2017年04月30日

【日記】JINSメガネのラバーテンプル

「【日記】メガネ」では十二本持っていると書いているが、実はもう一本あった。ネット通販で激安なところがあり、一度、ツーポイントのものを使ってみたかったため、試しにそこで買ってみたのだった。
レンズデータなどはJINSで測っていたものがあるので、それを入力すれば、オンラインでメガネがつくれてしまう。いい時代になったものである。

出来上がってきたツーポイントのメガネ。それ自体は気に入ったのだが、レンズが安物だったため分厚くなってしまったのは誤算だった。わたしは中程度近視なのだが、妙に渦を巻いたそれになってしまったのである。まるで「キテレツ大百科」の「勉三さん」だ。


(藤子・F・不二雄「キテレツ大百科」1巻より引用。うわぁ……便三さんのメガネ……すごく渦巻いてるナリ……)

というわけで、そのあたりが気に入らなくてお蔵入りに。持っていることまで忘れてしまっていた。

というわけで、実は十三本のメガネに囲まれて生活していたのである。

十三と言えば、まったく話は変わるが、以前、新聞記事で読んだ事件を思い出す。
容疑者はネットで誰かを脅迫したのだが、それのキーワードに「13」が使われており、取調室で「13は裏切り者ユダの数字だから使った」と供述した、とあった。細かいところは忘れてしまったが、実話である。

このバチカン、じゃない、バカチンが!

イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」は、れっきとした十二使徒の一人である。ちなみに十二使徒の中には、もうひとりユダという名の使徒もいる(タダイ)。
というわけで上の供述は、犯人が無知だったか、あるいは無知な刑事の作文ではないかと、当時思ったものだった。
記事をスキャンしておかなかったことが本当に残念である。

ちなみに十三番目の使徒は、イスカリオテのユダが自殺して抜けた後に「マティア」が選出されている(使徒言行録1:23-26)。

なにかの機会に「十三番目の使徒って知ってる?」と話題にして、相手が「ユダ?」と応えたら、ドヤ顔で上の知識を披露したら、面倒くさい聖書おたくと引かれること間違いなしだ。

話がだいぶそれたが、そんなわたしの十三メガネが十二メガネになってしまった。

「【日記】メガネ」で書いた三番目、JINSでつくった視力0.2〜0.3くらいの、一番PC作業に一番向いているメガネのテンプル部のラバーが破れ、そこからジクジクと油が染み出してきてしまったのである。


(おわかりいただけるだろうか。脳漿炸裂ラバー!)

実は以前にも同じ症状で、テンプル部のラバーを交換してもらったことがあるのだ。このラバーの変質は、おそらく加水分解だろうと思われる。「【日記】加水分解」でも書いたが、本当にこのラバー仕立てというのはよろしくない。

そして「【日記】メガネ」の六番使徒も同じフレームを色違いで作り、同じ症状でテンプルのラバー部を交換したことがあるのであった。

このラバーテンプル、こめかみに当たる部分なので柔らかい素材がいいという謳い文句だったが、こういう事態が多発してしまう以上、素材の選択ミスであったと思う。

個人的な見解だが、おそらくこのラバーテンプル、ユーザーの掛け心地重視というより、慣れないアルバイトの店員さんでもフィッティングがやりやすい為に採用したのではないかと踏んでいる。
ラバーテンプルの中に通っているのは針金で、力を入れれば誰でも曲げられるようになっており、セルフレームのようにドライヤーをかけて熱で曲げる技術を修得しなくて済むからである。


(色違いで二本。どれだけJINS好きなんだよ俺)

というわけで、わたしはJINSのメガネが好きで何本も持っているが、このテンプルがラバーになっているタイプはお勧めしない。
ネットで検索しても、同じように加水分解でネトネト、ベチョベチョになったという話がたくさんでてくる。

JINSの良心的なところは、このラバーテンプルを無料で交換してくれるところだ。
というわけで、近々、またJINSへ行かなければならなくなってしまった。それまでは、三番使徒の代わりに四番使徒を代用で使うことにしよう。
JINSに行くと、なんとなく新しいメガネを新調してしまいかねないので用心である。

