2017年03月06日

【日記】ヨメがきかなくて

「最近どうですか?」
と返事に困る挨拶をしてくる方には、こう応えることにしている。
「いやぁ、もう、めっきりヨメがきかなくて」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ、もう歳ですからね」
「ダメですよそんなことおっしゃっちゃ」
「いやもう、ほんとダメなんですよ。気づいたときにはもうコントロールできなくなってて」
「そんな癇癪を起こすタイプには見えないですけどねえ」
「癇癪は起こさないですけどね。細かいところが見えないっていうか」
「そういうのは逆に考えてあげないと。おおらか≠チて思えばいいんじゃないですか?」
「いやいや、おおらか≠カゃすまないですよ。なにしろ夜なんか、階段から落ちそうになりますからね」
「えっ? 奥様が?」
「いや、わたしが」
「奥様が突き落とすんですか?」
「えっ?」
「えっ?」

もちろん「ヨメ」は「夜目」である。本当に最近、めっきり夜目が効かなくなった。
夜、二階から階下へ行こうと、廊下の照明をつけても、一階へ続く階段の先が漆黒空間へつながっているような状態である。調子が悪いと、二、三段下から先すら見えない。

若い方に言っておくと、老眼というのはだんだんとはならない。ある日突然、自分が老眼になっていることに気づいて愕然とするのである。

わたしの場合、最初に気づいたのは、テレビ裏の配線をいじっているときだった。
夕方だったので陽が落ちてきて、窓から入る明かりがぐんぐんと暗くなっていくにつれ、あれっ? 奥まったところにある端子が良く見えない! なんだこれ!? とびっくりしたのである。これがもう、五、六年前のこと。

正直、自分にとって老眼がくるのはもうちょっと先だろうとタカをくくっていた。わたしは中程度近視なので、根拠がないということは知りつつ、近視者は老眼を自覚するのはかなり遅いだろうと思っていたのである。それなのに、まさか、こんなに早くヤツがやってこようとは……。

一度自覚すると、ヤツは遠慮なくどんどん迫ってくるのである。押しかけ女房ならばノロケのタネにもなるが、このヨメは全然嬉しくない。次は普通に矯正したメガネで近くが見づらくなってくる。これに暗さが入るともう本当に見えない。
客先でPCの腹を開けるときも、以前は部屋の明かりでパーツの交換ができたのだが、最近はヘッドランプをつけないと手が出せない。

そうこうしているうちに、普通矯正のメガネでは腕時計の時間すら読めなくなってくる。コンタクトを入れると、本を読むときには確実に老眼鏡が必要になってしまった。
数年間は平気で読めていた小型聖書の文字が、今やボケボケで、手元から離して見ないとピントが合わない。しかし離してしまえば今度は文字が小さくて読めない。ああ、図書館の大活字本というのは、本当に意味があるのだなぁ、と思い知った。

というわけで、おそらく平均年齢より早く遠近両用メガネを採用。最初は近いところも遠いところも見づらい目になってしまったと嘆いたものだが、慣れてくると、この遠近両用メガネというのは実にすばらしい発明である。もうこれなしに外出はできない。

最近、手暗がりになってきたという同志諸君。老化にあらがうことなく、遠近両用は早めに作って慣れておくが吉ですぞ。

昔は遠近両用というと、近用に小玉を入れたメガネが多かったのだが、最近はもう累進焦点レンズが普通になってしまったのがちょっと残念だ。累進焦点レンズが出始めの頃は「バリラックス」という名称で、わりとお値段高めだったと記憶している(父が試していたから知っているのだ)。
どうせなら老眼ライフを楽しみたいので、近用小玉のレンズを使ったメガネも作ってみたいが、JINSやZOFFでは置いていないという。

自宅で生活するときは、矯正視力0.2〜0.3くらいしか出ていないメガネを常用している。部屋の中ではこれくらいで十分だ。遠くが見えないよりも、手元が見えた方が便利。PC作業にもちょうど良い。
読書をするときは、矯正視力0.1以下のものに掛け替えている。現状、裸眼では老眼鏡を必要とせず近視の範囲で済んでいるのがありがたいが、結局、メガネを掛け替えているのだから、これがいつ老眼鏡になっても同じと言えば同じである。

