2016年10月31日

【カットリク!】ハロウィン

今日は病院の帰りにだるい身体をひきずって、わたしの住んでいる地方都市の中央図書館まで。
目的は過去の新聞記事の検索。

記憶にあったのである。数年ばかり前、読売新聞のわたしの住んでいる地方版に、こんな記事があったのが。

「キリスト教のお祭りであるハロウィンが○○幼稚園で開かれた」

ちょうど、ハロウィンが日本でも流行り始めた(業者が流行らせようとしはじめた)時期であった。
その記事を読んだときに、即、スクラップしておけばよかったのだが、あいにく手元に残っていない。スキャンもない。それで図書館まで。

新聞の縮刷版というのは、地方版までは残しておいてくれないのものなのだが、この中央図書館は地方版も自力でスクラップしてくれているのである。
が、残念なことに、残しているのは朝日新聞だけだった――あぅ。空振り。

というわけで、少しでも似た「カットリク!」はないかなといろいろ検索して、まあグレーゾーンのものを見つけたのがコレ。

「年中行事・記念日事典」学研編集部



この中の「ハロウィーン」の項目より引用。



ハロウィーン
 キリスト教で、万聖節(あらゆる聖人を記念する祝日。11月1日)の前夜祭。

ここまで書けば、わたしがこれから何を言わんとしようとしているか、おわかりいただけると思う。

「キリスト教とハロウィンは関係がない」のだ。

同書では二行目以降にこう書いてある。

 古代ケルトの暦では11月1日が新年で、10月31日は大晦日にあたった。31日に夜には死者の霊がこの世に戻ってくると考えられており、大きな焚き火をたいて供物を捧げ、その日を家々に持ち帰って悪魔から身を守ったという。

これはおおむね正しいのだろう。
続いて――

 ケルトのこの民族的習慣がキリスト教の宗教行事と混合して、ハロウィーンが成立したとみられている。現在、アメリカでは、南瓜をくりぬいて中にろうそくをともし、子どもたちが仮装で家々を回って菓子を貰うなどする。

ここが疑問である。万聖節の前日に行われるからキリスト教と関係がある、というのは勝手な話だ。キリスト教側から見ると、ハロウィンは単なるケルトのお祭りで、なんにも関係ないのである(ハロウィンという名前は万聖節イブという意味だが、それも教会がつけたわけではなく、民衆から自然発生したもの)。

この理屈が通るなら、日本のお盆だってカトリックの祝日である8月15日の「聖母の被昇天」前後に行われるから、「日本のお盆はキリスト教の行事」と言ってしまってもいいくらいの超論理なのだ。

同書の締めはこう。

 近年、日本でも定着が進み、各地でハロウィーンパレードやハロウィーンフェスティバルが開かれている。また、当日に仮装をして出かけると入場料が割引になるアミューズメントパークなどもある。

まあ、楽しければいいんですけどね。

でも、ハロウィンとキリスト教は無関係ですから、そこのところは一線を画してよろしくお願い。
まともな教会でハロウィンに「ハロウィンミサ」とか「ハロウィン礼拝」とか「ハロウィン祈祷会」なんてやってるところは絶対にないはずだ。

というところで――

カットリク!ポイント52――
カットリク!ではハロウィンもキリスト教のお祭り


追記:とはいえ、日本でハロウィンが流行り始めた(業者が流行らせようとしはじめた)2010年当初とはだいぶ違い、まともなメディアでは慎重に「ケルトの民族的行事」のみを解説し、キリスト教色を匂わすような間違いはやめているようだ。キリスト教会各所の努力が実を結んだのだろうか。
同じ調子で、「カソリック」もやめてplz。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2016年10月30日

【日記】少子化

「悪書追放ボックス」の記事の最後で、少子化についてなにか書こうと予告していたのでひとくさり。

日本の少子化は、すでに国民の選択である。
政治家たちは、まずこの事実を認めないと、日本は政治も経済も、この先、行くも退くもならず混迷を極めていくばかりだと思われる。

