2019年11月16日

【日記】GAN356iレビュー

 というわけで、ルービックキューブならぬ六面立体パズル、GAN356iのレビューである。
 Youtubeなどではかなり突っ込んだレビューがあるし、Triboxさんにも懇切丁寧な解説動画があるので、そちらの方がよりわかりやすいとは思うが、文字情報(ブログなど)でのレビューはほとんどないようだし、さらには、わたしのような超々初心者の書いたものはまったく見かけないので、筆を執った次第。



 GAN356iは、中国のGAN社が発売している、スマホと連動して使えるスマートキューブである。
 スマートキューブに関しては、「【日記】Xiaomi GiiKER Smart Cubeレビュー・その1」「【日記】Xiaomi GiiKER Smart Cubeレビュー・その2」「【日記】Xiaomi GiiKER Smart Cubeレビュー・その3」「【日記】Xiaomi GiiKER Smart Cubeレビュー・その4」の記事でも触れたが、こちらはGiiKERとは違い、三軸センサーを登載しており、手元のキューブの向きを変えると、画面上でも向きが変わる。これがなかなか未来的で面白い。

 スマホにはGAN社が出している「Cube Station」というアプリをインストール。最新のバージョンの初期画面はこんな感じ。



 ちなみにこのアプリ、2バージョン前にはそんなことはなかったのだが、前々バージョンから、こんなダイアログが出るようになってしまった。



 まあダイアログを消せば、通常通り使えるので、問題はないのだが、ちょっと作りこみの甘さを感じる(※注:V1.3.1では直ったようだ)。

 また、FAQ的になりつつあるのが「まずキューブとスマホが接続できない!」ということ。スマホとはBluetoothで接続するのだが、これがなかなかコネクトできないときがある。
 キューブ本体の電源は、五回振ると入る、となっているが、これがなかなかわかりにくい。GiiKERのように、ピー音とかを出してほしかった。GAN356iは無音である。
 わたしも最初、ちょっと充電してから接続しようとし、なかなか接続できず、初期不良かとあせってしまった。しかし、充分充電してから試してみると、簡単に接続できてホッとした。
 なかなかコネクトできない、という方は、まず、本体を充分充電してから試行してみてほしい(後述するが、本機のバッテリには問題がありそうだ)。もちろん、スマホ本体のBluetoothはオンで。あと、位置情報もオンにしなければいけないようだ。

 さて、メイン画面に話を戻して、以前は「Personal Training」と「Online Battle」だけだったが、さらに「AI Teaching」と「AI Solve」が加わった。が、これは本当に基本的なキューブの揃え方のティーチングと、AIがキューブをソルブするというだけのモードで、それほど面白いものではなかった。

「Personal Training」の画面。



 主に「Algorithm Scramble」を使う。これは回転記号通りにキューブをスクランブルし、ソルブまでの時間を記録するというモード。まあGiiKERでもメインの機能ではあるが、キューブを手元で回転させると、画面上でもクルクル回るのが面白い。

 さてさて、Youtubeレビューでも、Tribox動画でもおっしゃっているとおり、GAN356iの華は、世界中の誰かとソルブ時間を競える「Online Battle」である。
 しかしこの「Online Battle」、「1vs1 Battle」モードに入るには、「Personal Training」の「Standard Timing」モードで、ソルブ一分を切らなければならない。
 わたしのように、たまに単発で一分切って喜んでいるような超々初心者は、最初から門前払いである。

 もっとも、救済措置としてか、「Beginners mode」というバトルモードもあって、こちらは「Standard Timing」で90秒以下(だったかな?)をマークすれば使えるようになる。
 とはいえ、これも時間内に、表示された回転記号通りスクランブルしなければいけないハードルがあり、回転記号に慣れていない人にはまずそれが第一関門となる。ふー。
 こっちならなんとかわたしも使えるので(情けなや)、さっそく、世界の誰かとBattleしてみたのだが――


(勝っているのに……)

 こちらが勝っているのに、勝手にDNFにされて負けということが続いてしまう。



 これはどうやら、サーバが中国にあり、うまくタイム情報が伝わっていないことが原因らしい。
 何度か闘っているうちに、やっと勝てた。


(タイム、笑わないでね……泣)

