2017年03月16日

【日記】はんぶんこ

兄弟にひとつのケーキを「はんぶんこ」させる、有名な妙案をご存知な方は多いだろう。

1)まず、兄にケーキを半分に切らせる。
2)そして兄より先に弟にケーキを選ばせる。


兄は公平に切らないと、多い方を弟に取られてしまう。弟も自分で納得いく方を選択できるので不満がでない。結果、二人とも満足いく「はんぶんこ」ができるというわけだ。

未来の細君と交際を始めた頃、自分はこの「はんぶんこ」が苦手であるということを思い知った。
細君は偏食が多いが、わたしはほとんどない。それでもなるべく、細君にバラエティに富んだものを食べてほしいので、外食などするときは「君の好きなものを二つとって、はんぶんこしようか?」となるのである。

上記の「兄弟メソッド」が使えればいいのだが、外食だといちいちそんなことはしていられない。お互いの食事が冷めてしまうし、取り皿をわざわざ使うのをはばかられる店も多い。
餃子のように個数が決まっているメニューならば、物理的に「はんぶんこ」は簡単である。しかしラーメンなどの麺類の「はんぶんこ」は目分量なので、半分だけ食べる、というのが難しい。

そして細君は、美味しいとなると、半分以上に食べてしまう人なのであった! 基本、食べるのが大好きな人なのである。
美味しいと評判のラーメン屋さんで、ふたりで違うメニューを取り、「はんぶんこ」して交換するはずだったラーメンを、先に三分の二くらい食べられてしまい「いっぱい食べちゃった(テヘペロ)」とやられた日には……。いまでもそのときの情景を思い出して、苦笑してしまう。


(モリタイシ著「今日のあすかショー」 4巻より引用)

当時はわたしも若く、食欲は人並みにあったので、「はんぶんこと約束したのにそれはないんじゃないの?」と不機嫌になったものである。これも今ならデートDVの範疇に入れられてしまうのだろうか?

わたしの前のラーメンは、半分以上残しておいた。そう、このときわたしは、自分が「はんぶんこ」が苦手なことに気づいたのだ。細君とは逆に、遠慮してしまって、いっぱい食べてしまうということができないのである。

こういったことを何度か繰り返し、やがてわたしは「はんぶんこ」のときは「俺、はんぶんこ苦手だから」と言って、先に細君に食べさせ、残りをいただくようになった。

最初に書いた例で言えば――

1)まず、兄にケーキを半分に切らせる。
2)そして兄が好きな方のケーキを取る。
3)弟は残った方でガマンする。


という選択である。なんと不公平極まりない(笑)。しかし、弟は罪悪感を感じずにすむというメリットがあるのである。

こういう「はんぶんこ」で、結婚してから十数年。メニューは冷めてしまうがしかたない。もともと細君は猫舌で、熱いものは食べられないタイプ。わたしは量はともかく味に頓着しないタイプ。
本当に腹が減っていて、この「はんぶんこ」がイヤなときは「俺、今日のメニューは好きなものとって、全部一人で食べるから」と宣言する。
これでずっと、まあまあうまくやってきた。

「まあまあ」というからには、うまくいかなかった経験も何回かあるのである。
夫婦の諍いの原因の多くは「金銭問題」、「子どもの問題」と言われるが、「食事の問題」も少なからずあるのではないだろうか。

わたしと細君は出身地が近いので、味の好みの違いでどうこういうことが少ないのは良かったが、細君の偏食にはたびたび悩まされてきたのであった。

が、そのあたりは、互いにヘッド(知恵)を使うことで乗り越えて――。

わたしが病気をして、食事の量が入らなくなってからは、さらに問題がなくなった。自分の前にきたメニューを適当に食べれば、おなかがいっぱいになってしまうからである。
細君に「本当に半分食べてる? まだたくさん残ってるじゃない」と、よく言われるようになった。

いいの。君の笑顔で、おなかいっぱい、だよ。

わたしたちは銀婚式を過ぎたが、交際期間を入れれば、すでにお互いの人生の半分以上を一緒に生きている。
人生の「はんぶんこ」も過ぎたので、これからはちょっとゆっくり、デザートでも楽しみたい気分だ。

もちろんそれも「はんぶんこ」で。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月15日

【日記】世界を救った代償として空腹感を失ったオッサンだが質問ある?

