2017年01月31日

【日記】バナナはオヤツに入りますん

ニンテンドー3DSの「とびだせ動物の森」を、飽きずにもう三年やっているのだが、このソフト、けっこう教育的とは言えないところがある。

たとえば海でサメを釣り上げて、それを素手で掲げて釣果を自慢したり、川でウナギを釣り上げ以下同文。ウナギの血液には毒があり、子どもに持たせたくはない。

オノで木を三回斬るとドドーンと簡単に切り倒せ、さらにスコップで根をいともやすく掘り出せる。子どもがこれを真に受けたまま成長すると、吸血鬼相手に丸太を振り回すことがリアルでもできると思うのではないかと心配だ。

はたまた、バナナを砂浜に埋めると、「バナナの木」が生えてきて、数日後にはバナナがなるようになる。バナナはバショウ属の顕花植物で、植物学的には「草」である。葉が木の幹に似た偽茎を作るため、木に見えるだけなのである。
そしてバナナは植えても新しく生えてくることはない。バナナは単為結実なので生殖はできない。接ぎ木によって増やすのだ。バナナはすべて、クローンなのである。

まあゲームだから、と言ってしまえばそうなのだが、ゲーム内ので出来事をそのまま信じてしまう子がいたら、ちょっとアレかな、とは思う。


(うちの村のバナナ林。ちなみに村長は男の娘でございます)

エヴァが蛇に唆され食べてしまい、アダムにも勧めて食べさせた「善悪の知識の木の実」は、宗教画などでは通常リンゴとして描かれているが、聖書には特にどのような実であるかという描写はない。

そして、この「善悪の知識の木の実」がバナナであった、という説がある。

グーテンベルクの活字聖書が底本として使用した聖ヒエロニムスのラテン語聖書は、「悪」を表すのにラテン語の「malum」を使用した。同時に、古代ギリシャ語で果物を表す語も「malum」であり、リンゴと訳すことができる。
それでルネサンス初期の画家たちは、「善悪の知識の木の実」をリンゴとして描くことに躊躇がなかったのだという。

対して、コーランで描写される「エデンの園」の禁断の木は「talh」と呼ばれ、これは古代アラビア語で「楽園の木」、もっと直裁に「バナナの木」と訳されることもあるのだそうだ。そしてコーランの該当の木の描写は、バナナのそれと似ているという。

もちろん、このような議論に明確な決着がつけられるわけはないが、エヴァがアダムに差し出した実がリンゴではなくバナナだと思うと、ちょっとそのシーンにも面白味を感じるというものだ。
リンゴだと「ハイこれ」。バナナだと「ホレッ」という感じがする。

神様が「善悪の知識の木の実」を食べるのを禁じたのは、バナナがオヤツだからだろうか。
いやしかし、聖書の中に食事禁忌事項は少なくないが、オヤツを禁じるというような一文はどこにもないのである。

エヴァ「神様ー、バナナはオヤツに入りますかぁ?」
神様「いや、バナナは食事です。オヤツには入りませんよ」
アダム「神様ー、バナナは甘いのでおかずになりませんからオヤツだと思いまーす」
神様「ううーん、確かにそうだな」
エヴァ「神様ー、どっちなんですか? ハッキリさせてくださーい」
アダム「オーヤーツ! オーヤーツ!!」
エヴァ「ごーはーん! ごーはーん!!」
神様「ええいおまえらうるさい。じゃあもう善悪の知識の木の実は食べちゃダメ! 神様決定。以上!」

聖書には記されていないが、事件以前にこのような経緯があったのかもしれない。

バナナはありがたい食べ物である。甘くて食べやすく、体にも優しい。
わたしの持病のひとつは食事関係の禁忌があるのだが、インターネットで調べても「あれはダメ」「これはダメ」という統一見解がなされない中、唯一バナナだけは、どのサイトもOKを出しているのである。

実際、体調が悪いときは、バナナとチキンラーメンしか食べられないときがあった。

前述したとおり、バナナはすべてクローンである。なので伝染病には非常に弱いとのこと。実際、去年「新パナマ病」で今のバナナが絶滅し、食卓からバナナが消えるかもしれない、というニュースが世界を駆けめぐった。
人間の英知でこの危機を乗り越えられると信じてはいるが、今「バナナはオヤツか食事か?」などとふざけていられる我々は、幸せな世紀の人類なのかもしれない。

なお、今日の記事は、原書房刊、ローナ・ピアッティ=ファーネル著/大山晶訳の「バナナの歴史」を多分に参考にしている。良書への感謝とともに。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年01月30日

【日記】嫌い≠ェ共通する方がうまくいく?

