2017年06月15日

【カットリク!】ロマンティックな狂気は存在するか

 春日武彦著「ロマンティックな狂気は存在するか」

 そうそう、【日記】解離性同一性障害(DID)に関する私的メモでも触れた、春日武彦先生の「ロマンティックな狂気は存在するか」にも、初歩的な「カットリク!」があったので指摘しておこう。



「第1章・正常と狂気境い目はあるのか」の「精神科医は狂気をどう見るか」の中にある。


(クリックで拡大できます)

(前略)キリスト教旧約聖書の冒頭の『始め言葉ありき』の文が示すように、言葉のみが人間の種族としての本質を現していることから次第にエイドスの使用は廃れた。(後略)


 本ブログで「カットリク!」シリーズをお読みいただいている読者には、もう、おなじみだと思うが、「はじめにことばありき」は「旧約聖書」冒頭の言葉ではない。これは新約聖書の福音書、しかも四番目の「ヨハネによる福音書」の冒頭である。

 カットリク!ポイント44―
 カットリク!は「はじめに言葉ありき」が聖書の一番最初の一節だと思っている。


 くわしくは【カットリク!】はじめに言葉ありきの記事をお読みいただくとして、「始め言葉ありき」という訳文も関心できるものではない。きちんと、現在流通していて普通に入手できる文語訳聖書を調べて書けば「太初に言あり」である。「初め」と「始め」では意味がまったく違う。
 また「言葉ありき」という翻訳が非常に少ないことも上記記事で述べた通り。

 カットリク!ポイント46――
 カットリク!は「はじめに言葉ありき」という一節が聖書に載っていると思っている。


 ただこの箇所は、春日先生が吉永五郎氏の「内因性精神病――臨床精神病理学の立場から――」を引用した部分で、上記の一文も「著者の脚注」として記されている。ので、これは春日先生の間違いではなく、吉永氏の間違いなのかもしれない。

 であったとしても、間違いの拡大再生産はよろしくない。
 また、上記記事でも触れている通り、ここで言う「言(ことば)」とはイエス・キリストそのものを現すものであり、言語という意味ではない。吉永氏はそこも誤解していると思われる

 カットリク!ポイント45――
 カットリク!は「はじめにことばありき」の「ことば」が「Language」という意味の「言葉」だと思っている。


 なお、わたしの手持ちの「ロマンティックな狂気は存在するか」は1993年の初版で、今は文庫本で入手できるようだ。そちらの版のほうでは直されているかもしれない。念のため。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年06月14日

【日記】某:COMの点検営業来たる

 わたしの自宅は、屋根にウマを建てるのが嫌という理由だけで、地上波デジタルのみを某:COMのケーブルテレビで契約している。月額数百円也である。BS/CSは自前のパラボラだ。わたしは観ないけどね、テレビ。老父母と細君のために。
 損得勘定は難しいところだが、台風や大雪などで屋根に建てたUHFアンテナが傷んだり、屋根自体にダメージが溜まることを考えたらトントンかなあと思っている。

 とりあえず、暴風雨や大雪の日でも地上波デジタルが観られなくなったようなことは一度もない。こういう点では、月額数百円とは言えプロに任せているという安心感はある。

 某:COMと言えば、点検営業が悪名高い。Googleに「某COM 点検」と入れれば、すぐに「某COM 点検商法」「某COM 点検 無視」とサジェストが出るくらいである。

 そんな某:COMから「点検の必要があるので立ち会いできる日付を――」という電話があった。わたしは根が優しい(笑)ので、にべもなく断るようなことはせず、どうせ営業になるだろうとわかってはいても、アポイントメントを取ってあげたのであった。

 そして某月某日、某:COMのメンテの方がやってきた。なにをやるのかなあ、と思っていたが、テレビの裏を見て、ケーブルの太さを確認し、あとはテレビ本体についている機能である電波強度ゲージを確認して(専用測定機器すら使わないとは驚いた)、「今のところ、十分な電波はきていますね」で、点検自体は終わりである。

 その後はやっぱり営業トーク。話半分に生返事しつつ聞いていたので、細かいところはよく覚えていないが、今の屋内配線ケーブルだと来たる4Kテレビは見られないとか、屋内への引き込み線を一社にする方向で進んでいるとか(いや、通信インフラ系はなるべく複数にして代替ラインを確保していた方がいいというのがわたしの考えだが……)、このままでは老朽化して必ず見られなくなるとか。「ここだけの話、いまならとてもお安くすべての工事ができるんです」とか、そんな感じ。

