2016年11月30日

【日記】甘党

お酒を断ってから10年。以来、すっかり甘党である。

特に「コレ」が好き、というものはないが、甘いものなら和洋なんでも好きだ。
とはいえ選べるならば、やはり定番のイチゴショートのようなスポンジケーキがいい。
大食漢ではないので、1ホールまるごといける、というような壮語はできないが、ブラックコーヒーを飲みながらちょっとづつ、二ピースくらい食べるのがちょうどいい。

不二家レストランには「ケーキバイキング」というのがあって、年に数回、細君とチャレンジしている。
ここのケーキバイキングは、ふつうならお土産に買って帰るショウ・ウィンドウに入っているケーキを、時間内ならいくつでも食べられるのである(ただし、一回にサーブできるのは二個まで)。
ペコちゃんのマグカッププリンがあれば、そのマグカップも持って帰ることができる。
食の細いわたしは、ビュッフェタイプのレストランではまず元が取れないが、ここはわりと「元を取れている」満足感がある。

とはいえ、毎回、何個食べられたか記録しているのだが、5個前後が限界のようだ。
プリンやゼリーものがないと箸休めならぬスプーン休めがなくてペースが落ちる。
また、甘い物ばかりだと飽きがくるので、フライドポテトを一緒に取って舌の甘みを減らしながら食べていくという技も覚えた。


(貼っただけで、美味しそうでございます……)

不二家レストランのケーキバイキングを楽しんでいる方のブログなどを読むと、あそこのお店はウェイトレスさんのサーバーが遅くてペースが乱れるとか、脂肪分の高い物は後に回すなどを細かく考えるとか、わたしの手の届くところではない高度かつ緻密な作戦を立てていて、ただただ感服である。5個程度で音を上げているわたしが「甘党」なんて言っていたら鼻で笑われてしまいそうだ。

そんなわたしの今年のヒットは、業務スーパーの牛乳パックデザートシリーズである。
ニュースサイトでその記事を読んでから、「レアチーズ」「プリン」「杏仁豆腐」「水ようかん」「コーヒーゼリー」が頭の中にちらついてしょうがなかった。

残念ながら、業務スーパーは歩いていける距離にない。
あまりにこれらが頭にちらついて、四六時中、甘い想いを巡らせ、しかも胸がドキドキするものだから、つい細君に漏らしてしまった。

「ひょっとしたら、俺、恋してるかもしれない」

すわ不倫の告白か、と、細君は驚きもしなかった。大笑いして「そんなに気になるなら買いに行けばいいじゃない」と。ちぇっ、どうせ俺はあなたに、ベタ惚れです、よ。

クルマを出して業務スーパーへ。牛乳パックシリーズをひとシリーズ買って来て試食。ん、レアチーズは思ってた味と違う、けどうまい。プリンも杏仁豆腐もいい。水ようかんは……次はなしで(いや美味いんだけど、甘すぎた←甘党失格)。


(あーまた食べたくなってきた……)

それと、これも評判だった、豆腐パックシリーズのチーズケーキがうまぁい! これは本当にお気に入りに。

この牛乳パックデザートシリーズ、とても気に入ったので、ちょうど開かれたパソ通仲間のオフ会でも披露してみた。ミニバケツとボウルも持参して。そこにドバーッと落とし込む。さあさあ食いねぇ甘いの食いねぇ。

「あ、なんか俺これダメ」
「甘過ぎっすよぉ〜」
「うーん、悪くはないけど、そんなにいらないです」

なんでやねーん。なんか、働き盛りの男子にはみんなウケが悪くてちょっとガッカリ。残った甘い物は、すべてわたしと細君が美味しくいただきました。どっとはらい。

さて、なぜこんな甘いもの話を書いているかというと、実は今、また、恋しているからである。
あのカップ焼きそばの明星「一平ちゃん」が、12月5日に「ショートケーキ味」を出すというのだ。そのニュースを聞いたときから、もうそのことばかり考えてしまうのである。ドキドキ。

今年の2月には「一平ちゃんチョコ味」も出したそうなのだが、そのときはちょっくら闘病中で情報が入ってこなかった。あぁ、食べてみたかったなぁ。

以前、くら寿司が「バレンタイン寿司(チョコバナナロール寿司)」を出したときは食べることができた。とても美味しかった。おかわりもした。細君は「え、やだ、この人……」という目をしていた(笑)。


(くら寿司の「チョコバナナロール寿司」。うまいぞー)