 嬉しいというより、やっと正常に動いたかー、と、ホッとしてしまった。

 とにかくこのキューブは、ソルブがsub60以下の人は「問題外」というような感じである。あぁ、精進しなければ――。

 あと、本体の不満としては、バッテリ消費が速い。速いだけでなく、電源を切って置いておいても、自然に減っていってしまい、三日もすると、もうカラケツになりコネクトできない、という羽目に陥る。

 GiiKERの方はバッテリ持ちがとてもいいだけに、これは残念だ。リチウム電池は、バッテリを充電し続けても、また、放置してカラケツにしても傷みが発生するので(リチウム電池は容量半分くらい残しておくのが一番長持ちする)、スマートキューブ自体の寿命としては短いのではないかと、それが心配である。
 GiiKERは重いが、GAN356iはそれに比して軽い。おそらくバッテリも小容量のものを使っているのだろう。ここはGiiKER並に重くしてもいいから、バッテリ容量を優先してほしかったところだ。


(前日にフル充電して、一回ソルブして電源断。翌朝にはもう半分になっている)。

 再度書くのも悔しいが、このスマートキューブ、sub60を切らない人が使っても、あまり楽しくはない感じ。キューブ界というのは、sub60を切ってやっと初心者なのだなぁ、と、ため息をつきながら、今はPersonal Trainingで一所懸命がんばっているところである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年11月13日

【昭和の遺伝子】デジタル時計

 昭和中期、高度成長期時代には、デジタル時計は繁栄の象徴であった。

 デジタル時計に必須の水晶発振子――クォーツ――が内蔵された時計は、まだまだ高値の花であったし、それをさらに小型化し腕時計にするなどは、技術的にも先の話であった。

 駅の時計もアナログ式で、もちろんクォーツではない。内蔵振り子を使った機械式のものである。
 個人が使う腕時計も、もちろん内蔵振り子を使ったもの。当時はネジでゼンマイを巻いて動力にするのが普通で、腕の動きでゼンマイを自動巻きにする機構が「すごい技術が出たものだ」と感嘆されたものだった。

 それでも、精度はけっこう悪くなかったような憶えがある。もちろんクォーツのように月差数秒のレベルではなく、毎日、NHKの時報を聞いて時間あわせをするわけだが。

 NHKの時報と言えば、気づくと、もう「ピッピッピッポーン」の画面が流れなくなっている。当時は正時前に時計が画面に大映しされ、57秒からピッピッピッポーンと時間を教えて、番組に入ったものだったのだ。

 その後、クォーツはどんどん小型化され、駅の時計もデジタル時計になった。このデジタルの「分」が変わる瞬間が見たくて、子どもたちはその時計を凝視していたものだった。

 当時は液晶技術もまだ出始めで、最初に出たデジタル腕時計は8セグメントの発光式だったと記憶している。これの仕様が苦肉の策だった。ずっと時間を発光しつづけると、電池がすぐなくなってしまうものだから、スイッチを押したときだけ、時間を発光するという代物。
 それでも、満員電車の中、これをつけた腕がつり革を握っていたりすると「おっ!」と皆に感心されたものだった。

 クォーツも液晶も、どんどん進化が進み、もう数年後には、腕時計に使われるくらいに実用化していた。
 わたしが中学校にあがり、最初に腕に巻いた腕時計も、液晶のクォーツデジタルであった。発光式と違い、常に時刻は表示されているが、秒まではわからない。ストップウォッチ機能がついていたが、リセット機能が「ボタンを押し続けるとリセット」という、使いにくいものだった。精度も十分の一秒まで。大抵がそうではなかったかな。
 まだ「軽薄短小」という言葉が生まれていない頃である。

 クォーツ時計は爆発的に売れたので、あっという間に安価になり、機械式時計の生産量をすぐ追い抜いた。当時は冒頭に書いたとおり、デジタル時計は繁栄の象徴であった。

 もちろん、アナログ派も根強く残っていて、「デジタル時計を使うと時間の感覚がわからなくなる」、「時間計算にはアナログがいい」、「いや、なんと言ってもデジタルの方が正確だ」、というような議論がなされていた。
 教育的要素はともかく、この頃は、なんと言っても正確なデジタル時計派の方が優勢だった印象がある。

 デジタル時計が安価になり、置き時計も腕時計もほとんどがデジタル表示化されるようになると、時計業界はクォーツでアナログ表示、という時計をつくるようになる。
 すると揺り返しのように、クォーツのアナログ表示時計が増えてくるようになった。
 駅の時計も、またアナログ表示に戻り、子どもたちは、腕時計の秒針が秒でステップすることに未来を感じたのであった。

