツルを耳かけず、こめかみのところで止めるショートテンプルにした。このタイプ、実は二本目だ。
JINSは(在庫があれば)待てばすぐレンズが入る。スタバに戻ってお茶し、細君と店を出て、JINSでメガネを受け取り、昼食はタリーズで。
細君ががん手術を受けたCD病院の予約は13:00から。クルマで向かい、細君を先に降ろして、駐車場へ停め、合流したのが13:00。その間に細君は採血検査を済ませていた。
その後、待合室で待たされるのは、もうお決まり。
驚いたのが、前回まではCD病院、マスク着用は自己責任となっていたのだが、今日は「感染症予防のためしてください」に変わっていたこと。うーむ、マスク苦手なのだよな。なぜ元に戻ったのかはわからないが仕方ない。
今日の番号は5003番。待たされ、待たされ、中待合いへ。
そして診察室へ。今日の先生はまた違う女医。細君の最近の気になる症状は、よく鼻血が出ること、すこし小用が近くなったこと。これらはがん手術の直接の影響ではないでしょうとのこと。
血液検査(腫瘍マーカー)の数字も問題ないとのこと。よかった。
途中、手術をしてくださった女医さんも顔を出してくれた。
細君は内診して、解放。
次回は3ヶ月後。手術後一年を経たので、CTスキャンを撮ることになった。
その後、出るべきクスリが出ていなかったりして、会計と薬局と受付を行き来させられたが、15:00には病院を出られた。外はあまりよい天気とはいえない曇りだが、検査結果がよかったのでヨシ。
ヨシといえば、わたしが好きな仕事猫のグッズがしまむらにあるということなので、帰りはしまむらに寄って――

キーホルダーをひとつ保護して、帰路につく。
去年の今頃は、がん告知から検査の嵐、そして手術待機と、息つく間もなかった。床についても不安から起きてしまい、睡眠時間も短かった。細君もこのところは、まあまあ眠れているとのこと。
あの頃を思うと、こうして日常が戻ってきたことがうれしい。
細君のがんの「寛解」まで、術後10年、様子を見ることになっている。あと9年だ。
遠くを見ないで、一歩一歩、がんばろう。
このところの千葉は、三寒四温。ちょうど寒い谷に入っているのか、朝夕はひどく凍える。
細君は高血圧で、がん手術をしたC病院とは違うSK病院にも通っているので、今日は病院をハシゴである。
予約制ではないSK病院は、朝早くから並ばないと午前中いっぱいつぶれることになってしまうので、07:30、クルマで家を出る。
細君をSK病院近くでおろし、わたしはクルマを少し離れた駐車場に止めて、千葉駅近辺のスタバへ入る。
細君は早くいったおかげで、18番を取れたとLINEをくれた。
わたしはBigme B6で読書したり、折りたたみキーボードを開いてこれを書いたり。
今日は順調に診察に進めたということで、09:45、スタバに来た細君と合流。
まだ時間があったので、細君をスタバに残し、先日、わたしが不注意で壊してしまった常用メガネ――

を新調するため、同じビルにあるJINSへ。
今回は軽さを追求したく、ツルを耳かけず、こめかみのところで止めるショートテンプルにした。このタイプ、実は二本目だ。
JINSは(在庫があれば)待てばすぐレンズが入る。スタバに戻ってお茶し、細君と店を出て、JINSでメガネを受け取り、昼食はタリーズで。
細君ががん手術を受けたCD病院の予約は13:00から。クルマで向かい、細君を先に降ろして、駐車場へ停め、合流したのが13:00。その間に細君は採血検査を済ませていた。
その後、待合室で待たされるのは、もうお決まり。
驚いたのが、前回まではCD病院、マスク着用は自己責任となっていたのだが、今日は「感染症予防のためしてください」に変わっていたこと。うーむ、マスク苦手なのだよな。なぜ元に戻ったのかはわからないが仕方ない。
今日の番号は5003番。待たされ、待たされ、中待合いへ。
そして診察室へ。今日の先生はまた違う女医。細君の最近の気になる症状は、よく鼻血が出ること、すこし小用が近くなったこと。これらはがん手術の直接の影響ではないでしょうとのこと。
血液検査(腫瘍マーカー)の数字も問題ないとのこと。よかった。
途中、手術をしてくださった女医さんも顔を出してくれた。
細君は内診して、解放。
次回は3ヶ月後。手術後一年を経たので、CTスキャンを撮ることになった。
その後、出るべきクスリが出ていなかったりして、会計と薬局と受付を行き来させられたが、15:00には病院を出られた。外はあまりよい天気とはいえない曇りだが、検査結果がよかったのでヨシ。
ヨシといえば、わたしが好きな仕事猫のグッズがしまむらにあるということなので、帰りはしまむらに寄って――

キーホルダーをひとつ保護して、帰路につく。
去年の今頃は、がん告知から検査の嵐、そして手術待機と、息つく間もなかった。床についても不安から起きてしまい、睡眠時間も短かった。細君もこのところは、まあまあ眠れているとのこと。
あの頃を思うと、こうして日常が戻ってきたことがうれしい。
細君のがんの「寛解」まで、術後10年、様子を見ることになっている。あと9年だ。
遠くを見ないで、一歩一歩、がんばろう。
posted by 結城恭介 at 23:59| 日記
2026年02月28日
【日記】X(旧Twitter)に未来はあるの?