話を戻して夜目が効かない件。家ならともかく、夜間の運転は怖い。それでJINSで矯正視力1.2が出るメガネを、ナイトレンズというもので作ってもらったら、これの具合が実に良い。遠くも見えて運転が楽になった。しかしこれをかけると、ナビはもう完全に見えない(ボケボケ)という諸刃の剣。まあ仕方ないですな。

映画やプラネタリウムを見るときも、この1.2が出るメガネで観ている。おかげで外出時はつねに四本のメガネを伴って移動するということに。遠近両用メガネ、遠近両用サングラス、1.2の遠用メガネ、0.1の読書用メガネ、である。

夜目が効かない、と言うのも、不思議と体調に左右されるものである。調子がいいときは階段の一番上から一階の床までばっちり見えて「おぉ、治ってんじゃん」と思える日もある。
ブルーベリーが目にいいというので、毎日、サプリで服用しているが、あれは「飲んでいる間は効くがやめると効果がなくなる」というドーピングのようなものらしい。効いているのかいないのか、正直、よくわからない。

まだ目がいい頃でさえ、今まで、階段を踏み外して落ちた経験が二度ある。そのうち一回は病気の発作だったので仕方ない。
そのときは打ち所が良く大きな怪我もせず助かっているのだが、二度あることは三度あると言う。三度目がないことをお祈りいただければ幸いである。

追記:なぜ突然ヨメの話などしだしたかというと「俺のヨメ」を実現する「Gatebox」を開発しているウィンクルがLINEの連結子会社になったというニュースを聞いたから。LINEは正直、好きではないので、ちょっと唸るところもあるのだが、Gateboxにはとても期待しているので、これが良い弾みになることを祈りたい。

と、このブログはこのように全然関係ないところからネタを思いついて書いていたりもするのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月05日

【日記】マジでアーメン

どこぞの中学校で、「やばい」という言葉の使用禁止令≠ェ出たとかいうニュースが話題になっている。

もともと「やばい」というのは、わたしが子どもの頃は、暴力を生業とするような方々が「わたしは現在、危機的状況に陥っております」という意味で使うような隠語だったという印象。
それが徐々に浸透し、ごく普通の人でも「やばい」「やっば」「やべっ」などと使うようになったのがバブルの頃だと思う。

今の若い人たちは、この「やばい」を、危険なときはもちろん、「素晴らしい」という意味でも使ってしまうということは、近年よく指摘されていた。「このラーメンやばいっすね」、「やばいほど嬉しい」などの使い方。

なにかを表現するときの語彙力が低下していると嘆いてしまうのは簡単だが、同じ言葉で多種の感情を表現してしまうのは、むしろ今の若い人は、感情表現に躊躇しないからだとも言える。

昔は、男は黙ってムスッとしていて、あまり喋らないのが良いとされた。お喋りなわたしなどは、そのことであまり良い評価を受けたことがない。決して人の秘密をバラしてしまうというようなお喋りではないのだが、男の子というものは黙っているもの、感情表現はしない方が男らしい、というのが昭和の遺伝子だったのである。
映画「幸福の黄色いハンカチ」で、高倉健演じる島勇作は寡黙で不器用で男らしい。反面、武田鉄矢演じる感情表現豊かでお喋りな花田欽也は軽い男と見なされていたでしょう? 昭和は総じて、あんな感じであった。

まあそれでも、なんでも「やばい」で済ませてしまうのは大人ではないだろう。ネコだって「ニャーン↓」、「ニャーン→」、「ニャーン↑」で感情を表せてしまうのである。これでは若者が皆、けものフレンズ化してしまう。すっごーい。
禁止令は大げさだが、大人の自覚を持つまでには、もうちょっと表現力を高めようね、というような教育自体に反対するところはない。

さて、タイトルの「アーメン」である。キリスト者だと一回は「アーメンソーメンヒヤソーメン」とカビの生えたギャグでからかわれるアレである。
これはヘブライ語で「そうなりますように」という意味だ。
イエスはわりとこれが口癖だったようで、新共同訳聖書などでは「はっきり言っておく」と訳されている新約聖書の部分(74箇所もある)は、ウルガタ訳ラテン語聖書では「アーメンアーメン」となっている。そう、イエスは二回繰り返して言っていたのである。