さて、「【日記】銀婚式」では、結婚生活がうまくいくコツなどは挙げない、と書いたが、そのときの考察で「これはひょっとしてアリかも」と思った事実があるので、ひとくさり書いてみる。

新しく恋人同士になったカップル、新婚さんなどは、よくこう言う。
二人「わたしたち、とっても価値観が合うんです!」
彼女「わたしの好きなアーティストを彼も好きってわかって、もうこの人だなって」
彼「彼女が俺のバイク趣味を理解してくれて、一緒にツーリングまで行くようになったんですよ」
彼女「わたしたちって」
彼「俺たちって」
二人「価値観ピッタリ!」

ごちそうさま。まあ、よくあるといえばよくある話だ。
ところが、そんなカップルが、交際後、結婚後一年もしないで別れたりする。あれ、理由は?

二人「価値観が合わなかったんです」
「あれぇ? 君たち、最初は価値観ピッタリって言ってたじゃないですか? なんでいまさら?」
二人「それはねえ、やっぱり、つきあってみないとわからないところってあって……ゴニョゴニョ」

うん、わかりますよ。その語尾をごまかす感じ。わたしも細君と銀婚式を迎えた夫婦ですから。

最近は、結婚以前に「異性との交際経験がない」若い男女も多いと聞く。上のように「最初は価値観ピッタリだと思っていたのに、つきあってみるとうまくいかなくてお互い傷つくパターンが怖い」と思って尻込みしている人もいるのかもしれない。

そんな人たちに、ちょっと、最初は気づかないコツをお教えする。
価値観というものは、「好きなモノが同じ」だけではない。「嫌いなモノが同じ」という観点もあるのだ。

自己紹介から始めて、交際にいたるまでの期間、たいていの人間は自分を前向きでポジティブに見せたいので、まず「嫌いなモノ」は挙げない。
「あのアーティスト嫌いなんだー」と言ってしまい、もし相手がそれを好きだったら気まずくなってしまう。
「バイクってうるさいばっかりで好きになれない」と言ってしまい、もし相手がライダーだったら、もう先がない。
交際期間では、まず、共通する好きなモノをお互いがリストアップしていくから「わたしたちって、すごく価値観があうよね!」という錯覚に陥っていく。

ところが、前述の通り、価値観には「嫌いなモノ」という観点もあるのである。
そこのところを気づかない二人が、実際に新婚生活を始めてみると――

彼女「わたし、このタレント嫌いなんだけど、テレビ消してくんない?」
彼「イヤだよ俺この人好きだもん。それより、俺、キュウリ嫌いなんだけど食卓に出さないでくれる?」
彼女「それくらい食べなさいよ! 言わせて貰えばねぇ、わたし、トイレの便座を下げておかない人って耐えられないの」
彼「はぁ? じゃ俺も言うよ。俺ね、時間にルーズな奴は嫌いなの。そういうときは、まず連絡するのが当然だよね」
彼女「わたしだって忙しいのよ、わかってんでしょ?」
彼「俺は忙しいって言い訳する奴が一番嫌いなんだよ」
そして二人とも同じことを言い出す。
彼女「わたしたちって」
彼「俺たちって」
二人「価値観合わない!」

そう、ここで初めて、今までお互いが「共通する嫌いなモノ」のチェックを怠ってきたことに気づくのである。

これは、恋愛で結ばれたたいていのカップル、新婚さんがたどる道だと言ってもいい。
ここから先は、どれだけ話し合って「嫌いなモノ」を一致させられるか、あるいは我慢できるか、妥協できるか、などのバランスによって道が違ってくる。
「【日記】銀婚式」でも書いた「ハートではなくヘッド(知恵)を使う」時期が来たのである。

