2017年03月19日

【書評】無宗教こそ日本人の宗教である

島田裕巳「無宗教こそ日本人の宗教である」



まず最初に喩え話を――

ここに、ラーメン職人が腕によりをかけて作った一杯のラーメンがある。それを三人の人間が評価するとして――
一人目は、フレンチ三つ星レストランのシェフ。
二人目は、和食一筋五十年でやってきた日本料理屋の主。
三人目は、世界をまたにかけてさまざまな美食を研究してきたグルメ評論家。

この三人のうち、誰の評価が信じるに価するだろうか。あるいは、誰の評価が信じるに価しないだろうか。
わたしの私感だが、一人目のフレンチシェフ、二人目の和食料理屋の主の舌の評価は「信じられる」気がするのである。料理に打ち込んできたという姿勢は、おそらくジャンルは違っても通用すると。
しかし三人目の評論家の舌は「参考程度かなぁ」という感想しか持たない。この人は、あくまで「厨房の外の人」だからである。実際の料理の現場をある程度の年月を持って体験していない人が、真に料理を語れるだろうか、という疑問もある。

この本の著者、島田裕巳先生は「宗教学者」という肩書きであるが、わたしの中では「宗教評論家」というカテゴリの方である。実際に著作を何冊か拝読し、今またこうして「無宗教こそ日本人の宗教である」を読み終わって、この方は「宗教学者」ではなく「宗教評論家」だなあ、という確信を持った。

念のために書いておくが、学者だから良い、評論家だから悪い、という話ではない。単にカテゴリが違うだけである。世間の大多数の人に支持されている映画を腐す映画学者より、「これはおすすめだよ」と言ってくれる映画評論家の方が、人の役に立ついい仕事をしているのかもしれない。

冒頭の例で言えば、ラーメン職人が腕によりをかけてつくったラーメンを、フレンチと和食の料理人は「まずい」という評価をするかもしれないのである。「化学調味料いっぱいで食えたもんじゃない」などとダメだしをするかもしれない。それは確かに信じられるだろう。しかし料理評論家が「このジャンクな感じこそラーメンだ」と言ってくれれば、それは一般人として参考になるし「まあそういうものか」と、その程度の期待で食べに行こうかともいう気分になるのである。

実は島田裕巳先生には、先生のあずかり知らぬところで、わたし個人のこだわりがあるのである。
あれは1990年、オウム真理教が国政に打って出て惨敗したり、若い信者の「出家」が問題視されていた頃のこと。JICC出版局から「別冊宝島・いまどきの神サマ」というムック本が出版された。
その中で島田先生は「オウム真理教はディズニーランドである!」という記事を書かれている。



記事中、島田先生は決して「オウムは危険な宗教である」というようなことは書かれていない。むしろ、「尊師の言葉はアニメの台詞」、「オウムはサークル宗教」、「オウムはビックリマンごっこ」と積極的に評価していると読者に思われてもしかたないような筆致で論を進めている。

最後の部分を引用してみよう。

 オウム真理教は、『子どもの宗教』であるという点で、まさに時代の象徴である。それが時代の象徴である以上、オウムのこれからの行方は、オウムそれ自身の未来だけではなく、『新・新宗教』の未来を占うことにもなろう。もし、オウム真理教が壁に直面したとしたら、それは新・新宗教全体に共通して起こることであろう。あるいは、現代の社会は次々と宗教教団を消費し続けていくのであろうか。その点でも、オウム真理教のこれからが注目されるのだ。


この記事を読んだ後くらいのことである。わたしは友人に「家族がオウム真理教に入信したらしいんだけど、大丈夫かな?」と相談されたことがあるのだ。
わたしは島田先生のこの記事を読んだ記憶があったので、オウムがその後、テロリスト集団としてあの恐ろしい事件群を引き起こすとは思ってもいなかった。それで「宗教学者の先生も、危険な宗教とはみなしていないみたいだよ」と返事してしまったのである!

