2017年02月28日

【日記】警告!!マイクロソフトのプロダクトキーが不正コピーされている恐れがあります。

最近、短いスパンで山ほど同じフィッシング詐欺メールが届いている。htmlメールである。このような文面。

セキュリティに関する警告!!
あなたのオフィスソフトの授権が間もなく終わってしまう可能性があります。
マイクロソフトセキュリティチームの調べによれば、あなたのオフィスソフトのプロダクトキーが何者かにコピーされている不審の動きがあります。
何者かがあなたのオフィスソフトのプロダクトキーを使って、他のソフトを起動しようとしています。こちらからはあなたの操作なのかどうか判定できないため、検証作業をするようお願いします。
検証作業が行われていない場合、あなたのオフィスソフトのプロダクトキーの授権状態がまもなく終わりますので、ご注意ください。

今すぐ認証

*ライセンス認証(マイクロソフトプロダクトアクティベーション)とは、不正なコピーを防止する技術で、手続きは簡単に実行できます。 また、この手続きは匿名で行われるので、お客様のプライベートな情報は保護されています。ご安心ください。


「今すぐ認証」のところにリンクが貼ってあり、明らかにマイクロソフトとは無関係なURLだ。特にこちらのメアドなどを埋め込んである文字列ではないので、フィッシング詐欺サイトとしてどれほどの出来だろうと、興味本位にそこへ飛んでみた。


(クリックで拡大できます)

なんかマイクロソフトっぽいサイトが現れ、真ん中にこんなダイアログ。

セキュリティ警告!!
お使いになっているオフィスソフトの授権が終了されてしまう可能性があります!!
日本マイクロソフトセキュリティチームはお使いのオフィスソフトのプロダクトキーが違法コピーをされた可能性があることを発見しています。攻撃者はお使いのオフィスソフトのプロダクトキーを利用して他のオフィスソフトを起動しようと試みています。
ご本人の操作なのかどうかが確定できないため、お手数ですが、直ちに検証作業をしてくださいますようお願いします。
検証作業をしていただけない場合、日本マイクロソフトはお使いのオフィスソフトのプロダクトキーの授権状態を終了させていただきますので、ご了承ください。


右下のOKを押すと――


(クリックで拡大できます)

あなたのOfficeプロダクトキー及び製品包装を他人に漏えいしないでください。
直ちに下記の手順で検証を行って、安全で信頼できるpinコードを設定することであなたのOfficeを保護してください。
検証をしていただけない場合は、あなたのプロダクトキーが間もなく取り消されることになります。
Officeに新しいプロダクトキーを改めて購入しなければなりませんので、ご注意ください。
□このページによる追加のダイアログを抑止する


へぇー、見るからに詐欺だけれど、素人をだます程度にはけっこううまくできている。再びOKを押すとダイアログが消えるので、「今すぐ認証」をクリックしてみる。


(クリックで拡大できます)

いかにもマイクロソフトのサインインっぽい画面が現れた。


(クリックで拡大できます)

しかしここからのツメが甘い。適当な文字列を打ち込むだけで次のページへ行けてしまうお粗末さ(もちろん、本物のマイクロソフトアカウントを打ち込んではいけない)。


(クリックで拡大できます)

きたきたクレカ番号クレクレ! ここで大減点だ。クレカ番号が、あり得ない数字で通ってしまう。
フィッシング詐欺サイトによっては、盗もうとするクレカ番号のチェックデジット計算などをして、クレカ番号としてあり得ない数字は弾いたりするので、詐欺サイトとしての出来は悪いと言える。
(なお、クレカ番号としてあり得る数字を決して打ち込んではいけない。万が一にでもヒットしたらいけないからである。他に名前と有効期限が合致しなければ問題はないわけだが、totoBIGの件のように、約25溝0316穣0000杼0000垓0000京0000兆0000億0000万0000分の1という天文学的な確率で当たらないと誰が言えようか。凄い時代が来たものだ)。


