2016年09月30日

【カットリク!】はじめに言葉ありき

島地勝彦
はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき 

島地先生の本は「はじめに言葉ありき」で検索したら一番最初に出てきた書籍なもので、いわば「代表例」みたいなもの。この本だけでなく、日本人の多くの「カットリク!」をこの記事では記す。

「みなさんおはようございます。ところで、聖書の一番最初には、『はじめに言葉ありき』と書いてあります。言葉は大事ですね。みなさん、言葉を大事にしていますか? 朝の『おはよう』。食事のときの『いただきます』。帰るときの『さようなら』。こういう、日常の言葉を大事にして生活していかないといけませんね」

と、ちょっと小学校の校長風に書いてみる。ありそうでしょ?
でも、この台詞には、三つものカットリク!が含まれているのである。

まず、「はじめに言葉ありき」は聖書の最初の一節ではない。旧約聖書の冒頭は「初めに、神は天地を創造された。(創世記 1:1)」だし、新約聖書の冒頭は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。(マタイによる福音書 1:1)」である。

「はじめに言葉ありき」はヨハネによる福音書の冒頭の一節だ。四福音書の最後の福音書である。

カットリク!ポイント44―
カットリク!は「はじめに言葉ありき」が聖書の一番最初の一節だと思っている。


と、一発軽いジャブをかましたところで、島地先生の本に行く。




(クリックで拡大できます)。

引用――
 はじめに言葉ありき
 聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、はたして人類がはじめて発した言葉はなんだったんだろうか。言語学者で思想家のMITのノーム・チョムスキー教授によれば、人類は最初獣のように「ウウーウウー」とうなっていたが、いつしか「ウウー」がたまたまうまく口が開いた調子に「マー」となった。それが「マーマ」になり、イタリアでは「マンマ」になり、朝鮮では「オンマ」になった


さて、どっちから攻めようか。よし、インパクトのあるほうから行こう。

聖書には「はじめに言葉ありき」という一文は存在しない。

「はじめに言葉ありき」は文語訳である。ので、もちろん、今、流通している新共同訳や口語訳ではお目にかかれないのは当然だ。新共同訳だったら「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書 1:1)」となる。

しかし、そういう意味でもないのだ。文語訳聖書は愛好家がいて、今でも流通して入手することができる。一番簡単に手に入るのは、日本聖書協会が発行している舊新約聖書である。

わたしが持っている一番古い文語訳聖書は、奥付には昭和25年発刊と書いてあるそれだ。



ではそれで、ヨハネ傳の冒頭を確認してみよう。


(クリックで拡大できます)。

おわかりいただけるだろうか。
書いてあるのは「太初に言あり」なのだ。引用するとき、「太初」を「はじめ」とひらく(ひらがなにする)のはいいと思う。しかし続く文章は断じて「言葉ありき」ではない。「言(ことば)あり」である。

これはかなり古い舊新約聖書なので、最近、日本聖書協会が発行している文語訳聖書でも確認してみよう。



これだ。どれどれ、ヨハネ傳福音書の最初は――


(クリックで拡大できます)。

同じである。「太初に言(ことば)あり」だ。
繰り返して書くが、「言葉」でもないし「言葉ありき」でもない。「言(ことば)あり」である。

まず「言葉」である。
聖書でいう「言(ことば)」とはLanguageという意味の「言葉」ではない。ギリシア語では「Logos」、「ロゴス」――つまり世界を構成するシステム、つきつめていえばイエス・キリストそのものを表す単語なのである。
「おはよう」や「いただきます」「さようなら」といった「言葉」を意味するものではない。そのような意味で聖書は「はじめに言葉があった」と言っているのではないのである。

だからこそ、現在、カトリックのミサ、および多くのプロテスタントの礼拝で使われている現代文の「新共同訳聖書」でも、この一文は「言葉」ではなく「言(ことば)」となっているのだ。
ほかにも――
「初めに言(ことば)があった」(口語訳新約聖書(1954年版) )
「初めにみ言葉があった(「み言葉」(ギリシア語で「ロゴス」)は、神の子であるキリスト云々と注釈が長くつく)」(フランシスコ会・原文校訂による口語訳)
「初めに、ことばがあった」(新改訳第二版 )
「まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた」(聖書現代訳(改訂新版(9版)))

