2017年05月16日

【回想録】PHSの思い出

ワイモバイルブランドを擁するソフトバンクが、現在、国内唯一残っていたPHS事業について、一般向けの新たな契約の受付は2018年3月で終了と発表。
また、ひとつの時代が確実に終わったのだな、と思う。

PHSはその昔、開発途上ではPHP(Personal Handy Phone)と呼ばれていた。その頃からわたしはとても期待を寄せていた。携帯電話より通話・通信料金が安く、また、携帯より高速な32kbps通信が期待できるとされていた。
この32kbpsという数字がいかにも時代を反映しているが、その頃はインターネットもまだ一般化しておらず、パソコン通信で使うのには十分な速度であったのだ。

携帯電話の初期にIDOのそれをいれたことは別記事で書いたが、当時は携帯でパソコン通信をするのは、通信の価格的にちょっと無理な時代であった。
それで、多くのパソコン通信ネットワーカーは、通信用にPHSを買い求めたのであった。
その頃のニフティサーブも、PHS通信用のPIAFSアクセスポイントを用意してくれていたという記憶。
最初期は、ドコモ、DDIポケット、アステルの三社があった。今や統廃合が進み、一応名前が残っているのはドコモだけ、である。
ネットワーカーの評価では、DDIポケットが一番人気だったという印象が残っている。

わたしはSHARPのPaldio 611SというPHSを使用していた。これはとても名機である。二つ折りの筐体で、通話も普通にできる。下部のカバーを外すと、PCのPCMCIAスロットにプスッと挿すことができ、通信カードに早代わり。いちいちケーブルをつなげる必要もないという優れものであった。



これは、PCMCIAスロットに挿すと充電できるという機能がついていたが、Windows95 OSR2やWindows98では省電力機能が働いてしまいうまく動作しなくなってしまった。ので、わたしは「PALDIO PC充電ユーティリティ」というフリーソフトを作って配布していた。使ってくださった皆様には、そこそこ好評だったと思う。

PHSは事業者の意図とは違う方向に流れ、「安い携帯電話」として、ポケベルの代わりに女子学生が使うようになっていったのだと思う。「ピッチ」という言い方が一般化していったが、ネットワーカーはそういう呼称は最後まで使わなかったような。

そのうち、携帯電話の通話料金も格段に落ちていったので、女子学生以外の社会人にとって、PHSはネット接続専用機になっていった。

Paldio 611Sは、一部のISDN TAに子機として収容できた。わたしはその機能を使い、事務所内ではPaldioとTA間をPIAFS接続で接続し、PCをISDN無線接続していた。WiFiが当然の今となっては、なんとも信じられない話かもしれないが、その時代はノートPCであっても、フツーはネットに有線接続だったのである。

今でこそWOLで地球の裏側からでもネットがあれば自宅PCの電源を入れられる時代だが、当時はまだ常時接続は夢のまた夢。そこでWOR(Wake On Ring)という機能があるモデムカードを使って、それにISDNのサブアドレスを組み合わせ、自宅のPCの電源を入れる、などという、珍しいことをやっていた。

インターネットが一般化していく流れの中で、PHSも転換期を迎えた。そして登場したのがウィルコムの京セラ製「京ぽん」である。ちなみにウィルコムは2005年2月2日に社名変更した、元DDIポケットである。

それまでのPHSが、なんらかのPCにつながないとネット接続できない時代、京ぽんは筐体自身にブラウザ(Opera)を搭載し、Webブラウジングができたのであった。わたしもさっそくとびついた。



こんなAAが2ちゃんねるの各所で見られた頃である。
今、過去ログを検索してわかったのだが、わたしは「京ぽん」をオンライン通販で買っていた。こういう買い方は初めてであった。付録に「わたしが京ぽんを使う50の理由」という非売品の本がついてきていた。


(今読むと、「携帯と二台持ち推奨」とかのコラムがある。うーむ)


(京ぽんを使って出張先から通信中)

京セラはその後「京ぽん」の後継機である「京ぽん2」を発売。さらに、2006年1月27日に、パケット通信が32kbpsから64kbpsに変わるという発表がウィルコムからあり、これは「京ぽん2」でしか使えなかったので機種変更を決意。
実際に使ってみると、剛性感が「京ぽん」よりちょっと落ちていて残念であった。