(クリックで拡大できます)

前のページを突破すると次ページへ。「Officeライセンスを修復中」とのことだ。


(クリックで拡大できます)

「修復が完了しました」とのことである。ヨカッタネ。


(岩明均「ヒストリエ」1巻より引用)

別に「フィッシング詐欺評論家」ではないが、わたしはフィッシング詐欺サイトを見たり、わざと釣られてやるのが好きである(悪趣味だな)。今回はクレカ番号があり得ない数字で通ってしまうという大減点があったので、詐欺サイトの出来としては10段階で3から4くらい。もうちょっとがんばりましょう。

それにしても、こういう日本語のフィッシングメールやサイトが普通に登場してくるようになったのというのは、インターネット黎明期から使ってきた身としては、なんとも、妙に感慨深いものがある。

というわけで、もし前掲のようなメールがきたら間違いなく詐欺なので、安心して無視してくださいな。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年02月27日

【日記】夫婦別姓

「【日記】西暦・和暦」を書いたら、なんとなく、こちらについても一筆なにか書いてみたくなった。おそらく、明治以降の日本の歴史に思いを馳せたからだと思う。

わたしはいわゆる「選択的夫婦別姓制度」に積極的に賛成しない。
それは、提唱されているその制度が、「合理的ではない」と感じるからだ。

現状の「夫婦同姓制度」は、まず、女性差別ではないことを確認しておく。これは、結婚時に夫と妻の姓どちらを選ぶかが選択できるからである。
「事実上、夫側の姓を名乗らなければならない」という主張は、単なる風習や感情論であり、婚姻の契約をするにあたって事前に行うべき二人の話し合いが足らなかった結果でしかない。
憲法24条では「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」となっている。
つまり、結婚した時点で、どちらの姓を名乗るかという合意もなされているはずなのである。
よって「事実上、夫側の姓を名乗らなければならない」ことを理由に「選択的夫婦別姓制度」を支持することは合理的ではない。事実ではないからである。

ついで「選択的夫婦別姓制度」の「選択的」が問題である。
現状の戸籍制度と「夫婦同姓制度」は明治以降にできた歴史の浅いものだが、それでも、「婚姻後は夫か妻のどちらかの姓を名乗る」というロジックによって統一されている。これのメリットは、家族という単位が治世システムからみて管理しやすいことである。
これが「選択的」となると、夫婦同姓か夫婦別姓かをその両性の恣意で選べることとなり、その時点で合理性が失われ、上記のメリットが消失する。

なお、上記のメリットをデメリットだと感じる者もいるのかもしれない。つまり、治世システムに管理されることを好ましいと思わない人々はいるだろう。しかしわたしは善良ないち市民として、現状の治世システムの維持には協力的でありたいと思っている。

であるからして、「選択的夫婦別姓」の導入には積極的に賛成はできない。むしろやるならば、もっと根本的に「基本的夫婦別姓」、つまり結婚しても全員、生まれ持った姓が変わらないというほうが合理的で良いのではないか。
これの問題は子どもの姓をどうするかだが、子どものうちはどちらかの姓を名乗らせ、成人した時点で自分の意志で決定するなどとしたほうがスッキリする。

「選択的夫婦別姓制度」に反対する論のひとつとして「家族の一体感が失われる」というものがあるが、実はこれは感情論ではない。上記のとおり治世システムからみれば、家族を姓によりいち単位として管理できるということは、至極合理的なことなのである。

なんにしても、現状の「夫婦同姓制度」は、治世システムからみればそこそこ合理的であり、100年以上これでうまくやってきたのであるから、ことさら変える必要はないというのがわたしのスタンスである。
100年安心とぶちあげた年金制度が7年で崩壊したことを思えば、100年以上動き続けている現状の「夫婦同姓制度」は驚異的な安定度である。