街のメガネ屋さんは「メガネは医療用品なのだから高くてもしっかりしたものを」と言うが、わたしはファッション感覚でいいと思っている。
「医療用品なのだから高くても――」というメガネ業界の方々は、だったらメガネの作成に健康保険が使えるよう、厚生労働省に働きかけていただきたい。

実際、老眼は皆がなるものなのだから、遠近両用と近用メガネには健康保険が使えてもいいと思うのだけれどね……。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年04月29日

【日記】傘盗人に罪は(ピー)

我が目を疑うとはまさにこのこと!

教会での勉強会を終え、司祭館から外に出て傘立てを見てみたら、自分の傘がなくなっている。
まさか、カトリック教会から傘を盗む奴がいるとは思わなかった。

週日(平日のこと)ミサ後の勉強会だったので、他の信徒が間違えて持っていったのではない。また、盗んだのも信徒ではない。なにしろ、ミサ中も勉強会も、みんな見知った顔で、しかも一緒にいたのである。コナン君も「犯人はこの中にはいない!」と言うことだろう。

そんなわけで、小雨が降る中、ショボショボと濡れながら帰路につくわたし。ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれたミリエル司教もこんな気持ちだったのだろうか、などと思いつつ。
おっと、天の声が聞こえる……。

「赦すのです。わたしがすべてを赦したように、あなたも赦すのです。きっと、突然の雨に困った誰かが、あなたの傘を使う必要があったのでしょう。そのことを喜びなさい。あなたは濡れて帰りますが、その方は濡れずに帰ることができたのですから」


おぉ、主よ。なんと暖かいお言葉。アーメン、アレルヤ!

いやいやいやいや。主よ、わたしは濡れて寒いっす。主イエスはもちろん、司教さまならなんなくお赦しになるだろうし、司祭も助祭も神学生も赦すだろうが、いち信徒のわたしは、ちょっとやっぱり、正直なところ、腹が立ったのであった。

これが、コンビニで盗まれたとか、図書館で盗まれたとかなら、まだ怒りの持って行きようもあるのである。それがよりにもよって教会で盗まれたのだから、なんとも、盗んだ相手を赦せないという自分の狭量さに腹が立つ。うーむ。

なんかこう、神さまに試されているような気持ちである。

盗まれたのが、細君とおそろいで買った、ちょっとお値段高めの思い出の傘というところも嘆きの一因なのであった。これがビニール傘なら、「おぅ、俺って現代のミリエル司教じゃん。レミゼかよ」と濡れながらジーン・ケリーのように踊りつつ帰るところだったのに(それは「雨に唄えば」)。あぁ、おれってばほんと、吝嗇家。がっくり。

というわけで、それ以降、心の狭いわたしは、自分の傘の柄にドリルで穴を開け、そこにマリアさまのおメダイをストラップにしてつけることにしたのだった。

こういうちょっとしたアクセントをつけるだけで傘盗人は怯み、盗むとしても他のものを選ぶらしい。おそらく、傘立てに立っている傘たちの無個性さが盗みやすい要因のひとつになっているのだろう。その中でなにか特徴をつけると、電車の中で目立っているちょっと世界軸の違う方が遠巻きにされる、そんな感じでターゲットからは外されるのだ。

というわけで、傘の盗難被害に遭いたくない方は、むしろ目立つアクセサリなどをつけることお勧め。傘立ての中で無個性になるのが一番ヤバいのである。

以前、海外のどこかのホテルで、部屋の灰皿があまりに盗まれるので、裏側に「これはホニャララホテルから盗んだものです」と印刷してみた、というニュースがあった。そして実際、それ以降、灰皿の盗難被害はぐんと減ったというから傑作だ。