例えて言えば、国民の大多数が戦争に反対し、兵役志願していないのに、無理矢理、「日本の未来は戦争で領土を広げるしかない」と、為政者が旗振りしているような状況である。

いびつな逆三角形になりつつある人口ピラミッドを、土台のある安定した三角形に戻すには、単純に考えても、一組の夫婦が三人以上の子どもを儲けなければならない。
そしてそれは、【現実/リアル】として今の若い世代には受け入れられない家族モデルなのだ。

古い価値観を引きずっている「サザエさん」一家だって、フネと波平は三人の子を儲けたが、肝心のサザエさん夫婦はタラちゃん一人という家族構成のままだ。あそこにもう一人増える、などというサザエさん時空を破壊するような事態は、国民の誰も思いもしないだろう。

現代で言えば読売新聞のコボちゃん。はたまたクレヨンしんちゃん。両者とも二人目の妹までは登場したが、その先、三人目を懐妊するという進展はない。

日本の近代的な家族モデルとして、バブル世代から下は、父親、母親、子どもは二人まで、という構成が刷り込まれているのである。

実際に、子育て世代の感想はどうだろう。三人の子がいる家族には、「あら、大所帯ねぇ」という印象を持たないだろうか。二人で精一杯なのに、ウチは三人目なんてとてもとても、という声はよく聞く気がする。

日本の人工妊娠中絶率は、既婚夫婦にも非常に多いという統計があるように、もう一世帯が三人以上の子どもを持つという家族モデルは、今の日本では非現実的なのだ。

その原因は、子ども一人を一人立ちさせるまでにかかる費用の高騰だろうとは容易に想像できる。
誰も声に出しては言わないが、今の日本において子育ては「最高の贅沢」なのである。

若い人たちは団塊の世代やバブル世代より頭が良くて、自己抑制も効き、分別を知っているのだ。
昭和の世代は四畳半のアパートに住んでいるくせに、ローンで高級車を買うような奴が少なからずいた。ジジババは彼らを「身の程を知れ」となじったものだ。
今の日本では、それと子育ては同じことだと、若い人たちは感覚的に理解しているのだ。

「若者の○○離れ」という話題がよく出るが、あれこそ、今の若い人の聡明さを表していると、わたしは素直に感心している。広告代理店に踊らされず、本当に自分に必要なものだけを身の回りに置けば良い。吾唯足知を実践している。

卵が先か鶏が先かになってしまうが、一度、このサイクルに入ってしまうと、そう簡単なことでは抜け出せない。

ある議員が、少子化対策として、人工妊娠中絶禁止まで考えた方が良いと言ってネットで叩かれたが、あれは「本気で少子化対策に取り組むなら」結構、良いアイデアだと思う。そこまでドラスティックな手を使わなければもう日本は変わらない。戦争の例えで言えば「徴兵制」である。

逆に、これを荒唐無稽だと言うのなら、もはや事実として、冒頭にあげた「日本の少子化は、すでに国民の選択である」ことを認めざるを得ないのではないか。
どうあがいたって、もう少子化は止められないのである。
そして、わたしも、そう思っている。
どこぞの台湾に買われた家電会社の以前の業績見込みのように、奇跡のV字回復など起こりようがない。

だとしたら、為政者が21世紀の日本でなすべきことは、この少子化を前提とした政策ではないだろうか。
少子化を悪ではなく善、むしろチャンスとみなし、それを織り込んで国民が豊かな生活をできる最良の政策を考える。そういった観点から物言う政治家は、今まで、一人も見たことがないような気がする。