 しかし考えてみると、時間というものは切れ目なく流れていくものだから、今は皆が当然のように受け止めている、この「秒針がステップ表示」というものは、正確にはアナログではないのかもしれない。
 高校の頃、担任の教師が持っていた腕時計は、秒針がステップ表示ではなく、珍しくスイープ(切れ目なく回る)タイプで、皆で集まって見学し「おおおー」と声をあげた憶えがある。

 そしてバブルの頃は、むしろクォーツより、正確な機械式アナログ時計がもてはやされるようになったのだから、人間というのは不思議なものだ。
 この風潮は令和の今でも続いているようである。クォーツを使わない機械式で、月差数秒というところに、人間の技術の粋を集めたロマンを感じるのであろうか。

 わたしはプラクティカルな人間なもので、そんな機械式より、クォーツで、電波補正式が一番だと思っているが、盤面に限っては、腕時計は(クォーツの)アナログ派に戻っている。やはり時計はアナログ表示が一番わかりやすい。

 この記事は、実は令和元年、11月11日に書いている。令和1年11月11日の、ちょうど11時11分を過ぎたところで、そう言えば昭和の時代は――と連想して書き始めたもの。

 今やクォーツの液晶デジタル時計は、百均でも買える時代である。それを手に取ると、少年時代のデジタル時計へのあこがれを思いだし、隔世の念にとらわれずにはいられない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年11月09日

【日記】教えるということ

 文化の日を挟んだ三連休に、ルービックキューブの日本大会が開かれていたとのことで、ツイッターで、運営の大変さの声や、参加者の楽しそうなつぶやき、いろいろな情報を読み、皆さんの努力や技、キューブにかける情熱に感心している。
 まあ、わたしのような超々初心者には無縁な場所だが、近くで開かれるのなら是非とも見学してみたい。百聞は一見にしかず、上手い人の指遣いを生で見られたら、またなにか、新しいものが得られるだろうと思うから。

 さて、そのTLの中で、ちょっと面白いつぶやきがあった。

 上級者「キューブわからない」
 中級者「キューブわからない」
 初心者「キューブを速く回すコツ教えます」


 こんな感じだったかな? 「いいね」がそこそこついていたと記憶している。
 しかしこれ、ちょっと謙遜、あるいは驕り過ぎだ。正確にはこうだろう。

 上級者「キューブわからない」
 中級者「キューブを速く回すコツ教えます」
 初心者「キューブわからない」


 まあこれだと、三段オチにならないので「いいね」はつかないだろうが、実際、どんなことでも、上記のような現象は自然発生するのである。

 たとえばピアノの世界を考えてもらえばわかりやすい。ピアノの先生はもちろんピアノが上手い。上手いが「世界的な芸術家」ではない。
 これはピアノの先生を揶揄しているのではない。逆に「世界的な芸術家」ではなくとも「ピアノを教える人としては一流」という人はいらっしゃる。そして、そういう方が教えた人の中から「世界的な芸術家」が登場してきたりする。

 もっとわかりやすいのはスポーツの世界。名コーチがすべて、現役時代に名選手だったわけではない。現役時代は中堅選手だった人が多いのではないかと思う。むしろ、一流選手が現役を引退して、監督やコーチになってみると、教え下手で、将来ある選手が潰されてしまったりするものだ。

 つまり、その事象の上級者が、必ずしも「それを教えること」の上級者ではない、ということ。これは三段オチの笑い話にしていいことではない。

 中級者の中に「教えたがり」がいるのは、「人に教えることで、自分もまた学んでいく」ことを知っている人がいるからである。
 初心者が「わからない」のは、事象を体系的にまだ把握していないからだ。中級者はそれを掴みかけているので、人に教えることで、自分の中で整理されて、自分の腕に磨きをかけることができる。これはとても良いことなのだ。

 上級者が「わからない」のは、人に教えることができないサムシングを体得し追求中だからである。教える術がないものを得た人が上級者になるのだ。それが「芸術」になったり「道」になったりする。