「動いているものはいじるな」というのは、プログラマの基本である。
なお、プログラマとしては、本当に治世システムが合理性を追求するなら、明治の時点で婚姻時に強制的に夫の姓(あるいは妻の姓)に変わる、と統一するほうがよかったとは思う。が、それは確かに男女不平等になるのでさすがに受け入れられない。

現状の「夫婦同姓制度」によって、不利益をこうむっている気の毒な人々がいることには同情する。これについては、治世システムによる管理以外の場所においては結婚前と同じ姓を使ってもよいというコンセンサスを社会に定着させることのほうが重要ではないだろうか。
「結婚したので姓が変わりましたが、職場では以前と同じ姓で呼んでください」という台詞も、現代では違和感がないと思う。
わたしと細君も、治世システムからみれば同じ姓だが、仕事の場では当然のように別々の姓でやっている。

以上、実はわたしは、感情論的に言えば「選択的夫婦別姓」を頭から否定しないところもあるのである。それによって幸せになれる人が一人でも多くなるのなら、合理性をひとつ捨てて、現状問題なく動いている法律を変えるのもよいかもしれない、と。

ただ、法というものは、やはり感情論で規定してはならない、とも考える。できうる限りの合理性がなければ、治世システムの根幹として機能しない。
わたしは法律の専門家などではないが、平成の世の日本に生きるいち市民のコモン・センスとしてそう感じている。
感じるということは、結局、最後は感情論なのだが、多くの人々の感情論の最大公約数――つまるところ、それが法律である――は、合理性によって担保されると考えるからである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年02月26日

【日記】腕時計のオーバーホール

昨年12月にオーバーホールに出したセイコーのクォーツ腕時計が、無事、もどってきた。
かかった費用は、「O/H」、「デンチ・防水テスト」、「パッキン交換」、「ケース洗浄」の四項目で、24,062円(税込)也。

この価格が高いのか安いのか、相場なのか、時計マニアではないわたしには良くわからない。しかしそれでも、セイコーがオーバーホールを引き受けてくれて、また、無事に動いたのは幸いであった。



この腕時計は1983年製である。34年前のものだ。読者の中には、この時計よりお若い方もいらっしゃることだろう。

わたしにとっては戴き物で、大切な記念品でもあった。裏蓋には記念の刻印がしてあり、それは、身分証明の品など持たず、この腕時計のみ身につけて、わたしが樹海入りして腐乱死体になったとしても、ネットで検索すれば特定できるくらいの情報である。
要するに、この世界で、唯一無二の品ということだ。

だというのに、実は、ここ10年ばかり、電池切れのまま放っておいた罰あたりなわたしなのであった。
正直、この時計の秒針は止まったままでいい、と思っていたところもある。
それが昨年の秋頃、気持ちが変わったこともあり、また動かしてみるかと、専門店で電池を入れてもらったのであった。

そのときにも「かなり古いものになりますので、動くかどうかわかりませんよ」と念を押され、「動いたとしても、不具合がでるかもしれません」と言われてはいた。
「その場合、直せますかね?」とお尋ねすると、なにか分厚い資料本を出して型番を調べ「一万五千円程度でオーバーホールできますね」とのこと。

それは良かった。SG館のパーティでいただいた懐中時計は電池切れのまま放っておいて、久しぶりに電池交換しても動かず、そのときはオーバーホールも受け付けてもらえなかったからだ。

セイコーのこの腕時計は、電池を入れたら、無事、秒針が動きだしたので、そのまましばらく使ってみることにしたのであった。

しばらくは誤差もなく順調に時を刻んでくれていたのだが、冬になり、寒い日に腕につけ、ふと目を落とすと、5分程度遅れていたり、秒針が止まっていたりすることがあるように。
クォーツとは言え、中の歯車の油が劣化して、寒さで固着したりするのだろう。