少子化対策として、二言目には「誰それに経済的支援を――」と言われるが、もはや日本の少子化は、カネの投入程度では解決できないレベルに入っているとわたしは思う。

なぜなら、人間、一度あげてしまった生活レベルは、なかなか下げられないものだからだ。

この言い方は多少の抵抗感があるから今まで書いてこなかったが「子育ては贅沢」というのは、裏を返せば「子どもは負債」になりうるということなのだ。

高級車を買った四畳半の住人は、家賃を払えなくなっても高級車を売れば済む。子どもはそうはいかない。

その昔の「貧乏人の子沢山」には理由があった。年金がなかったからだ。今は年金があり、少なくとも今のジジババ世代は子どもに頼る必要がなくなった。これが少子化のトリガーであった。

だからおそらく、年金制度が崩壊するまで(いや実際にはもう崩壊しているのだが、国がそれを認めるまで)、日本の少子化は続くだろう。

少子化も、晩婚化も、非婚化も、すでに国民の選択なのだ。
だが、そういうフラグが立ってしまったからといって、バッドエンドへまっしぐらというわけではない。むしろそういう状況の中でこそ迎えられるハッピーエンドがあるはずだと、わたしは思うのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年10月29日

【回想録】送稿

今の時代なら、文字原稿もマンガ原画もメールかクラウドにあげて編集部とやりとりするのが当たり前なのだろうが、昭和の時代はネットなどという便利なものは(大企業のオンラインシステムでもなければ)普及していなかったので、当然、他の方法を使うしかなかった。

一番使われたのは、やはり郵便である。原稿も手書きであったから、コピーを取る時間的余裕がないときは、万が一のことに備えて書留で送るのが常であった。遅れ気味で脱稿したときは、これに速達をつける。郵便局の方に言わせると、この合わせ技はあまり意味がないらしいが、まあ、申し訳の意味をこめて。

わたしがモノを書き始めた頃は、もうFAXは企業には普及しつつあったが、個人ではまだまだ高嶺の花であった。
どなたか覚えていないが(小松左京先生だったかな)、送稿用にFAXを入れたはいいものの、肝心の出版社の編集部の方にFAXがなく、営業部にあるFAXを経由して送稿した、という逸話を聞いた時代であった。

なにかの雑文を連載していたとき、あらかじめ回数分の、速達印を押して切手も貼ってある封筒を渡されたことがあった。用意のいいことだが、こちらにはプレッシャーになった。

近所のポストの回収時間をメモしておき、どうしても書き上げるのが間に合わないときは、深夜、クルマで集中局まで行って投函する、というようなこともやっていた。ホッとして見上げたあの夜の空が懐かしい。

直接手渡しが一番安心できるのは当然だが、目の前で読まれているあの時間は、なかなかに手持ち無沙汰である。

電話送稿、というやつも一回やった。要するに電話で、編集者相手に原稿を読み上げるのである。編集者は受話器の向こうでそれを書きとめる。
これは何より精神的なダメージが大きい。二度とやるものかと心に誓った。

昭和も末になると、編集部の方からFAXで送ってくれと言ってくるようになる。やっと個人用FAXが数台出始めた時期。価格だってまだ(当時の)ワープロと同じくらいする時代だったのに、会社勤めの人は簡単に言ってくれる。

仕方ないので、そのときはNTTへクルマで行って、そこからFAX送信したのであった。確か、「ポケットの中の戦争」関係の初期書類だったと思う。FAX送信してくれながら、係の職員が「これはファミコンかなにかの企画書ですか?」と言ったことをよく覚えている。

この面倒くささに音をあげて、直後にFAXを導入した。FAX専用回線も一本。まあお大尽。しかし技術がこなれていない当時、まともに音声電話とFAXを同時運用しようとすると、やはりFAX専用回線を入れるしかなかったのだ。

送稿とは関係ないが、電話関係では手練れの編集者に隙をつかれたことがある。原稿をかけないウサばらしに、友人と長電話でダベっていた後、受話器を置いたら、即、鳴り出した。こちらは友人からの伝え忘れ電かな、と思って取ったら編集者から。
「ずっとお話し中でしたから、絶対、在宅されていると思いました、フフフ」
ヤラレタ! ずっと留守番電話で逃げていたのに。
こってりと催促されて、さてその後、心を入れかえてきちんと脱稿したかは記憶にない。