結局のところ、お互いの「好きなモノ」より「嫌いなモノ」の共通点が多ければ多いほど、そのカップル、新婚さんはうまくいくと言っていい。
どんなときでも「共通の敵」というものの存在は、お互いの絆を強くするものなのだ。皮肉なことだけれど。
もちろん「好きなモノ」が一致する項が多いにこしたことはないが、一緒に生活している相手が「自分が嫌いなモノを好き」というのは、かなり耐えられない状況なのである。

まあ、「嫌いなモノ」の洗い出しが終わって、お互いがヘッドを使ってうまくいくようになるまで、二、三年はかかると思っていた方がよい。
わたしはよく新婚さんに「最初の二、三年は、熱を出す期間だからねぇ」と言う。知恵熱だ。
この間にヘッドを使わず、どちらかが不満を溜める形で我慢を強いられることになると、結局いつかは破局ということになる。



何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!!


これは西公平著「ツギハギ漂流作家」3巻より引用。ここのストーリーは過去の回想で、村と村が猫派と犬派でいがみあっている中、お互いの村長の息子と娘が結婚。生まれたのが主人公の彼、吉備真備で、実は村同士を争わせて儲けている黒幕などもおり、いよいよクライマックスでの真備の台詞。
ネットではこのコマばかりがよく貼られているので、バックグラウンドを改めて記しておいた。

この台詞自体はけだし名言だし、言っていることは美しいのだが、こと結婚生活においては、正しいとは言えないのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年01月29日

【日記】その後のポメラDM100

「【日記】ダメなときはなにをやってもダメ」
「【日記】来た、また、初期不良!?」
「【日記】ポメラDM100の帰還」
「【日記】お前が俺には最後のポメラ」

と、心ならずもシリーズ化してきたキングジムのDM100だが、最終的に今、目の前にある機体はすこぶる調子がいい。
辞書が消えることも、初期表示がおかしくなることもない。ほぼ一ヶ月使い続けて、上記記事で書いたエラーはすべて皆無である。
しかも、代替機にはあったバッテリーの減りが速いという欠点もない。実に快適で、長い道程ではあったが、この機体を入手できたことを、キングジムのサービスと神様に感謝している。

二回、コイン電池の点滅という、DM100の「ありがちな症状」が起こったが、これもコイン電池を挿し直したら、その後、なんとか回避できているようだ。

ただいいことばかりではなく、このところ、FlashAirによるEvernote投稿がほとんど失敗するのが悩みのタネ。
まずEvernoteにログインできなかったり、ログインしても投稿が失敗したりの繰り返しである。ごくたまに成功できるときもあるから、設定のミスではない。Evernoteがク○なだけ。クールじゃないよ。

PCのブラウザからWebでEvernoteにログインして履歴を見ても、投稿失敗したときは、まず、DM100からのアクセス自体がないことになっている。
無料ユーザーだからデバイス制限があるが、もちろんそれも確認して削除済み。Webでしか使用していない。
有料ユーザーになれば、投稿失敗もなくなるのだろうか。しかし無料ユーザーでも投稿成功率数パーセントという現状では、金なんぞ払う気にはなれない。
Evernoteは先日も、ユーザーのデータを覗くぞ宣言をして炎上し、すぐに撤回するなど、実に○ソである。ゲソじゃないでゲソ。

DM100からの無線での文書コピーにこだわっているのは、USBでの有線接続や、SDカードの挿抜には、故障などで使えなくなるまでの回数制限があることを経験則的に知っているから。
意外なことに、USBはミニよりもマイクロの方が挿抜耐久性が高いのである。マイクロUSBのそれは10,000回だが、DM100に使われているのはミニB-USB。耐挿抜回数は5,000回だ。これは決して高い数字ではない。

SDカードは通常サイズだが、これは経験則的に、まず挿入側のリードオンリーチェックのところがイカれる。読み出しはできても書き込みができなくなるのである。わたしはこれで、カードリーダを二台ダメにされた。おそらく、ミニB-USB端子よりも挿抜の耐久性は低いと思われる。

結局のところ、USBによる接続も、SDカードによる文書移動も、続けていけばいつかは故障する宿命を持っている。ので、やはり無線で接続できればそれに越したことはないのである。

DM100は他にQRコードとBluetoothによる文書移動ができるが、QRコードはその煩雑さで断念。BluetoothはPC側のアダプタが相性悪く接続できないでいる。

FlashAirによるEvernote投稿も、12月の間は好調だったのだ。やはりこれはEvernote側が○○である。

さて、ここまでに「Evernoteは○○」という箇所が三回出てきました。○○にはなにが入るでゲソ?