上の写真は「京ぽん2」の上部画面だが、上についている丸二つはクッションとしてわたしが貼り付けたもの。これがないと、二つ折りにしてもピッチリ閉まらなかったのだ。

そんな欠点はあるものの、「京ぽん2」は重宝していたが、やがて、ドコモが携帯の方にパケホーダイのサービスをはじめたので、その頃使っていたN901iSに「jigブラウザ」を導入した。これは月額/年額利用料を払うサービスだったが、支払う価値がある性能であった。

となると、「京ぽん2」の出番も少なくなる。携帯とPHSの二台持ちは面倒だし、モバイルでPC接続ができなくなるという不安はあったが、「最近、Jigブラウザで十分だしなぁ」という考えもあって、ウィルコムと契約解除。以降、PHSと縁が切れてしまった。
ウィルコムには、W-ZERO3という、今のスマホを先々取りしたような端末もあったのだが、その頃の日記には「自分の用途には合いそうにない」と書いてある。どう用途に合いそうにないのか記していないので、なぜその機種に乗り換えなかったのかどうかわからない。

なお、モバイルでのPC接続はやはりその後必要になって、数ヵ月後、E-Mobileと契約している。これは二年縛りの満期が来てやめた。
スマホを入れた時点で、当然、「Jigブラウザ」も契約を解除。

今のモバイルPC環境は、mvnoのsimを使いテザリングでWiFi接続である。もっとも、ほとんどの調べ物がスマホかタブレットで事足りる。便利な時代になったものだ。

思い返してみると、わたしのPHSの思い出は、簡易携帯電話としての使い方はまったくなく、すべて通信絡みである。
PHSがなくなるということに、ひとつの時代が終わるのだなあという感慨はあるが、特に残念感はない。

PHS黎明期には、街を歩いていて「あ、ドコモのアンテナ発見」「DDIポケットのアンテナは派手だな」「お、駅構内にアステル基地局発見」というような楽しみがあったことを思い出す。そういえば、電柱についていたPHSのアンテナもあまり見なくなった。

技術革新は確実に進み、新しいものに移っていくのである。
我々は、いい時代に生きている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年05月15日

【日記】どうぶつこうえん

細君「やったー、どうぶつこうえんに着いたよ。たっのしー!」
わたし「ここにくるのはほぼ半年ぶりですね。前回は特に記事にすることもなく過ごしたのですが――」
細君「あーん、おなかへったよー。ジャパリまんはないし……」
わたし「なんでも、『けものフレンズ』とコラボした甘いものがこの動物公園にはあるとか聞きましたよ」
細君「わーい、いってみよー。あっ、でもその前に売店に」







細君「『けものフレンズ』とコラボしたグッズがたっくさんあるね! たっのしー!」
わたし「好きな人はたまらないでしょうね」
細君「でもわたしたちは甘いもの≠セねっ。いこーいこー」

というわけで、レストランの入り口へ着いた二人。そこに待ち構えていたのは――

お姉さん「ちょっと待つのだ」
細君「えっ?」
お姉さん「そっちのわたし≠ヘ何者だ?」
わたし「それを知りたくて、このどうぶつこうえんに来たんですが……」
お姉さん「教えてほしければ、この甘いものを食べて感想を言うのだ」


(サーバルちゃんドリンクと、フェネックちゃんドリンク)


(それぞれステッカーもついてきます)

細君「んー、甘くて美味しい。うっれしー」
わたし「サーバルちゃんのほうに入っているのはタピオカですね。構成自体はアイスティに生クリームが乗っていて、チョコレートとかカラーシュガーがトッピングされている飲み物≠ナす」
お姉さん「なにっ、お前、甘味がわかるのか!?」
わたし「そうですね。この本によると、哺乳類の甘味受容体はT1R2とT1R3のヘテロ2量体で構成されているそうですが、ネコ類はT1R2がないため甘味がわからないとされています。一般論ですが、肉食動物より、草食動物の方が、食物に含まれるエネルギー源である糖分を判別するために甘味がわかるとされています。わたし、草食動物なのかもしれませんね」
お姉さん「やはり……そこまで理屈っぽい上に甘味がわかるお前は、ヒト≠ネのだ」
わたし「ヒト?」
細君「あ、やっぱりヒトだったんだー。わたしくん、よかったねー」