 わたしはと言えば「ふーん」「なるほどねぇ」「そりゃ大変だ」とラオウの剛拳をかわすトキのごとくのらりくらり。
 だってねぇ、テレビ見てないから、根本的に興味ないんですよ。4Kとか。美しいテレビとか。そんなの。
 まあ家族はテレビなしだと寂しいだろうから、いざとなったら某:COMではなく光回線で見られる別の方法でしのぐか、それこそ、再びアンテナを建てればいいと思っているので、一所懸命、営業トークを繰り出してくる某:COMの方が、ちょっと気の毒になってしまった。

「まあ、その日が来たら考えますよ。そのときはよろしくお願いします」とお返事して、丁重にお引き取りいただいた。

 こんなことを書いたのは、某:COMの営業が別にウザかったとか、悪質だったからではない。いらしたのは腰も低く丁寧な方だった。不快なところはまったくない。己に与えられた仕事を一所懸命やる方は尊敬するし大好きだ。

 最初に「わたしは根が優しい(笑)」ので、点検という名の営業になることは承知しつつアポイントを受けたと記した。そして絶対100パーセントその営業にノることはないとわかっていて、今日、某:COMの方に来ていただいた。
 結局のところ、わたしは某:COMのその方の一時間をムダに使わせてしまったのである。

 うーん、わたし、本当は根が優しくなんかなかったのではないだろうか。絶対に営業には屈しないとわかっていてアポイントを取るような行為は、相手のためにもするべきではなかったのかもしれない、と、ちょっと反省したのである。

「営業の第一歩は話を聞いてもらうこと」というような標語を聞いたことがあるが、世の中にはどんな営業トークでも絶対に屈しない人種がいる。わたしのように、必要なものは必要なときに必要なだけ求めればいい、というタイプ。
 4Kだかなんだか知らないが、今必要でないものはタダでもいらないのである。

 ああでも、途中から「この人はダメそうだ」とわかってはくれたのかな? チラシの一枚も置いていくことはなかった(笑)。

 基本的に某:COMのやっていることは情弱相手の商法だと思うので、あまり同情するのもアレなのだが、情弱な方は、自ら情報を得てそれを利用する手間と時間にお金を使っているわけだから、一概に「情弱商法は悪」とも言えないな、という考えもある。

 ただ技術屋としては、自分が朝飯前でできる仕事でお金を受け取るのはプライドが許さない、というところがあることも以前書いた。
 某:COMでも、実際に工事にあたる技術畑の方などは結構そういうところがあると思う。以前、工事をしていただいたときの丁寧な仕事ぶりと、頑張っていただいた記憶があったので、今回のメンテという名の営業も快く受けたと言うところはあったのであった。

 次からは、電話で点検アポがあっても、その段階で、できればきっぱり断ろうと思いつつ――。

 そういえば、この某:COMとは比較にならないほど悪質なネット契約のチラシがポスティングされていたこともあったのだった。これも近々、記事にしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月13日

【日記】ありがとう一周年

 おかげさまで、このブログ「いまさら日記」も、今日で一周年である。お読みくださっている皆様にいくら感謝してもし足りない。もちろん、理解のある細君と、神さまにも。

 体調、気分とも、この一年、ずっと巡航速度というわけではなかった。とても筆を持つ体調や気分になれないときもあり、キーボードを打てない日々もあった。
 それでも、一日もかかさずアップしていけたのは、調子がいいときに書きためて、事前予約でセットしているからである。
「日記」とは言いつつ、けっして本当の意味で「日記」ではないことは、もうみなさんご存知の通り。なので、日付にこだわる記事はほとんどないのであった。

 わたしのための「日記」ではなく、なるべく読者のみなさんに、読んだ時間分、少しでも楽しんでいただける記事を書きたいと努めている。必ずしもそうなっていないのは、わたしの筆が拙いせいで申しわけない。

 このページをごらんいただければおわかりいただけるように、さくらインターネットの規約で自動挿入される「さくらのブログ」以外の広告はまったく入れていない。今後、どんなアフィリエイト広告も入れる予定はない。
 また、ツイッターやフェイスブックに連動するボタンや、レスポンス欄をつける気もない。
「この記事はくだらん。なにか一言文句をつけてやろう」と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、わたしにメールできるルートは記してあるので、そちらをご利用いただきたく。ただ、お返事は必ずしもお返しできるとは限らない。
 これが今のわたしの精一杯のペースである。ご理解いただければ幸いである。