 以上、上級者、中級者、初心者、それぞれに意味がある。これのどれかを笑いものにするような人は、おそらく、なにをやっても、真の中級者、真の上級者にはなれない。

 そんなことを考えさせてくれるつぶやきであった。

 さて、実はこの事象はもう一段階上がある。

 玄人「……(無関心)」
 上級者「わからない」
 中級者「コツ教えます」
 初心者「わからない」


 その道を究め、日常で、自分がどれだけ神業を使っているのかが把握できなくなった人(玄人)は、その事象に、むしろ無関心になってしまうのだ。そして別の趣味に熱中し、それがまた、下手くそだったりする(笑)。医者の不養生とか、紺屋の白袴とかとはちょっとベクトルが違うが、あれかな「ヘタの横好き」の大半がそんな感じではないだろうか。

 人間とは、かように業が深く、摩訶不思議で、なんとも探究心の尽きない存在なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年11月06日

【日記】法人はパーフェクトパーソンであるということ

 これは、わたしが会社を作ったとき、法人会の先輩に言われたことなのだが、法人というものは、法によって成立が約束された一人の人格であり、それは「パーフェクトパーソン」――つまり完全な人格を当然のように期待される存在だ、ということだった。

 つまり、普通の人間のように「忘れちゃった」、「知らなかった」、「あとでやろうと思ってた」、「ずぼらでしたごめんなさい(テヘペロ)」が許されない存在が「法人」なのである。

 この記事がアップされる頃は、もう旧聞になってしまっているかもしれないが(ネットの時間経過も速いが、マスコミが事件に飽きるのも速いことよ)、タレントであるチュートリアルの徳井さんという方が、ずさんな会社経営をしていて、東京国税庁に追徴課税を受けた、という。
 三月末決算の会社で、徳井さんお一人が役員の一人会社とのこと。
 だが、その運営内容を聞くと、これは確かに、ちょっと信じられないという放置ぶりである。

 ここで、これから商業法人を作ろう、と考えている方のために、商業法人を作るとどんなことが求められるかを、主に税務署との関わりを通して記してみよう(ただしわたしの地方の場合で、別の地域の場合、違うことも多いかもしれない)。零細企業〜小規模会社の、三月決算の会社の場合のスケジュールだ。

 まず、全体を俯瞰すると、会社を設立した初年度には「新設法人説明会」というものがある。ここで法人会に誘われて入会したり。法人会には入っておくに越したことはない。いろいろと税金に関する情報が得られるから。
 そして毎月10日までに、その前月に徴収した源泉所得税を納付しなければいけない。が、徳井さんの場合は役員一人なので「源泉所得税の納期の特例の承認に関する申請」を出していると思われ(たぶん)、これをしておけば、半年ごと、1月20日、7月10日までに納付すればよい。

 一月――「源泉所得税の納期の特例の承認に関する申請」をしていたら、20日までに納付。これは以前は10日までだったが、いつの間にか20日までに延長されていた。
 また、月末までに「法定調書」の提出がある。これは税務署と市役所、区役所宛てにそれぞれ書類を作成して提出。

 二月から三月――この月は個人の確定申告がある。この確定申告をして個人事業者は住民税額が決まる。徳井さんはこれもしていなかったとのこと。15日までに所得税を納付。月末までに消費税を納付。
 三月は多くの会社が決算月でもある。棚卸をして期末商品・製品棚卸高を確定(徳井さんの場合、棚卸はなくてもよさそうだ)。この月締めで決算をして、会計ソフトは年度を入れ換える。
 三月決算の会社の場合、その期の法人税、法人市民税(均等割含)、法人県民税(均等割含)は二ヶ月後の五月末までに納付しなければならない。
 毎年、税金関係の法改正があるので、三月中に「決算期別法人説明会」が開かれるのでそれに出席してチェック。

 四月――まずは「決算報告書」づくりである。これらがすべての税務書類の基本となるからだ。
 決算が終わったら、株式会社の場合は遅滞なく「決算公告」を行う。これは実はやっていない会社が多いが、やらないと科料も払わなくてはいけない犯罪である。取り締まられたら震えあがる会社は多いはず。おそらく徳井さんもブッチしていたことだろう。でなければマスコミが徳井さんの会社のそういったデータを公表しているだろうから。
 一人会社の徳井さんの場合、株主総会・役員会議は無縁でヨシ。

