2017年03月31日

【日記】迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ。

タイトルのような言葉が、名言としてネットに定着しているらしい。検索してみると、「至極名言」、「感心する一言」、「グッとくる」、「記憶に留めておきたい言葉」、「鉄則にしたい」、「最上級の教え」とベタ褒めばかりである。

うーん、わたしはひねくれ者なのだろうか。一読して「こんな戯れ言に騙されるかよ」と思ってしまったのだ。ググってみて、こんなに支持されている言葉ということにびっくりだ。

これは、自分の「買いたい」という欲望を正当化し、無駄遣いを後悔させないためだけの文言だと思う。

わたしは至極シンプルな思考をよしとしているので、「使うなら買え、使わないなら買うな」である。
もちろんその際に、価格は検討材料のひとつとなる。迷う価格帯ならば、本当に使うかどうかを再検討。その結果、買わずに済んで良かったという経験を何度もしている(しばらくしたら格段に安くなっていた。とても故障しやすい製品だった。製品寿命が短かった、すでにあるモノを組み合わせたら必要なかった等々)。
だから、「迷う理由が値段なら買え」というのが嘘だということは十二分に承知している。

多くの人は、買ってしまったモノに対し「自分の選択を正当化したい」という心理ベクトルが働くので、「買って失敗したなあ」とは思わない。高い金を出して購入した自分の行動を正当化し、「値段で迷ったけど買って良かった」と結論づけて、タイトルの文言が再強化されるのである。

現代の資本主義社会で、コストパフォーマンスを考慮に入れず「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ」というのは、売り手側の論理に踊らされているのではないだろうか。これを至言と思う方は、後者の「買う理由が値段ならやめとけ」のモノの値段が高くなったら買うのだろうか?
「だったら買わないよ」という声が聞こえそうだが、ブブー。実際、販売の現場では、同じモノを気前よく安売りするよりも、渋い高値をつけていた方が売れる、という莫迦莫迦しい現象があるのである。これはわたしも体験している。高いからこそ価値ある商品だ、と思う層がいるからである。そう、「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ」を至言と思う人々である。

「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ。」というのは、とてもではないが、賢い消費者の行動とは思えない。わたしの「使うなら買え。使わないなら買うな」の方がよっぽど正しいはずだ。吾唯足知である。
「迷う理由が値段なら買え」で買ってしまい、結局使わずに部屋の肥やしになっているモノが多い現代人は多いのではないか? いや、肥やしというのは褒め言葉過ぎる。今の時代、モノが多いのはゴミ屋敷である。

ちょっと改変して、この非婚時代にふさわしく、こんな文言にしてみる。
男性に対しては「迷う理由が相手の年齢なら結婚しろ。結婚する理由が相手の年齢ならやめとけ」
女性に対しては、「迷う理由が相手の年収なら結婚しろ。結婚する理由が相手の年収ならやめとけ」
どうだろう。これも至言になるだろうか?

わたしの考えだと、これもやはり違う。「愛してるなら結婚しろ、愛してないなら結婚するな」である。理想論? いや違う。長持ちする結婚の本質は、やはり「愛しているか否か」だからである。

「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ」も、上記結婚のたとえと同じである。モノを買うという意味の本質を見誤っていると思う。

とはいえ、そういう購入意欲のある方を「間違ってるよ」という気にはならない。ここまで書いたことは、わたしの個人的な考えであることを明記しておく。わたしはきっと、世捨て人のひねくれ者だから、こんな風に考えてしまうのだろう。

なんにしろ、そうやって無理にでもお金を使ってもらわないと、世の中、回らないものだから、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月30日

【日記】ローカは走らずゆっくりと

そして角でパンをくわえた美少女とぶつかって恋が芽生える……


(武田すん「世界の果てで愛ましょう」3巻より引用)

なんてことはない。ローカはローカでも老化の話である。

以前、白髪の話をしかけて「この話はまた今度」と書いたが、今回はその手の話題。
若い人にはまだまだわからない先の話になるが、白髪に代表されるような老化の印というのは、徐々に増えていくのではない。ある日気づくと、突然、増えているのである。

毎日洗顔で見ているはずの、鏡の中の自分の顔に、ハッと白髪が増えていることに気づく。うわぁ、びっくりだ。
前にも書いたが、老眼もそうである。だんだんと近いところが見えなくなってくるのではない。ある日突然、「あれっ、暗いところが見えない」「近いところが見えない」と焦るのである。