オーバーホールするかどうかは悩んだ。わたしにとっては記念の品だが、モノとしてはアンティークのただのクォーツ時計である。検索してみると、三千円くらいで同じ型番の中古品が出ている。そういう品に、福沢先生一枚以上を出してオーバーホールするというのもなあ、と。

が、細君が「しなさい! 今のあなたにはそれが必要!!」と言ってくれたので、先述の専門店経由でセイコーにお願いすることにした。これが去年の十二月の話。

時間がかかりますよ、と聞いていたし、あせるものでもないので、気長に待っていたら、電話が鳴った。
「オーバーホールのお見積もりですが、二万五千円くらいとなります」
おいおい、一万円値上がっているじゃない!? と、一瞬、迷ったが、それで行ってください、と、即答。直すと決めた以上、ここでストップしたらむしろ後悔する。

高級腕時計を趣味としている方からすれば、たかだかクォーツの時計というだけで鼻で笑われてしまうだろうし、オーバーホールが二万五千円でも「安すぎ」なのかもしれない。

しかし吝嗇家のわたしからすれば、戴き物の唯一無二の記念品でもなければ、たかが腕時計を、こんな出費をしてまで直そうとは思わなかったはずである。

まあ、それだけ、個人的に大事な腕時計だったということで。

電話で返事を返してからまた半月くらいして、直ったと連絡をいただき受け取りに。34年前のセイコークォーツは、前と同じように、一分を六十秒で動き続けるようになった。

わたしの手元にあるものを見回して、この腕時計以上に古く現役でも使えているものは、モンブランの万年筆ノブレスしかない。
可動部品があるということを考えると、この腕時計が一番古い精密機器といってもよさそうだ。
わたしの半生の中で、思い出深いモノはたくさんあったが、そういったものは、皆、壊れてしまった。
以前にも書いたが「銀河鉄道999」で「機械の体」をもらいにいく鉄郎のなんと滑稽なことか。機械などというものは、たいてい、四半世紀も保たないものばかりなのである。

クスリ漬けだが、わたしの身体と脳の方が、よっぽど保ちがいいというものだ。

そういえば、「【昭和の遺伝子】昭和の終わり」でも書いた、祖父の形見のクォーツ懐中時計も1986年製だから、今年で31年目を迎える。
こちらも問題なく動いているが、秒針がない分、内部機構がセイコーのこれよりシンプルなのかもしれない。

せっかく直って戻ってきたのだから、このセイコーを腕につけて出かければ良いのに、なんだかもったいなくなってしまって、普段使いの時計はまた違うものを身につけて出るようになってしまった(それはそれで、洗礼記念で購入した思い出モノではあるのだが)。

検索でいろいろ調べてみると、30年をすぎたクォーツの腕時計が動き続けていられるのは、かなり幸運なことのようだ。
次のオーバーホールは、セイコーがもう受け付けてくれないかもしれないな、と思うと寂しい。

せめてこの時計の針が動かなくなってしまうまで、自分の中で「この時計の秒針は止まっても自分は生きていける」という心の変化があればいいな、と思っている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年02月25日

【日記】信徒八景

日本人口の0.3パーセントしかいないカトリック信者だが、実際に教会へ通っているのはさらにその半分ではないかという意見もある。

そんな、日本では数少ないカトリック信徒たちだが、やはりそれぞれ個性がある。この記事ではそれをちょっと色眼鏡で分けてみたり。
名づけて「信徒八景」。冗談半分にお楽しみいただければ幸い。

1)埋没信徒

わたしの目指す理想の信徒像。
毎週、同じ席でごミサに与ってはいるが、目立たないために司祭や教会委員会から役務を頼まれることもない。朗読奉仕や掃除などは流されるままに引き受けたり参加したり。
コツコツと教会に通い、いつかポックリ帰天する(死ぬ)。葬儀ミサで「ああ、あの、目立たないけど毎週来ていた人か」と思われる程度でよし。