     *     *

というわけで、わたしの住む地方都市の動物公園で「けものフレンズ」とのコラボ企画のグッズ販売や、ドリンク販売をしていたので、ちょいと細君と寄ってきた。このコラボ企画、全国四都市の動物園で行われているそうなので、せっかく近くに該当動物園があるのに行かないのはもったないと。

行った日が良かったのか、グッズはけっこう潤沢にあるようで、欲しい方はお早めに行けばまだ入手できるかもしれない。企画自体は5月31日までの期間限定だそうである。

目当てはコラボ企画の「甘いドリンク」だったのだが、これは本当に「ドリンク」だった。ちょっとパフェのようなものを期待していたので残念。上記のとおり、サーバルちゃんとフェネックちゃんのふたつを購入して、細君と半分こ。
味は良いのだが……、このドリンク、ひとつ800円というのは、正直、ちょっとお高い気分である。それぞれのキャラのステッカーがついてくるのだが、それでもなぁ、うーむ……。

いやひょっとしたら、サーバルちゃんドリンクに入っていたタピオカは、サーバルちゃんのおなかの中を通過してきた「コピ・ルアク」のようなものだったから高かったのかも!?

「けもフレ」ファンの方は、五種類全部のドリンクを制覇して帰られるのだろうなぁ、などと細君と話しつつ、ゴロ寝しているライオンなどを見て回った午後なのだった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年05月14日

【日記】五大陸のロザリオ

普通の人にとって、「ロザリオ」はネックレスのようにぶら下げる、先に十字架がついているアクセサリーである。多少、詳しい人になると、それがカトリックの「数珠」であり、首から下げるのは良いことではないことを知っているくらい。別名は「コンタツ」。カウンターという意味だ。

カトリックの信仰生活を送っていると、ロザリオは、溜まる。それこそ、なにかの記念ミサや贈り物でいただく機会が多いので、数十個のレベルである。腕輪のように小さい一連ロザリオや、指に通して使う指ロザリオのような珍しいものもある。

そのラインナップの中でも、五大陸のロザリオ≠フ美しさは、信徒でなくとも心惹かれるものがあるようだ。

ロザリオには十個つながる珠の連≠ェ五つ連なって、ひとつの輪を構成しているのだが、五大陸のロザリオ≠ニは、その五つが緑、赤、白、青、黄の各色となっており、それぞれの色が「アフリカ」「アメリカ」「ヨーロッパ」「オセアニア」「アジア」の各大陸を表している、というものである。ちなみに南極大陸は華麗にスルーである。

わたしが持っている五大陸のロザリオ≠ヘ半透明の美しい珠の物だが、素朴な木製の珠のそれも良いな、と思っている。そのうち機会があったら入手できることだろう。



さて、五大陸のロザリオ≠ノは、マザー・テレサが関係する逸話の都市伝説がある。が、日本語で「マザー・テレサ 五大陸のロザリオ」などで検索しまくってみても、出てこない。しかし、確かにわたしは聞いたことがある。はて、ネットで読んだ話ではなかったのかしらん。
そこで英語でググってみると、こちらは一発で、しかもいくつも出てきたのであった。以前そちらのページを読んで覚えていたのだろうか。

というわけで、わたしの拙い訳、それもドラマタイズ含む意訳で、この逸話を日本に紹介したい。

 1981年のこと。ジム・キャッスルはヘトヘトの状態でオハイオ州シンシナティで飛行機に乗っていた。45歳のこの経営コンサルタントは、一週間にわたるビジネス・ミーティングやセミナーを開催し、今は、自宅カンサスへと向かうシートに深く身を沈めて、飛行機が飛び立つのを待っていた。

 飛行機に多くの乗客が入りはじめると、雑多な会話やバッグを開閉する音が混入しだした。と、そのときである。突然、人々がサーッと沈黙するのがわかった。その沈黙の空気は、見えないボートのように通路をゆっくりと移動してくる。ジムは何が起こっているのかをその目で見て、口をポカンと開けた。