その中でも、まだ徐々にやってくると言えるのは歯だ。これはまあ、兆しがある。しかしたいていの人間は兆しの間は放っておくから、やはり痛みがいきなりやってくることになる。これは早いうちに歯医者に行かない本人が悪いのだが。

そんなこんなで、老化は走らずゆっくりとやってくるが、いきなり角を曲がるのである。が、そこにパンをくわえた美少女はいないので、自分一人でコケて痛い目を見る、と。


(古味直志「ニセコイ」12巻より引用)

だいたい「初老」の定義からして「40歳」なのである。今は60歳くらいから「初老」を意識するという話もないではないが、現代でも40歳を「初老」と呼ぶのは決して間違ってはいないと思う。その頃から、いろいろ「角を曲がる」ことが多くなってくるからである。
「まさか、自分はまだまだ若いよ」と思っている40台の方は多いかもしれない。しかし、前述のように、ローカはゆっくりとはこない。いきなり角を曲がるのである。あなたも一歩先は角かもしれないのである。

だいたい誰しも40台になると、体重のコントロールができなくなり、たいていの人間は下腹に脂肪がついて恰幅がよくなってくる。「脂っこいものが苦手」になってきているはずなのに、体重だけは落ちない。「食べても食べても太らない体質」とうそぶいていたのに、それもかなわなくなってくる。

あとは、髪か。髪が薄くなってくる。これは角を曲がるかどうかは知らない。徐々になっていくものなのかなぁ? 自分は頭頂部はフサフサだからわからない。ごめんね。でも後退はしていると思う。

個人的には、夜更かしが効かなくなった。30台の頃は、空が白々と明けてくる頃までテレビゲームに熱中してから寝て、翌日起きても一日活動できたのだが、最近はそんな無茶はとうていできない。
就寝前に飲む薬があるからかもしれないが、12時前にはそれを飲んで横にならないと、翌日がもう駄目である。午前中から夕方まで、体がだるくてなにもできない。

だいたい読書などというものは、夜、寝る前に行うものだから、自然、活字を読む時間も減っていく。読みたい本はたくさんあるのに、先生から「睡眠時間だけはたっぷりとること」と厳命されているので、体を労って加減しなければならないのが残念だ。

とまあ嘆いてきたが、実は内心、ローカもそれほど悪くはないと思っている自分もいる。人生の回廊には、角を曲がらねばわからない真実というものが確かにあるからである。

角を曲がった先に、パンをくわえた美少女はいないかもしれないが(しつこいな)、まだまだ新しい発見や、廊下の先が中庭に続いていて、すてきな景色で一休みできるかもしれない。


(今井ユウ「イモリ201」1巻より引用)

それに角を曲がるたびに、一歩一歩確実に、本当に会いたい人に近づいている。そういう希望を、信仰を持つものなら誰しも、必ず持っているものだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月29日

【映画評】「パッセンジャー」と「ひるね姫」

三月に入ってから外出時のタイミングがよく、劇場で映画を良く観ることができて嬉しい。春も近いということで「春眠暁を覚えず」。その中でもsleepをテーマにした映画二作の感想を。
前にも書いたが、もうずいぶんパンフを買わなくなったわたしが、それを購入した程度には、二作とも良かったのである。

何度も書いているが、わたしはネタバレを考慮しない書き手であるので、本二作をこれから楽しもう、という方は、ヨタ話のうちに別ページへ去ってくだされば幸い。特に「パッセンジャー」はトレーラー等でも隠している最大のネタバレがあり、わたしもそれに触れず書きたいと思っているが、うーん、それを書かないと感想が実にモニョるものになってしまうのですな。笑ったのは、パンフの解説にも「後から読んで!」と注意書きがしてあったことである。



※ストーリーの重要な部分に触れているため、映画ご鑑賞後にお読みになることをお薦めします。


ヨタ話――わたしは基本的に、加点法の人でいたいと思っている。なので、映画にしろなんにしろ、「100点満点中で80点」のような書き方はしたくない。それに、100点満点だからといって気に入るかと言えばそういうわけでもないのである。全教科100点満点の生徒が、だからと言って赤点ばかりの生徒より面白い人物かと言えば、そんなことはなかろうもん。
最近で言えば「ラ・ラ・ランド」は100点満点だったと思う。でも、わたしの中ではパンフを買うまでにはお気に入りにはならなかった。一緒に観た細君には「完成された詰め将棋の棋譜を見せられた感じ」という感想を伝えた。でもサントラは買っちゃった。

