2017年05月24日

【映画評】メッセージ

お菓子の「ばかうけ」が宇宙船になってやってくると話題の映画。
原作はテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」。でもわたしは未読である。
トレーラーから楽しみにしていたので、2ちゃん映画板の該当スレも読まずにいた。そしてそれは両者とも正解だった。



良い映画だった。ラストの伏線の折りたたみ方が素晴らしい。しかしそれを書くわけにはいかない。この記事ではネタバレはしないと決めた。あのシャマラン監督の映画よりラストの落とし具合が感動に結びつく映画だと思うからである。

ギリギリ書ける線で言えば「叙述トリックの一発ネタ」である。ああ、これすらも書くべきではないのかもしれない。しかしこの感動は一発ネタを越える。

さて、物語の核となっているテーマのひとつは「言語体系は思考をつかさどる」「言語体系を変えれば思考は変わる」である。これは実際、他国語を真剣に学んだ者なら誰しもが体験することだろうし、また、人工言語であるコンピュータ言語でもそうである。

以前、非常に古いタイプのMS-BASICしか知らない方に、Cでのプログラミングをお教えしたとき、「ローカル変数を使う意味がわからない」「ルーチン(関数)を最初に宣言する意味がわからない」「ループからの抜け出しにGOTOを使ってはいけない理由がわからない」の、ないないづくしであった。要するに、その人の言語体系に「構造化プログラミング」という思考がなかったわけである。
かく言うわたしはPerlが大嫌い。あの、何でも簡略化して書けるコードは気持ちが悪い。あれを好きなプログラマは、おそらく日常でも「メシ、フロ、ネル」亭主ではないか(古いな)。

さて、本作「メッセージ」を観終わったので、いろいろな方の映画評を読んで楽しんでいる。多種多様な意見が出る映画はそれだけで良い作品の証だ。
本作では「ヒロインは宇宙人の言語(ヘプタポッド語)を理解できるようになるに従い、未来を観る能力≠得た」という解釈が多いようだが、(正確には、過去、現在、未来という時制を越え時間を流れとしてではなく全体として眺望できる能力≠得たというべきだが、話を簡単にするためにこのように書く)むしろここに入れる言葉は「能力」ではなく「思考」の方が正しいのではないだろうか。
前述の通り、言語体系が変えることはできるのは「思考」である。英語がわかるようになったからと言ってベースボールができるようになるわけではない。
「能力」ではなく「思考」だからこそ、未来に悲しい出来事が起きることがわかっていても、それを受け入れ、将来を変えようと考えなくなったのである。

ヒロインはヘプタポッド語という新しい言語体系を身につけることで、決定論的な未来を受け入れる「思考」ができるようになった、ということなのだと思う。そして「思考」は「行動」を変えるのだ。

映画「マトリックス」の中で、仮想空間のトレーニング場で闘い息を上げた主人公ネオに対し、モーフィアスは言う。「Do You think that's air you're breathing now?(その息は本物か?)」

同じように、本作のヒロインも「未来はわからない」という固定概念的思考をヘプタポッド語の習得により変えることが可能になったが故に、未来を観ることができたのである。
超能力と言ってしまえば超能力だし、ファンタジーだと言ってしまえばファンタジーだし、SFだと言ってしまえばSFだ。
しかしヒロインが、これから訪れる、悲しい未来の出来事を知りながら、それを変えることなく受け入れ生きていこう、という姿勢になったのは、思考を変えたからなのである。

「未来はすべて決まっていて変えられない」という決定論的な本作の結末を受け入れられない、という方は多いようだが、決して未来は変えられない、と断定しているわけではない、とも思う。
ヘプタポッド語もコミュニケーションのための言語である以上、変化していくだろうし、完成された言語というものが存在するはずもない。
また、ヘプタポッド語自体が難解であることは想像に難くなく、解釈の仕方によっては違う未来があるかもしれない。

ただ言えるのは、ヘプタポッド語を習得したヒロインも、ヘプタポッド語を操るヘプタポッド人も、未来を変えようという「意思」がないから、未来を知ることができるのである。ここのところ、因果が逆なのだ。

「我々ヘプタポッド語未習得の地球人が、未来を観ることができないのは、未来を変えようという意思があるからこそなのである」
これこそが、ヘプタポッド人が三千年後に求めているという、人類への救いなのではないだろうか?

などと、これは、原作未読のわたしが映画を観て、帰り道につらつら考えたことを日本語にしてみたものである。あまり脈絡がないこと、ご容赦。

わたしは泣き虫なので、子どもを病気で失ったヒロインという同じ境遇もあり、かなり泣くかと思っていたが、要所要所ではウルッと来はしたものの、大泣きまではいかなかった。

それにしても、ヘプタポッド語が「円」を基本にしているのは素晴らしいと思う。わたしは「円」、それも「円周率」が好きだ。円周率は無理数で永遠に続き、その中に、デジタイズされたあらゆる物語が含まれている。
冬の寒い日、バスを待つ道路でマンホールを眺めながら、この円の中に、わたしという人間の物語の、その喜びも、涙も、すべてが含まれているのだと思うと、不思議な気分になる。
この段落、少し言葉足らずのきらいもあるが、これはそのうち、機会があったらまた書こう。

わたしには珍しく、細君を誘って、ふたりでもう一度観にいこうか、迷っているところである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評