2017年06月25日

【日記】新元号を当ててみせる!

 天皇陛下のご退位も確実になり、新元号は何になるのかに気をもんでいる業界も多いという。カレンダー業界などでは一ヶ月ずれ込むごとに印刷の外注費などで総計数十億の追加費用がかかるとのこと。それは確かにしんどそうだ。

 コンピュータ業界も、既存プログラムを新元号に対応させるのに、あちこちで悲鳴があがるに違いない。

 しかし今のところ、その新元号の発表スケジュールがいつになるかすらも決まっていないような状況だそうである。なんとも、国民みんながやきもきしそうだ。

 1979年の大平内閣時代にまとめられた閣議報告「元号選定手続き」には以下の6項目があるそうである。

1)国民の理想としてふさわしいような良い意味を持つものであること
2)漢字二字であること
3)書きやすいこと
4)読みやすいこと
5)これまでに元号又は諡として用いられていないこと
6)俗用されていないこと

 これらに加えて、現在はコンピュータ、ネット時代であるから、最近の明治、大正、昭和、平成を区別できるアルファベットM、T、S、Hが頭文字になる元号は採用されないとの見通しである

 で、わたしは考えた。
 やはりコンピュータ時代であるから、古いシステムを稼動させている会社も多いことを鑑みて、新元号にUnicodeのみにある漢字はもちろん、JIS第二水準漢字が使われることもないだろう。
 となると使われるのはJIS第一水準の漢字だ。それは2965文字ある。元号は上記レギュレーションから「漢字二字」であるそうだから、その組み合わせは2965の自乗で8791225通りあるわけだ。

 要するに、それを網羅してしまえば、必ず「当たる!」のではないか?

 というわけで、ちょいと簡単なプログラムを作って、その八百七十九万千二百二十五通りの二文字の「新元号予想」をリストアップしてみた。下記からダウンロードしていただきたい。なにぶん大きいもので、zip圧縮してある。

「新元号予想リスト(zip)」

 展開するとほぼ50メガバイトのテキストファイルとなる。スマホなどのプアなエディタだとハングアップするかもしれない。



 なお、過去に使われた元号は[このカッコ]でくくっている。
 絶対に使われそうもない二文字も多量に含まれているが、そのあたりを削除していくとこの作戦の持つ卑劣さが薄まってしまうのでやらない。

 この作戦名は「必殺・暗黒流れ星オペレーション」とする。


(島本和彦「炎の転校生」7巻より引用)


(島本和彦「炎の転校生」12巻より引用)


(島本和彦「炎の転校生」12巻より引用)

「そう! あとは総当りだけだっ!!」

 なんでも新元号は「人目に触れた瞬間、絶対に採用されない案」へと替わってしまうのだそうだ。なので、上のリストはパブリックドメインとする。どんどんバラまいて、政府を困らせていただきたい。ふふふ。はーはっはっは! なんと卑怯な俺。いったいどんな新元号になるのか、今から楽しみである。

 もし新元号が上記リストの中にあったら、わたしは堂々と「新元号をコンピュータを使って当てた男」を名乗るつもりである。間違ってないし(笑)。

 ちなみに過去の元号では、「白雉」「永祚」が上記リストには引っかからなかった。だから可能性100パーセントというわけではない。
 もし、新元号が上記リストになかったら、そうだな、丸坊主になる覚悟である。

 あ、ちょっと不安になってきた(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月24日

【日記】あなたは○○が好きなのではなく

「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけなんですね」

 という台詞が、ここ数年、窮鼠猫を噛むための最終攻撃として使われているように思う。
 たいていは、自分の好きなジャンルの話をしていて、とうてい相手の偏った知識量にかなわないと悟ったときに、イタチの最後っ屁のように使われる感じだ。

 たとえばわたしは、洋画が好きで洋画ばかり見ている。そこで「映画好き」の人と話をしていて、相手が邦画専門なので話が合わないとする。「邦画は全然見てないんですよね」などと言うと、相手がドヤ顔でこう言う訳だ。「あなたは映画が好きなのではなく、映画が好きな自分が好きなだけなんですね」