 機内の通路を歩いているのは、青いラインの引かれたシンプルな白い修道着をまとった二人のシスターであった。ジムはそのひとりに見覚えがあった。しわを帯びた肌、暖かい目。ニュースやTIMEの表紙で見た顔だ。二人はジムの隣席に座った。それが、マザー・テレサだった。

 最後の搭乗者が機内に入ったとき、マザー・テレサともう一人のシスターはロザリオを取り出した。ジムは、そのロザリオのビーズが、十珠ごとに色が違うことに気がついた。ジムの視線に気づいたマザー・テレサはこう説明した。
「この五色の色は、地球のそれぞれの大陸を表しています。わたしは、この五つの大陸で、貧しさの中で亡くなっていく人々のために祈っているのです」
 飛行機は滑走路へとタキシングし、二人の修道女は小さな声で祈りつつ、ロザリオを繰り始めた。
 ジム自身はカトリックではなく、教会へ行く習慣もなかった。しかし、彼女たちの祈りの声が、自分の心にスッと入り込んでくることを、彼は快く感じていた。
 そして飛行機は巡航高度に達した。
 マザー・テレサは、ジムに微笑みかけた。そのとき、ジムははじめて、なにか「オーラ」をもっている人と対面したときに、人がなにを感じるのかを悟った。それは平和と、暖かい夏の微風のようであった。
「あなたは――」マザー・テレサは尋ねた。「頻繁にロザリオを祈っていますか?」
「いいえ、すみません」と、彼は答えた。
 マザー・テレサは、ジムの目を見ながら、彼の手をとり、その手に五大陸のロザリオ≠握らせて、言ったのだった「そのうち、そのようになります」

 一時間後、カンザスシティ空港に飛行機は降り立った。ロビーで彼と合流した妻のルースは、彼の様子がいつもと違うこと、また、手にしていた五大陸のロザリオ≠ノ気づき、尋ねた「なにかあったの?」
 ジムはルースにキスをし、マザー・テレサとの出会いを説明した。クルマを運転して家に戻ると、ジムは言った。「俺は、神様の本当の妹に会ったような気がしているんだ」


ここまでが前半部である。
わたしが以前、知っていたのは、この前半部だけであった。ここから先は初見な気がするが、以前は読まなかっただけかもしれない。
後半いってみよう。

 九ヶ月後、ジムとルースは数年前からの友人であったコニーを尋ねた。彼女は卵巣ガンを患っていることを二人に告白した。「医者は厳しいケースだと言っているの。けれど、わたしはそれと闘うつもりよ。あきらめないわ」
 ジムはコニーの手を握った。そして、ポケットに入れていた、マザー・テレサの五大陸のロザリオ≠、優しく彼女の指の周りに巻いた。ジムは、このロザリオがどうやって彼の元に来たかを彼女に話し、言った。「これを持っていて、コニー。きっと君の助けになるよ」
 コニーはカトリックではなかったが、彼女はそのロザリオをそっと握りしめ、つぶやいた。「ありがとう」

 それから一年、ジム夫妻は再びコニーに出会うことができた。コニーは顔をパッと明るくして、ジムに駆け寄り、あのロザリオを渡した。「聞いて。わたしはこのロザリオと、一年中、一緒にいたの。先月、外科手術を受けたんだけど、そうしたら腫瘍は消えてしまっていたのよ! 今は化学療法で治療しているところ」そして、続けて「今のわたしには、このロザリオはもう必要ないみたいなの。あなたにお返ししなきゃと思っていたのよ」

 1987年の秋、ジムの妻ルースの妹、リズは、離婚後の落ち込みからうつ病になっていた。ジムにロザリオを借りることができるかどうか聞いてきた彼女に、彼は快く了解した。そして彼女は、マザー・テレサの五大陸のロザリオ≠ベルベットの袋の中に入れ、ベッドの上にかけた。
「夜になると、わたしはそれを手にとって、胸にいだきました。とても寂しくて、一人ぼっちになることを恐れていたんです」と、彼女は後に言った。「でも、そのロザリオを握ったとき、わたしはそのロザリオが、暖かく、わたしのことを握り返してくれるように感じたんです」
 やがてリズは人生を立て直し、前向きに生きる道を見出すことができた。彼女はジムにロザリオを返した。「もうわたしは大丈夫。誰か他の人が、これを必要とするかもしれないから」

