2017年04月13日

【日記】聖木曜日

カトリックの聖週間のうち、最後の木金土は「聖なる過ぎ越しの三日間」と呼ばれ、クリスマス以上のダイナミズムを持ったミサ・祭儀を行う期間となる。

今日はその「聖木曜日」。「主の晩餐の夕べのミサ」と呼ばれる。四旬節の間、歌われることがなかった「栄光の賛歌」が高らかに鳴り響くカンパネラともに聖堂に満ちる。
だが以降、この教会の鐘は復活祭(復活徹夜祭)まで鳴らされることがない。

この「動」から「静」へ、「静」から「動」への典礼を通し、カトリック信徒はキリスト・イエスの死と復活のダイナミズムを自らのうちに再現させるのである。

「主の晩餐と夕べのミサ」では、ヨハネ福音書13章で、主イエスが弟子たちの足を洗ったことに倣い、司祭が、祭壇前に並んで座った信徒たちの足を洗う「洗足式」がある。

洗足と言っても、石鹸とタオルでゴシゴシ、というわけではない。信徒の素足に暖めたお湯をかけて、タオルで拭く、というもの。
この信徒は十二使徒に準じて12人であることが望ましいが、事情によって少ない場合もないではない。また、足を洗われる信徒に女性を入れるかどうかも、司祭の考え方による。



この式の元となったヨハネ13章での、ペトロの調子に乗り具合が好きだ。最初は遠慮していたくせに、いざイエスに足を洗ってもらうとペトロは図に乗って――

そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(ヨハネによる福音書 13:9)


イエスは答えて、お前はもう全身清いのだから足だけでいいよ。と言うのだが、きっと、苦笑していたと思う。聖書にも聖伝にも、イエスが笑ったという伝えは一箇所もないのだが。

洗足式では、わたしも何度か、足を洗ってもらったことがあるが、脱いだ素足が臭かったら申しわけないなぁ、と、実はたいていミサ前にエタノール消毒などしてスリッパに履き替え、そのときを待っていたりしたのだった。
司祭よりもむしろ、こちらの方が気を遣ってしまったり。

聖体拝領後、ご聖体は仮祭壇へと移される。祭壇布も取り去られ、聖櫃は空となり、つねに点灯していた聖体ランプも消される。
いつも点灯している聖体ランプが消えているのは、例えようもない喪失感である。

というわけで、今日はしんみりと筆を置く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記