吝嗇家のわたしだが、若い頃、一本だけ、あまりにつまらないので途中で劇場を出てしまった邦画がある。しかしその作品を「とても気に入っている」という方がいることを知り、「素晴らしい」と思った。自分がつまらないと思った作品を、面白いと言ってくれる人がいるこの多様性こそ、世界が神に祝福されている証ではあるまいか。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記 1:31)」である。

あと、わたしは元来記憶力が悪いので、監督や俳優で観る映画を選ばない。その監督や俳優が、過去になにを作ったか、演じたかなどを覚えていないということ。映画を観るときは、いつも最初のひとコマから先入観なしの真っ白である。そういう意味では、全然映画ファンではないのだと思う。

てなところでヨタ話は終わり。

●「パッセンジャー」



「パッセンジャー」というと、アン・ハサウェイの「パッセンジャーズ」を思い出す映画ファンの方が多いようだが、わたしはウェズリー・スナイブスの「パッセンジャー57」の方を先に思い出してしまう。あれはけっこう面白かった。いや、本作とはまったく関係ないのだが。

乗客5000名、乗組員258名を乗せた宇宙移民船アヴァロン号。目的の移民星への到着予定は120年後。なもので、航行はコンピュータによるオートクルーズで、全員がコールドスリープで旅をしている。ところが30年の時点で、一人の乗客男性ジム≠ェコンピュータによってコールドスリープから目覚めさせられてしまった。それはすなわち、この船内で、一人、死ぬまで過ごすことに他ならない――。


というSF設定の物語。だが内容ははっきり言って、あとから目覚めてくる女性オーロラ≠ニジムのラブ・ストーリーである。

SF的設定としては穴だらけツッコミ放題である。いくらなんでも、乗組員全員が目的地近くまでコールドスリープでスヤスヤおねんねというのは、ちょっと考えられない。エマジェンシーチーム数名はいざというときのために起きていて、数十年おきにコールドスリープで交代するくらいの安全性があってもいいのではないか。映画という娯楽を得た地球人のミームには、コールドスリープ状態だと眠ったままコンピュータに殺されるという恐怖が刻み込まれているはずである(笑)。

とまあ、設定に文句をいっても仕方がないのだが、実際、船に異常が起きはじめているのに乗組員を起こさない航行コンピュータのアルゴリズム設計者はどうかと思う。ちなみにコンピュータに名前はない。HALでもSALでも、もちろんIBMでもない。

アヴァロン自体は豪華客船で、バーやプール、劇場、ゲームセンターなどもある。食糧も生き延びるには十分な量がある。そこに一人起こされたジムの生活をどう思うかで、その人の人となりがわかるかもしれない。
細君に聞いてみると「もし自分だったら、読書して過ごすからいいかも」とのこと。わたしだったら――

……熟考10分。やはりネタバレは書かない。それをどう思うかが、この物語最大の面白さであると思うからである。

ジムと、後から起きてきたオーロラは恋に落ち、やがて、船がこのままでは保たないことに気づき、決死の覚悟で修復にあたる。ヒロインの名が「オーロラ」なのは「眠れる森の美女」からだろう。ラスト、臨死状態のジムを彼女がキスで起こすのも洒落ていて良い。

ネット評だと「恋人同士で観ると、観劇後の感想の違いによっては不仲になるかも」と言われているが、わたしは是非とも、恋人同士、夫婦同士で観ることをお勧めしたい。なにしろこれは、SF映画ではなくラブ・ストーリーなのだから。
むしろ観たあとの感想戦が楽しい映画である。ちなみに細君は「先に起きていたらあなたを叩き起こす」とのたまった。え!?(これはノロケである。念のため)

豪華宇宙船アヴァロン号のフォルムが実に美しい。遠心力で疑似重力を作る宇宙船のデザインとしては、これまでにない美麗さではないだろうか。
パンフレットには、ラストの船内の様子をアップで載せてほしかったなあ、というのが残念ポイント。二人がその後、充実した人生を送ったことがわかる、良いシーンだったから。

●「ひるね姫」



一言で言って「楽しい映画」であった。
どうもネットでは酷評が多いようなので、生来、天の邪鬼なわたしは、それならどれほどのものかと観に行ったら、これがなかなか「楽しい映画」である。「面白い」でも「興味深い」でもない。「楽しい」映画である。