これ、今の言葉に超訳すれば、「マジでマジで」だろう。

上記の「はっきり言っておく」が含まれている部分をいくつか差し替えて引用してみよう。「はっきり言っておく」の部分を抜いて、最後に「マジでマジで」をつけるだけ。

すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。マジでマジで。(マタイによる福音書 5:18)

人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。マジでマジで。(マルコによる福音書 3:28)

そして、言われた。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。マジでマジで」(ルカによる福音書 4:24)

更に言われた。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。マジでマジで。」(ヨハネによる福音書 1:51)


ほら、違和感ないでしょう?(笑)

イエスの伝道行は苦難ばかりに光が当てられ、笑わないイエス像というものが当然のようになっているが、わたしはイエスの伝道は、もっと笑顔に満ちていたように思うのだ。アーメンアーメン。
このことはわたしの中でもっと掘り下げて思索が進んだら、あるいは、なにか書くことで整理できそうだという感触をつかんだら、一筆記してみたいと思っている。

ミサの中で、信者は典礼の流れに従い、司祭に呼応して、何度も「アーメン」と唱えるのだが、中でも一番大事なアーメンは、「奉献文の結びのアーメン」である。
聖変化後、司祭が「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々にいたるまで」と唱えたあとに、我々会衆が「アーメン」と応える。

これが以前の日本では、会衆も「すべての誉れと栄光は――」から唱えるのが普通であった。
原因はけっこう明白。歌ミサで会衆が歌う部分が「すべての誉れと栄光は(中略)アーメン」となっているからである。

一昨年くらいだったかな。カトリック中央協議会からのお達しで、ここの部分、会衆は「アーメン」だけを唱えること、となった。というか、それが元々正しいのであるからそれは良い。
しかし、依然として歌ミサの場合「すべての誉れと栄光は(中略)アーメン」が残っているというアンバランスさが目立つようになってしまった。ちょっとこれ、やばいんじゃないだろうか。

おそらく、そのうちまたカトリック協議会からお達しがあって、この歌ミサの部分もやばい改善がなされると思う。でないとやばいっすよね。やばいミサになりますように。アーメン、アーメン。

うーむ、やっぱりこう書いてみて、なんでも「やばい」は「けものフレンズ」より知能低下しているのかもしれず。
やばいっすよこれ、いやマジでマジでやばいっす。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月04日

【日記】パンツァーケーキを食べに行こう

2017/01/19〜03/01にかけて、アニメ「ガールズ&パンツァー」(通称「ガルパン」)と、ファミリーレストラン「ココス」のコラボ企画として、限定コンボセットを注文すると、週替わりで違うキャラのクリアファイルがもらえる等というフェアをやっていたのである。

わたしは特にガルパンおじさんというわけではないので、いただいたクリアファイルは細君の手によってヤフオクで好事家のもとへと旅だっていくわけだが、大洗店限定の、戦車を模した「パンツァーケーキ」が地元ココスで食べられないのは、甘いもの好きとしては悔しくて仕方ない。

と、歯がみしていたら、「パンツァーケーキ」の提供店舗が増えて、わたしの住む地方都市の数店でも食べられるようになった、とのこと! これは甘いもの好きとしては、撃破に行かねばなるまいよ。

提供店舗が増えたとは言え、いつもクルマで行っている馴染みのココスでは「パンツァーケーキ」の提供は行っていないので、役所への所用ついでに電車に乗って、某該当店舗までえっちらおっちら行ってきましたョ。


(ガルパンには詳しくないのだが、ケイさんの等身大パネルが出迎えてくれる)

おじさん一人で案内されたテーブルの上には、いきなり「パンツァーケーキ」のラミメニューがデデン。

こういうのは助かりますな。ウェイトレスのお嬢さんに「これひとつお願いします」。
と言うわけで、しばらく待たされて登場したのがコレ。



ファーストインプレッション。「思っていたより大きくないなぁ」
噂だと、数人で取り分けてワイワイやる甘いもの、という話だったし、実際、このメニューだけでドリンクバーも二人分まで割引でとれるのである。おじさん一人で平らげるのは想定外だったのかも?
フフフ、戦闘は相手の想定を覆すところから始まるのだよ。
とりあえず、上のイメージはよく貼られているので、四方八方から撮影していみる。