等々、日本語訳の聖書は、この箇所で、みな慎重に、それこそ「言葉を選んでいる」。

日本最古の翻訳聖書は、オランダ人宣教師ギュツラフによる「ギュツラフ訳」と言われているが、ここに、それを復元した「約翰福音之傳」(日本聖書協会発行)がある。



そこでは「ヨハネによる福音書」の該当箇所は、こうなっている。


(クリックで拡大できます)。

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」である。「言葉」ではない。「ロゴス」を「賢い者」として訳したのである。

カットリク!ポイント45――
カットリク!は「はじめにことばありき」の「ことば」が「Language」という意味の「言葉」だと思っている。


次に行ってみよう。
通して読んできてみて、みなさん、お気づきになられた点があったのではないだろうか。
そう、ここまで紹介してきた文語聖書はすべて「言あり」となっている。「言葉ありき」ではないのである。

最後の「き」はいったいどこからきたのか?

普通の人が普通に入手できる「文語訳聖書」で、最後の「き」が入っている聖書はないのである。

「ことば」が「Language」という意味の「言葉」ではなく「ロゴス」であることは上記に書いた。この勘違いだけでも、聖書からの引用と言って「はじめに言葉ありき」という一文を持ってくるのは恥ずかしい。

加えて、「はじめに言葉ありき」という文章を引いて、言葉の大切さを主張しようとするのなら、「聖書に載っている一節」として紹介する前に、せめてその実物の文語訳聖書を繰ってみようと思わないのだろうか?
そうすれば、最後の「き」がないことに気づくはずなのだ。

「言葉を大事にしよう」という意味で「聖書には『はじめに言葉ありき』と書いてあります」という人間こそ、実は、一番言葉に不誠実な人間だと、わたしは思う。

カットリク!ポイント46――
カットリク!は「はじめに言葉ありき」という一節が聖書に載っていると思っている。


と、ここまで書いたところで、話はさらにマニアックな領域へ入る。
実は――「はじめにことばありき」と書かれた聖書も、あるのである!
それが「【カットリク!】聖痕・後編」でも触れていた永井直治訳の「新契約聖書」である。わたしはめぐり合わせで入手することができたが、普通の人は、その存在も知ることがないだろう。価格も古書店で探せばけっこうする。



これである。
同書四福音書の最後は「ヨハネ伝聖福音書」とある。冒頭箇所を見てみよう。

(クリックで拡大できます)。

やっと、やっと「はじめに言ありき」に巡りあえた。もちろんこれも「言葉」ではなく「言(ことば)」である。

代表に出してしまって申し訳ないが、島地先生を初めとして「『初めに言葉ありき』という一文を聖書から引用した」という人々は、この珍しい永井直治訳「新契約聖書」を読んだとでもいうのだろうか。まさかそんなことはあるまい。そこまでマニアックな聖書好きなら、言(ことば)を言葉(Language)として使うことなど、まずないからである。

繰り返して書いておこう。

「言葉を大事にしよう」という意味で「聖書には『はじめに言葉ありき』と書いてあります』という人間こそ、実は、一番言葉に不誠実な人間だと、わたしは思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2016年09月29日

【回想録】パソコン通信の思い出・その2

えっと、前回のヒキが

が、わたしがニフティサーブに入会したとき、このFSHARPは問題を抱えていた。


だっけか。
その問題とは、当時のSYSOPが不在だったことである。というか、本業の方が忙しくなってしまって、FSHARPのメンテその他の作業がほったらかしになってしまったのだ。

こうなると、(さすがに今の2ちゃんほどではないが)、フォーラムが荒れてしまう。会議室でケンカが起こっても仲裁する者がいなくなり、ライブラリに登録しても、いつまでも公開されないということになる。
特にPC系のフォーラムであるFSHARPでは、この「登録したライブラリが公開されない」のは大きな痛手だ。

FSHARPには「はじめまして。これからよろしく」系の会議室があった。
インターネットでいつでも誰かとつながっている今と違い、当時は初めてのパソコン通信で、ファーストカキコがそこ、という人も少なくなかった時代である。
勇気を出して、初めての書き込みをしたのに、なんの返事も戻ってこない。これはなんとも淋しい。書いた人も悲しくなって、足が遠のいてしまう。
FSHARPの「はじめまして――」会議室は、そういう状況になっていた。