この「楽しい映画」というのは、けっこう難しいものなのである。
たとえば、ディズニーランドは「楽しいテーマパーク」であって「面白いテーマパーク」ではないでしょう? あれは「今を楽しむ」場所であって、あとで家に帰って「面白さを反芻する」ことを目的とする人はそういない。
そういう意味で、本作「ひるね姫」に寓話的な意味や、シンボリカルな深い考察を求めるのは無意味なことなのだと思う。大きなスクリーンを前にして、今起こっていることをハラハラドキドキしながら観る映画である。

なにしろ、ストーリー自体はつまらないものなのだ。ちょっとまとめてみようか。

来たる2020年東京オリンピックでは、セレモニーでクルマの自動運転をアピールするというイベントが予定されている。ある大手自動車会社が開発にあたっているが、開催日までに完成しそうにない。
その会社は以前、社長令嬢が自動運転の開発を進めようとしていたのだが、社長はそれに反対し、令嬢は会社を去っていったという経緯がある。
時は経ち、令嬢は社長のあずかり知らぬところで結婚後、他界してしまったが、自動運転の完成の鍵となるのは、その令嬢が残したプログラムのソースコードにあることがわかる。
それは令嬢の夫が持っているタブレット端末の中に残されており、そのタブレットを巡って、今は会長となった社長が知らぬ間に、会社の悪役と本作のヒロイン、令嬢と夫の娘ココネ≠フ丁々発止の追っかけ合いが始まる――。


いかがなもんでしょう?
なんだか、観る前から「ああ、ありそうだな」という雰囲気バリバリのストーリーである。そんな昔のプログラムソースに価値があるのかよ、とか、ツッコミどころも満載だ。
これ、このままアニメか実写にでもしたら、つまらない「プロジェクトX」で終わってしまいそうである。

ところが、このストーリーへの肉付けがうまい。ココネが眠って見るファンタジックな夢が、上記のありがちなストーリーを異世界でなぞっている、という設定。
夢パートのストーリーは、こちらはこちらで定番の科学技術vs魔法という物語ではあるのだが、ココネが夢と現実を行ったりきたりしているうちに、やがて現実とファンタジーとが融合し、違和感のないままストーリーは収斂。祖父、娘婿、孫娘が、亡き母の夢によってつながるという、ストーリーテリングの正着手エンディングで終わる。

そして振り返ってみると、現実パートと夢パートの連携に破綻がないことに気づく。夢パートでは「ぼくらの」かよと言いたくなるような巨神兵vs巨大ロボット戦が繰り広げられているというのに、である。

もちろん、夢パートの「魔法」が現実パートのソフトウェアであったり、最後に悪役役員が発する「呪いの術」が「SNSでの悪評拡散」であったりと、シンボリカルな制作者側の悪戯は仕掛けてあるのだが、本来、本作はそういったことを深く考察するような物語ではないのだ。最初に書いたとおり「今、スクリーンの前で起こっていることを楽しむ」映画である。

「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」というのは、アーサー・C・クラークの言葉だが、むしろこの物語のベースにあるのは「十分に発達した魔法こそが科学である」のだと読んだ方がわかりやすい。映画冒頭部が現実パートからではなく、ココネの夢から始まることも、それを示唆しているのではないか。物語の端緒を切るのは魔法の話。そして魔法イコール人間の(かなえたい)夢でもある。
ココネの観ている夢は、母の夢――自動運転の完成――でもある。それが現実となってかなえられるという、夢物語なのだ。

エンディング曲の、タイマーズが歌った日本詞の「デイ・ドリーム・ビリーバー」がお気に入りの一曲なので、観る前から「内容によってはそこで泣くかも」と思っていたが、泣かなかった。爽やかなエンドロールであった。

いやしかし、劇中一カ所で、ウルッときた。やられた、と思った。
ココネが夢で見ているファンタジーパートは、父が彼女の小さい頃から聞かせていた物語だったと途中で判明するのだが、そのヒロイン「エンシェン」がココネではなく、本当は彼女の母(社長令嬢)だったとわかる、いちシーンである。

劇中では、現実パート、夢パートにおいても、ココネの母が他界した経緯は明らかにされていない。しかし推測すれば、おそらく、自動運転の実験中の事故で亡くなったのだろうな、とわかる。
そして彼女が最期に夫に伝えたであろう言葉、そのあたりを一瞬にして、理解よりも早く納得させてしまう映像で語ったこのいちシーンに出会えただけで、本作品を観られて良かったと思う。