いや別に、世界は救ってないんだけどね。

夜、寝ようと横になると、妙にお腹が鳴りまくる。グゥー、グウゥー、グググ、うぐぅ。あゆかよおれのお腹、たいやきかよ。
隣の細君がこの音を聞いて苦笑し「お腹空いてるの?」と訊いてくるが、いや、空腹感はまったく感じていないのである。

寝て、起きても空腹感は感じていない。
わたしは朝食抜きの、一日二食生活を続けている。ので、今朝も朝食は摂らない。別にお腹が減った感じもないので、苦にもならない。

今日は朝いちで所用を済ませてから、定期的に行っている病院へ。経過観察は良くもなく悪くもなく、このまま服薬を続行。毎年、この時期は心身不調になることを思えば、低位安定でもありがたい。

その足で街へ出て、スターバックスで今日のコーヒーを飲みながら、コクヨのケ-35Nにプラチナ#3776MSで原稿書き。
一段落ついたところで切り上げて、バスに乗って帰宅する。

あれっ? なんか忘れているような……。

蟄居房に入って、さて一筆書こうかな、とポメラDM100の蓋を開けると――

グ、ググゥー。グゥー。

あら、お腹が鳴っている。そういえば、昼食を摂るのを忘れていた。
でも空腹感は感じていない。だったら夕食まで待てばいい。

と、こんな感じな生活が、ここ数年続いている。体は空腹を訴えて、胃をグゥグゥ鳴らしまくるのだが、脳が空腹という感覚を失ってしまったようだ。

服用しているクスリに食欲をなくすような副作用はなく、むしろ、「食欲があがる」「太る」というネットの書き込みが多いのだが、どうしてどうして、それはきっと、あなたたちが食べたいだけだろうと思って読んでいる。

いやしかし、こんな状態が心身ともに良いわけがない。現代人に多い、ただ習慣で三食食べる生活は肥満のもとだと思うが、体が食事を欲しているのに、頭が食欲を湧かせないというのは、やはりバランスが崩れている。

だいたいわたしは、気分の上下で食欲が非常に落ちやすいタイプなのである。落ちこんでいても、やる気に満ちたときでも、食欲がガクンとなくなるのだ。

最近聞いた話だが、ガンの闘病で亡くなる本当の理由として、食欲がなくなり栄養失調で逝くという説が挙げられているそうだ。
こりゃまいった。他人事ではない。わたしも昨年、ちょうどこの季節、食欲をなくして適当に食べる生活を続けていたら、感染症にかかり肺炎になって、しかもちょっとやっかいな病気の疑いまで見つかり、隔離病棟一歩手前までいったのだ。

# ところで「隔離病棟」と「閉鎖病棟」は全然違うものだからねッ!
# って、こういう注釈の書き方も久しぶり。
# 昔のパソコン通信では、こうやって「ひとりごと」を書いたのである。

母によると、わたしが幼児の頃もやはり食べない子で、小児科の先生に「アイスでもお菓子でもいいから食べさせて」と言われたそうである。
青年期、中年期は、人並みに食べられていたと思うのだが、頭に白髪が生える歳になって、体のシステムが子どもの頃に戻ってしまったのだろうか。

細君は基本、食べるの大好きな人。偏食はあるが、好きなものを食べているときは本当に楽しそうだ。そして「食べなきゃだめよねー」と言う。わたしと逆に、落ち込んだり、やる気に満ちているときに食べる人。
こんなところは「割れ鍋に閉じ蓋」でも仕方ない。

だいたい春分の日を過ぎれば、毎年この時期に起こる心身バランスの悪さも回復して食欲もわいてくるから(これを書いているのは二月中旬)、それまでは、習慣でもいいから、一日二食、ちゃんと食べるようにしよう。

ああでも、今のところはコーヒーを飲んだら、お腹の鳴きもおさまったから、今日は夕食一食でいいや(←こういうのがいけないのである(苦笑))。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月14日

【日記】コチニンとアルコール

「コチニン」という物質がある。
まるで「ニコチン」のアナグラムのようであるが、実は本当にそうである。
タバコを喫むと体内でニコチンが代謝され、「コチニン」となって体内に蓄積される。尿中から排出され、血中半減期は30時間程度とされている。これは長い方だ。