結局今は、DM100のミニUSB-B端子から文書を移動しているが、どうにもEvernoteには腹が立つばかりだ。無料ユーザーだから湯気を立てるのはお門違いかもしれないが、無料でこのていたらくではお布施をしようという気にもならない。

この記事の投稿がEvernoteでうまくいったら、前言は撤回する。

……
……

はいやっぱりダメでしたー。


エラーなんかに負けたりしない(キリッ


ファイルの投稿に失敗しました(ビクンビクン

追記:上記の写真を撮るために、キリッ、ビクンビクンを繰り返していたら、一回、成功しやがった(笑) 成功率は体感で1〜2パーセントくらいである。
よくドラマやアニメで「成功率数パーセント」とかの作戦を成功させたりするが、その陰には累々と死体の山が築かれている別の世界線があることを思わずにいられない。
タグ:執筆機
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年01月28日

【日記】ほんたうのりあじふ

「【回想録】年賀状」でも書いたが、もうわたしは年賀状のやりとりを廃しているので、数えるほどしか届かなくなった。それについて寂しさもなにも感じてはいない。

一枚見るのも0.5秒程度で、あとは年賀ハガキのお年玉が当たれば細君におまかせということですべて預けてしまう。当然、返事などは出さない。

0.5秒の中でも、ああまだこんな風習をやっている人がいるのか、と、そのあまりの無防備さに呆れてしまう人がいる。
つまり、いわゆる「家族写真の年賀状」である。

これについては、独身の人に送るのは非礼、子どものできない夫婦に送るのは失礼、などとだいぶ議論がされた時期があったが、そういう意味ではもうどうでもいい。
そうではなく、この高度情報化時代に、自分と家族の顔を、ハガキというどこで誰が見るかわからないメディアで多人数に晒すという行為に、なんの危険性も感じていないということにびっくりしてしまうのである。

そして、そういった危険を冒してまで一家の幸せぶりを写真にし一方的に送りつけるこの感じが、なにかに似ているなと思ったら――あれだ、Facebookのリア充自慢と同じ腐臭がするのである。

一応、零細法人とはいえ商売をやっていて、人づきあいをしていてわかるのは、本当にリアルが充実しているような人は、FacebookだのInstagramだのに代表されるSNSを個人では使っていない。これは断言してもいい。
彼らは決して情報弱者ではない。むしろメディア機器を縦横に使いこなしている人も珍しくない。メディアの開発者側の人もいる。
そういった「本当のリア充」な人々が、なぜSNSを使わないかという理由はいくつかあるが、大きな理由として「危機管理」がある。
自分のスケジュールや行動記録を公開するということの危険性を、十分承知しているのである。ましてや家族まで危険に巻き込む可能性があるメディアを絶対に使わない。

ひとつの例として、こんなフィクションをあげる。
ある社長夫婦は子どもはすでに成人し、大きな屋敷に住んでおり、家事はハウスヘルパーさんにまかせている。一応、不用心なので大型犬を飼ってはいるが、警備のためというより愛犬だ。
そんな社長夫婦、年賀状に、「去年行った海外の名所でとった記念写真」を貼って出し、そこにFacebookのURLを書いておいた。