今でも、そう返事してしまったことを、後悔している。

その後、あの恐ろしいテロリズム事件群が起こり、日本社会はオウム真理教が隠していた、どす黒い一面を知ることとなった。

そしてあの事件について、島田先生は今の今まで「自分が間違っていた」というような発言を一回もしていないと聞いている。これは学者の態度ではない。自分の唱えた説が間違っていたら素直に頭を垂れ、そこから新たに学ぶからこそ「学者」のはず。しかし島田先生はことオウム事件について、むしろ清々しいほど他人事のような態度を貫き通している。
そういう姿勢は「学者」ではなく「評論家」だからこそできるのだ。

そこで本作「無宗教こそ日本の宗教である」だが、表4にはこんな惹句が踊っている『「無宗教こそ日本の力」宗教学の第一人者が断言する!!』。
大した自信である(もちろんこういうのは、編集者の作文だろうが)。そしてその中身は――

1)多くの普通の日本人は、新興宗教などの既存の宗教に染まっていないことを強調するために無宗教≠ニ主張する。
2)そして無宗教≠ナあることを、内心、恥じている。
3)しかし、無宗教≠ヘ信仰心がないというわけではなく、日本人はむしろ信仰熱心なのだ。
4)よって無宗教≠恥じることはない。


と論を進め、あとは手を変え品を変え「無宗教≠ヘいいぞ」と勧めてくるのである。

ところが……その手を変え品を変えの部分が、ことごとく説得力に欠けているのである。端的に言って、無宗教≠ノ魅力を感じない。
わたしは今はカトリックだが、かつては典型的日本人、つまり無宗教者≠セった。だから無宗教者≠フコンプレックスはよくわかる。しかし、読み進めて行っても「ああ無宗教者≠チていいな」とは決して思えないのだ。
感じるのは、自分探しをしている若い女の子に、「君は今のままでいいよ」とささやくジゴロのような薄気味の悪さである。

原因は明白である。無宗教≠ニいうものは既存宗教のカウンター宗教であるという大前提のもと、無宗教≠ニいう宗教≠フ教えを明確に提示できていないからだ。

「アンチジャイアンツ」、「アンチ阪神」はお互いに野球というフィールドで話をしているので、「野球の面白さ」は語り合える。しかし「アンチ野球」を唱える人が「野球の面白さ」を語れるか、というと、それは無理な話だろう。

本書のタイトルは「無宗教こそ日本人の宗教である」である。だが、本書の中には宗教としての無宗教≠フ教義や、それから導き出される宗教としての求心力は記されていない。ただ「アンチ既存宗教」であるという一点のみで無宗教≠ニいう宗教≠フ魅力を語ろうとしている。これでは上記野球のたとえのように、大きな矛盾を抱えざるをえない。

ここに、同じく「日本の民俗宗教」を研究した、別の二冊の書籍がある。



ひとつはもう45年も前の書籍。イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏が提唱した「日本教について」。もう一冊はひろさちや先生がお書きになられた2008年の書籍「やまと教」。ちなみに島田先生の「無宗教こそ日本人の宗教である」は2009年刊なので、ひろ先生の著作と同じ時代の民族宗教論と言っていい。

山本氏の「日本教について」は、45年も前の書籍だというのに、今もなおとてつもない先鋭的な説得力を持って、日本人の持つ「空気を聖典とするその場の和を神とした日本教」を論じている。
ひろ先生の「やまと教」は、本物の神道を軸にそれを仏の心で柔らかくしたような日本人の民族宗教論となっている。
この二冊は読み応えがあり、まだわたしの中で完全に咀嚼し消化するまでは時間がかかりそうだ。

