2017年03月18日

【回想録】ケータイと電車とペースメーカー

もう「回想録」カテゴリに入れてもいいだろう。20年以上前の話だから。

わたしは新しい技術には常に懐疑的で、ある程度こなれて人柱が立ってからでないと導入しない、というのは、何度か書いてきたが、携帯電話を導入するのはけっこう早い方だった。
アナログの車載電話は入れる気がしなかった。通話がダダモレなのを承知していたからである。
ちょうど、アナログの車載電話がデジタル化し、携帯電話が本当に携帯できる大きさになったあたりで導入した。

最初に入れたのはDOCOMOではない。今はAUだが、当時はIDOという社名だった。これのIZAという契約。「イーザ」という名の通り、いざというときに使う契約、という感じ。一通話一分100円、くらいだったかな? もちろん、着信の料金は発呼側持ちだから、待ち受けとして使うならば普通に使える。発呼側はそう高くなかった(普通の携帯との通話料金だった)と記憶している。


(液晶はモノクロでカタカナ表示しかできなかった。待ち受けもアンテナを伸ばした状態でやっとインジケータが一本立つくらい。基地局の制限で発信規制もたまにあった)。

使用周波数はたしか800メガヘルツ帯で、発呼、着呼時に安定した会話をするには、アンテナをビローンと延ばす必要があった。東芝の機種だったはずだ。
カバーエリアも首都圏以外は貧弱なもので、取材に行った北海道(の場所失念。札幌ではなかった)では、一回もアンテナマークが立たなかったことを覚えている。
当時は「ケータイ」という呼び方がまだ違和感を持って受け止められていた時代である。「携帯」という言葉は「携帯する」とサ変名詞の形で使うのが常識であった。なので「携電」という略し方をすることもあったが、そちらが廃れて「ケータイ」が一般的になってしまうとは、わたしも想像できなかった。

今でこそ、誰しもがケータイ、スマホを持って、安価で通話ができる時代だが、当時はまだ「持つ者と持たざる者」の格差が大きかった。
わたしが当時、危惧していたのは、「持たざる者」の僻みで、ケータイの未来が狭まされることだった。

たとえば「電車の中で通話するな」という「マナー」。わたしはこの声が出始めた頃から、こんな「マナー」はナンセンスだと思い、ある雑文にも「電車内で携帯の通話を禁止するくらいなら、お喋りも禁止しなければおかしい。携帯が自由に使えない電車は囚人護送列車と変わらない」と書いたくらいである。
しかし、これは21世紀にもマナーとして定着してしまった。わたしは他人が誰かとケータイで話していても一向に気にならないタイプだが、そういうのがダメなタイプも一定数いるらしい。
それはともかく、当時の「電車の中で通話するな」は持たざる者の僻みからスタートしたと、今でも思っている。

そしてもう一つ、「ペースメーカーが誤動作するから電車では電源を切れ」である。
これも実は当時から、「根拠がない」ことは知られていた。パソコン通信で活発な議論も交わされ、データも出され、そのようなペースメーカーはない、今までに実際そういう事故が起こったケースは一度もない、と、結論がでていた。
にも関わらず、これも「持たざる者」の僻みで、「ケータイの電波でペースメーカーが誤動作する」という都市伝説が生まれ、紆余曲折の末、「優先席付近ではケータイの電源を切る」という莫迦莫迦しい「マナー」が生まれた。

本当に莫迦莫迦しい。スマホを使いこなしている若い世代には申し訳ないが、今、電車の中で「マナー」によって通話できなかったり、「ペースメーカーの人に配慮しろよ」と絡まれたりするのは、すべて当時、「持たざる者」が持っていた僻みから生まれた偏見なのだとわたしは思っている。

最近になって、やっと「ケータイ、スマホでペースメーカーは誤動作しない」という情報が一般的になりつつあるが、それでも絡んでくる相手はいるだろう。

若い世代にくだらない因襲を残してしまったことを、当時、「持たざる者」の僻みからケータイに因縁をつけまくった世代は、今、猛省するべきだ(具体的にどの世代とは言わないが、バブルよりは上、さらにその上も)。

今はその世代もケータイを使い始め、やっと上記のようなくだらない因襲も緩くなりはじめたかと思ったら、今度はスマホバッシングである。スマホを使う子どもの成績は落ちる、学習能力が低下する等々。
はっきり言ってしまえば、スマホを使って成績が下がる層というのは、もともと学習意欲が低い層なのだと思う。スマホがない時代には、別のモノ、たとえばゲーム機、カードゲーム、その他の遊びなどで時間を潰して勉強をしない層だ。「なにか」が悪くて成績が悪いのではない。もともと、勉強をしない層なのである。どの時代にも、その「なにか」は成績低下の原因として叩かれた。それが今度は「スマホ」になっただけである。

わたしが通っていた小学校ではそんな莫迦莫迦しい因襲はなかったが、その昔、小学生にシャーペンを使わせると成績が落ちる、という話が真剣に流布されていた時代があった。
今の子どものスマホ使用に対するバッシングは、このシャーペンと似たような阿呆らしさである。

どの時代にも、新しい技術を便利に利用して生活を充実させていた層と、その技術に溺れて沈んでいった層がいたのである。
生まれたときからスマホがある若者は、ぜひともそれを便利に使いこなして、くだらない因襲を残した老害世代を見返してやっていただきたい。

若いうちからネットやスマホのような高度情報通信機器を使える若者がうらやましいと思う反面、今の世代の若者ではなくて良かったなあ、と思うこともある。
学校から家に帰っても、SNSで学校の人間関係をひきずるようなことは、わたしのようなタイプには苦痛である。書斎にこもってホッとできる一人の時間まで、誰かと繋がっていたいとは思わない。
Skypeのグループチャットでは技術屋仲間と話しているが、これも自分の気が向いたときだけ、仲間みんなそんな感じである。特に義務感もない。気楽な関係である。

そのあたり「既読スルー」などを気にする今の子はかわいそうかな、と感じるが、そういう感覚は老害のそれなのかもしれない。危ない危ない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録