2)ファッション信徒

子どもの頃にカトリックのミッション系に通っていただけで、ちょっとカトリック信徒を気取っている人。洗礼は受けていないし、ミサに与ったのも数回だけ。もちろんご聖体をいただいたこともなく、卒業後、教会に通う気もさらさらない。
しかしネットなどで宗教の話がでると「自分はミッション系の学校に通ってたからわかるけど」などと書き込みたがる、そんなタイプ。正確には信徒≠ナすらないですな。

3)イベント信徒

普段の主日(日曜日)には顔を出さないが、クリスマスと復活祭くらいはミサに与るか、という信徒。教会にくるときは同窓会気分。お聖堂で知り合いを懸命に見つけて、静寂を破って「久しぶりねー」とお喋りを始めたりする。
とはいえ、病気などで身体が弱っている方なら仕方ない点もある。イベントディでお会いできてもうれしいですよ。今年も一年、お元気でお過ごしくださいませ。

4)熱心党の信徒

もちろん「熱心党のシモン」から。いや、もとの意味の過激派ってわけではないんですけどね。語呂が良かったから。
司祭のウケもよく教会委員などをつとめ、教会運営のために身を粉にして働く信徒。エライ!
もっとも教会によっては、この「熱心な委員」が固定されてしまい、旧態依然の運営になってしまうところもある模様。
教会運営に熱心にならざるをえないあまり、逆に祈りと恵みから遠ざかってしまうというきらいもあるという。
なんにせよ、いつもお疲れさま。感謝感謝でございます。

5)幽霊信徒

教会籍はあるものの、まったく通わなくなってしまった信徒。
まあ人それぞれ、事情があるのでしょう。
一時、こういう言い方はやめよう、という流れもあったが、やっぱり「幽霊信徒」が一番しっくりくるカンジ。
葬儀ミサだけは開かれるので、信徒一同「誰? このお方」と顔を見合わせることとなる。さすが幽霊。

6)有閑信徒

「有閑マダム」はもはや死語かもしれないが、まあ、そんな雰囲気で。とはいえ、決して否定的な意味ではない。
だいたい、教会の勉強会というのは無茶な時間にやっていることが多いのである。平日の午前中とか、夜でも十九時からとか、いまどきの勤め人が顔を出すのは無理な時間だ。
そういうところに出席できるのは、専業主婦の皆様か、年金で生活できる高齢者くらい。勉強会に出ているからといって、しょせんカトリック(ぉぃ)だから理屈っぽくはない。一番教会ライフをエンジョイしているタイプかも。

7)ギリギリ信徒

「えっ、それ、カトリックの教えとちゃうんじゃないの!?」ということを真顔で言っちゃう信徒。たとえば「異言」とかごにょごにょ……。
妙な方向に熱心なので、司祭を困らせたりする。カトリックというより、「特定の宣教者教」に陥っているのでは、というところもないではないではない。

8)一言信徒

「熱心党の信徒」のように教会運営には積極的に協力しないのだが、なにかあると「一言申しあげたいのですが」とやる信徒。こういう方は、以前「熱心党の信徒」だったりするケースも多いのだが、いかんせん時代についていけなくなって、それでも「埋没信徒」にはなりたくないという雰囲気をまとっているようないないようなまあ存在感だけはかもしだしていたりするようなしないような。

なんだか最後に行くにしたがって、語尾をごまかすことが多くなってしまったような気がするが、えっと「これはフィクションであり、現実のカトリック教会とは関係ありません」と書いておこう。

「これはフィクションであり、現実のカトリック教会とは関係ありません」

マジですから(どっちにだよ!?)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年02月24日

【回想録】DESIREの思い出

「ニュートン」を出している「ニュートンプレス」社の民事再生法適用申し立てのニュースに続いて、「姫屋ソフト」倒産のニュースも伝わってきた。世知辛い世の中である。

「姫屋ソフト」は最近のものは全然知らないが、同社の「シーズウェア」ブランドから発売された「DESIRE」の、それもPC-9801版を楽しんだものだった。1994年のことである。PC-9801 NS/Eに音源をつけて、一応ゲーム自体はHDDインストールだったはず。もちろんOSはMS-DOSである。