年賀状というのは、元日にけっこう不用心に家庭のポストに投函される。元日の午前中にはまだポストに残っている家庭も少なくない。
この社長が友人宛に出した年賀状が、そんな状態の家庭のポストからひょいと盗まれてしまった。
泥棒したのはちょっとした出来心の男。お年玉年賀ハガキが当たればいいというようなイタズラ気分であった。
その犯人が、社長の年賀ハガキに目を留め、なんの気なしにFacebookを見てみると、この年末年始は海外で過ごし、愛犬はペットホテルに預け「寂しいけど我慢してね」などと書いてある。
こりゃあいい――と泥棒は思った。なにしろ、この数日、この住所の邸宅には、誰もいない、犬もいないことが約束されているのである。

あとはご想像におまかせする。

「本当のリア充」はこういった危険性を十分に承知している。だからSNSで「リア充自慢」などという危ない橋はわたらない。
それ以前に、自慢をする必要がないのだ。だって、本当に生活が充実しているから。

「家族写真の年賀状」も、特定多数とは言え、一度、送ってしまったら、どこでどう悪用されるかわからないことを想像するべきだ。今や、なにかをスマホで撮ってネットに流すのに一分もかからない時代である。

今となってはもう古いが、写真の現像所の職員が、一家惨殺の犯人だったというサスペンスもあったぐらいである。フィルム(作中ではムービーフィルム)を現像する過程で、家の構造や家族構成などを予め承知することができたので、その猟奇犯は悠々と一家を血祭りにあげることができたのであった。

最後のくだり、脅かすようで心苦しいが、家族写真を年賀状に使うのは、危機管理的な意味で、これからは本当にやめた方がいい。
そんな危険性はそれほどないよ、と思われるかもしれないが、少なくともわたしは「この人は危機管理意識が薄い人だ。少なくとも、一緒の写真には写りたくないな。おつきあいも遠ざけていこう」と感じる。

今は、そういう時代なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年01月27日

【カットリク!】神ともにいまして

朝日新聞に掲載されている、鷲田清一先生のコラム「折々のことば」。毎回、楽しみに読んでいるコーナーだ。
それの2016/12/25の記事に気になることがあったので、一筆。



God be with you till we meet again
讃美歌405番
「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌。


賛美歌「神ともにいまして」は「54年版讃美歌」だと、確かに405番である。ただし、曲名は「神ともにいまして」ではなく、「送別 旅行」である。


(クリックで拡大できます)

しかし、「讃美歌21」だと、これが465番になるのである。曲名もちゃんと「神ともにいまして」となっている。


(クリックで拡大できます)

さらに、これが「カトリック聖歌集」だと――


(クリックで拡大できます)

660番になり、曲名も「かみともにいまして」になっている。

鷲田先生は「54年版讃美歌」をもとに番号を書かれたのだとわかるが、「賛美歌の番号がすべて共通だと思うのは間違いである」。ここで「54年版讃美歌405番」と書かずに「讃美歌405番」とだけ書くのは非常に読者の誤解を招く。

以前にも書いたことだが、重要なことなので同じことを繰り返し書く。モーツァルトのケッヘル番号や、バッハのBWVのように、賛美歌にも世界共通の番号がついている、と、日本人の多くは勘違いをしている。実際にはその教派が使う歌集によって、番号はまちまちなのだ。

カットリク!ポイント31――
カットリク!は聖歌と賛美歌は同じで、しかも番号は世界共通だと思っている。


また、「讃美歌」と「賛美歌」は違う。「讃美歌」は歌集の商品名、「賛美歌」は歌そのものを表す。「アイパッド」と「タブレット端末」の違いのようなものだ。よって、

『「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌。』

という一文は明らかに「賛美歌」の誤記である。朝日新聞校閲部地味にすごくないよ、なにやってんの!

カットリク!ポイント30――
カットリク!は「聖歌」と「賛美歌」と「讃美歌」の区別がついてない。


なお、内容は、なるほどなー、ためになるなー、と納得。

ところで、なんちゃって教会の結婚式でよく歌われる「いつくしみふかき(カトリック聖歌集なら657番)」も、実は半分葬式ソングだったりする。

この「讃美歌」と「賛美歌」の違い。賛美歌の番号が共通でないこと、さらに本物のキリスト教の結婚式では「永遠の愛は誓わない」ことは日本人の多くが知らないことなので、披露宴のヨタ話としてウンチク垂れたりすると、うるさい奴だと嫌われること間違いなしだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究