この春の突発的な国政選挙では、X上で著名人、クリエイターたちが、けっこう自分の旗色を鮮明にしたポストを行っていた。
これがもとで「こんな人だと思っていなかった」、「ガッカリした」という炎上騒ぎも。
痛感した。
なにかの作り手は、主義主張があるなら、それは作品で出すべきだ、と。
作品に人格を滲み出すことができてこそ、一流の作り手である。
わたしは一流ではないので、こうしてブログで書いている。
しかしバカにもなれそうにないので、Xで主義主張をすることは控えたい。
お気づきの方がいらっしゃるかもしれないが、わたしはX(旧Twitter)が苦手、というか嫌いなのである。
今のXは言論の場としても、コミュニケーションの場としてもダメダメだ。5ch以下のゴミ溜め、トイレの落書きと思った方がよい。
たとえば「リンゴおいしかった」と、一言、ポストすると――
「リンゴの色に触れず味を語ってるのが笑える」
「助詞も書けない偏差値30」
「おいしくないリンゴを作っている農家のことを考えないバカ」
「ミカンのうまさも知らない味盲」
「無能がいっちょ前にリンゴとか」
「これだからビーガンはうざいタヒね」
「無農薬ならうまいってのは短絡的」
「肉も食えない貧乏人」
「これAIでしょ。AIは排除すべき」
といった罵詈雑言が、百、返ってくる。
いやまじでほんとですよ。このリンゴを「(ピー)」に変えれば、数分でタイムラインがこのような的外れなゴミポストで溢れる。
これではまともな議論はなりたたないし、最初から敵意をもって相手を切りつける者も多く、立ち位置がどちらでも、フォントがヤスリのようにザリザリと読者の心を傷つける。
Xのタイムラインは個人の傾向を読むので、エコーチェンバー(自分の意見に賛成するポストばかりが表示され、大勢がそれだと勘違いすること)も起こりやすく、注意していないと、実は傷だらけで劣勢なのに、まだ勝てるとがんばっている状態になりかねない。
人が人を傷つけるのを見るのも、傷つけられるのを見るのも嫌だよ。
悪意あるポストを読みたくないので、ねこのポストばかりいいねをしていたら、やがてタイムラインがねこばかりで埋まってしまった。
これはこれでもちろんかわいいのだが、だったらXでなくGoogleでねこ画像検索していればよいのだ。XがXである意味がない。
この嫌な傾向は、TwitterがXに変わった頃から顕著になったようにも思う。
このようなわけで、わたしはもうXには、存在証明代わりの読書記録くらいしかポストしなくなってしまった。
Xしか言論、コミュニケーションの場がないような、今の子どもたちを、かわいそうに思う。懐古ではなく本心から。
情報がX、note、YouTubeといった、たかが私企業に集中しているのもよろしくない。
他人の庭で自分の声は張り上げられない。なのに、自分は自由だと思っている滑稽さ。
総じて、今のネットは健全ではない。インターネット創世の頃の意識を知っていると、驚くほど不自由でいびつで、醜悪である。
窮屈で狭小な場所で、誰もが知らず飼い慣らされており、いつか出荷され、屠殺される日を待っている。
その昔、ネットにはなんでもあった。夢も、希望も、絶望も。
箱が開けられた今のネットに、なにかが残っているとでも?
