2017年03月13日

【回想録】自作PCの思い出

内蔵HDD関係のトラブルで、ちょいと街まで出かけてPCショップで代替HDDを購入。異常を発見したのが午前11時、修理完了が午後の2時。
なんとも、便利な世の中になったものだ。

わたしが最初に自作PCに触れたのはCPUが80486の時代。まだMS-DOS全盛期で、Windows3.1がなんとか動いていた頃だ。
当時は自作PCなどとは言わず、PC/AT互換機と言っていた。
NECに代表される国産PCがブイブイ言わせている時代に登場したDOS/Vが「ついに黒船がきた」などと半分揶揄気味に言われていたが、実際に国産PCはDOS/Vの動くPC/AT互換機に駆逐されていった。

わたしもPC-98シリーズは互換機を含め何台も持っていたが、これがPC/AT互換機に代わられたのは、日本人にとって良いことだったと思っている。
PC-98シリーズには熱烈なファンもいたが、そのアーキテクチャは、内閉的で、未来に開かれたものではなかった。

最初に手にしたインテル80486のPC/AT互換機は、友人から買い受けたものだった。前にも書いたが、わたしは根っからソフト屋なので、トラブルでもなければPCの腹を開けたいなどと思わないタチ。
メモリはいくつ積んであっただろう。Windows3.1を動かすと、スワップがひどくて、窓一枚を消すたびにゆっくり上から消えていくのであった。

こんな時代であったから、街にパソコンショップなどはなかった。もちろん、インターネット通販もない。なにかパーツが必要になる度に、上京して秋葉原へ行くのである。

記憶にある「たったこれだけのために」という思い出は、IDEのHDDケーブル一本を購入するためだけに、数時間かけて電車で秋葉まで往復した思い出。交通費の方がよっぽど高いが、仕方なかった。

次に記憶に残るしょうもない思い出は、DOS/V版のゲーム「同級生」を購入したが、つけていたサウンドボードでは音も声も出ず、サウンドブラスターを買うためだけに秋葉へいったこと。

いやまて、新しいマザーにしたらAdaptecのISAのSCSIボードが対応せず、そのためだけにTekramを買いに行ったこともあったな。

当時、わたしの住む地方都市にはPCショップはなかったため、自作PCをやっていると、こんな感じでトラブルのたびに秋葉詣でを繰り返す羽目になるのだった。

余っているパーツのやりとりをするために、友人同士で深夜にクルマで行き来したこともある。確か、たかがSCSIターミネータ一個のため、だった。

特に自作PCが好きなわけではなかったが、パソコン通信をやっていると、自然、仲間同士でパーツのやりとりがあったり、また、ハムフェアなどのイベントで怪しいマザーやCPUを買ったりする機会があるので、まあ、素人に毛の生えた程度には詳しくなっていく。

珍しいCPUとしては、WinChip C6を使ったことがある。特に問題なく動き、速度も当時のPentiumと遜色なかった。けっこう長く使ったような覚えもある。

ハムフェアで買ったマザーは難あり品で、ポートのいくつかが死んでいた。それを回避しつつ使ったりするのが醍醐味などという気持ちはなく、面倒だが仕方がないという感じ。

そんなこんなのうちに、Windows95以降はPCもだんだん普通の人が使うようになり、わたしの住んでいる地方都市にも、四畳半程度の店舗面積だが、有名パーツショップのチェーン店が開いた。これで、わざわざ秋葉原まで行く必要がなくなったので大助かりである。
この店は今やもっと大きくなり、対面の大きなビルの一階にデデンと店を構えている。今日、HDDを買いにいったのもその店だ。

当時は、メモリも、CPUも、HDDも、全部バルク品だった。店頭で買っても、静電防止袋に入れられ、赤いプチプチで包んで渡されたのだった。
こういったものが綺麗な箱入りになったのは、わたし的には、つい最近という感じである。

これから消えていくモノの予想として、ファックス、コンデジ、デスクトップPCが挙げられているが、ファックスは納得、コンデジは懐疑的、デスクトップPCはまだ当分消えないだろうと思う。

今日の故障も、ノートPCだったら、一台丸ごと交換の可能性があった(実際にはHDD異常ではなく、SATAコネクタの異常であったから)。こういうとき、デスクトップPCはパーツ交換だけで済んでしまうのでありがたい。

それでも時代は、バッテリ交換ができないスマホやタブレットへ。ちょっとした故障で、即、産業廃棄物となるノートPCへと、わたしの嫌いな方向へ向かっていくのだろう。

この点に関しては「昔はよかった」という老害になっても良いと思いつつ、新しいHDDにコピー作業が終わったので筆を置こう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録