最近では「非喫煙者」を対象とした保険料率の安い生命保険があり「非喫煙者」の証明は、上記の「コチニン」が体内にあるかどうかを検査して行う。
契約では「一年間以上喫煙していないこと」という条件が多いらしいが、実際には二週間も禁煙すれば、このコチニンは体内から消えるらしい。

とはいえ、喫煙者が二週間も我慢できるわけはないということで、このコチニン検査で「非喫煙者かどうか」をふるいにかけられることは確かなようだ。

思うのだが、これのアルコール版というものはできないものだろうか。
その人間が「非飲酒者である」という証明を科学的にできないだろうか、という提案である。

わたしの乏しい医学と化学の知識では、エタノールは体内で分解される過程でホルムアルデヒドや蟻酸などになると記憶している。もちろん他の物質でもいい。
こういったものの残留量で、コチニン検査と同じように「この人は非飲酒者である」という証明はできないものだろうか、という提案。

世の中、飲酒者よりも非飲酒者の方が有利となる職場があるはずである。筆頭に挙げられるのは職業運転手だろう。他にも、日常的にクルマを使う営業職や危険を伴う機械のオペレータなど、非飲酒者ということがアドバンテージになる職場は少なくないと思われる。
雇用主側も、雇用に際して飲酒習慣のない従業員の方が安心して雇えるという面があるはずだ。

他にも、身近な例では、クルマのリスク細分型任意保険に「非飲酒者」という項目をつけることができる。飲酒運転を絶対にしない契約者、というのは、保険会社にとってもありがたいはずだ。

公共機関の運転士さんなどは、むしろ非飲酒者を積極的に雇っていただきたいと思う。
毎朝、呼気検査をするくらいなら、むしろシアナマイド(抗酒剤)を目の前で服用させるくらいの「非飲酒励行職場」であっていただきたい。

肝臓のγGPT値で測るというのもありそうだが、これは他の薬剤でも上がる数字なので、これをもってして「常用飲酒者」と決めつけられないのが難点だ。

ただでさえ就職難のこの時代、非喫煙者や非飲酒者というアドバンテージを履歴書に書ける流れになっても良いと思うのである。

最近の若い方は、タバコもアルコールもやらないという。実に頼もしい。飲んだくれでタバコ喫みのリストラオヤジより、こういった若い人を企業は積極的に雇うべきだ。

と、書いてきてはみたが、日本は飲酒に甘い国である。「ノミニケーション」などというカビの生えた言葉すらまだ残っている。
わたしのこんな提案などは夢物語だろうなあと思う。

お酒を飲まない若い人に「酒を飲まないなんて、人生半分、損しているようなものだよ」とくだをまくようなオヤジがいる。若い人はそんなくだらない話を信用してはいけない。まあ反論はできないにしても、右から左へ聞き流していればよい。

わたしは人生の半分ぶん、すでにお酒を飲んでしまった。だからこそ言える。そんなもの飲まなくたって、人生なにも損などない、と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月13日

【回想録】自作PCの思い出

内蔵HDD関係のトラブルで、ちょいと街まで出かけてPCショップで代替HDDを購入。異常を発見したのが午前11時、修理完了が午後の2時。
なんとも、便利な世の中になったものだ。

わたしが最初に自作PCに触れたのはCPUが80486の時代。まだMS-DOS全盛期で、Windows3.1がなんとか動いていた頃だ。
当時は自作PCなどとは言わず、PC/AT互換機と言っていた。
NECに代表される国産PCがブイブイ言わせている時代に登場したDOS/Vが「ついに黒船がきた」などと半分揶揄気味に言われていたが、実際に国産PCはDOS/Vの動くPC/AT互換機に駆逐されていった。

わたしもPC-98シリーズは互換機を含め何台も持っていたが、これがPC/AT互換機に代わられたのは、日本人にとって良いことだったと思っている。
PC-98シリーズには熱烈なファンもいたが、そのアーキテクチャは、内閉的で、未来に開かれたものではなかった。

最初に手にしたインテル80486のPC/AT互換機は、友人から買い受けたものだった。前にも書いたが、わたしは根っからソフト屋なので、トラブルでもなければPCの腹を開けたいなどと思わないタチ。
メモリはいくつ積んであっただろう。Windows3.1を動かすと、スワップがひどくて、窓一枚を消すたびにゆっくり上から消えていくのであった。