 はい、上等。わたし、映画が好きなのではなく、洋画が好きなんです。だから「映画が好き」という前提からして間違っているので痛くもかゆくもない。
 逆に「そういうことにしないと、この人は自分のプライドが保てないんだな」と、この台詞を言った人を可哀想に思ってしまう。
(実際にこんなことを言われたことはない。あくまで例である。念のため)

「あなたは洋画が好きなのではなく、洋画が好きな自分が好きなだけなんですね」
 と言われたらどうかな? うーん。「そうなんですよ。そんな自分が大好きなんです」と満面の笑顔で受けるかもしれない。

 どんなことにせよ、自分のことを好きだと言えるのは、ものすごく大きなアドバンテージですよ。そういったものは多い方がいい。この自己嫌悪の時代を生き抜いていくためにも。

 いったいだれがこの「イタチの最後っ屁」を編み出したのかは知らないが、どうにもその人には、人間に対する大きな誤解があるように思う。まだ若くて、純粋な人なのであろうか。「人間、○○が純粋に好きでなければいけない」、「ファッションで○○が好き、というのは違う」というような潔癖感を感じずにはいられない。
 しかし人間、長く生きていれば、本来「人が○○を好きであること」と「○○を好きな自分を好きであること」は矛盾しないということを自然に悟るのである。むしろそれは相乗効果で良い結果を生むことが多いということも。
 わたしは細君が好きだし、細君が好きな自分が好きだ。このふたつになんの矛盾もないし、むしろ補完関係にあると言ってもよい。

 と言うわけで、「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけなんですね」という台詞を言った方は、その○○という事象、ジャンルがなんにせよ、大元の○○の本質を好きであるというレベルにおいても、もう白旗を挙げたのだとわたしは感じる。

 逆に「そんなあなたは、なにが好きな自分が好きなんですか?」と、問うてみたくもある。そうすれば、「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけなんですね」という返し方が、むなしい、中身のない、空虚なイタチの最後っ屁であることがよくわかるはず。

 わたしは「テニスが好きな自分が好きです」「美術館巡りが好きな自分が好きです」「食べ歩きが好きな自分が好きです」と、素直に言える人の方に好感を覚える。
 逆に「テニスは好きですがテニスが好きな自分は嫌いです」とか言われたら「うわ面倒な人だな」と引いてしまわないだろうか?

 結局のところ、「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけなんですね」という台詞は、相手を自分の好きなジャンル戦に引き込めず、マウンティングができないがゆえの苛立ちが生んだ言葉に過ぎないのではないだろうか。

 やはり、若い――というより精神の発達がまだ幼い――人が使う台詞だなぁ、と感じる。

 こんなわたしは、最近、「食事が好きではなく、食事を好きではない自分が好きではない」ということに気づいてしまった。
 ほうら、面倒くさい人間でしょう? 自分だってこんな自分が嫌だ。
「あなたは食事が好きなのではなく、食事が好きな自分が好きなだけなんですね」と言われてみたいよ、まったく。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月23日

【日記】朝食抜き生活

 いつ頃この習慣を始めたのかは覚えていないが、わたしはもうずっと、朝食抜きの昼夕二食生活である。

 最初のきっかけは、歳を取って生活で消費されるカロリーが少なくなった結果、多少体に肉がつき、BMI22の標準体型になったときかもしれない。
 もとが痩せ型だけに「太った?」と言われ、それならダイエットしてやる、と奮起したくだりは、以前にも書いた覚えがある。
 そこで摂取カロリーを減らすため、単純に「朝食を抜けばいいや」と考えたわけである。
 まあ実際、BMI22は「標準体型」と言われているが、わたしの私感では「太り気味」ではないだろうか。

 いくつか病を抱えている今のわたしが言っても、説得力はないかもしれないが、朝食抜き生活は決して不健康なものではない。成長期を過ぎ、生活での消費カロリーが減った年代の人間にとっては、むしろ理にかなった食生活だと思う。

 朝食をとらなければ、午前中の力がでない、というのは嘘である。食べ物の消化というのは、けっこう体にとって負担になるのである。朝食を食べなければ、それだけ胃腸の負担は減る。一日数時間はそういう胃腸を休ませる℃條ヤが必要だ。
 脳だけは糖分が必要なので、頭がどうしても働かないから朝食が必要、というのなら、バナナでも一本、食べておけばよろしい。