そして他の会議室やチャットでは、常連たちが楽しそうに内輪の話をやっていて、とても新人が中に入っていける雰囲気ではない。

自然、フォーラム全体がタコツボ化していき、内閉的、独善的なものになっていく。
せっかく、これからの新しいメディアであるパソコン通信でもX68000を盛り上げていこうというのに、これではむしろ足かせだ。
ニフティサーブは、同じテーマで違うフォーラムを立ち上げることを許可しない。FSHARPを変えない限り、X68000についてのニフティサーブでの情報交換は難しい。
これがSYSOP不在のFSHARPが陥っていた状況だった。

そこでわたしは、こういう状況を少しでも変えられないかと、「はじめまして」会議室に書き込んでくれた新人さんに、「新歓レス」をつけられないか、という運動を始めた。
今のFSHARPの状況を憂いていて賛同してくれた方も多く、X68000界では誰でも知っている方なども参加してくださり、この「新歓レス運動」はうまくいったと思う。

あまり同じ方が新歓レスをつけ続けたり、バッティングしても不自然なので、裏でHPを設定して、新人さんの「はじめまして」書き込みに誰がレスをつけるか順番を決めていた。
HPといっても「ホームページ」ではない。ニフティサーブ内にあるホームパーティというシステムで、月数百円で借りられるミニ会議室システムである。これはパスワードを知らない会員は入れない場所だ。

そんなこんなでみんなでそれぞれ動いているうちに、FSHARPはなんとか再生して、うちのHPのメンバーからもSUBOPが出るという喜ばしい事態になった。

FSHARP再生という目的は果たしたが、HPは解散しなかった。その後、集っていたメンバーで、やはりニフティの会議室システムであるパティオ(PATIO)に「昇格」させたのだ。パティオは月数千円の経費がかかるが、やぱりパスワードで守られているので、表の会議室ではできない仲間同士の連絡や情報交換の場所として、長く続いた。
ログを見ると、1994年9月から初めて、2001年6月まで続けている。

あの頃知り合った友人たちとは、もう二十年を越える友情を育てていることになる。
昔はみんな時間も体力もあって、数ヶ月ごとに集まっては徹夜でオフ、元日にオフ、その足でパーツを買いに秋葉原まで行って帰ってきてまたオフ、なんて無茶をやっていた。

今はさすがにみんないい歳になってしまったので、体力がもたないから、そこまではできない。それでも、今でも年に何回か会ってオフをしては、お互いの無事を喜んでいる。

無事と言えば、心配なこともある。わたしは基本「来るものは拒まず、去るものは追わず」な人なので、あの頃知り合った人たちで、今はどうしているのかわからない方々もいらっしゃる。特に311の被災地にいらっしゃった方などは、ご無事で過ごしていらっしゃるのかが、心配だ。

もし「結城恭介」の名に覚えがあって、あのパティオを覚えていらっしゃる方がこれをお読みになられていたら、ぜひとも、わたしのウェブサイトのメールフォームからメールをください。元気でいらっしゃるということがわかるだけで、わたしも嬉しい。

次回は、「メンテ落ちチャット」の話でもしますかね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2016年09月28日

【カットリク!】こちら世界征服同好会!!!

上原甲斐
「こちら世界征服同好会!!!」1巻より

「まんがタイムきらら」連載の四コママンガ。
こういうツッコミは無粋かもしれないが、一応、読者に誤解がないように。



ナツメ「ところでミッション系って皆で聖書とか読む時間があるんだけど、それもよく邪魔されてね」
蒔恵「さいですか」

ナツメ「そんな時も敬けんな私は、取り乱さず聖書の教えに従ったけどね」
蒔恵「へ〜」

蒔恵「さすがはミッション系!『右の頬を打たれたら』っていうアレですか?」

ナツメ「『目には目を、歯には歯を』ってやつ! いー教えよねー。あれって聖書の第何章第何節だっけ?」
蒔恵「それ聖書ちゃう…!」


蒔恵ちゃん残念。それは――

「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(レビ記 24:20)」

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。(マタイによる福音書 5:38)」

と、聖書の二箇所にちゃんとあるのだ。
あまりにハムラビ法典のそれが有名すぎて、そちらにしかないと思われたのだろうか。

とりあえず
カットリク!ポイント42――
カットリク!では、聖書の都合のいいところだけを読んじゃう。

のひとつですかね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2016年09月27日

【日記】音楽

三回目の大きな病気をやってから、どうにもポップス系の曲が聞けなくなってしまって、クラシックばかり聴くようになってしまった。

それまでは、おバカな曲(「ミコミコナース」とか「だってパンツだもん」とか、懐かしいですな)も平気で楽しめたし、I'veサウンドとかも大好きだった。

今でも調子がいいときは聴けるのだが、普通レベル以下の時はどうにもダメだ。

それ以前もクラシックが嫌いというわけではなく、普通に好きではあったのだが、バッハばかり聞いていた。昔はコツコツ集めたものだが、今は、バッハ全曲集というのがUSBメモリで売られている時代である。なんとも、すごい世紀になったものだ。