傘にもそれを応用できればなおよろしい。内側に「これは結城から盗んだ傘です」とでもテプラで貼っておこうか。

おや? またしても天の声が聞こえる……。

「罪深き小羊よ。貼るならこう書くのです。『盗んでくださってありがとう。あなたのおかげで、わたしは天国に一歩近づきました』と」


おぉ、主よ。本当はすごく、内心、傘盗人にお怒りなのではないですか!?
まあ613あるトーラー(旧約聖書モーセ五書)に記されたミツワー(戒律)を引くまでもなく「盗んではならない」はモーセの十戒の八番目ですものね。

さて、その一件以来、わたしは傘を盗まれず無事過ごせているわけだが、次に盗まれることがあっても、濡れて帰るようなことはないはず。なぜなら、盗んだら盗み返……ちっがーう! 超小型の折り畳み傘を鞄に常駐させることにしたからである。
今日は外出先から帰る途中、突然の小雨に遭遇したが、この超小型折り畳み傘のおかげで濡れずに帰ることができた。帰宅してから思ったが、こういうとき、盗む人は人の傘を盗むのだろうなあ。

傘盗人の諸君! 人の傘を盗む類人猿並の知性があるのなら、今これを読んでいる機械でちょっとググって超小型の折り畳み傘を購入し鞄に放り込んでおきたまえ。
君が人の傘を盗んでいる間にも、人類の文明はどんどん進化しているのだぞ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年04月28日

【回想録】日記

わたしの小学5、6年のときの担任は、妙な趣味というか、教育方針を持っていた。生徒全員に大学ノートに日記を書かせ、週末にそれを提出させて、読み、いろいろ赤ペンでコメントをつけたりするのである。
学級日誌のレベルではない、大学ノートに、日々の日記を真面目に書かせ、それにコメントをつける。要するに、生徒との交換日記である

今だったら、人権問題で即炎上事案かもしれない。が、昭和の当時は、そんなことが「教育の一環」として、フツーに通用してしまう時代だった。

しかし考えると、日本は今でも「夏休みの絵日記の提出」とかがある国であるから、この「生徒との交換日記」も、平成の今でも教育として通用するのであろうか。
ちょっとググってみたが、学級日誌レベルの情報交換日誌はあっても、「生徒にマジ日記を書かせて先生が読む」といいう話はなさそうだが……。

日記の内容がよいと先生に誉められ、クラスの文集に転記して掲載されたりする。
わたしも一、二回はその「名誉」にあずかったが、うれしくはなかった。こまっしゃくれた生徒だったわたしは、そういう日記は「これは先生受けするだろうな」というセンを狙って書いていたからである。

わたしの感覚から言えば、夏休みの絵日記だろうと、自分の日記を先生に読まれるのは「キモッ」である。思想調査とまでは言わないが、生徒の感情や人間関係を管理するひとつの方法だったのかもしれない。あまりいい趣味とは言えないのではないか。
なので小学生のわたしは意識して、その日の行動記録しか書かなかった。日記ではなく日誌である。

 起床7時。いつもどおり学校へ。授業をこなす。帰宅して夕食までテレビ。「キカイダー」は特撮物としては唯一面白いと思える番組。夕食は、卵焼き他。この日記を書いて就寝。


こんな感じである。
で、これを続けていたら、ある日先生の怒りが爆発してしまった。赤ペンで日記の最後に――

「結城はもうちょっと真面目に、毎日思ったこと、感じたことを書くように!」

内面吐露の日記なんて書いて先生に読ませたくないよ! と、正直心の中でぶすくれたが、まあ先生を敵に回すのは得策でないので、たまには先生受けする内容の日記を書くようにしてバランスを取るようにしたのだった。

この先生に感謝するとすれば、「日記をつける」という習慣が身についたことだろう。

といっても、三つ子の魂百までというやつで、わたしの日記はほとんど小学生の頃につけていた「日誌」そのもの。その日の行動記録である。
一時期はボイスレコーダーまで使って、正確にライフログを取って記録していた期間があったほど。これはさすがに二年で音をあげてやめた。

日記を書く媒体は、大学ノート、ワープロ、パソコン、システム手帳、原稿用紙と、折々で変わっているが、細々とでもずっと書き続けていられるのは、行動記録の日誌と割り切っているからかもしれない。