ニュースサイトでは「一平ちゃんショートケーキ味」を一足先に食べてみた感想として「トラウマになるほどマズイ」「うっわ……」「得体の知れない後味」「まずくはない」と絶賛の声があがっているので否が応にも期待が高まる。

自称「甘党」としては押さえておかねばなるまいよ。

「恋」が「愛」に変わるのか、はたまた手ひどくフラれるのか、残り一週間を切っている。
いくつになっても、このドキドキ感がいいんだよね、恋ってさ(笑)。

追記:細君に「ようかんは甘すぎ(キリッ)」なんて言ってるようじゃ甘党は名乗れないと言われた。悔しい、でも甘党名乗っちゃう(ビクンビクン)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年11月29日

【日記】閃輝暗点

闘病ブログにするつもりはないので、心身の不調などはなるべく記さないようにしているのだが、一週間で四回の閃輝暗点に襲われるのはさすがにまいる。

実は今もでている真っ最中である。どうせなら実況してやれ、とやけっぱちで書き始めてみた。

22時20分、左の視界に明るい点が残る。あっ、始まったかな? と電気を消して真っ暗にしてみると、やはり輝点が視界に残っており、中心部からグルグルと小さな輝く三角形が回り始めた。

目をあけて、正面を見ると、その場所が次元の裂け目のように歪んでいる。そしてギラギラした三角形がダンスをしながらグルグル大きくなっていく。
視界の中で、フォトショップのスタンプ機能をベタベタと使われていく感じだ。

この文章も、ポメラDM100(キングジムさんからの好意で代替機を使わせてもらっている)で打っているのだが、画面の左側ほとんどがギラギラとした三角形の歯車が回っていてよく見えていない。

便利な時代になったもので、このギラギラした三角形の歯車上のものが視界に現れだんだんと大きくなっていき、しまいに消失すると、次に頭痛に襲われるという「閃輝暗点」という症状も、ネットで詳細に状態を書いてくれる方が出始め、今はWikipediaにも載っている。
細かいことを説明せずに「閃輝暗点という持病があるんですよ」と言って調べてもらえば済むというのはありがたい。そこにある動画gifの通りの症状が視界に起きるのである。
要するに、目玉や視神経の不具合ではなく、脳内後頭部の血流の流れ具合によって起こる症状とのこと。

や、22時43分、歯車は大きくなったぶん薄くなって、今は拡散してDM100の画面も見えるようになった。
頭は重いが、今回はひどい頭痛には見舞われそうな感じはない。さすがに今まで、数十回これを経験してきているので、つきあい方やその後の症状の軽重も感覚でわかるようになってきた。

ひどいときは、閃輝暗点が出た後、いきなり猛烈な頭痛と下痢に襲われ、トイレにとびこみ、上からは汚物入れに、下は便器に、体の物を全部吐き出したくらい(汚い話でごめんなさい)。

うん、今回のは大丈夫だ。軽い頭痛で済みそうである。頭痛薬もガマンしよう。あまり慣れるのもいけないと思うから。

実はわたしの母が、若い頃、この閃輝暗点持ちでしょっちゅう悩まされていた。当時は「閃輝暗点」という言葉もなく、医者にかかっても「おかしいところはありません。偏頭痛でしょう」と言われるしかなかったという。
今、母は年に一回、それがあるかないかである。
かえって30代から出始めたわたしの方が、今は回数が多いくらいだ。
こういうこともあるから、遺伝的なものもあるのかもしれない。

カフェインがトリガーになるという話も聞くので、好きなコーラはカフェインフリーに、スターバックスでもデカフェを頼んでいるのだが、それでも出るときは出てしまう。

あんまり短い期間で何度も起こるようなら、脳神経外科へ行った方がいい、と書いてあるページもある。あんまり脅かさないでくださいな。これ以上武勇談(病歴)を増やしたくないのです。

原因はまあ、わかっているつもり。季節の変わり目で寒暖差に心身がついていけず、知らず知らずのうちにストレスになっているのだ。
冬至までに不調の数々が出てきて、真冬の間は耐えに耐え、春分の日を過ぎてやっと楽になる、というのがここ数年のこの季節の過ごし方。

暖冬ならまだ調子もそう崩れないのだが、大雪が積もるような冬はもうガタガタである(なのになぜ弘前大へ行ったのか、青春の謎)。

ああ、やっぱり、緩やかだが重い頭痛が頭部全体を包み込んできた。ずーん、と石綿の袋をかぶせられている感じ。
というとこでギブアップ。今日は筆を置いて休もう。
(投稿時間は朝だけれど)おやすみなさい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年11月28日