こんな時代であったから、街にパソコンショップなどはなかった。もちろん、インターネット通販もない。なにかパーツが必要になる度に、上京して秋葉原へ行くのである。

記憶にある「たったこれだけのために」という思い出は、IDEのHDDケーブル一本を購入するためだけに、数時間かけて電車で秋葉まで往復した思い出。交通費の方がよっぽど高いが、仕方なかった。

次に記憶に残るしょうもない思い出は、DOS/V版のゲーム「同級生」を購入したが、つけていたサウンドボードでは音も声も出ず、サウンドブラスターを買うためだけに秋葉へいったこと。

いやまて、新しいマザーにしたらAdaptecのISAのSCSIボードが対応せず、そのためだけにTekramを買いに行ったこともあったな。

当時、わたしの住む地方都市にはPCショップはなかったため、自作PCをやっていると、こんな感じでトラブルのたびに秋葉詣でを繰り返す羽目になるのだった。

余っているパーツのやりとりをするために、友人同士で深夜にクルマで行き来したこともある。確か、たかがSCSIターミネータ一個のため、だった。

特に自作PCが好きなわけではなかったが、パソコン通信をやっていると、自然、仲間同士でパーツのやりとりがあったり、また、ハムフェアなどのイベントで怪しいマザーやCPUを買ったりする機会があるので、まあ、素人に毛の生えた程度には詳しくなっていく。

珍しいCPUとしては、WinChip C6を使ったことがある。特に問題なく動き、速度も当時のPentiumと遜色なかった。けっこう長く使ったような覚えもある。

ハムフェアで買ったマザーは難あり品で、ポートのいくつかが死んでいた。それを回避しつつ使ったりするのが醍醐味などという気持ちはなく、面倒だが仕方がないという感じ。

そんなこんなのうちに、Windows95以降はPCもだんだん普通の人が使うようになり、わたしの住んでいる地方都市にも、四畳半程度の店舗面積だが、有名パーツショップのチェーン店が開いた。これで、わざわざ秋葉原まで行く必要がなくなったので大助かりである。
この店は今やもっと大きくなり、対面の大きなビルの一階にデデンと店を構えている。今日、HDDを買いにいったのもその店だ。

当時は、メモリも、CPUも、HDDも、全部バルク品だった。店頭で買っても、静電防止袋に入れられ、赤いプチプチで包んで渡されたのだった。
こういったものが綺麗な箱入りになったのは、わたし的には、つい最近という感じである。

これから消えていくモノの予想として、ファックス、コンデジ、デスクトップPCが挙げられているが、ファックスは納得、コンデジは懐疑的、デスクトップPCはまだ当分消えないだろうと思う。

今日の故障も、ノートPCだったら、一台丸ごと交換の可能性があった(実際にはHDD異常ではなく、SATAコネクタの異常であったから)。こういうとき、デスクトップPCはパーツ交換だけで済んでしまうのでありがたい。

それでも時代は、バッテリ交換ができないスマホやタブレットへ。ちょっとした故障で、即、産業廃棄物となるノートPCへと、わたしの嫌いな方向へ向かっていくのだろう。

この点に関しては「昔はよかった」という老害になっても良いと思いつつ、新しいHDDにコピー作業が終わったので筆を置こう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年03月12日

【日記】ヒゲ剃り

本当にコレをしなければいけないというだけで、男を廃業したくなる。ヒゲ剃りである。

いやほんと、女性の皆様に訴えたい。面倒だし、楽しくないんですよ。この作業。
女性も化粧をしなければいけないからお互い様という方もいらっしゃるかもしれないが、化粧っ気のない女性はそれなりに世間で通っても、無精ヒゲの男は逆にそれなりの扱いをされるのが日本である。

FtM GIDの方が男性ホルモンを服用して、薄いヒゲを生やされて男らしさを出しているが、「ヒゲを剃るのがめんどくさい!」と思うメンタルにならなければ、残念ながら、まだまだ「心は男」ではないと思う。

日本でヒゲを剃るのが当たり前になったのは、徳川家綱すなわち江戸幕府が「大髭禁止令」を出してからである。天下太平の世に武将のようなヒゲは合わん、というお触れ書きだ。それが1670年のことだから、以降340余年、日本人はお上に刷り込まれた「まともな男の顔はツルツル」という意識のもとに、ヒゲをそり続けてきたのであった。