 五月――決算報告書をもとに、国税、県税、市税の書類を作成。税金の納付額を確定する。また、税務署用に「法人事業概況説明書」を作成。これが地味に面倒。
 そして五月末までに、上記の税金を銀行などに納付。なお、国税が赤字の場合、納める法人税はゼロだが、法人県民税均等割、法人市民税均等割は納付しなければならない。
 同時期に法人会の会費と、自動車税の納付もあるから、けっこうおサイフ的には痛い月。
 よく、「あの大会社が法人税を納めていないとは」と拳を振り上げる人がいるが、収益を法人税や社内剰余金に回さず、従業員の賞与などに反映させる会社のほうが、(従業員にとっては)よほど「ホワイト企業」なのである。このあたりの法人経理の仕組みは、知らない人は本当に知らない。ま、「社員」と「従業員」の区別がついていない人が大抵だからね。

 六月――法人確定申告を終えて、ホッと一息。

 七月――上記で「源泉所得税の納期の特例の承認に関する申請」をしていたら、10日までに納付。

 八月から十月――会社が一番、税務署との関わりで無縁でいられる時期。徳井さんも自由を満喫できた、かな?

 十一月――年末調整に向けて「年末調整説明会」。

 十二月、年末調整。ま、このあたりはひとり会社の徳井さんには無縁だろう。

 とまあ、一年を通すとこんな感じ。他に年金と健康保険関係があるが、それは省略。

 そして、株式会社の場合、二年〜十年ごとに役員の任期改選があり、法務局へ登記しなくてはならない(定款による)。徳井さんの会社は2009年創業だそうだから、ひょっとしたら今年がそれだったかも。ま、これもブッチでしょうねぇ。

 なんとも面倒だな、と感じた方も、こんなもんか? と感じた方もいらっしゃると思う。が、実際、小さい会社の場合、リソースの四分の一から三分の一は、こういったこと(会社経理)に係わっていると言ってもいいくらいだ。

 徳井さんの場合、稼いでいるのだから、一人、経理の人間を雇って、あとは税理士に任せれば良かったのだ。
 それにしても、個人の確定申告すらブッチしていたというのは、社会人としても信じられないことだ。納税意識というものが欠如しているコドモと言われてしまっても仕方がない。

 冒頭にも書いたが、法人は「パーフェクト・パーソン」であることが求められるのだ。徳井さんの言い訳である「ルーズですみません」で済む話ではないのだ。

 今はタレント活動を自粛なさっているそうだが、タレントとしての才能はおありなのだろうから(ごめんなさい。良く知らないのです)、追徴課税を納めたら、会社は解散なさって、サラリーは源泉徴収済のものを吉本興業からいただくようにしたほうが、徳井さんのご本人のためにも、またイメージ的にも良いのではないかと思われる。

 世の中の、個人確定申告すらしたことがないというサラリーマン諸氏諸嬢、あなたがたは、ある意味、面倒なことを会社任せにできて幸せなのですよ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年11月02日

【映画評】イエスタディ

 映画館の番宣でこれのトレーラーを見たとき、「アレッ?」と思った。このアイデアはもう作品化されている。藤井哲夫先生原作で、かわぐちかいじ先生がマンガ化した「僕はビートルズ」がそれだ。


(原作:藤井哲夫/画:かわぐちかいじ「僕はビートルズ」1巻より引用)

 ちなみに、「僕はビートルズ」のストーリーはこんな感じ。

 現代の日本でビートルズのコピーバンドをやっていた四人は、ひょんなことから、ビートルズがデビュー直前の1961年にタイムスリップしてしまう。紆余曲折あって、彼らはビートルズよりも先に、ビートルズの楽曲を演奏して売り出すことにし、世界的な大ヒットとなってしまう。さて、彼らと、ビートルズの運命やいかに――


 もちろんわたしは、本作品の監督や脚本家が、「僕はビートルズ」を見てそれをパクった、などとは言わない。以前から書いているとおり、アイデアは海の水をすくうようなものだからだ。同じビーチで水をすくえば、同じような成分になる。同じ海で同じ魚を穫れば、生なら同じ味がするだろう。
 しかしこの同じ魚をどう料理するかが料理人の腕。その東西の差にがぜん興味が沸いてきた。というわけで、やっているハコも少ないが劇場へ足を運んだ次第。