【日記】教会と売店

プロテスタントの方には想像できないかもしれないが、中規模以上のカトリック教会には「売店」があるのである。
いつも開いている訳ではない。主日(日曜日)のミサ後30分くらいの短時間だけオープンするお店である。

「売店」というのはあくまでカッコつきの信徒間の通称であることに留意されたい。実状は「売店」ではなく、正式名称は「書籍等引継場所」。わたしは内情は知らないが、各種仕入れ品を信徒に渡すにおいて、教会が中継マージン(売り上げ)を取ってはいないはずである。

一方、ちゃんと「売店」として機能している教会の販売所もある。東京マリア大聖堂の売店などはきちんと税務申告しているので、あれは名実ともに「売店」なのだと聞いた。
まあ、あそこは大きいしね。

タイトルでは「売店」と書いたが、それは通称で、通常のカトリック教会の「売店」は、売り上げを算出して相当分の税金を支払わねばならない意味では小売店ではないことを、再度、強調しておく。

ウチの教会で扱っているのは、書籍やロザリオ、カード、ハガキ、メダイ、ベール、そしてガレット(お菓子)など。このガレットは修道会が作っているもので、おいしくておみやげ物としても評判である。

他に、「四旬節」や「待降節」と呼ばれる季節には、サンパウロや女子パウロ会などが「移動売店」としてやってくる。

でも、今年は不況もあるのだろうか。この待降節、サンパウロも女子パウロも、ウチの教会に来てくれないのだった(特定されちゃうかな(笑))。

それで、いきなり困っているのが来年の手帳である。わたしはこの季節にやってくる移動売店で、必ず来年の「カトリック手帳」を買っているのだが、今年は売店にも置かれず、移動販売もこない。

「カトリック手帳」というのは、ドン・ボスコ社が出しているカトリック信者向けの手帳で、スケジュールページには教会暦や聖人の祝日、一言聖句がついている。巻末付録には各種定型の祈りやミサ式次第、カトリック教会・病院等の住所録。
もっともこういうのはわたしは不要なので、バッサリと裁断機にかけて束を落とし、パンチで穴をあけてスケジュールページのみをミニ6穴システム手帳にしている(ことは以前にも書いた)。

やぁ、まいった。
こういうとき、カトリック信者は便利なもので、自分の所属教会にこだわらず、隣町の教会のミサに与ってそこの売店で買ってくる、という手もないではない。

あとは現代らしくネット通販という手もある。が、サンパウロも女子パウロも、送料無料になるのは商品代金一万五千円からである。うーん、信徒歴も長くなれば、そんなに必要な聖品はないよ。典礼聖歌やカトリック聖歌のたぐいのCDはあらかた持っているし。

直接買いに行く、という手もある。それなら四谷だ。あそこはサンパウロ、イグナチオの女子パウロ、ドンボスコとそろっていて、手帳だけでなく、十字架やらメダイやらロザリオやら、聖品がたくさんそろっている。
もし中二病をこじらせた方がいらっしゃったら、ぜひ、四谷のその手のカトリックショップへ足を運んでみたらいかがだろうか。きっと目が輝くことだろうと思う。

ちなみに、わたしの洗礼名の聖人はかなり珍しいので、メダイを見たことがない(存在していることは知っているが……)。見かけたら即買いだ、と思っているのに、残念である。

さて、四谷まで往復する交通費を考えたら、やはりネット通販が正攻法か。年内に都内のある宣教会へ仕事で出かける用事ができそうだが、抜けて四谷まで行く時間的余裕はなさそう。

ところで、わたしの地元には、クリスチャン専用の書店がひとつあって、そこではプロテスタント用に聖書協会が発売している「みことば手帳」とかが買えたりするのである。うーむむ、悔しいぞ。

このところ、ブックフェアは撤退してしまうし、カトリック教勢薄いよ、なにやってんの! という気持ちである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年11月27日

【日記】言葉狩り

見てはいないのだが、「地味にスゴイ!校閲ガール」というテレビドラマをやっているらしく、そのタイトルだけ新聞のラテ欄で目に入って「うん、校閲部の人はすごいよな」と、現場を知っていると思うのであった。

