2017年04月23日

【日記】キリスト者の声は届いているか?

「イエス様は、わたしたちの罪のために十字架にかけられ、わたしたちをあがなってくださったのです。この福音を喜び、神様の恵みを分かちあいましょう」

毎週、ミサに通い、司祭の説教を聞くたびに、わたしは考えている。これを未信者が聞いて、果たして、キリスト教徒になりたい、と思う人がどれだけいるだろうか、と。

カトリックのミサにおける司祭の説教は、プロテスタントの牧師先生のそれよりもはるかに短いと思う。実際、カトリックの場合は、説教はそれほど重要視されていない。なぜならミサのクライマックスはホスチアとぶどう酒を聖変化させたキリストの肉と血をいただくこと――聖体拝領――にあるので、説教自体に重きを置くことはあまりないからである。

もちろん、司祭によって、説教の上手い下手はある。説教の上手さイコール司祭の司牧能力ではないし、逆もまた真なりではある。
このあたり、プロテスタントの牧師先生とは、またちょっと違うのかもしれない。エキュメニカルなイベントなどで、牧師先生の話しぶりを聞くと、「うまいなあ」と、正直、感心してしまう。

ただ、その「感心」も、わたしがクリスチャンだからこそ、なのだ。一番冒頭に書いた台詞。いかにも司祭や牧師先生が言いそうな一言だ。どうだろう、これを読んで、すんなり「キリスト教っていいな」と思う未信者がどれだけいるだろうか。

司祭の説教集や、牧師先生の書いた本を読む機会もたくさんあるが、それらの言葉の大体が内向き、つまり、クリスチャン向けに書いてあるとわたしは思う。
クリスチャンの方のブログなども拝読しているが、やはり同じような印象を受ける。とてもピュアであり澄んではいるが、やはりクリスチャン内部での言葉のやりとりに終始している印象を受ける。。

「イエス様=v「罪」「十字架」「あがない」「福音」「恵み」「分かちあい」。言ってしまえば、これらはすべて、業界用語である。日本人の97パーセントを占める非キリスト信者にとって、こんな言葉を使われた説教をされても、ピンとくることはないだろう。「いいお話だったなぁ、来週もまた教会に来てみよう」などとは思うまい。

そこで、キリスト教系新興宗教に限らず、仏教系新興宗教であっても、逆の手段で信者の獲得を図るようになる。つまり「脅し」である。「今のままだとあなたは地獄に墜ちる」「今、あなたが不幸なのは信仰がないから」と脅すのである。もちろん、これは間違った布教方法だし、それ以前に、間違った宗教である。

わたしはクリスチャンなので、キリスト教のことしかわからないが、上記のような業界用語で韜晦することなく、本来、もっとピンポイントで、わかりやすく「キリスト教」の良いところを伝えるべきではないか、と、日々、思っている。

それは簡単なことだ。「我々の人生は死で終わるものではない」という、シンプルな話である。それを2000年前にイエスが先陣を切って証明してくれた、ということである。

我々自身も、我々の愛した人々も、あらゆる創造物も、それを信じれば(イコール、イエスを信じれば)、かの日にすべて復活する。これこそが業界用語で言うところの「福音」なのだと。
他のいろいろな概念や神学は、結局はこれにすべて収斂するのだ。

キリスト者は、このシンプルな「喜び」を未信者に伝えるべきなのである。あなたの人生もまた、死で終わるものではない、と。
「信じる者は救われる」のではない。「救われたから信じる」のである。「あなたはもう救われている」と、気づかせてあげるのが宣教なのである。

わたしの友人は仏教徒(宗派は知らない)なのだが、やはり尊敬できる僧侶がいて、その行動や気遣いに、仏教はいいな、と思ったのだそうだ。
キリスト教徒も同じである。洗礼を受けた我々は、すぐに内向きになってはいないだろうか。勉強会といい、聖書研究会といい、業界用語を使う内輪褒めの集団化してはいないだろうか。
クリスチャン人口3パーセントのこの国では、本来、もっともっと外を向くことができるはずだ。それは決して、某新興宗教のように戸別訪問をしよう、ということなどでは絶対なく。日々の生活を通して。

わたしも、もし街で暴漢に刺されでもしたら「結城さんは毎週教会に通う敬虔なクリスチャンだった」と新聞に書かれる程度にはケーケンな信者だが、このブログでは、ありがちなクリスチャン像、カトリック信徒像を壊していきたいと思いつつ、いろいろ書いている。
流行の萌えアニメも見れば、バンバン拳銃を撃つ暴力的な映画も好きだ。マンガもよく読むし、甘い物には目がない。決して「主の恵みに感謝」「十字架の主に救いを」「主よ来てください」などと、神様神様した、浮き世離れした生活を送っているわけではない。前教皇はキュベレイだし、怖い顔だったと思っている(でも猫好きなんですよ、前パパ様)。

なにも難しいことなどない。我々クリスチャンが特別ではないこと。悩み、惑い、人生の理不尽にため息をつき、それでも「我々の人生は死で終わるものではない」ことを信じて生きていることを伝えれば良いのだ。

「神のいつくしみの主日」に、神の恵みに感謝しつつ。アーメン。(と、最後は業界用語でオチをつける)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記