メールの時代に入ってからは、文字の送稿は楽になった。が、資料写真の送付に苦労した覚えがある。特に相手がMACの場合、「開けないのですが……」と、言われてしまうことがあった。こちらは普通のJPEGを普通にuuencodeして添付しているだけなのだが……。

今はメールクライアントが高機能になっているので、そういう苦労がないのはいいことだ。

便利な時代になったが、送稿が瞬時になったぶん、余韻のような心地よい疲労感はなくなった気がする。
深夜の中央局のポスト投函に間に合い、夜空を見上げホッとしたあの心持ちは、もう味わうことはできないだろう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2016年10月28日

【日記】迷惑FAX

会社のFAXに、毎日のように営業FAXが入ってくる。
ウチのFAXは印刷なしで画面上で確認し、必要なものはPCで見たりそこからプリンタで印刷するペーパーレス仕様なので、いらない営業FAXはポンポンポンと先送りするだけだが、感熱紙でもない、インクフィルムを使った最近の家庭用FAXでは、勝手にこちらのリソースを無駄遣いされて、たまったものではないだろう。

実際、FAXを送ってきた電話番号を検索してみると、迷惑電話リスト上位に載っていて、大量の怨嗟の声を読むことができる。

そういったログを読んでみるとわかるが、FAXを送りつけてきているのは営業FAX代行業者で、クライアントはまちまちだ。

勝手に営業FAXを送りつけられたユーザーが、迷惑電話番号リストに投稿している声を読むと、それはもう激烈な怒りと憎しみに満ちていて、まともなクライアントならば「FAX営業は恨みを買いこそすれ益にはならない」とわかりそうなものだが、一向にこの手の営業FAXが減る様子がないということは、多少は営業効果があったりするということなのだろうか。謎である。

迷惑メールは営業FAXに比べれば送信側にかかる費用は少ないが、営業FAXは時間分の電話代がかかっているはずである。

迷惑メールが、一万通送って一人引っかかればいいレベルだとしたら、営業FAXの方は百人に一人レベルでないとペイできないのではないかと素人考えでは思うのだが、実際の成果率はどのようなものなのだろう。

実は弊社にも、この迷惑営業FAX業者のひとつが営業をかけてきたことがあった。迷惑営業FAXの嫌われぶりを十分知っているので、丁重にお断り申しあげたが、FAX営業は抜群の効果がありますよ! と信じて疑わない口ぶりと、その場しのぎの説得力に、内心、苦笑してしまった。

確かに情報弱者のクライアントならひっかかってしまいそうな勢いであった。

最初にも書いたが、ウチのFAXはペーパーレスで、見たいものだけ見られるので、この手の営業FAXはDMというより新聞の折り込み広告に近い感覚。だから腹も立たない。たまに眺めてみて、こんな商品を売ってる会社が営業FAX代行会社に引っかかってるんだなぁ、と思うぐらい。

むしろ、今まで定期的に送ってきていた元気のある会社からの営業FAXがピタッと止まってしまうと「潰れてしまったのかな?」と逆に心配になったりする。

今、気になって検索してみたら会社としては残っていた。どうやら営業FAXは効果薄いと見てやめたらしい。的確な判断ですな。

まあ実際、実体のない迷惑メールですら蛇蝎のごとく嫌う方がいるわけだから、そういう方が迷惑営業FAXなんぞ送りつけられた日には怒髪天を衝く勢いで激怒するだろうということは想像に難くない。

根が単純なわたしは、そんなことで血圧を上げるくらいなら、ウチのようにペーパーレスFAXにしてしまえば? とも思うのだが、そこまではあえてしない、というところで、意地の張り合いみたいになってしまってはいまいか。

あぁしかし、ウチは会社だからFAXに一本回線をあてているので放っておけばいいだけだが、音声とFAXを兼用にしている回線にピーヒャラやられて、それが迷惑営業FAXだったら怒り倍増かもしれないなぁ。