こちらが気づかなかった誤字脱字のチェックはもちろんとして、たとえば(書いた自分が莫迦なのだが)左手を怪我させたキャラがしばらく後に左手でなにか操作してしまい「左手は怪我をしていたはずでは?」などと指摘を受けたりするのである。

かといって校閲部が万能のフィルタかというとそうでもない。
警察署の代用監獄で虚偽の自白をする代わりに被疑者に便宜供与をする行為を通称「面倒見(メンドウミ)」というのだが、この言葉を使って探偵に「面倒見か。やっかいだな」と言わせたら、校閲を通った後「メンドイな、やっかいだな」に変えられていたことがあった。

というわけで、作家と校閲部は共闘関係でありながら敵対関係でもあるという不思議な間柄なのである。

ここでけっこうやりあうのが、いわゆる「差別用語」についての丁々発止である。「これはちょっと差別用語ではないですか?」「要言い換え検討」とか、そんな感じ。

これに抵抗する作家もいると聞く。言葉は言葉としてすべて平等であり、差別用語なんかない! という理屈。一本筋は通っている。
この勢いが情熱になると「こんなのは言葉狩りだ!」と息巻くことにもなりかねない。
まあ、作家としては、自分が情熱込めて書いた文章に、どんな形にせよ疑問符を入れられるのだから、カチンとくる気持ちもよくわかる。

でもわたしは「差別用語では?」と言われると、素直に「そーですね」と変えてしまうタチ。
それ以前に、差別用語を書かないように気をつけているつもりだが、わたしの脳内フィルタを通っても校閲フィルタで引っかかったのなら、その言葉は素直に引き上げることにしている。

実は、デビュー当初のわたしはこうではなかった。けっこう語句の言い換えに抵抗したほうだったのである。

それがある日、中学の時の友人H君と話していて、まさしく目から鱗が落ちる体験をしたのである。
雑談をしていて、言葉の話になったとき、彼はこう言ったのだ。
「でもさ、やっぱり特定の言葉を使わなくするのって差別解消に効果あるんだよ。だって実際、俺ら、あの差別を知らないじゃん」
そして、その昔にはひどい差別が行われていたある事象と、その言葉をあげたのであった。
確かにそうなのだ。わたしたち関東住みの人間は、もうその言葉を一般に使わない。使わなくなったから、差別も希薄になり、自分たちの世代はその差別があったことすら知らなくなってきていたのである。

なるほど一理も二理もあるなあ、と感じ入った自分は、以降、校閲部から「差別用語では?」とチェックが入った場合、素直に語句の言い換えをするようになった。それが言葉狩りだとは思わない。むしろ、差別をなくすための有効な方法だと思っている。

逆に考えてみれば、さらによくわかる。
人は差別をするとき、必ず言葉をつくるのである。

ここ数年で一番気にかかる言葉が「ニート」。
これは「教育、雇用、職業訓練に参加していない若者(Not in Education, Enployment or Training, NEET)を指す言葉として生まれたものだが、この言葉を作ったことで、本来、行政側の責任である教育、雇用問題を棚上げして、若者個人に「怠け者」の烙印を押そうとしている。
この言葉が問題ではなく個人をさして差別的に使われる現状を憂う。

前にも書いたが、人間誰しも神様の目から見たらニートなのである。「自分の力でいっぱしのことをやっている」、「自分は自立している」と思う、それが罪だというのがキリスト教の教えである。キリスト教だけではなく、伝統的な宗教には、みな、似た教えがあるのではないだろうか。

ニートと呼ばれて揶揄される若者は、うなだれて頭を垂れることなどない。それは社会、政治の問題であって、あなたがたは生きているだけですばらしいのだ。
あ、今、オレ、クリスチャンらしいこと言ってる。照れってれー(笑)。

実際、クリスチャンというのも、最初は差別用語であったのだ。キリスト復活後の弟子たちが、アンティオキアでことあるごとに「キリスト」「キリスト」を連発してうるさいものだから、「あいつらもうキリスト者って呼んじゃおうぜ」と、周りからつけられた蔑称なのである。

この構造「おたく」と似てませんか?