 朝食抜き生活を続けていると感じるのは、こういう話をすると、「朝食はとらなければいけない」という謎の勢力が、シュバババとやってきて、ああだこうだと屁理屈をこねるということだ。

 曰く「朝食をとらないと、体がカロリーを余計にため込むようになり、太りやすい体質になる」。曰く「朝食をとらない子どもは成績が悪いという統計がある」。曰く「お通じが悪くなる」。曰く「栄養失調になる」。エトセトラ、エトセトラ。

 こんな戯言は、ぜーんぶ嘘か、統計を恣意的に解釈したイカサマである。ただ、自分が食べたいがための言い訳。わたしはこういう人たちを「朝食信仰」「三食信仰」の狂信者だと思っている。
 特に「食べないと太りやすい体質になる」という謎理論。バッカじゃなかろうか。わたしは魂の不滅を信じるキリスト信者だが、リアルな肉体は、摂取カロリーと消費カロリーの差のみで痩せたり太ったりし、食べていないのに太るような超常現象はありえないという常識的思考の持ち主である。
「食べないと太りやすい体質になる」という人で、「食べるのが嫌い」という人は一人もいない。結局、自分が食べたい言い訳として謎のオカルト理論を発明しているのである。未開の人種なみ、いや、未開の人種の方が痩せている分、未開の人種以下のおめでたいお脳の持ち主とは言えまいか。

 いささか攻撃的に書いたが、本心だから仕方がない。「自分は太りやすい体質」と述べる方は、食事がそれほど楽しい行為ではないわたしからみたら、食べなくてもふくよかな体を維持できる奇跡のお体をお持ちなのだから、むしろ一日一食、いや、三日に一食生活にしてみたらどうでしょう。きっとお望み通り、お痩せになられると思いますよ?

 もっとも、「朝食信仰」「三食信仰」は強力な洗脳力を持っている新興宗教なので、ブログではこんなことを書いていても、実生活でそれにハマっている方と宗教論争などはしない。「わたしは胃腸が弱いので朝食はとらないんですよ。主治医にもその方がいいと言われていまして」と、華麗にスルーである。

 朝食をとらなくていいメリットはたくさんある。ひとつは、朝の忙しい時間を、朝食でムダにせず有効に過ごせるということ。朝食についてあれこれ考えなくてすむので、ほかのことに頭を使えること。後片付けをしなくてすむこと。
 そして実際に、午前中、体が軽い。お通じもいい。私は一日二食生活にしてから、食べれば必ず出る体質になった。
「食べないと太りやすい体質」どころか「食べないから出やすい」体質になったのである。胃腸に余計な老廃物をため込まない体質になったのだろうか。もちろん、これもなんの根拠もないオカルトだが。

 最近、自分が「食事を面倒に思うタイプ」だと再認識したら、抜けるときは昼食すら抜くようになってしまった。昼食はアイスクリームか甘いコーヒーで十分である。
 さすがにこれはよろしくない。むしろ生きる気力の低下につながると自分でも思うのだが、本当に、それだけで腹一杯になってしまうのだよなぁ……。

 今の時代、右を向いても左を向いても美食の情報が溢れ、美味いものは正義≠ェまかり通っている。上のようなことを書いているのは、所詮、味音痴の負け惜しみ。三食、楽しんで食べている方が本当は羨ましいのである。
 なので「健康のため朝食抜き生活はお勧め」などと書いたりはしない。
 でもね、逆に、食べない人にあなたの「朝食信仰」「三食信仰」を押しつけようとするのはやめて、それは折伏大行進だから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月22日

【書評】理系の料理

五藤隆介著「理系の料理」。

サブタイトルに「チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の」がつく。他のアオリには「●「下味をつける」って専門用語?」「●新しい言葉は定義してから使いませんか?」「●全工程を俯瞰できる「フローチャート」付き」とも。



さて、わたしは、料理できないダンスィであった。いや、正確に言えば、今だってできるというレベルではない。Cで言えば、やっとhello world.ができるのだが、ソースの冒頭になぜ#include <stdio.h>をつけるのかは理解できていないレベル。その程度である。