本作の「デイ・ドリーム・ビリーバー」はいいなぁ。これもアルバムを買ってしまった。今も聞きながらこれを書いている。
やばい、今になって歌詞でウルッとしそうだ。

というわけで、「起こされた話」と「眠る話」の二題でいち記事書いてみた。
これから先は、ハリウッド版「攻殻機動隊」が楽しみである。パンフを買うくらい気に入ったらなにか記事を書く、と宣言してみたり(つまりスルーされたらアレということである。そう囁くのよ、わたしのゴーストが)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年03月28日

【回想録】ピッピトナル

中島みゆきさんのアルバム「親愛なる者へ」の中に「ダイヤル117」という歌がある。同アルバムは大好きで、高校時代から今まで、おそらく数百回聞いてきたと思うが、この曲は正直、それほど好みではない。
歳をとればわかるようになるかとも思っていたが、これはやはり女の情念の曲なのであろうか。今改めて聴き直してみても、なんとも寂しい曲だなぁ、と、心が沈んでしまう。



中島みゆきさんは大好きなシンガーソングライターなので、これはそのうち、別に記事にするとして――。

今の若い人には、この「ダイヤル117」がなんだかわからない、という方もいらっしゃるのではないだろうか。
これはまだ携帯がなかった頃、イエデン全盛期に、「時報」を聞くための番号だったである。ただひたすら24時間、「午後○時○分ちょうどをお知らせします。ピッピッピッポーン」と流し続けているNTT(含電電公社時代)のサービスだったのだ。そして、今でもやっている(電話の3桁番号サービス)。

言うまでもないが、昔は電波時計などというものはなく、Network Time Protocolもなかった。ユーザが自分で設定しなくても携帯基地局が端末に正確な時間を自動的にセットしてくれるようになったのは、ここ十年くらいのことである。

そんな時代、人は時計を合わせるのにテレビやラジオの時報を使うしかなかったわけだが、毎正時まで待てないときは、10円払って117に電話をかけ、時計合わせをしていたのである。

中島みゆきさんの「ダイヤル177」は、夜に、人恋しさのあまり、この時報をずっと聞き続ける、という女の歌なのであった。背景がわかると寂しいでしょう?

同じようなNTTのサービスには「天気予報」もある。こちらは番号177。
117と177、ちょっと混同しそうだが、電話マニアはこう覚えていた。

117は「ピッピと鳴る」で時報。
177は「天気になれなれ」で天気予報。


これであなたも今日から、時報と天気予報を間違えずに聞き放題だ。
いやこれ、ちゃんと普通に電話料金かかりますから。放題じゃない。注意注意。

イエデンにはトーン回線とパルス回線という種別がある。電話をかけるときにピポパと鳴らすのがトーン回線。ジジジジジと鳴らすのがパルス回線だ。昔はトーン回線だと毎月料金をとられたが、今はトーンとパルス、同じ基本料金のはずである。ただし、パルスからトーンに変更するときは工事料が取られる。

もっとも、今どきパルス回線を使っているのは、昔から同じ番号を使い続けている家庭くらいしかないかもしれない。

このパルス回線は、111で電話局につながった。なぜ111なのか、おわかりいただけるだろうか? これは、電柱に登って工事しているNTTの人が、回線をパパパと三連続で接触させて局とつなげ、回線試験をするためだったのである。

パルス回線のジジジジは、実は受話器フックの回数である。ダイヤルを回さずとも、フックをタイミングよくタ、タ、タタタタタタタ、とやれば117につながる。
まだ黒電話の頃。ハタキで電話のホコリを取っていたら、受話器がタイミング良く揺れて111を打ってしまったらしく、折り返し電話局から電話がきてびっくりしたことがあった。

「電話局です。なにかありましたか?」
「いえ、電話機を掃除していたら、そちらからかかってきて――」
「わかりました(ガチャ)」

びっくりしたが、電電公社時代の対応なんて、こんなものだった(笑)。

深夜に人寂しくて117にかけたことはないが、執筆のひと休みに「伝言ダイヤル」のオープンボックス≠聞いたりして、ホッと一息したことを思い出す。「伝言ダイヤル」がまだ出会い系の走り≠ニなる前の、平和な時代の話である。

自分史の中では、電話が一番(技術的に)面白かった頃だ。
今の光回線を使ったIP電話は、PCから着呼履歴は出せるし番号も数本持てて便利だが、当時のように「この回線がダイレクトに相手につながっている!」というようなワクワクする興味はわいてこない。

CDの登場によってオーディオ趣味をやめた話は以前書いたが、電話網への興味もデジタル化によって関心が失せたようである。
アナログ時代を懐かしむ気持ちは残っているが、かといって、いまさら後戻りをしたいとも思わない。
そのあたりもオーディオと同じくドライではある。

と、ここで抜き打ちクーイズ!