今の日本人の宗教意識が「自称無宗教だけどなんちゃって仏教」なのも、徳川260年の間に刷り込まれたものに他ならない。江戸幕府の呪縛は、明治を越え大正を過ぎ、昭和になって敗戦国になり平成の世になっても、日本人の思考のベースとして続いているのである。徳川家康恐るべし。

なお、外国のヒゲ事情は知らない。
アラブ系に出張する男性は、ヒゲを生やしてから行くという話を聞いた。顎がツルツルでは一人前の男としてみられないからだそうだ。

以前「【日記】シェーバーはフィリップスにしとけ」で書いたとおり、電気シェーバーは同社のものを使っているが、入浴時にT字カミソリを使うこともある。かなり古い型番になるが、ジレット社の「センサーエクセル」という二枚刃のものだ。

好景気の頃は、文藝家協会の会員に、販促品がたまに送られてきたものだった。新しく出す辞書とか、時計とか、ペントレイとか、デスクライトとか。もちろんメーカー側としては、雑文などで紹介してほしいという下心があったのだろうが、ありがたい話である。
今で言えば、有名ブロガーにモニターしてもらうような感じだ。

ジレットのこれもそのひとつ。当時の文藝家協会の会員すべてに送ったのだと思う。女性会員へは送ったのかな? そのあたりはわからない。

ジレットとしてはかなりの自信作であったのだろう。実際、使ってみると、それまでのT字カミソリとは剃り味が全然違った。順剃りでかなりサラリとヒゲが剃れる。しかし、逆剃りなしでツルツルというわけにはいかない。そして逆剃りすると、わたしの顔は血だらけになるのであった orz

なので、入浴時に剃るときは、もう逆剃りはしないと決めた。「どうせ伸びるものだから」と諦めて、意固地になって深剃りなどしないほうがいいのだと、男の人生半分を過ぎて、やっと悟ったのである。
夜のうちにある程度剃っておけば、翌朝のフィリップスの時間も短縮になってよい。このあたり、男の流儀は人それぞれである。

さて、この愛用のジレットセンサーエクセル、数年前までは替え刃が近所のホームセンターで買えたのだが、買い置きがなくなったので、先日、足を向けてみると、なんと、もう置いていないのである。
ジレット社の替え刃も、多枚刃のものが主流になってしまい、すでにセンサーエクセルのそれは時代遅れのものになってしまったらしい。
ずっと買えるものだと思っていたものだから、少々ショックであった。

仕方ないので、新しいT字カミソリのホルダーを買おうかと迷ったが、多枚刃のものも製品が多数出ており、どれが良いのかわからない。
そこで、センサーエクセルが出てから年月も経っているし、文明も進んでいるからそう変わらんだろうと、そのホームセンターブランドの使い捨ての二枚刃10本組を買ってみた。

その夜、入浴時に剃ってみると――ああ、なんてこった。センサーエクセルの剃り味とは全然違う。やはり使い捨ては所詮使い捨てということか。

これは本気で多枚刃の新しいホルダーを買わねばなるまいか、と、評判を検索してみるのだが、どれもいまいちピンとしないのが正直なところ。
愛用のセンサーエクセルのホルダーは生産中止になっていることもわかったが、アマゾンではまだ替え刃が購入できる。やるなアマゾン。というわけでポチッとな。

とりあえず、センサーエクセルのホルダーが壊れるか、アマゾンで替え刃が購入できなくなるまで、わたしはこれを使い続けることに決めた。
自分でも、この「慣れた環境にしがみつく」習性に苦笑してしまう。なにか命名したいくらいだ。「結城的日常継続性」とかなんとか。

というわけで、センサーエクセルに新しい替え刃をセットしてヒゲを剃った風呂上がりにこれを書いている。やはりツルッとした顎は気持ちがいい(ええいこの徳川の呪縛が忌まわしい……)。

ヒゲのことを嘆くと、細君は「前みたいに伸ばしちゃえばいいじゃない」と簡単に言ってくれる。
そういえば、ヒゲにもだいぶ白いものが混じるようになってきた。そうだね。白いヒゲを蓄えられるくらいにまで増えてきたら、いっそのこと伸ばしてしまうという手もあるかもしれない。

白髪というのは不思議なもので、若い方はご存知ないと思うが――と、これはさすがに話が飛びすぎだ、またの機会にしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記