 1988年のある夜、見知らぬ女性がルースに電話をかけてきた。彼女はマザー・テレサの五大陸のロザリオ≠フ噂を聞いて、借りることができないかと助けを求めてきたのだ。彼女の母は昏睡状態に陥っていたのである。ルースは快くロザリオを貸した。
 数日後、女性はルースにこう報告してきた。「ナースは昏睡状態の患者さんでも、まだ声は聞こえると言っていたの。わたしはロザリオを母に握らせたわ。そうしたら、母はとてもリラックスした顔になって、平穏で、まるで、わたしが子どもの頃知っていた溌剌とした表情になったのよ。そして、数分後、亡くなったわ」
 彼女はルースの手を握り。言った。「ありがとう。このロザリオを貸してくれて」

 このつつましいビーズで組まれた五大陸のロザリオ≠ノ、なにか特別な力があるのだろうか? あるいは、ロザリオを借りた一人ひとりの精神力が、なにか新しくなったのだろうか?
 ジムはその後も、人々の突然のリクエストに応じてこのロザリオを貸し出している。彼自身、そのたびに、なにか特別なものを感じている。
 彼は言う。「あなたがロザリオを必要としているときに、これをお貸ししましょう。必要としなくなったとき、送り返してください。他の誰かが必要としているかもしれないから」と。

 飛行機での、予期せぬマザー・テレサとの出会い以来、ジム自身の人生も変わった。
 彼は、マザー・テレサが、小さなカバンひとつですべてのものを運んでいることを実感したとき、彼自身の人生をシンプルにするようになった。
「わたしは、お金や名誉や財産ではなく、他人を愛することこそが、本当に重要なことだと知ったのです」


というのが、この「マザー・テレサの五大陸のロザリオ=vの都市伝説である。「都市伝説」と書いたのは、これの真偽がわからないからだ。果たして、ジム・キャッスルなる人物が本当にいて、マザー・テレサから五大陸のロザリオ≠手渡されたのか、誰かの創作なのか、そのあたりは全然わからない。

どうもこの逸話は、Webに載る前は、アメリカを中心にメールで回されていたようである。

ロザリオの逸話と言いつつ、後半部は単に「マザー・テレサのパワーを伝えるオマモリ」化してしまっていて、肝心の「ロザリオの祈り」がまったくなくなってしまっているあたりも、ちょっとヘニョってしまうところだが、今や「聖人」となった「聖マザー・テレサ」の逸話としては、こういうものもあってもいいかな、という感じだ。

ちなみに、キリスト教は、ローマやバチカンの印象から、ヨーロッパ発祥の宗教だと思われがちだが、実はアジア起源の宗教である。旧約、新約の舞台であるパレスチナは西アジア圏に位置する。
五大陸のロザリオ≠ナいうと、黄色の珠の一連である。

マザー・テレサの逸話はいろいろあるが、わたしは次の実話が好きだ。

 あるエキュメニカルの(教派を越えた)集いで、プロテスタントメインライン、プロテスタント福音派、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などそれぞれの教派、宗派が、これからの世界の平和について意見を述べあった。場は和やかに終盤になり、最後に、有名なマザー・テレサに一言、という段になった。マザー・テレサは言った。「わたしは、毎日のミサでいただくご聖体によって生かされています」


教派・宗派を越えたエキュメニカルの集いである。最後に一言「主義主張を乗り越えて、平和は実現できるのです」とでも言わなければいけない空気の中、マザー・テレサはガッチガチのカトリックだったのだ。

そんな空気を読まないマザー・テレサが大好きである。
五大陸のロザリオ≠フ都市伝説も、マザー・テレサらしい、本当にあったことかもしれないな、と思いつつ――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年05月13日

