2017年03月27日

【日記】敬称・その2

以前にも「敬称」関係の記事は書いている(「【日記】敬称」)が、また別に思うところがあったので。

「【書評】無宗教こそ日本人の宗教である」をお読みくださった読者の中には、わたしが敬称をまちまちに使っているな? と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
「島田裕巳先生」、「ひろさちや先生」、「山本七平氏」と、確かにバラバラだ。

しかし実は、これらにはわたしなりの統一性があるのである。

1)ご存命の著作者は「先生」。
2)すでに他界なさっているが、自分が生きている期間と重なっていることがある著作者は「氏」。
3)自分が生まれる前に他界なさった著作者は、基本、呼び捨て。ダヴィンチをダヴィンチ氏と書かないのと同じ理由。例外として、敬愛している物故者には「先生」をつける場合がある(例:漱石先生)。
4)すでに他界なさっていても、生前、自分がお会いしたことがある方は「先生」。

基本、こんな感じである。基本であるから応用的に、その時の気分で違う敬称を用いることもあるかもしれないが。

カトリック教会では、身内で司祭を呼ぶ場合は「ナニナニ神父様」だが、対外的な敬称は「ナニナニ師」となる。日本人の場合は違和感ないのだが、外国人神父の場合、妙な違和感を覚えることもある。これは架空の例だが「グワ神父様」の場合「グワ師」となってしまうので、まことちゃんみたいである。
「グワシ」がわからない世代も多いかとは思うが。

「師」で思い出したが、その昔、ロシア語を勉強しているとき、女性の先生を辞書で引いたそのままで呼ぶと「女教師!」と呼びかけることになってしまい、ロシア人は困惑する、という話を聞いた。こちらは、なんだかアダルト物メディアのタイトルみたいである。

わたしが細君を呼ぶときにつける敬称も、人生の折々で変わっている。というか、変えている。

最初は、歳の差もあったし、自然に下の名前に「ちゃん」づけであった。これは長く続き、交際期間はもちろん、結婚してからも十年以上は「ちゃん」づけで呼び続けていた。

ある年の一月一日、「今日からは呼び捨てでいく」と宣言して、実際それから呼び捨てで数年通した。
これは細君を決して下に見て呼び捨てにしたのではなく、むしろその逆で、細君の人生にも自分が責任を持つ、という覚悟の表れで、呼び捨てで行く、と決意したのである。
二人でカトリックの洗礼を受けたあと、たまにお願いごとをするため洗礼名で呼んだりするときは、洗礼名に「さん」づけ。そちらは聖人なので、カトの身内内では呼び捨てにはできない。

そのうち病気をして、自分が弱気になったのと、「自分の人生すらどうなるかわからないのに、細君のそれに責任を負おうなどとはむしろおこがましいことなのではないか。細君には細君の尊重すべき人生があるのだ」と思うようになって、徐々に名前に「さん」づけが多くなったきた。
今はもう名前に「さん」づけが普通である。

どれが正解というわけではなく、二人の人生史の中で、今は「さん」づけがぴったりくる時期なのだろう。

なお、細君がわたしを呼ぶときは、太古の昔は「結城先生」。交際するようになってからは「恭介さん」。以後、それがずっと続いている。
一時期「先生と呼んで」、「社長と呼んで」、「お兄ちゃんと呼んで」とお願いしたこともあったのだが、ことごとく反故にされた。

歌舞伎の「与話情浮名横櫛」には、有名な台詞がある。
「え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富。久しぶりだなァ」
見事に敬称だけで、二人の関係性、過去の因縁をぐいぐいと深く表現していく、素晴らしいいちシーンだ。
単純に考えると、この順番で馴れ馴れしくなっていくわけだが、男女、夫婦の機微というものは、まあ、現実ではそう簡単ではないのだな。

「さん」づけでも「ちゃん」づけでも、呼び捨てでも、わたしの細君への愛はいつも変わらない。これがいつか――今は考えられないが――「おまえ」呼びになったとしても、変わらないのではないかな、と、そう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記