しかしこの行動記録の日誌というものは、オトナにはわりと役立つのである。一年前の同じ月の頃を読み返すと「そろそろアレに手を着けないと」「今月使うあの書類はあそこにあるな」「あぁなるほど、前回はここで失敗したのか。今回は注意しよう」と、同じ轍を踏むトラブルが回避できるからである。

ブログが「Web Log」つまりウェブ日記であることは周知のことだが、この言葉が一般化する前は、そういうページは「日記サイト」などと呼ばれていたものだった。
わたしも個人サイト「深夜のお茶会」を開いていたが、「日記サイト」をやっている方に対しては危機感ないのかなぁ≠ニ思って読んでいたものだ。
もちろん、ネットワークのダイナミズムを理解し、韜晦できる文章技術を持った人なら良いのだが、そういう知恵や技術を持たない人の「日記サイト」は、かなりの個人情報が筒抜けであった。
今のように、誰しもがネットを使う時代ではなかったからこそ、大きな事件も起きなかったのである。

今は昔のそういった「日記サイト」の役目はツイッターが果たしているが、炎上事件が毎日のように起こっているのはみなさまご存知の通り。

「いまさら日記」を通してお読みいただいている方はご承知かと思うが、わたしはこのブログに、リアルタイムな行動記録は決して書いていない。コンテンポラリーな記事を突っ込むことはあるにしろ、どこかに行った記事は後日談にしているし、これからの予定を記すこともない。
わたしの生活パターンも読めないよう、朝8時に記事を一本自動投稿というペースを続けている。
もちろん、行動記録の日誌は別につけている。

そのかわり、思ったこと、感じたことを中心に、読み物として読者に読んだ時間だけの価値があるものを、ということを意識して書いている(必ずしもそうなっていないのは素直にごめんなさい。わたしの筆が拙いためです)。
おそらく、冒頭の先生が書いてほしかったのは、こういう日記だったのだろうなぁ、と思ったりもする。

なお、この先生は、わたしに「恭介は漫才師か作家になるといいな」と勧めてきた方でもあった。一番いいのは漫才の構成作家になることだったのかもしれないが、まあこんな形で、たぶんあのときの先生よりも年上の自分がいたりする。

20年くらい前、作家として先生に請われ、講演会を開いたことがあった。これはちょっと思い出したくない記憶となってしまったのだが、そのときにお会いしたのが最後である。
今でもお達者でいらっしゃることを祈る。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年04月27日

【回想録】ドーンスレイブの思い出

実写版「美女と野獣」は良かった。一緒に観た細君は感激で涙ぐんでいた。久々に「映画の楽しみを十全に味わえる映画」である。



アニメ版「美女と野獣」は、1993年9月にマリオンで細君と観ていた。日本公開は1992年9月とのことだから一年後のことだ。このタイムラグが不思議だが、日記によるものなので間違いはない。おそらくビデオ発売が同時期にあったので記念映写会があったのだろう。
アニメ版ももう一度観たくなってしまった。

なのに、タイトルは「【映画評】美女と野獣」ではなく「【回想録】ドーンスレイブの思い出」である(笑)。いや、だって、実写版「美女と野獣」の方は完成度が高いので、なにか書いてもネットのみなさんの感想の焼き直しにしかならない気がするので。

「ドーンスレイブ」は、よい子のみなさんは遊べない、18禁のアダルトゲームである。確か、もうMS-DOS上ではなく、Windows95に入ってからのゲームだったと思う。
英語で書けば「DAWN SLAVE」。夜明けの奴隷という意味だ。通称「ドンスレ」。

舞台は中世。主人公はそこの軍隊の師団長。仕えている姫(確か名はファナ)が好きになってしまい、さらって遠くの城まで魔法で連れて行き、幽閉し、ともに生活する。
裏切りを察知して王の派遣した軍隊がその城まで来る期間に、籠絡した姫の心を自分に向けさせることができればハッピーエンド、というゲームである。