Q:天気予報は何番だ?
Q:時報は何番だ?


ふっふっふー。復習は大事。
あなたの短期記憶が長期記憶となって、あなたの脳の記憶容量が数バイト、無駄知識で埋まりますように。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年03月27日

【日記】敬称・その2

以前にも「敬称」関係の記事は書いている(「【日記】敬称」)が、また別に思うところがあったので。

「【書評】無宗教こそ日本人の宗教である」をお読みくださった読者の中には、わたしが敬称をまちまちに使っているな? と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
「島田裕巳先生」、「ひろさちや先生」、「山本七平氏」と、確かにバラバラだ。

しかし実は、これらにはわたしなりの統一性があるのである。

1)ご存命の著作者は「先生」。
2)すでに他界なさっているが、自分が生きている期間と重なっていることがある著作者は「氏」。
3)自分が生まれる前に他界なさった著作者は、基本、呼び捨て。ダヴィンチをダヴィンチ氏と書かないのと同じ理由。例外として、敬愛している物故者には「先生」をつける場合がある(例:漱石先生)。
4)すでに他界なさっていても、生前、自分がお会いしたことがある方は「先生」。

基本、こんな感じである。基本であるから応用的に、その時の気分で違う敬称を用いることもあるかもしれないが。

カトリック教会では、身内で司祭を呼ぶ場合は「ナニナニ神父様」だが、対外的な敬称は「ナニナニ師」となる。日本人の場合は違和感ないのだが、外国人神父の場合、妙な違和感を覚えることもある。これは架空の例だが「グワ神父様」の場合「グワ師」となってしまうので、まことちゃんみたいである。
「グワシ」がわからない世代も多いかとは思うが。

「師」で思い出したが、その昔、ロシア語を勉強しているとき、女性の先生を辞書で引いたそのままで呼ぶと「女教師!」と呼びかけることになってしまい、ロシア人は困惑する、という話を聞いた。こちらは、なんだかアダルト物メディアのタイトルみたいである。

わたしが細君を呼ぶときにつける敬称も、人生の折々で変わっている。というか、変えている。

最初は、歳の差もあったし、自然に下の名前に「ちゃん」づけであった。これは長く続き、交際期間はもちろん、結婚してからも十年以上は「ちゃん」づけで呼び続けていた。

ある年の一月一日、「今日からは呼び捨てでいく」と宣言して、実際それから呼び捨てで数年通した。
これは細君を決して下に見て呼び捨てにしたのではなく、むしろその逆で、細君の人生にも自分が責任を持つ、という覚悟の表れで、呼び捨てで行く、と決意したのである。
二人でカトリックの洗礼を受けたあと、たまにお願いごとをするため洗礼名で呼んだりするときは、洗礼名に「さん」づけ。そちらは聖人なので、カトの身内内では呼び捨てにはできない。

そのうち病気をして、自分が弱気になったのと、「自分の人生すらどうなるかわからないのに、細君のそれに責任を負おうなどとはむしろおこがましいことなのではないか。細君には細君の尊重すべき人生があるのだ」と思うようになって、徐々に名前に「さん」づけが多くなったきた。
今はもう名前に「さん」づけが普通である。

どれが正解というわけではなく、二人の人生史の中で、今は「さん」づけがぴったりくる時期なのだろう。

なお、細君がわたしを呼ぶときは、太古の昔は「結城先生」。交際するようになってからは「恭介さん」。以後、それがずっと続いている。
一時期「先生と呼んで」、「社長と呼んで」、「お兄ちゃんと呼んで」とお願いしたこともあったのだが、ことごとく反故にされた。

歌舞伎の「与話情浮名横櫛」には、有名な台詞がある。
「え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富。久しぶりだなァ」
見事に敬称だけで、二人の関係性、過去の因縁をぐいぐいと深く表現していく、素晴らしいいちシーンだ。
単純に考えると、この順番で馴れ馴れしくなっていくわけだが、男女、夫婦の機微というものは、まあ、現実ではそう簡単ではないのだな。

「さん」づけでも「ちゃん」づけでも、呼び捨てでも、わたしの細君への愛はいつも変わらない。これがいつか――今は考えられないが――「おまえ」呼びになったとしても、変わらないのではないかな、と、そう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記