【日記】セブンイレブン「クリームブリュレ氷」

5月8日からセブンイレブンで新発売された「クリームブリュレ氷」。各ニュースサイトで「超ウマ」と話題なもので、甘いもの好きとしては試してみたいと思っていた。
しかしこれ、ニュースサイトで話題にならず、店頭で見かけただけだったとしたら、購入しなかったと思う。
なんとなれば、この商品、フタの部分に「スイーツなかき氷めしあがれ。」と書いてあるのである。
実はわたし、甘いもの好きだが、「かき氷」は食べないのであった。理由はいろいろあるが、まあ結局のところは「かき氷」が好きではない、ということなのだろう。

で、この「クリームブリュレ氷」。話題なのでもう店頭にはないかな、と思ってセブンイレブンへ行ってみたら、けっこう在庫がある。となれば試してみるほかあるまいよ。

というわけで、細君の分と合わせて二個購入して、帰宅。
今日はまだ5月なのに7月の暑さ、ということもあって、冷たいスイーツを食べるのには手ごろな陽気である。



フタを開けてみるとこんな感じ。確かに噂通り「サイゼリヤのミラノ風ドリア」っぽい風貌だ。



射祷の後、一口、二口、食べてみる。
ん? これは――かき氷っぽくない! むしろソフトクリームである。種類別では「ラクトアイス」だが、まあ細かいことは気にしない。わたしの苦手な、いかにもの「かき氷」ではない。クリーム感が舌に心地よい。
わたしより舌の感度の優れている細君の感想では、「プリンアイスのカラメルをひっくりかえした感じだね。おっ、中にもキャラメルソースが入ってる」と、喜びの声。



わたしとしては、前述のとおり「かき氷」感がないのが嬉しい。これはアイスクリームの亜種である。ウマウマぱくぱくいただいて、すぐに完食。
とても美味しゅうございました。神に感謝。

甘いもの好きとしては、ちょっとお値段お高めでコストパフォーマンスはアレだが(これを2個買うお値段で、業務スーパーならカップアイス4個買えてしまう!?)、まあケチくさいことは言わないで、セブン夏季限定商品とのことなので、もし見かけたら是非お試しを。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年05月12日

【回想録】DC-1の思い出

この先、なくなる可能性があるプロダクツとして、「ファクシミリ」「コンデジ」「デスクトップPC」の三つが挙げられているそうである。

わたしの個人的な考えとしては、ファクシミリは確かになくなりそうだし、なくなってほしい。デスクトップPCはなくなりはしないだろう。そしてコンデジは――ジリ貧なのかもしれない。気分的にはなくなってほしくないが、やはりスマホで代用されれば、なくなってしまう運命なのかもしれない。

わたしが最初に買ったコンデジは、リコーのDC-1であった。1995年のことである。当時はコンデジという言い方はまだなく「デジカメ」である。一眼レフのデジタルカメラがまだ登場前だったからだ。


(今でもいいデザインだと思う)

DC-1は高かった。アクセサリを全部そろえると、今の高級一眼デジカメより高かった。同時期に、カシオからQV-10という安価なデジカメも発売されたのだが、そちらには食指が動かなかった。やはり格段に画質が違ったからである。

とはいえ、DC-1の解像度だってVGA並だった。撮影される画像フォーマットもj6iといういうjpegの亜流のもの。そして、画像を記録するメモリがまたバカ高い! たしか一枚、八万円くらいしたような記憶。これは動画をとるため、アクセスの早いメモリを使用したからだ、という解説があったが、それにしたって高すぎである。


(本体以外のいろいろ。リモコンもついていたが、これは再生用で、これでリモートレリーズはできなかったと思う)

そう、DC-1は画像だけでなく、動画や音声も録れたのであった。このあたりは先見性があるが、実際録れた動画や音声は質が悪く、実用性はそれほどなかった。

なんと、単体では画像ビューアの液晶部はついていない。二眼式で、ファインダーを覗いて撮影画角を決める。ちょっとした光学ズームもついているが、画角はお世辞にも広角側が十分とは言いがたく、このあたりは、ビデオカメラの設計を踏襲しているなあ、と感じたものだ。


(画像ビューアユニットをつけたところ)