カトリックの自分としては、バッハがルーテルのプロテスタントだということがとても悔しい(笑)。プロテスタントの皆様が羨ましゅうございますよ。

しかし、あの「ミサ曲ロ短調」を書いたバッハであるから、その信仰の高みはきっと、カトやプロが拘泥する小さな垣根をすでに越えていたところにあると感じもする。

どこかで読んだのだが、ある日本の音楽家が、ヨーロッパのプロテスタント教会で「アヴェ・マリア」を弾いたところ、演奏後、老人がやってきて「この教会でそれを弾くという意味がわかっているのかね?」と詰問したとのことだ。
「アヴェ・マリア」はマリアを祝したカトリックの曲である。ガチのプロテスタント的には「許せない」という気分になったのだろう(プロテスタントはマリアを特別視していない)。

自分がその音楽家だったら、バッハの平均率クラヴィーア曲集のプレリュードを、グノーが「アヴェ・マリア」に編曲したように、音楽に教派の壁はないと信じています。と答えただろうか。
あまり詰問した老人のように、偏狭な信仰観を持ちたくはないものだ。

それでも、クリスマス近くの夜、プラネタリウムなどに入って星空を眺めているとき、流れているBGMがバッハの「主よ人の望みの喜びよ」の後、グノーの「アヴェ・マリア」になったりすると、カトもプロも一緒くたかよ、と、モニョる気分になってしまう。文句までは言わないが、上記老人の気持ちもわからないではないですな。

三つ目の病気をする前は、ショパンは甘ったるくて聴けなかったのだが、病後はショパンの良さが妙に染みるようになって、そればっかり聞いている。
特にピアノ協奏曲第一番を集めて、いろいろ聴きくらべるのが好きだ。叙情豊かな演奏もいいし、行進曲みたいになってしまっているそれも悪くない。

最近は山下和仁がギターで演奏したBWV998のフーガばかり聴いている。これは本当に「神演奏」だと思う。本来、リュート用の楽譜だが、天才・山下和仁の演奏はずっとリピートしていても飽きない。
BWV998はバッハの自筆譜が1969年より上野学園大学所蔵なのだそうだ。生きているうちに一度は公開されて見にいけたら、と思う。

ただ、滅茶苦茶に調子が悪いときは、クラシックもダメで、そういうときは自然音(波の音とか)を流している。
本当はそういうときは、耳栓をしてなにも聴かないのが一番なのだが、耳栓はずっとやっているとクセになって聴覚によろしくないのだそうだ。本当かどうかはわからないが。

今これを書いているBGMはヒリヤード・アンサンブルの「オフィチウム」。二年前から、就寝前は、ある祈りとともに、これを聴いている。

わたしたちの愛した大事な息子が、神様のもとで、安らかに過ごしていますように。と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年09月26日

【カットリク!】プラチナ

かわすみひろし
プラチナ(1〜2巻(完結))

東京下町の、閑古鳥が鳴く結婚式場「マリコ・マリッジ」で奮闘する主人公とその仲間達を描いたマンガ。
けっこうわたし好みの絵柄で、読んでいるだけで温かな気分になる。
同じかわすみ先生の「大使閣下の料理人(1〜25巻(完結))も本当に面白かった。

あらすじなどは特に触れず、ご興味のある方は書店か電子書籍でどうぞ。

というところで、いきなりだが「カットリク!」

キャプション「なにゆえこの式場には閑古鳥が巣くうのか」
翔太「京子おば…もとい京子姉ぇか。何? 俺今から業者さんと打ち合わせなんだけど」
電話「あんたんとこの神父が酔っぱらって手がつけられないのよ!」
翔太「はい?」
京子「失恋したとかなんとかでさ…」
(中略)
キャプション「理由その(1) 酒グセの悪いディヴィッド神父」