「美女と野獣」を観て「ドンスレ」を語りたくなった理由がわかるでしょう?(笑) 話の骨子は似たようなものである。

姫の最初の主人公への感情は「サイアク」である。なにしろ主人公は、彼女をさらったその日に欲望のまま悪行に及ぶような野獣先輩^h^hなのであった。ここまではプロローグで、プレイヤーはどうすることもできないところなので仕方ない。

この「印象サイアクー」な状態から、ラブラブにまでもっていくのはかなり大変なのであった。もうね、それに比べたら「美女と野獣」のベルはかなりチョロインですよ。

ゲームは基本、毎日、姫に何をさせるか、自分が何をするかのコマンドで進めていく。最初からすべてのコマンドができるわけではなく、姫の心の開き具合やその他の条件で、できることは増えていく。このあたりの微妙なバランスが良い出来のゲームであった。

なにしろアダルトゲームなので、いろいろ悪行ができるのだが、コマンド選択後のチップアニメが可愛らしいのである。姫を散歩に誘い「のこのことついてきた」ところを、後ろからドーンと突き飛ばして悪行に及ぶ。チップアニメがヘコヘコ動く。その可愛らしさに笑ってしまう。
他にも、アダルト小説を朗読させたり、ろうそくを使ったり、木馬を使ったりと、やりたい放題である。姫の心を開かせるというより、むしろその心の自由を奪って奴隷にするのが主眼という感じ。

こういう鬼畜なコマンドばかりではなく、姫の心を慰撫するコマンドも選べる。温泉に連れて行ったりとか、ご馳走をふるまったりとか。

わたしはラブラブな方が好きなので、毎日、姫にひどいことはせず、ご馳走ばかりふるまっていたら、姫がだんだん太っていくのに笑ってしまった。芸が細かい。

このゲームのベストエンドは、姫の身も心も主人公のものとなり、王が派遣した軍隊から共に逃げてくれる、というものだったと思う。しかしわたしは、一回もそのベストエンドを経験できなかった。
たいてい、姫が最後に「あなたのしたことは許せないけれど、殺すこともできない」などというようなことを言って、主人公を逃がして姫は王のもとにもどるエンド、であった。ゲーム自体の難易度はかなり高かったのである。

何度やっても、ベストエンドを迎えることができないので、しまいには姫をいじめ抜いてみたりする(ひでぇ)。「責め苦がいやなら俺のことを好きと言え」精神である。
コマンドの中に「水責め」という拷問があり、姫を逆さ吊りにしてプールに漬けるのだが、これを三日繰り返すと、姫の目はうつろになり、しまいには自害してしまう。くっ、悔恨……。

細君に「女心がわかってない」「嫌いになるだけ」「絶対に好きと言ったりしない」と指摘されたが、そんなことはわかってるって!

というわけで、「ドンスレ」の姫は「美女と野獣」のベルとは違い、かなりガードの堅いヒロインであった。何度やっても、王の派遣軍に殺されるか、姫に逃がしてもらうエンドしか拝めなかった。

今、「ドーンスレイブ」で検索しても、このゲーム自体のレビューはあまり出てこないが、声優もうまく、佳作だったと思う。本作は続編も出て、そちらも遊んだが、一作目ほどのインパクトはなかった。

もし、野獣が「ドンスレ」をプレイしていたら、最初の方でエマ・ワトソンを水責めにして、村人に殺されるエンドを迎えていたはずである。
そんな「美女と野獣」も観てみたい、とちょっとでも思ったわたしは心が野獣である。が、がぉ。

HDDを探してみたら、当時、開発元の「有限会社ブラウニー」のサイトで公開されていた懐かしい壁紙が発掘された。作中でひどいことをされているファナ姫が、主人公にパンチを一発かませている一枚と、ヤンキー化している一枚である。同社は2003年1月に清算したとのこと。残念である。
当時を懐かしいと思ってくださる方のために、引用をペタリ。
この佳作に関わった皆様への感謝とともに。



タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年04月26日

【日記】読書時間

最近、なかなか読書する時間がとれずにいて、本が積まれていくばかりである。
文庫本や新書版ならカバンに放り込んでおいて、外出時のちょっとした時間にチョコチョコと読むこともできるのだが、最近は代わりにポメラDM5を入れているものだから、隙間時間に書き物を回すことができる反面、インプットの量が減ってしまうという現象が起きている。

一応、電子書籍が読めるよう、タブレットもカバンに突っ込んでいるのだが、頭がアウトプットに向かっているときは、なかなか落ち着いてインプットの方向に心を向かわせられない。時間がないことを言い訳にしたくはないのだが、若い頃と違って、睡眠時間を削ってでも本を読むということはできなくなった(主治医に八時間睡眠を厳命されていることもあるし)。

そんな中、読書時間ゼロの大学生の割合が、ほぼ50パーセントになった、というニュースが入ってきた。
こういう統計の数字は印象操作されやすいものなので、これをもってして「今の若い人は本を読まない」と決めつけるのはナンセンスだと思う。だが、なにか理由を見つけては若い人を叩きたいメディアの格好のデータにはなってしまうのかもしれない。
特に、バブルより上の、活字信仰がある、頭が鉛でできている世代からは。

わたしが思うに、読書はもう、現代では趣味の領域になってしまっているかもしれないのである。
これだけ情報伝達の手段が高度化高速化密接化している時代に、読書だけが「知性のメルクマール」として特別視されるのは旧態依然としている。

今の若い人たちは、我々オッサン世代が若かった頃に比べて、ネットでたくさんの情報を瞬時に得ているし、仲間同士のコミュニケーションもSNSで密である。それらに時間を取られていたら、読書時間が減るのもいたしかたあるまいとも思う。

読書というのは、基本的に孤独な作業である。きっと今の若い人は、孤独な時間自体が減ったのだ。それはいいことでも悪いことでもない。時代が変わったということである。

そんな風に思いながら、記事の元データを見てみると、おや、と、気づくことがある。
元データとなっているのは、全国大学生活共同組合連合会の「第52回学生生活実態調査の概要報告」のうち、「(2)読書時間・勉強時間」の下記のグラフである。

【図表20】1日の読書時間

このグラフを見ると、30〜60分の読書時間を持っている大学生と、60分以上の読書時間を持っている大学生が、両方合わせると、ほぼ40パーセントもいるのである。いやはやどうしてどうして、これ、頼もしい数字である。どうしてマスコミはこちらの方を報じないのか。実に印象操作があからさまである。

「一日30分の読書時間」というのは、簡単そうに見えて、かなり大変なものである。

新共同訳聖書のメジャーな版はたいてい二段組になっているのだが、一段がほぼ一分で読める分量である。それで計算してみると、新旧約聖書(旧約聖書続編を除く)を通読するのに、一日30分読めば130日ちょっとで読了できるペースなのだ。
「年間二回は聖書を通読しています」というクリスチャンはプロテスタントでもそういないのではないか。
わたしの新旧約聖書通読のトップギアペースは75日間である。正直、このペースで読んでいると、他の本を読むことはほとんどできないと感じる。

上記のデータによると、一日60分以上読書している大学生は19.1パーセントもいるという。「読書はすでに趣味の領域かもしれない」と前述したが、社会人にしろ学生にしろ、ほかにやるべきことをやりながら、一日に趣味の時間を一時間とるというのは、かなり難しいということは、体感でわかるはず。

今の大学生は本を読まなくなった、と、上のデータを引いて嘆く論者は、試しに聖書を通読してみると良い。旧新約を通して何日で読み通せたか、さらにそれ以外に何冊の読書ができたかデータを取ってみれば、おそらく、日常生活を営みながらだと「けっこう読めない」ことがわかると思う。
長患いで入院生活でもしていれば、また話は別かもしれないが……。

わたしも40パーセントの大学生に負けていられないなあ、と思う。なんとか時間をやりくりして、聖書以外に30分の読書時間を作る努力をしないと。ふんす。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記