 あらすじ――ジャックはイギリスの片田舎で、売れないシンガーソングライターをしている。幼なじみのエリーはマネージャーとして献身的に彼を支えているが、二人の距離は微妙な関係。
 今日もショボいステージで歌ったあと、ジャックは弱気になり、エリーに励まされつつ、ひとり自転車で帰路につく。
 と、そこで、世界規模の十二秒の大停電≠ェ起こる。折り悪くジャックはちょうど通りがかったバスにひかれてしまった。
 ベッドで意識を取り戻したジャック。退院祝いでもらったギターを使い、仲間たちの前で、今の気分を歌うつもりでビートルズの「イエスタディ」を歌い出すと、みながシンとする。
「いい曲だわ」とエリー。だが誰も、それがビートルズの曲だとは知らない。からかわれているのだと激怒したジャックは、エリーとなかばケンカ状態でひとり家に戻り、インターネットで「beatles」と検索してみる。しかし出てくるのは「甲虫」ばかり。なんと、この世からビートルズの存在が消えていたのだ。もちろん、その楽曲ともども――。
「あの芸術が失われた世界なんて!」ジャックはなかば状況に巻き込まれるように、ビートルズの楽曲を歌い、そして徐々に話題になり、やがては世界をまきこんだ大ヒットとなっていく。
 反面、ジャックは大きなプレッシャーに潰されそうになりつつ、また、エリーとの間に開いていく溝に悩む。
 さらには、ビートルズを忘れていなかったのはジャックだけではなかった。彼の前に、黄色い潜水艦の模型を持った二人組も現れ――


 ネタバレ記事にはしたくないので、このあたりまでにしておこう。

 さて、年齢的に言えば、わたしはビートルズ世代ではない。わたしの上の上くらいがビートルズに熱狂した世代である。そんなわたしでも、もちろんビートルズの有名な曲は知っている。
 さらには、ビートルズにはちょっと苦い思い出もある。中学のとき、同じクラスの女の子がとてもビートルズが好きで、皆にアンケートをとったことがあったのだ。当時のわたしはクラシック一辺倒だったし、ビートルズの真価のなんたるかを理解していなかったので、ちょっとキツめの答えを書いたような憶えがある。その女の子を傷つけてしまったのではないかと、今でも逆にトラウマなのだ。

 和製の「僕はビートルズ」はコメディではなく、シリアスドラマで、よく調べてあるなぁ、原作の藤井哲夫先生はかなりのビートルズマニアなのだろうな、と思っていたが、今回の映画で評論家が「僕はビートルズ」を酷評していた(らしい)という話を聞いて、「いやあマニアの世界は深いなあ(コナミ館)」と感嘆するばかりだ。

 それくらいのビートルズしか知らないわたしだが、本作「イエスタディ」は楽しめた。ビートルズのあれこれを知っていれば、もっと楽しめたのだろうな、と残念に思う。
 コメディだが感動的なシーンもある。ジャックが大きなプレッシャーの中、大観衆を前に歌った「Help!」は鳥肌ものだったし、イエローサブマリンの二人組とのやりとりや、その後に起こるミラクルには、心が暖まった。

 反面、ストーリー構造としては、「僕はビートルズ」はビートルズ抜きにしてはできない話であるのに対し、本作「イエスタディ」は、主人公を絵描きにして、タイトルを「ゲルニカ」にしても成立する。中身は突然のヒットに巻き込まれた主人公と、微妙な関係にある幼なじみの女性とのラブコメでもあるからだ。
 そういった甘い点は、むしろ、わたしのようなビートルズマニアでない者でも楽しめる、というメリットに傾いているように思う。

 ラストも実に良かった。「僕はビートルズ」のエンディングも余韻があって良かったが、エンディングの軍配は本作「イエスタディ」にあげたい。
 本作「イエスタディ」を観ると、また「僕はビートルズ」を読みたくなるし、「僕はビートルズ」をすでにお読みの方は「イエスタディ」も楽しめると思う。ぜひとも両作ともご鑑賞をお勧めしたい。
 そして、二作とも読み、見終わった後は、ビートルズを聞きたくなることうけあいだ。これも「Hey Jude」を聞きながら書いている。

 それにしてもビートルズがいないと「コーラ」も「タバコ」もなくなってしまう世界(このふたつはビートルズと関係が深いのだそうです。検索ヨロ)、「ずうとるび」もなくなっちゃって、笑点の大喜利はどうなっちゃうのだろう、などと、日本人としては思ったりもして。

 山田くーん、結城さんの座布団、全部持ってって!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評