画像ビューアの液晶部をつけても、それで撮影前の画角チェックはできない。あくまで、再生専用である。なんともため息がでる仕様である。

再生は、増設バッテリーユニットを兼ねたテレビへの出力アダプタで行う。テレビに映し出すと、VGA並の解像度とは言え、その美しさは抜群だった。
PCへは、RS-232Cでのシリアル転送か、メモリカードを読めるペリフェラルで行う。
また、前述の通りDC-1はj6iという特殊なjpegフォーマットだったが、これをjpegに変換する専用のソフトがリコーから発売されていた。このインターフェイスがもう、Windows3.1のそれなのである。ふっる! とつっこみたいところだが、Windows95登場前なのだから仕方ない(笑)。


(ソニー仕様のガム型ニッカド電池と莫迦高いメモリ。しかもたった8メガ)

読み返すと文句ばかりだが、DC-1がいい機種であったことは間違いない。なにしろ、ライバル機種がほとんどいない時代である。選択の余地がなければ比較のしようもないのである。

わたしはもともと、動画より静止画が好きなタイプなのだが、デジカメはなかなか民生品として開発されず(ソニーの「マビカ」はあったが)、8ミリビデオムービーカメラの方が開発の勢いの方が強かった。
それでわたしも、取材のときには8ミリビデオムービーカメラを使っていたのだが、やはりビデオというのは(わたしの)取材スタイルにはあわないのである。どうしても、撮影することが主になってしまって、取材メモではなくなってしまう。別にビデオ作品がつくりたくてムービーカムを持ってでているわけではないのだ。

そんなわけで、コンパクトに使えるデジカメの登場は、わたしの夢でもあったのだ。DC-1が高くても飛びついてしまった理由も、半分は夢の成就、というところがあったのかもしれない。

拙著「コール」の中で、目黒の寄生虫館とその周りの様子を描いているが情景があるが、あれが初めて、DC-1で撮影した写真を参考に書いたシーンであったと記憶している。


(クリックで拡大できるのがDC-1の生画質)


(1995年当時の目黒寄生虫館内。クリックで拡大できます)

デジカメが超珍しい時代であったので、ある雑文の一回目でデジカメのことに触れたら「これからずっと、先生がデジカメで撮った一枚を一緒に載せていきましょう」と言われて、「こりゃまいった」と思ったときもあった。
画質がいいと評判のDC-1とて、上記の拡大画像を見ていただければお分かりいただけるとおり、銀塩カメラには遠く及ばない画質である。
しかもこのDC-1、前述の通り、広角側に寄っていない。フラッシュが白トビする。合焦が遅いものだからシャッターチャンスを逃がす。バッテリーがソニー仕様のガム型ニッカド充電池なのだが、これの劣化が早く、二、三枚も撮ると、もう音をあげるようになってしまう。そんなハンデもあって、記事の内容にあわせた写真をとるのにも苦労した。

ちょうどその雑文の連載が終了する頃には、デジカメもだいぶ一般化したような気がする。個人ホームページの製作ブームもそれを後押しした感じだ。

DC-1があまりに高かったので、その減価償却が終わらず次のデジカメを購入できない、というジレンマもありつつ、けっこう長い間、DC-1を使い続けたと思う。

別記事でも書いたが、今は、風景をパシャリ、なにか煙でもあがっていたらパシャリ、珍しいものがあったらパシャリ、が許される時代だが、当時はやたら撮影を警戒する管理者がいて、法律上なんら問題のない風景写真を撮っていても、頭から湯気を立てて「撮影許可取ってんの?」とノシノシやってくるような管理人がいた。
フィルムの現像も、紙焼きも高く、同じ被写体を何枚も写しているのはプロか探偵くらいしかいなかった時代だったからであろうか。極端な話、昭和の頃は、24枚撮りのフィルムを入れたカメラに三年分くらいの記念写真が納まっている家庭も珍しくなかった。

盗撮犯やデジタル万引きは許されるはずもないが、法律上許されている風景写真や、突発的な事件の写真などをすかさず撮れる現代は、実によい時代になったと思う。

あっそうだ。そんな恵まれた時代の若者へ、頭の固い昭和生まれのオッサンから一言。
「ムービーは横画面で撮ってくれ」
以上である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録