2017年04月24日

【日記】文系は作者の気持ちでも考えてろ

「文系は作者の気持ちでも考えてろよ」という文系に向けた理系の煽り文句があって、最初に一読したとき、クスッとしてしまった。確かに現国のテストにありそうなテキストではある。

しかしこれ、こういうエッセイなどはともかく、小説などには当てはまらないのである。たとえ私小説でも、それが小説である限り、作者がそのまま物語の中に登場するわけはないからだ。

私小説でないならなおさらそう。このときの作者の気持ち≠ネんてのは「どうやってこのキャラを殺そうか」とか「今日は良く書いたなー」とか「ちょっとこいつ喋らせすぎ」とか「やべ、腹具合が……」とか「あ、伏線回収忘れた!」とか「こりゃどうにも間に合わないね。逃げちゃうか」とか、おそらく読者の想像を絶することばかり考えているのが普通である。

実はこういうエッセイだって本当はそう。今のわたしの気持ち、下の五択から解答できますか?

1)これでほぼ原稿用紙一枚、と。
2)一人の作家として「作者の気持ち」をどう解説したものか。
3)そろそろ甘いものを注文するかなあ。
4)高畑充希さんて歌うまいな。
5)くっそDM5ときたらキーが打ちにくいでがんす。

正解は――もうおわかりでしょう。全部あたりなのである。

「楽天主義セラピー」で有名なリチャード・カールソン先生によると、わたしたちは一日平均、約五万回の思考をしているそうである。単純に16時間起きているとして、一時間に3125回、一分間に52回。つまりほぼ一秒に一回は「なんらかの思考」をしているわけだ。今これを書いている瞬間にも、わたしの頭の中で上の五項目は過去のこととなっており、あたらしい気持ちになっているのである。

今の気持ちは「あっ、タバコくせぇ。喫煙席に人が入ったな」だ。次の瞬間には「完全分煙しろよなぁ」と変わっている。

というわけで、上記「文系の人間は作者の気持ちでも考えてろよ」という文言は、文系煽りとしてはあまり出来の良いものではない。「【回想録】モルフィーワンの思い出・その2」でも書いたが、文系の人間から見ると理系の人間は、頭は良いが利口ではないのである。

これが「文系の人間は登場人物の気持ちでも考えてろよ」だったら、ひとひねりが効いてるな、と感じたと思う。こうなると、作者でもなかなか、手に負えないところがあるからだ。

わたし個人の作劇法は舞台のそれに近く、映画的ではない。つまりまず「フィールド」があり、そこに最小限のキャラクターを登場させ、最大限にストーリーを進める。最初から最後までシナリオは決められており、監督の立ち位置で書いている。「登場人物の気持ちを考えろ!」と、俳優であるキャラクターに命じているのは、むしろ、作者であるわたしなのである。

おや、そうなると、第一の問い「文系は作者の気持ちでも考えてろ」には汎用的な正答があるような気がしてくる(すくなくともわたしの場合は、だが)。

正解:「登場人物を自分の意図の通り動かそうとしている」

ストーリーテラーの中には、キャラにシチュエーションを与え、あとは彼らが動くまま、筆に任せて、登場人物が自分の意図を越えて動き出すのがいい――という方もいらっしゃるようだが、少なくともわたしはそういうタイプではない。

器用貧乏を買われて、SFからミステリーからごちゃまぜでいろいろ書いてきたが、作劇法はすべて変わらなかった。キャラクターが意図通り動かなくなってきたら、それは筆がノっているのではなく、むしろ調子が悪いのだ。すべての登場人物が、監督であるわたしの意図通り動いてくれないとダメなのである。

なので、このことを処女作品以外書いたことはないが、実はどんな作品でも、脱稿後しばらくは、全文をほぼ暗記していた。500枚近い長編でも。

話を元に戻すと、「作者の気持ち」にしろ「登場人物の気持ち」にしろ、それがテストの問題になってしまうとしたら、それは本来、作家の負けなのだと思う。国語の偏差値30の者には理解できず、70の人間にはわかる、そんな表現はよろしくない。
まあ、これはあくまで、わたしの私観だが。

ところで、今の私の気持ちを下の五択から解答せよ。



1)甘いものきたわぁ。
2)(待ち合わせ中の)細君からの連絡まだかなぁ。
3)おっと、食後のクスリを忘れずに、と。
4)これで原稿用紙四枚程度かな。
5)というところで、オチをつけておしまい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記