2017年03月21日

【昭和の遺伝子】おニューの靴の儀式

「【日記】加水分解」で、スマホケースのベタベタを耐水ペーパーで削ったら、もともとの塗装まで剥げてしまってワロタ、けれど使い込んだ味がむしろイイ――というようなことを書いていて、思い出したことがある。

わたしが高校へ通っていた頃までは、新しい靴を下ろして学校へ履いていくと、悪友たちが「儀式」と言って、わざと踏んで汚すのがならわしであった。
こんな風習は、もう二十一世紀の今、滅んでしまっているだろうなぁと「新しい靴 儀式」でググってみると、多くはないが、まだそういうことをやっている子どもがいるという話を読むことができて、嬉しくなってしまった。
主に運動部に残る風習らしいが、わたしたちの頃は、文化部運動部帰宅部の別なく、「新しい靴は踏んであげる」のが、周りの者の務めであった。

そう、これは嫌がらせなどではないのである。おろしたての靴をそのまま履いているのはむしろ恥ずかしいこと。それを汚して「履き慣れた感」を早く出すのに協力してあげるという友情だったのである。
この感覚、今の若い人にはおわかりいただけるだろうか。いや、ご理解くださる方も必ずいらっしゃると思う。わざと汚し穴を開けたダメージジーンズ≠熹р轤黷トいるくらいなのだから。

以前、なにかで読んだのだが、昔の日本人、特に江戸っ子は、新しいモノをそのままひけらかして使い出すようなことはしない。わざとある程度汚してから人目につく場所に出すのものだ、という話を聞いたことがある。江戸っ子にとって、新しいモノは決して自慢にはならず、むしろ使い込み、エイジングの効いた品をさりげなく出す方が「いなせ」だったのである。

とは言えやはり、この「使い込んだモノがいい」という感覚は、今の時代、だいぶ希薄になってしまっているかもしれない。
なにしろ、日常で使うモノの「新品→故障などでダメになる→捨てる→新品」のサイクルが短くなった。古いモノを直して使おうとしても、修理代の方がかかるから新品を買ってくれと、お店の方から断られてしまうような時代である。

子どものような顔つきだったタレントさんが、成長して大人の顔になると「劣化した」とネットで言われてしまう昨今はどうかと思う。若さだけがタレント性の取り柄ではないはず。いい歳の取り方をして、それが表情に出ている方も多いはずだ。
モノも人間も、本当にいい使い方、使われ方、生き方、生かされ方をしていれば、歳を重ねるにつれ、自然といい味が染み出してくるものである。
いやしかしこれに関しては、いい味を出すどころか、加水分解してベタベタになるラバー塗装のように、年齢に比例してくだらない因襲をまとわりつかせるタイプの人間もいるので、必ずしも「古い人間が良い」とは言えないものではあるが。

人生も半分を越えて、日々細々と周囲を見つめながら生きてみると、本当に長持ちするモノは少ない、ということに気づく。
昔は「ブランド」というものは、そういう「長持ちするモノ」への称号だった。今はただのお飾りになってしまっている。本来「ブランド」にこだわるような人が、新しいモノを次々と購入するのは滑稽なことなのだが、現代人はそれを忘れてしまった。


(写真は四十年使い続けている文庫本の革カバー。ハンドメイドの一品だ。エイジングがいい味を出しているでしょう?)


(こちらも珍品なのでついでに。Google社のロゴ入り文庫本カバー。まあやっぱり、新しいモノもいいよね)


(これは細君ハンドメイドのブックカバー集。サイズに合わせていろいろ作ってくれた。感謝。これも長く使っていきたい)

最初に戻って、「おニューの靴を踏んであげるという儀式」がまだ残っているというのは、エイジングに価値を見いだす価値観が細々とでも続いているのだなあ、と、ホッとしたりする。
わたしはコレクターではないので、ただ使わないで古くなってしまったモノには価値を見いだせない。置物には興味がない。使っていて、いい味が出てきたモノが好きだ。
そういうモノに囲まれて生き、往生を遂げられたら幸せだなあ、と思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子