長いことマイコン、パソコンをいじっていれば、当然、アダルトPCゲームに触れる機会も少なくない。1990年代はアダルトPCゲームにも勢いがあり、また、アダルトの面を差し引いたとしても名作であるゲームが多かった。
「DESIRE」もそんなゲームのうちのひとつ。ああ、けっこう楽しみながらいろいろなゲームをプレイしていたなあ、と懐かしく思い、こうして筆を執ることにした。とりあえずシリーズものとして「その1」としたが、特に各ゲームが発売された時系列を追って書くことはしない。

というわけで、「シーズウェア」のDESIREである。後にこのゲームはリメイクされてCD-ROM版になり、グラフィックも格段に良くなったが、わたしが好きだったのは最初のPC-9801版だ。
アドベンチャーゲームで、一本のストーリーを、違う三者の視点から追っていく。というわけで、最初はストーリーの全貌はつかめないのだが、三者の視点を通してゲームを終わらせると、なかなか胸にジンとくるラブストーリーになっている。

舞台となっているのは、ある財団が無人島ひとつを買い取って構築した研究施設「DESIRE」。最初の視点は、そこに特別に取材を許された記者主人公アルバートのもので進められる。
島には彼の恋人マコトも研究員として勤めており、取材が進むにつれて、そのマコトと、男の同僚の様子に不穏な雰囲気が漂ってくる。これは研究施設「DESIRE」に事故でもあったのか!? それを隠そうとしている? というような感じだ。そしていろいろあって、アルバートパートは終わる(細かいところは覚えていない)。

そして次は、アルバートの恋人、マコトの視点からのパートになる。ここで、「DESIRE」に起きたなんらかの事故が明らかになるのかと思いきや、実はマコトは、同僚と浮気ばっかりしているのであった。ズッテーン。
マコトと同僚の間の不穏な雰囲気は、決して「DESIRE」の事故隠しなどではなく、ただ単にNTR隠しだったというオチに、プレイしながら苦笑してしまった。
まあそこは、「アダルト」PCゲームのしばりがあるから仕方がない。

そして最後に、あるキャラクターの視点からストーリーが補完され、この研究施設「DESIRE」が、ある目的から、それもアルバートへの愛から建てられた施設であり(彼の取材も予測のうちだった)、胸を打つラブストーリーとなって幕を閉じる。

当時、インターネットはまだ一般的ではなく、パソコン通信が主な感想、批評空間だった。このゲームは通称「でしれ」として人気があったと記憶している。

CD-ROMに移植された「完全版」も遊んだはず。そちらはたしか美麗なオープニングアニメーションあり、音声もありで、クオリティは上がっていたはずだが、なんとなくPC-98版の方がわたしは好きで、最後まで遊ばずじまいだった。

当時のアダルトPCゲーム界には、勢いと夢があった。情報雑誌も何冊も出て、毎月、何本かのゲームが発売されていた。
それが今のようにほぼ廃れてしまうとは、誰が想像しえただろう。
「同級生」シリーズで一世を風靡したエルフも青息吐息のようであるし、他の老舗メーカーも元気な感じがない。唯一、アリスソフトに頼もしい存在感があるくらい?

なおこのシリーズは、特に過去の資料やWikipediaなどを確かめず、わたしの記憶に頼って書いていくことにする。なので、「実は全然違うよ」ということもあるかもしれない。わたし個人の回想録ということで勘弁されたし。

追記:最初はアダルトPCゲームについて語るシリーズにしようと思っていたが、アダルトゲームやPCゲームというくくりを作ってしまう必要もないことに気づいたので、このシリーズは「ゲーム」のタグをつけて、ゲーム全般(コンピュータゲームに限らず)の思い出について書いていくことにする。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録