これがもとで「こんな人だと思っていなかった」、「ガッカリした」という炎上騒ぎも。
痛感した。
なにかの作り手は、主義主張があるなら、それは作品で出すべきだ、と。
作品に人格を滲み出すことができてこそ、一流の作り手である。
わたしは一流ではないので、こうしてブログで書いている。
しかしバカにもなれそうにないので、Xで主義主張をすることは控えたい。
お気づきの方がいらっしゃるかもしれないが、わたしはX(旧Twitter)が苦手、というか嫌いなのである。
今のXは言論の場としても、コミュニケーションの場としてもダメダメだ。5ch以下のゴミ溜め、トイレの落書きと思った方がよい。
たとえば「リンゴおいしかった」と、一言、ポストすると――
「リンゴの色に触れず味を語ってるのが笑える」
「助詞も書けない偏差値30」
「おいしくないリンゴを作っている農家のことを考えないバカ」
「ミカンのうまさも知らない味盲」
「無能がいっちょ前にリンゴとか」
「これだからビーガンはうざいタヒね」
「無農薬ならうまいってのは短絡的」
「肉も食えない貧乏人」
「これAIでしょ。AIは排除すべき」
といった罵詈雑言が、百、返ってくる。
いやまじでほんとですよ。このリンゴを「(ピー)」に変えれば、数分でタイムラインがこのような的外れなゴミポストで溢れる。
これではまともな議論はなりたたないし、最初から敵意をもって相手を切りつける者も多く、立ち位置がどちらでも、フォントがヤスリのようにザリザリと読者の心を傷つける。
Xのタイムラインは個人の傾向を読むので、エコーチェンバー(自分の意見に賛成するポストばかりが表示され、大勢がそれだと勘違いすること)も起こりやすく、注意していないと、実は傷だらけで劣勢なのに、まだ勝てるとがんばっている状態になりかねない。
人が人を傷つけるのを見るのも、傷つけられるのを見るのも嫌だよ。
悪意あるポストを読みたくないので、ねこのポストばかりいいねをしていたら、やがてタイムラインがねこばかりで埋まってしまった。
これはこれでもちろんかわいいのだが、だったらXでなくGoogleでねこ画像検索していればよいのだ。XがXである意味がない。
この嫌な傾向は、TwitterがXに変わった頃から顕著になったようにも思う。
このようなわけで、わたしはもうXには、存在証明代わりの読書記録くらいしかポストしなくなってしまった。
Xしか言論、コミュニケーションの場がないような、今の子どもたちを、かわいそうに思う。懐古ではなく本心から。
情報がX、note、YouTubeといった、たかが私企業に集中しているのもよろしくない。
他人の庭で自分の声は張り上げられない。なのに、自分は自由だと思っている滑稽さ。
総じて、今のネットは健全ではない。インターネット創世の頃の意識を知っていると、驚くほど不自由でいびつで、醜悪である。
窮屈で狭小な場所で、誰もが知らず飼い慣らされており、いつか出荷され、屠殺される日を待っている。
その昔、ネットにはなんでもあった。夢も、希望も、絶望も。
箱が開けられた今のネットに、なにかが残っているとでも?
posted by 結城恭介 at 23:59| 日記
2026年02月25日
【日記】普通でいいの。普通で。
先日、愛用Kindleの中にツンである、ある新書の作者である大学教授が、けっこうXで暴言を吐く方ということを知ってしまった。
評判はよい本なのだが、どこかがっかりして、そのタイトルを開く気がまったく失せてしまった。メモリからも消してしまおうかと思っている。
わたしは、作品と、それを創った者の人格は切り離せない、と信じているタイプ。
人に罪があるなら、作品にも少なからずその罪が反映されているはずと思っている。
人格が反映されていない作品は、まだまだ薄っぺらいレベルである。
作者は作品に生き様を焼き付けてこそ、ある一線を越えた、良作以上の、執念のある名作ができあがるのだ。
悪い方向ばかりではなく、よい方向にも、それは醸し出されるはず。
暖かい作品には、やはり暖かい人格が裏にある。冷酷な人間がとりつくろってつくった作品には、どこかいびつさがある。
その微細な違和感を敏感に感じるとる受け手は必ずいる。
別に聖人君子でいる必要はない。
普通でいいの。普通で。
でもね、「普通でいい」という、婚活の現場のようなささやかな希望が、実は一番、むずかしいのかもしれないね。
評判はよい本なのだが、どこかがっかりして、そのタイトルを開く気がまったく失せてしまった。メモリからも消してしまおうかと思っている。
わたしは、作品と、それを創った者の人格は切り離せない、と信じているタイプ。
人に罪があるなら、作品にも少なからずその罪が反映されているはずと思っている。
人格が反映されていない作品は、まだまだ薄っぺらいレベルである。
作者は作品に生き様を焼き付けてこそ、ある一線を越えた、良作以上の、執念のある名作ができあがるのだ。
悪い方向ばかりではなく、よい方向にも、それは醸し出されるはず。
暖かい作品には、やはり暖かい人格が裏にある。冷酷な人間がとりつくろってつくった作品には、どこかいびつさがある。
その微細な違和感を敏感に感じるとる受け手は必ずいる。
別に聖人君子でいる必要はない。
普通でいいの。普通で。
でもね、「普通でいい」という、婚活の現場のようなささやかな希望が、実は一番、むずかしいのかもしれないね。
posted by 結城恭介 at 23:59| 日記