結婚式場が「神父を雇っている」という点でもう「カットリク!」。ありえない。
ここは素直に「牧師」でよかったのではないかなぁ。なぜ「神父」にこだわるのだろう。

カットリク!ポイント43――
カットリク!では民間の結婚式場に勤めている雇われ神父がいる。


カトリックの神父が結婚式場に出向くことは皆無ではない。ただし主日(日曜日)はありえない。
その場合、そのカップルのどちらかが信徒で、親族も信徒で、その家族と指導司祭がとても良好な関係を築いていて、なおかつなにか教会でできない事情があるとき、と考えていただいていい。

カトリックの結婚式は本来、「7つの秘跡」のひとつ、「婚姻の秘跡」である。ミサの中で行うのだ。そして、カップルが所属する教会で行うのが「あたりまえ」である。
というか、ガチカトカップルならば、結婚式場で式をあげるという考えそのものが浮かばないだろう。

教会であげるにしても、最近は若い信徒が少ないので、二人ともカトリックの洗礼を受けた信者ではなく片方だけ、というケースの方が多い。その場合は、言葉は悪いがレベルが落ちて<~サではなく「婚姻の祝福」式となる。

カップルの両方ともカトリック信徒ではない場合は、主任司祭の考え方次第、と言っていいだろう。けんんもほろろに断る神父様もいれば、宣教の一環として引き受ける神父様もいらっしゃる。東京のマリア大聖堂などは、両方が信者でなくても「婚姻の祝福」式をやっているようだ。

どんな場合でも、事前に指導司祭によって、何回か勉強会が開かれる。

結婚式場に出張して「婚姻の秘跡」ミサを行うなどということは考えられないので、やるとしたら「婚姻の祝福」式。それもイレギュラー中のイレギュラーである。このマンガのように、雇われ神父が出てくることなど万が一にもない。

そして、街の「なんちゃって教会」にいる雇われ牧師は、普段は英会話の教師などをしていたりする。本物の教会に奉じている牧師であるかどうかすら怪しい。

ところで、日本でだけは、カトリック教会で「カップル両方が信者でないのに婚姻の祝福」式をあげることが、聖座から許されている。これは日本人にカトリック信者が少ないゆえの特別なはからいだとのことだ。
なので、東京のカテドラル(マリア大聖堂)などでは、平日になると「婚姻の祝福」式をあげるカップルがいくつか見られる。

しかし、日本に住む一人のガチカトとして、ここは言わせてもらいたい。
カップルどちらも信者ではない「婚姻の祝福」式など、カトリック教会では引き受けるべきではない、と。
それどころか、「カトリック教会で式をあげたかったら、ちゃんと洗礼を受けて、堅信も受けてからいらっしゃい」と、諭して追い返すべきだ。

「本物のカトリック教会でウェディング」というと、なにか一段、ステータスがあがるような気がするのだろうか? しかし「教会」というのは、「建物」を表す言葉ではないのである。

たとえばみなさま「同窓会でウェディング」と聞いたら、なにを想像されますか? 「同窓会会館みたいなものがあって、そこで結婚式をあげたんだなぁ」とは思わないでしょう? きっと、出身校の同窓会で結婚式をやったのね、とすんなり思うのではないだろうか。

教会でのウェディングもまったく同じこと。教会は建物を表す言葉ではなく、そこに集う人々を表す言葉なのである。
いくら見かけが素敵なカトリック教会があるからと言って、そこの教会共同体となんの関係もないカップルが突然やってきて「ここで結婚式をあげたい」というのは、出身校の同窓会でもないのに、いきなり勝手にカップルが親族同僚友人を引き連れて突入してきて飲み食いし「金払えばいいんだろ」と札束をまいて帰るのと同じくらい図々しい異常な考えなのだ、とはお知りいただきたい。

だからせめて、日本のカトリック教会は「婚姻の祝福」式までに指導司祭の元で勉強をして、形だけでも教会共同体の中に入れるのだ。
しかし、実際、カトリック教会で結婚したカップルのどれだけが、それから先、洗礼まで行くというのか? ほとんどないのではないか? わたしは今の日本の「婚姻の祝福」式は、カトリックの宣教にほとんど寄与していないと考えている。

世の中、「簡単に入れるクラブではないからこそ価値がある」のである。ウディ・アレンも「I Don’t Want to Belong to Any Club That Will Accept Me as a Member」と言っているではないか。