そんなわたしが、この一年、エプロンをつけてフライパンを振るようになったのは、この本の評判を聞いてAmazonで購入し(そう、書店で探したのだが見つからなかった。立ち読みしていたら買わなかったと思う。五藤先生、ごめんなさい)、この本ならわたしでも料理ができるようになるかなぁ、と思ったからだった。

実際に手に取ってみて、想像していたのとはだいぶ違う本であることを知った。
「●全工程を俯瞰できる「フローチャート」」は、冒頭ヒキの部分の「牛丼」だけである。
「牛丼」は、確かに理系の人が納得できるよう、「みりん適量」とか「生姜少々」とかの言葉は使わず、細かく数字で書いてある。これは良い。
ただ、ここは半理系として言わせてもらうと、記されているのは二人分の数字であり、四人分なら材料は倍にすればいいのだな、ということはわかるのだが、その場合、火を入れる時間も倍にしていいのかどうかが明記していない。このあたり凡百の「お料理本」と同じ「できる人ならわかる」と突き放されている感がある。

と、文句を言いつつも、この本のおかげで、今までレトルトパウチの牛丼しか作った(細君は「そんなの作ったとは言わない」と冷たいことを言う)ことのないわたしが、とりあえず、牛肉とタマネギ、調味料から牛丼を作ることができたのである。
感謝、感謝、大感謝!

期待と違っていた(もしこの本を書店で眺めていたら買わなかった)のは、わたしはこの本を、こういう「レシピ集」だと思っていたのである。「牛丼」だけでなく、「チャーハン」や「ぎょうざ」「マーボードーフ」など種々のメニューを「理系のチャート」で記してあるものだとばかり思っていたのだ。

が、本書「理系の料理」で、そういったレシピが載っているのは、冒頭の「牛丼」だけであり、あとは全部、言ってしまえば文系的な「精神論」なのであった。
もちろん「精神論」は大事である。わたしはこの本のおかげで「強火は湯を沸かすときだけ」とか「味付けはひき算できない不可逆変換」とかの「常識」を改めて知った。

しかし、実はわたしが欲しかった本は、そういう「精神論いっぱい」の、Cで言うならK&Rではなく、こうすればあれができる、という実際に使える「関数集」「ルーチン集」「プロシジャ集」だったのである。

去年の今頃、ちょうど体調も良くなってきた兆しがあったし、なにか新しいことを始めようと思い、細君が忙しいこともあって「週に一日はわたしが台所に立ってなにかを作ろうか」と、この本を購入したのである。
あれから一年が経ち、この本には「牛丼」作りで何度も大変お世話になった。しかし、後半三分の二を占める文章の部分は、実はまともに読んでいない。

結局、他に初心者向けのお料理レシピ本を買って、その文系的言い回し「適量」「少々」「ひと煮立ち」などにうんうんうなりなら、新しいメニューに挑戦している。
とりあえず、冷凍食品やインスタントものをうまく使えるようになってきたので、手抜きではあるが、細君に「こんなの料理じゃない」と冷たいお言葉をいただかない程度のものまでは、いくつか作れるようになってきた。

一年前のわたしには、レトルトではなく、(市販のルーを使ってはいても)野菜から炒めてカレーをつくる、なんてことは想像もできなかった。

そうして一年、毎週一日、なにか作ってきたのだが(ちなみに後片付けは毎晩わたしがやっている)、振り返って思うのは、「ああ、俺って、料理作るの、好きじゃないんだなぁ」ということだ。
はっきり言って、食べてくれる人がいるから作っているようなもので、一人だったら、毎日レトルト食品、インスタントラーメンで十分。それでなーんの不満もない。なにしろわたしは筋金入りの「味音痴」なのである。

「一億円と引き替えに、一回押すと一年間、食事は全部レトルトカレー」というボタンがあるのなら、高橋名人レベルの猛連打をするレベルで、食事なんてどうでもいいと思っているタイプなのだ。

もちろん、本書「理系の料理」は良書である。それはわかる。この本を手がかりに、料理好きになった「理系の料理ダンスィ」は多いことと思われる。わたしと性が合わなかったのである。

なんてことをつらつら思いながら、昨夜もこの本のレシピ通りに牛丼を作って、食後に「どうして俺、料理好きになれなかったんだろうなぁ」と、ツラツラと本書のページを繰っていたら、最後のページに、こんなに大事な一文が記されていたことを、今さらに知った。