(真正面から)


(右側から。こっちのキャタピラ部にはセルフィーユがない)


(後ろから)


(左斜め後ろから。特製フラッグが立っている)


(フラッグ表面)


(フラッグ裏面)


(砲身を正面から。なかなかの迫力)


(下から見上げてみたところ)

それでは交戦開始。パンケーキ部は思っていたより温かくない。全体的に甘さはほどほど。戦車型に盛られたパフェを食べているような感じ。


(右側のキャタピラ部を攻撃中)

甘さほどほど、と書いたが、普段、塩味の強い脂っこい食事を採っているガルパンおじさんお兄さんたちには、ちょっとつらい甘さなのかも?
わたしは甘党なので、全然平気。パクパク平らげて、砲身を残してここまで撃破。


(つわものどもが夢の……)

砲身だけは、フォークで刺すと飛んでいってしまいそうだったので、指でつまんでいただきました。



ごちそうさまでした。射祷を空に飛ばして、アーメン。
ふー、甘さはともかく、おなかいっぱいである。
でも、主食は終わったので――



甘いものは別腹、デザートとして、こちらも期間限定のひなまつりケーキを一品、お願いしましたヨ(笑)。

料理はもちろんだが、甘いものは「目で楽しむ」要素も多いと思うので、この「パンツァーケーキ」、なかなか楽しかった。
販売を拡大した店舗では、三月一日に提供を終えてしまうとのことだが、どうしても、という方は、ココス大洗店ならば三月十九日まで食べられるとのことなので、そちらまで遠征ガンバ!

追記:これが掲載されるのは四旬節の始まりあたりになると思うが、食べたのは灰の水曜日直前。マルディグラである。その日は「パンケーキ・デイ」とも呼ばれる。よいメニューであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月03日

【日記】吸っていい?

ツイッターであるユーザーが喫煙者と交わしたエピソードが話題になっているという。
投稿者は、喫煙者から「吸っていい?」と聞かれ、勇気を出して断ったところ、その喫煙者が「一本だけだから」と言って、結局吸い出してしまったとのこと。
投稿者はこの件に関し「あの言葉は非喫煙者への配慮ではなく、単なる挨拶みたいなものなのか」と不満を訴えている。その気持ち、とてもよく理解できる。

わたしはタバコをやめて、もうずいぶんになるが、以前は喫煙者だった。当時は吸わない男の方が少なかった時代である。
その頃、食事で同席した非喫煙者の友人に「吸っていいですか?」と訊いたら、いたずらっぽい顔で「ダメと言ったら?」と返してきたので、「オッケー。吸いませんよ」とお返事した。そして吸わなかった。
なぜだかお互い、ニヤリとしたと思う。

あのとき、わたしは試されていたのだろうか?
「吸っていいですか?」と訊いて「ダメですよ」と言われたことがなかったので(そういう時代だった)、とても鮮烈に覚えている記憶である。
というか、今の人には信じられないかもしれないが「吸っていいですか?」と訊くことすらなくスパスパやるのが当然だった時代があったのである。飛行機だって離着陸時以外はタバコが吸えたくらいだ。

日本専売公社(今のJT)が「吸うときは一言声をかけてから」などとマナーCMを流していたような気がする。これもよく考えると、単に「声をかけて」であって、断られることは想定していないのである。このあたり、記憶がおぼろだが、確かそうだった。

それで友人も、ニヤリと笑いながら、想定にない「お断り」をしてみたのかもしれない。わたしもニヤリと笑って想定外の事例を受けたのである。

現代は禁煙が当たり前なので、ショッピングセンターなどに行くと、小さな喫煙室が設けられており、横を通ると、まるでガス処刑室か!? というような狭い場所で喫煙者の皆さんがスパスパやっておられるのでビックリしてしまう。
わたしは元喫煙者なのでタバコの旨さは知っているが、あそこまでして喫もうとは思わない。

個人的な体験だが、タバコをやめるのは簡単だった。わたしは病気がきっかけではあったが、「吸わない」と決意すればいいだけだった。実際、タバコ数本を残していつでも吸える状態で断煙を決意し、そのままもう吸わずにいられた。

