2017年04月09日

【日記】枝の主日

今日4月9日は、カトリックの典礼暦で「受難の主日」、別名「枝の主日」である。
2017年は今日だが、これは移動祝日である「復活の主日(イースター)」の一週間前の日曜日なので、毎年、日付は違っている。今年は遅い目だ。

今日から一週間は、カトリック信徒にとって一年のうちで一番重要な「聖週間」と呼ばれる七日間、イエスの受難を想う、黙想と節制の週である。

しかしこれ、正直なところ日本人としては、桜が開花してからだと、ちょっと気分的にズレが生じてしまうのだ。春の訪れで暖かくなるめでたい気持ちと、イエスの十字架の道行きの苦行が、心の中でシンクロしにくくなってしまう。
年によってはバッチリと、復活の主日直後に桜が開花したりして、そういう年は実にすばらしいタイミングだなぁ、と、主の復活の喜びもひとしお、ウキウキしてしまうものだが。

海外のお祭り大好きな日本でイースターが根付かないのは、この日が移動祝日であるといういうことと、それが、ちょうど春の変わり目に必ずしも一致しないから、という面があるからだと思う。
これから先も、おそらくイースターは日本人の間では定着しないだろう。

さて、今日の「受難の主日」が別名「枝の主日」と呼ばれるのは、ミサの最初に「枝の式」が行われるからである。
イエスは政治的改革者たらんことを期待されてエルサレムへ入城したわけだが、そのときイスラエルの民は、ロバに乗ったイエスを棕櫚の葉を振って歓迎した。
それに倣ってカトリック教会の「枝の式」は、司祭、信徒ともお聖堂の外で行う(ことが奨励される)。司祭は信徒が持った枝(棕櫚の葉、あるいは常緑樹の枝)の祝福を行い、聖書朗読の後、信徒たちの振る枝と能天気な歌に歓迎されながら、お聖堂へ入堂するのだ。



ところが――ミサがはじまると、そのめでたい気分が一転する。
今日の福音朗読は朗読劇となっており、三年周期でマタイ、マルコ、ルカの同じシーンを読むことになっている(今年はA年なのでマタイ)。イエスがピラトに尋問され、イスラエルの民の前に引き出される箇所だ。

そこで、さっきまで棕櫚の葉を振り歌でイエスを歓迎していた会衆(信徒)は、こう叫ぶのである。

「十字架につけろ! 十字架につけろ!」

毎年、この台詞を言うたびに、なんとも複雑で、心苦しい、暗澹とした気分になる。
イスラエルの民は政治的改革者を期待してイエスの入城を祝ったが、イエスが自分たちを目に見える形で解放する者ではないとわかった途端、サンヘドリン(最高法院、ユダヤ教の指導者たち)の扇動で、いとも簡単に寝返り、賛美者から迫害者へと変わる。

これ、現代でも同じことが行われていないだろうか。
マスコミによって持ち上げられ、大衆の人気者となった人が、なにか過去があったりちょっとした過ちを犯したり、マスコミ(所属事務所)の気にくわないことをすると、同じマスコミに扇動されて、大衆が今度はその人を叩く側に回る。こんなことはしょっちゅうである。

「十字架につけろ」と叫ぶのは簡単だ。
しかしその前に、それが正しいことなのか。自分の頭で考えたことなのか、誰かに扇動されてそう言ってしまっているのではないか。あげた拳を降ろし、口をつぐんで、考える時間があってもよいのではないか――
「十字架につけろ」――この言葉を「枝の主日」と「聖金曜日」で言うたびに、そう思う。

特に現代は「十字架につけろ」と同じ意味の言葉をフリック入力し「送信」を押して叫ぶまで、数秒も必要としない時代である。

今、あなたが持っている小さな端末は、ゆがんだ世界を真っ直ぐにすることもできれば、無実の人間を十字架にかけることができるかもしれない機械なのだ。
「送信」を押して「叫ぶ」前に、一息入れて、そのことに心を留めてみる瞬間を持ってみるのも大事かもしれない。

「枝の主日」でいただいた、祝福された枝は、一年間、信徒の家庭で保存され、翌年の「灰の水曜日」の前に燃やされて灰となり「灰の式」で使われる。
家庭祭壇に置くカトリック家庭がほとんどだと思われるが、我が家ではクマのプーさんのぬいぐるみに抱いてもらって一年過ごすのが定番となっている。
今は瑞々しい枝も、翌年には乾燥してパリッパリだ。



一年間、カトリック家庭を見守ってくれる枝である。今年も、神様がともにいてくださいますように。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記