たぶん「食べることが好きな人」でありさえすれば「料理が好きになる素質」は十分に持っているのではないかと思います。


ああああー! これだよ、これ、これなんですよ。まさしくこれ。
わたしね、「食べることが好きな人」じゃないんです。これは子どもの頃からほんとそう。

五藤先生は「そんな人(食べることが好きじゃない人)なんていない」という前提でお書きになられたのかもしれないが、いるんですよ、わたしみたいに、食なんてどうでもいい、腹が膨れればどうでもいい、と思っているタイプが。

わたしに必要だったのは「理系の料理」ではなく「食べるのが好きじゃない人のためのレシピ本」だったのだなぁ……。
そんな本があるのかどうか、根本的に、存在できるのかどうかは別にして。

今の時代、右を向いても左を向いても食の話ばかり。世の中、美味い物系の情報や、マンガも小説もそういう物語であふれている。そんな中で、今日のわたしみたいに「食なんてどうでもいい」「腹が膨れればいいじゃん」と本心を書くのは、ちょっと度胸が必要なのである。

といいつつ、わたしが「甘い物好き」であることは度々書いてきた。
これも、「少ない量でカロリーが取れるもの」という意味で体が欲しているのかもしれない。
そういえば、お酒が飲めた頃は、とにかく度数の高いウイスキーをストレートでやるのが好きだった。それも空きっ腹でグイグイと。それが病気でできなくなったので、甘い物好きになったという経緯があるのである。

いわば「食事なんて、とにかくカロリーが取れればいい」精神が、昔から変わっていないのだなぁ。

そんなこんなで、「お料理一年生」の自分だが、なんだか、大きなモチベーションの壁にぶちあたってしまっている心境である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年06月21日

【日記】自分が殺人を犯す想像力がないものが小説を書いてはいけないか

 映画「22年目の告白――わたしが殺人犯です――」は面白かった。トレーラーから「おっ、これは」と感じてはいたのだが、邦画だしなぁ(偏見)と横目に見ていると、2ちゃん映画板でかなりの評判。レスバトルも妙な粘着もなくレス数が多いというのはかなり良作の証拠。おかげでネタバレを読んでしまったが、それでも観て面白かった。

 ストーリーは、22年前の連続殺人事件の犯人が、時効後、告白本を書いて一躍マスコミの寵児となり、当時その犯人を逮捕直前まで追いつめたことがある刑事と丁々発止――というものだ。なんだか、最近、出版の方では似たような事件があったばかりであるが、映画の方は格段に面白い。
 この映画について、本記事を最初に読んだ方は幸いである。ネタバレをどこかで仕入れる前に、この映画を見ることができるかもしれないからである。マジでけっこういいですよ、この映画。
 元は韓国映画でそれのリメイクだそうだが、両方観た方によると、邦画の方がシナリオが練りこまれ良い出来になっているそうだ。
 わたしがネタバレしつつ映画評を書くよりも、2ちゃんのスレを読む方がよほど楽しいので、この記事は特に映画評とはしなかった。

 さて、タイトルの「自分が殺人を犯す想像力がないが小説を書いてはいけないか」というのは、大幅に略しているが、まあ、思い出せる方は想起できるだろう。1990年に起きた、当時の死刑囚・永山則夫氏が「日本文藝家協会」に入りたいと希望を出したときの論点のひとつである。
 もうちょっと正確には、「自分だって人を殺すかもしれないという認識や想像力のないものが小説を書いてはいけない」だったようだ。発言者は筒井康隆先生のようである。筒井先生らしいなあ。
 このときの騒動はWikipediaなどを引けばだいたいのことはわかるだろうが、もう四半世紀以上も前のことなので、知らない方も多いかもしれない。

 なので、さらりとコトのいきさつと顛末を書いておくと――

 当時、死刑囚・永山則夫氏は死刑を待つ獄中で良い文学作品を書いており、つきましては日本文藝家協会に入りたく存じます候と要望を出したところ、理事会において全員賛成とはならず入会が認められなかった。それに抗議して中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が同会を脱退するという結末で、だからと言ってその後、日本文藝家協会が分裂することも崩壊することもなかった(いまさらながら各氏敬称略)。