言葉は流動するものだから、数年前まではふつうの言葉だったものが、今は差別用語になったり、今は差別用語とされているものが、数年後にはふつうの言葉になっているかもしれない。

ある言葉の言い換えを迫られて「言葉狩りだ」と叫ぶ方には、こう伝えたい。あなたが「言葉狩り」という言葉を使うから、「言葉狩り」が現実になっているのだ、と。これはレトリックではないのである。

言葉は狩られて絶滅するような貧弱な体系ではないのだ。それはたくましく、柔軟で、狩られても、踏まれても、また生えてくる。

そしてできるのなら、その言葉を、人の心を暖かくするために使いたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2016年11月26日

【カットリク!】無垢な恋心

ダイアナ・パーマー著/霜月桂訳「無垢な恋心」

今回「カットリク!」の俎上にあげるのは、なんと日本の作品ではない。プロテスタント大国アメリカはハーレクインロマンスから、ダイアナ・パーマー著の「無垢な恋心」という作品。


(クリックで拡大できます)。

著者ダイアナ・パーマーはハーレクインロマンスシリーズの中で、今、もっとも売れている作家の一人(変な表現だがプロフィールどおり)で、150作以上の作品を発表しており、世界中で翻訳されているのだそうだ。

本作品は2014年の作品で、邦訳の奥付は2015年6月20日。けっこう新しい。

わたしがハーレクインを始めて読んだのは高校のとき、なぜか無料で数冊配布されて話題になっていたので、一冊ぐらい読んでおくのもコモン・センスかと思い繰ってみた。
その作品、タイトルももう覚えていないのだが、それが国語の授業中の内職読みで、先生にバレてしまったというこっ恥ずかしい思い出。

ラブロマンスとしては、シェイクスピアの初期作品の方が面白いんじゃないかなぁ、というのが当時の感想。

さて、本作の「カットリク!」は、ヒロインのカーリーが誘拐され、父がそれを追う緊迫したシーンから――


(クリックで拡大できます。渦中のシーンは左上)。

 相手は過去にかかわった何者かだろう。(中略)何があろうとカーリーには決して手出しをさせないぞ。聖書にも天は自ら助くる者を助く≠ニある。
 いや、まあ、銃で助けろとはキリストも言ってはいないが。(後略)


しかも、これを胸中で言っているカーリーの父親、ジェイクは、なんと「メソジスト派の牧師」という設定である。

ヘイ、ユー! 神学校で何を習ってきたんだい? 「天は自ら助くる者を助く」は聖書の言葉じゃないぜベイビー!

「生まれ変わり」でも書いた通り、「天は自ら助くる者を助く」というのは、サミュエル・スマイルズの「自助論」序文によるものだそうだが、語源自体は不明だそうだ。ひとつ確かなこととして言えるのは、決して聖書由来の言葉ではない。

そしてそれは、真に敬虔なクリスチャンならば皮膚感覚で理解できていてしかるべきなのだ。
なぜなら「天は自ら助くる者を助く」は、キリスト教の教義の根幹からして「罪」だからである。キリスト教の「原罪」とは、ぶっちゃけ「人が神を離れてしまうこと」なのだ。
つまり神を頼らず自助努力でなんとかしようなどというのは、神のもっとも嫌われることなのである。

実は作中のこの牧師はいわくつくきで、昔はちょっとヤンチャしていたという過去があるのだが、改心して聖職者になったというバックグラウンドがあるにはある。それにしても、この間違いはひどすぎる。
そのバックグラウンドを表現して、実はあまり敬虔ではないということを表すためにわざと間違えたわけではないだろう。

本作品のカットリク!で面白いと思うのは、これがプロテスタント大国アメリカの作品で、なおかつこの台詞を言っているのがお堅い=uメソジスト派の牧師」であるということ。
こんなシーンが、作家の脳みそはもちろん、編集者や校正者の目も素通りして、最終的に活字になってしまうという、アメリカのプロテスタントの実際が垣間見れることだ。

作中には、シンプルなメソジスト派の信仰生活がそこかしこに出ている。幼児洗礼のシーンなどもあるくらいだ(メソジストは幼児洗礼)。
しかしそこに、信仰としてのキリスト教は希薄になってしまっているということ。

大部分の「なんちゃって仏教徒」である日本人が不飲酒戒を守っていないくせに「俺? 仏教徒よ」と言っているのと同じように、アメリカのクリスチャンも、実はそんな程度なのである。

ということころで――

カットリク!ポイント59――
カットリク!は「天は自ら助くるものを助く」が聖書の言葉だと言っちゃう。


てなとこで。

それにしても、ダイアナ・パーマー先生も、こんな極東のブログで、しかも聖書を読まないと揶揄されるカトリック信徒から、こんなツッコミをされているとは思うまいて。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究