何にしろ、FAX営業というのは怒りを買うばかりでもう時代遅れだと思うのだが、いかがなものか。FAX自体がもう、時代遅れになりつつあるというのに。

ピコーン!
むしろ、ペーパーレスFAX機の営業を営業FAXで流したら、売れるかもしれませんよ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年10月27日

【カットリク!】ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド スレッジ・ハマーの追憶

環望
ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド スレッジ・ハマーの追憶 第1巻

ヴァンパイアを扱った伝奇アクション「ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド」のスピンオフ作品。
ヴァンパイアもののストーリーとなると、自然、カトリック教会が登場することが多く、そこでカットリク!が露呈してしまうことが多いわけだが、本編の方はキリスト教関係、教会関係をまったく出さないことでガチカトが読んでいても違和感なく楽しめた。

では、スピンオフのこちら「スレッジ・ハマーの追憶」の方ではどうだろう――



「父と子と精霊の御名において、この幼子にバプテスマを授ける」

うーん、これはいただけない。正解は「父と子と聖霊」。「精霊」という概念はキリスト教にない。

カットリク!ポイント49――
カットリク!は「父と子と精霊」に祈っちゃう。「精霊」って誰?

また、「バプテスマ」は「洗礼」の英訳で、一部のプロテスタントは好んで使うが、日本のカトリックでは(英語ミサでもなければ)絶対に使わない。ここで「バプテスマ」とわざわざ書く必要性がわからない。素直に「洗礼」でよかったのではないだろうか。

これは日本に作られた「ヴァンパイアバンド」という「吸血鬼特区」の中にあるカトリック教会という設定なので、ヴァンパイアバンドの共通言語が英語であるという表現なのかもしれないが、だとしてもそれがわかるのはクリスチャン読者だけというのはどうか。上の「父と子と精霊」でもうクリスチャン読者は渋い顔をしている筈。

カットリク!ポイント50――
カットリク!は「洗礼」じゃなくて「バプテスマ」と言っちゃう。




あぁあ、「カソリック」はやめましょうよ。げんなり。
それだけで、キリスト教関係の文献を読んでいないんだな、とわかってしまう。
前にも書いたが、今の日本の教会業界で「カソリック」と呼ぶのは、カトリックに露骨な悪意を持っているプロテスタントくらい。
日本人を「ジャップ」と呼ぶくらい乱暴な感覚だと思っていただけば。

カットリク!ポイント33――
カットリク!は「カソリック」と言っちゃう。





さてこの二枚、台詞をあわせて読んで、なにがカットリク!なのかすぐにわかるあなたはガチカト。普通はおかしいところすらわからないのでは?

正解は「ボルトン神父」と呼ばれている司祭が頭に乗せている帽子がおかしいのである。

これは「ズケット」と呼ばれ、高位聖職者がつけるものなのだ。教皇は白、枢機卿は赤、司教は赤紫、大修道院長は黒と、それぞれ色が決まっている。

司教がかぶっている実物はこれ。


この場合、一介の神父である「ボルトン神父」がズケットをかぶっていたら「司教」になってしまう。

カットリク!ポイント51――
カットリク!は一介の神父でもズケットをかぶっちゃう。


また、このストーリーの中でも、告解の内容を漏らす神父がいるのだが、どうしてカットリク!はそういうのが好きなのだろう。なんというか、外国人が持つ「日本人ミンナお寿司スキネー」みたいな感覚で告解の内容を漏らす神父ブームはやめていただきたいというのがガチカトの正直なところ。そういうストーリー展開は食傷気味である。

最初にも書いたが、「ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド」本編の方は、ヴァンパイアものでありながらキリスト教色、教会色をまったく出さないことでカットリク!を見事に回避していたので、実は感心しつつ楽しんでいたのであった。

なので、スピンオフの方でこうやってカットリク!が露呈してしまったのは残念。ストーリー全体は三巻にまとまったハードボイルド・アクションで、とても楽しめることをつけ加えておく。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究