対して島田先生の本書「無宗教こそ日本人の宗教である」は、薄くて軽いのである(実際、書籍自体も物理的に薄くて軽いわけだが)。それが悪いというわけではない。が、気迫に欠けているのである。
山本氏は「日本教」を発見したが、同時に「日本教」の創唱者、教祖ともなった。
ひろ先生は本物の神道を「やまと教」と名前を変え再提唱した。これも創唱者、教祖である。
では島田先生は、本書で「無宗教という宗教の教祖たらん」とする覚悟があったのか、というと、それがない。ここでもあくまで他人事なのである
ちなみに、山本氏はプロテスタントのクリスチャン、ひろ先生は仏教徒である。島田先生は一時ヤマギシ会のメンバーであったとのことだが、同会が宗教≠ネのかは一考あるところだし、しかも同会の窮屈さに離脱したという経歴をお持ちだ。

この記事冒頭の「料理の喩え話」を思い出していただきたい。
島田裕巳先生は、実は、一貫して宗教という厨房には踏み入らず、出てきた料理のみを評価している方なのである。厨房の中を覗くこともない。わたしが島田先生を「宗教学者」ではなく「宗教評論家」のカテゴリに入れている所以がそこにある。
「宗教評論家」だから、宗教の深くセンシティヴで微細な感覚を、肌で理解できないのである。
一連のオウム真理教に関わる島田先生の考察の「微妙な外し具合」も、島田先生が学者ではなく評論家だとわかれば合点がいくことが多い。

宗教家は、どの宗派、教派であっても、実は危険性を孕んでいるということを承知している。安全な宗教などというものはない。二千年の歴史を持つカトリックだって同じだ。たとえば次のコンクラーベで選出された教皇が、他宗教に対し非常に好戦的なタイプにならないとは、誰も言えないのである。トランプ大統領だって実現してしまったではないか。

本書でも、島田先生が宗教評論家であるが故に、微妙に現実の宗教界を肌で感じていないというところが多々ある。
たとえば――

日本は、特定の宗教が社会全体を覆い、それ以外の宗教を排斥する状況にはなっていない。したがって、外国人が自分たちの信仰を持っていても、日本人の側が干渉を行ったり、差別したりすることがない。


という一文がある。2009年の著作とは思えない。現実が見えていないのである。日本人は、山本氏の「日本教」やひろ先生の「やまと教」の無自覚な信者である。それが社会全体を覆い、それ以外の宗教を、時にやんわりと、時に激烈に排斥している。現実に、イスラム施設が建てられようとすると、周囲の人々から反対運動が起こるではないか。

という感じで、読んでいて「違うなあ」「滑ってるなあ」と思うところは多いのだが、我が意を得たり、というような記述もある。

 その点は、拙著『日本人の神はどこにいるか』(ちくま書房)のなかで詳しく論じたが、民族学者の原田敏明は、村で祀られる神はただ一つである点を強調し、日本人の信仰が実態としては一神教に近いことを指摘している。


などは「日本人は多神教といいながら一神教に近い」と常々思っているわたしの考察の道しるべになってくれるかもしれない。上記の書籍は読んだことがないので、一度、目を通しておきたい。

なんにせよ「無宗教こそ日本人の宗教である」と謳いながら、島田先生自らがその無宗教≠ニいう宗教≠フ創唱者、教祖たらんという気概がないおかげで、本書は読み終わったあと、「でっていう?」という気分にしかならない。

同時に、これはわたしの勝手な想像だが、アンチ既存宗教として、日本人に無宗教≠勧めたいという島田先生のこの思索の道程は、ある意味、自分がオウム真理教事件で「失敗してしまった(とはご本人は思っていないだろうが)」ことへの贖罪的なところもあるのではないかと感じたりもする。

だが残念だが、日本人は島田先生が期待するような、本当の意味での無宗教≠ノはなれない。これからもずっと、無自覚な日本教徒であり、やまと教徒であり続けるだろう。
日本人は日本人である限り、空気という聖典を読み、その場の和を神として行動し続ける。そして無自覚に、他宗教への弾圧(空気を読めない人へのいじめ、いやがらせなど)を続けるだろう。

正直、タイトルの「無宗教こそ日本人の宗教である」からして、もう大滑りだなあ、と、わたしなどは思ってしまうのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評