実はマリア大聖堂の「婚姻の祝福」式には嫌な思い出があるのである。
カトリック信者には「ご聖体訪問」という美しい伝統があって、旅行先でお聖堂に入り、そこのご聖体の前で黙想するのだ。
神父様のご用事のおつきでマリア大聖堂まで行ったわたしたち田舎夫婦は、神父様と別れてから、その大きさに圧倒されつつ、カテドラルの中に入って、すみっこの席でロザリオを繰りながら黙想していた。
確か土曜日だったと思う。中では「婚姻の祝福」式が行われていた。もちろん、そんなことは知ったことではない。洗礼を受けた信徒のご聖体訪問を排除できるのは神だけだ。

ところがそのとき、ウェディングプランナーとおぼしき人物がやってきて、「そこは写真撮影の邪魔になるからどいてください!」と言われたのだ。

なんたる傲慢ぶりか!
ここはカトリック教会である! それも司教座聖堂、【わたしたちの/傍点】のカテドラルなのである!! ご聖体の中におわす主イエスがいらっしゃる場所なのだ。信徒が祈りにくるのが最優先される場所なのである。そんなこともわからないウェディングプランナー風情が、街の「なんちゃって教会」のつもりで、たかが「婚姻の祝福」式の写真のために、洗礼も堅信も受けたれっきとした信徒を聖堂から追い出そうとするとは!
(ウェディングプランナーという職業を見下しているわけではもちろんない。しかし、そのウェディングプランナーが、カトリックのカテドラルがどういう場所なのかを理解していたら、わたしたち祈っている信徒夫婦を追い出すような真似はできなかったはずなのだ。念のため)

岡田大司教様、お忘れですか? このマリア大聖堂の修繕費だって、わたしたちの教区から、信徒皆の献金として出したのです。それなのに、田舎から出てきた夫婦のカテドラルのご聖体訪問に、こんな仕打ちの思い出を許していいのですか?

憤然としながら大聖堂を出て、隣にあった地下の小聖堂で祈った。主よ、日本のカトリック宣教はまだまだです、わたしにその力があるのなら、聖霊を送って、いつかこのことを文章にさせて公表させてください、と。

今ちょうど、その聖霊に満ちてこの文章を書けたので、多少、満足なのである。

わたしはむしろ、これからの日本のカトリック教会は、婚姻ではなく、葬儀の方でこそ、未信者を引き受けるべきだと思っている。葬儀ミサで「カトリックのお葬式はいいですね」と言ってくださる未信者は多い。
葬儀に関しては「葬儀ミサ」のみで「葬儀の式」のようなものはない。もともとが想定されていないから、未信者の葬儀を引き受ける術がない、というのが正直なところなのだが、これからの日本におけるカトリックの宣教を考えるなら、積極的に未信者の葬儀を引き受けることができる、なんらかのシステムを考えるべきだ。聖座も「日本独自の宣教として」許してくださるのではないだろうか。



キャプション「そのチャペルには天使が舞い降りるという……」
キャプション「このチャペルを見上げるために、考えてしまうことが一つある」
翔太(心の声)「神様から見たら、俺達ウェディング・プランナーってのはさぞや変な生き物なんだろうな。キリスト教から仏式・神式・人前婚、何でもセッティングしちまおうってんだから。まあ、節操がないのは、日本人全般の宗教観なんだろうけど」


これはいいことを言っていると思う。
結局、結婚というのは「信仰生活」なのである。カトリックの「婚姻の秘跡」は、唯一、新郎が新婦に、新婦が新郎に与える秘跡になっているのだ。
キリスト教式にしろ、神式にしろ、仏式にしろ、人前式にしろ、なにかに「誓う」という行為なしではスタートできないのが「結婚」なのである。

お互いを信じ、仰ぐ(尊敬する)こと。これが「信仰生活」ではなくなんであろう。
それが薄々わかっているからこそ、人は結婚式になんらかの宗教色をつけてしまうのである。それが「なんちゃって教会」であっても。人前式でも根本は変わらない。

ガチカトのわたしから見れば、街中の「なんちゃって教会」の「なんちゃってキリスト教式結婚式」は、正直、コスプレ結婚式とそう変わらない。それでも、やはり結婚する二人には幸あれと祈る。今の信仰をなくさないで、と。
この二人が、いつか信仰をなくしたとき、その結婚はきっと破綻する。

再度言う。結婚とは、信仰生活に他ならないからである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究