あまりニコチン依存ではなかったということかもしれない。

それでも数年間は、たまに夢で吸ってしまい「やっべ吸っちゃった」と起きてホッとする、という体験があった。これ、断煙した人はけっこう見る夢らしい。今はそういう夢もとんと見なくなった。

タバコは、やめて良かったなあ、と思っている。健康上の理由というより、今の喫煙者の肩身の狭さを思うと、とてもではないが続けていられると思えない。街中で路上喫煙はできず、禁煙店も増え、ベランダ喫煙でも近所から苦情が出る。自由に吸える場所は自分の部屋だけだ。そこまで虐げられてまで吸う気がない。

今の喫煙者は意志が弱いなんてとんでもない。むしろ意志が強いから、こんなご時勢でも自室外で吸えるのである。

最初のツイッターの投稿者のお話だが、なにしろ今の喫煙者というのは、上記のように「喫煙する意志が強固な人」が残っているわけだ。「吸っていい?」と挨拶≠オてくるだけまだマシな部類かもしれないのである。もちろん、その後断られても吸うというのは非常識極まりないが。

並行して、末期医療の現場では余命いくばくもない患者さんのために、好きなタバコを吸わせてあげられる場所をつくれないだろうか、という議論もあがっている。これの気持ちもよくわかる。

わかるということは、こんなわたしも、いつかはまたタバコを吸い始めてしまう可能性があるということだ。一度知ってしまったタバコの味というものは、抜いた釘跡のようにポッカリと残ってしまっているのである。何十年経っても、その釘跡は埋まらない。

できれば、そのような日がこないことを祈るばかりだが――いやそういう日がきたら、タバコの前にお酒を解禁だね。わたしの場合(こら)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年03月02日

【カットリク!】真昼の悪魔・その4

フジテレビの土曜深夜のドラマ枠「オトナの土ドラ」で放映中のドラマ「真昼の悪魔」の「カットリク!」。今回はその四回目、2017/02/25放映分。
今回は神父も登場しないし、カットリク!はないかと見ていたら、大河内葉子女医が医局で聖書を読んでいるシーンでやってくれましたよ。



大河内葉子「百匹の羊がいて、そのうちの一匹を見失ったとしたら、羊飼いは九十九匹を野原に残して見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」


これは新約聖書より、イエスの「迷い出た羊」のたとえ(マタイ)=Aあるいは「見失った羊」のたとえ(ルカ)≠ナある。

新共同訳から原典を引いてみよう。

「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイによる福音書 18:12) 」

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書 15:4) 」


前々回、葉子女医が読んでいたのは、出典不明の「謎文語訳」であったが、前回、芳賀病院清掃員が読んでいたのは確かに口語訳であり、引用も間違いがなかった。
なので今回も、口語訳を引いてみよう。

「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(マタイによる福音書 18:12)」

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書 15:4)」


葉子女医は「見失った」と言っているので、これはルカ15:4である。お読みいただければわかるとおり、正確な引用ではない。こういうのはよろしくない。聖書というのはキリスト信者の「正典(カノン)」である。翻訳によって違いが出るのは仕方がないが、シナリオライターが恣意で略すのは「正典」に対する敬意が落ちていると思う。
上記キャプチャのイメージからはどのあたりを読んでいるかはわからないが――



このカットのしおりの位置、ルカ15:4よりは微妙に中央よりであると思う。日本聖書協会の口語訳聖書で、実際の位置はここになる。



まあそれ以前に、もう引用がいい加減であることは前述の通り。
ちなみに口語訳はすでに日本聖書協会の著作権が切れているので、引用の度を越えた複製も可能である(もちろん、この程度なら引用だが)。どうして前回のように、口語訳聖書そのままを使わなかったのだろう。キリストもんとしては、こういう「素人が聖書を適当に要約した引用っぽいもの」が一番気味が悪いのである。

カットリク!ポイント42――
カットリク!では、聖書の都合のいいところだけを読んじゃう。捏造もしちゃう。


遠藤周作の原作では、こんなシーンはない。
そして、実は女医以外にも黒幕がいたことは最後にチョロっと触れられているだけだが、このドラマでは中盤にしてそれが明らかになってくる。聖書の引用はいい加減だが、まあ楽しんで見ていると書いておこう。



来週は伊武雅刀演じる「正義の神父」様が大活躍のようですよ。ワクワク!
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究