 当時、わたしはもう日本文藝家協会の一員だったが、この問題について、本当に腹の底から本心を言ってしまえば――

「どうでもよかった」

 のであった。
 いや、「どうでもよかった」と書いてしまうと、ちょっと誤解を生みかねないか。正直、わたしごときペーペーが何を言っても微塵の影響力もないし、文学者然としてなにかを語るほどの著作活動も人生経験もない。だから、名だたる文士たちがああでもないこうでもないと論戦しているのをただ「すごいなあ」と眺めて、日本文藝家協会の方針には従うまで、と、思っていただけである。

 ただ当時「あー、犯罪者になると日本文藝家協会は除名されるんだな」と思ったことは覚えている。あれから数十年、除名されていないところをみると、わたしは犯罪者になってはいないらしい(なんだこの妙な論法w)。

 ああそうだ、なじみの編集者とこの話をしたことはあった。そのときわたしはこう答えたのであった。
「永山被告が改悛し、刑法で自分に科された罪を償った後なら、日本文藝家協会の入会もありじゃないですかね」
 その編集者はコーヒー吹いた(誇張表現)。まあ、わたしなりのブラックユーモアである。

 しかしこれが笑い話で終わればいいのだが、たとえば、上でもちょっと触れた、最近起こった似たような事件――はっきり言ってしまえば、元少年A氏が書いた「絶歌」事件のようなものもあり、元少年A氏が日本文藝家協会に入会したいと打診してきたら、果たしてどうなるか。
 元少年A氏はすでに罪を償った後であり、理事会が入会を許すかどうか、興味あるところである。

 まあ実際のところ、死刑に「永山基準」というものができてしまったように、日本文藝家協会にも「永山基準」はできてしまったのではないかな、という気もする。

 永山則夫氏も不思議な人だなあ、とは思う。どうして「日本ペンクラブ」ではなく、「日本文藝家協会」を選んだのか。「日本ペンクラブ」だったらむしろ喜んで入会させてくれたのではないかしら。
 そんなに安っぽいラミカードの会員証が欲しかったの? という感じだ。ちなみに今はプラカードだが期限なしである。身分証にもならないのは【回想録】職業欄でボヤいた通り。
 わたしはキリストもんだから、死刑には基本的にも応用的にも反対の立場だが、もし永山則夫氏が日本文藝家協会に入会したところで、死刑廃止のきっかけにすらならなかったろうと思う。日本文藝家協会は、そういう政治的な団体ではなく、職能団体だからである。

 永山則夫氏の死刑は1997年8月1日に執行された。「刑が執行される時には全力で抵抗する」という言葉通り、実際にかなり抵抗したらしい。また、自分が死刑になれば「著作を通して自分を支持してくれている人達が一斉蜂起し、内乱になるぞ!」とも語ったという(Wikipediaより)が、もちろんそんなことはなく、日本は平和なものだった。

 さて、タイトルの命題に戻って、「自分が殺人を犯す想像力がないものが小説を書いてはいけないか」だが、もちろん、そんなことはない。そして、想像するのと実行するのとではまったく違うのである。あまりに常識的過ぎてつまらない答えだが。
 永山則夫氏が名作を書けたのは、やはり本人が犯罪を犯し、死刑囚になったからこそなのだ。彼の作品を評価している者は、この点から、故意に目をそらしている。つまり、どんな「名作」であろうが、それを書くために殺された人々がいる、人生を奪われた方々がいる、苦しんでいる遺族がいる、という視点を忘れてはならない、絶対に。

 わたしはごくつまらない常識人で、一般的な感覚を備えた社会人でありたいと思っている。たとえ「これを行えばナニナニ賞を取れる名作が書けるよ」という悪魔の囁きがあっても、絶対にそれを行ったりはしない。普通の人でありたいというのがわたしの矜持である。

 人生の半分を過ぎて、いろいろな経験も積み、ごく普通の市井人として暮らしてきて思う。どんなジャンルであっても、「作者の人間性は悪いが作品は良い」というものはない。巧妙に隠蔽していても、作者の性格や品格といったものは、作品のどこかににじみ出る。
 いや、こう書いてはいるが、これは、わたしが、ただ、そう信じたいだけだ。それもまた、わかってはいるのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記