 ここでこのブログの基本的なフローを書いておくと、調子のいいときに記事を書きため、どんどん先の日付へ予約投稿設定しておく。たまに、これは早い目に入れた方がいいな、という記事を書いたときは、優先的にその記事を突っ込み、その日にあった記事は再び最後尾の日付へと飛ばされる。
 この調子なので、一ヶ月後どころか、やけに季節感が違う記事がアップされることがある。まあそれはそれで、コンテンポラリーな日記ではないのでよし、と割り切っている。
 それでもなるべく、記事の時系列は守っているつもり。あくまでつもりなので、ミスはあるかもしれないが。
 記事の書きためは、最長四週間から二週間の間でスタックをつくっている。これは、持病で倒れたり入院したら、数週間は記事が書けないだろう、ということを見越しての余裕。

 一年書き続けたら、少しペースを抜いて、気が向いたときにのみ書くようにしようかと思ったときもあったが、今のところ、神の憐れみで心身とも冬の低空飛行を乗り越え、新しいクスリとの相性も悪くないようなので、このまま毎日更新を続けていくことにした。

 新作の小説も、行きつ戻りつしながらも、確実に書いている。思えば、デビュー作であった「美琴姫様騒動始末」は100枚ジャストであったが、あれをよく100枚に収めたなあ、と、十代の自分に感心している次第だ。
 今の自分には、今の自分が書けるものしかかけない。これまでの結城恭介が書いてきたものとはかなり別物の作品となると思う。
 こちらの方は、もう少しお時間をいただければ、と。筆が遅くて、まことにもうしわけない。

 そして最後に――

「屈しました!」

 この記事を一読すればおわかりでしょう。例の段落ごとの「字下げ」である。やっぱりこれをやらないのは気持ち悪い。一年間、段落の字下げをせずに頑張ってきたが、やはり段落の最初は「一字下げ」。これは文章書きの基本だと悟った。

「ブログで字下げをするライターはネットに馴れていない」などと言う人もいるが、これは違う意味にもとれる。「字下げをしない文章を書くライターはまだ文章書きが本能になっていない」とも。
 わたしはたいていの人よりは長いネット歴を持っているが、同時にやはりどうしようもなく文章書きなので、「段落の最初は一字下げ」はネットの「ジョーシキ」に優先する、と、一年かけて判断した。

 というわけで、これからは段落の最初は「一字下げ」で行く。
 これまで書いた記事を、一年かけて直していこうかという考えもあったが、正直言って面倒くさいので、それはそれで手をつけずに残しておくことにした。

 なんにしろ、この一年の、みなさんの応援に感謝、感謝。
 本当に、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

追記:この記事自体、5月の下旬に書いているので、上記のようなフローで、それより以前に書いた「字下げしてない」記事がこれから掲載されたり、「これは早い時期に入れておこう」と突っ込んだ記事には、すでに字下げがされていたりもする。まあそれはそれで「そういうものだ」ということで、改めて手を入れたりはしない。お許しくだされば幸いである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月12日

【日記】愛用カバン

A4書類とPC類を同時に収納できるいいカバンを求めて数十年。今はkananaの3wayバッグを使っている。「Kanana project アクティブリュック48128 横型」という型番の黒である。



リュックと手提げ、肩掛けになる3wayバッグで、リュックの肩掛けベルトは裏にしまえるようになっている。
kananaバッグはある程度歳を取った女性ご用達という印象をもたれている型も多いかもしれないが、こういうビジネスにも使えるバッグを出している。
細君もkananaのリュックを愛用していて、ヘビーな使い方をしているのに、とても頑丈である。その頑丈さに惚れて、わたしもkananaのビジネスバッグを導入したという次第。

この3wayバッグは、以前にも紹介したとおり、350ミリリットルのサーモスのマグボトルがサイドポケットにポンと入れられる。とても考えられた作りだ。



収納は、メイン収納部、背中に当たる部分にひとつ、外側にもひとつ。そして最外側にチャックつきポケットまであり、収納性はとても高い。
メイン収納部の背部にはPC収納用のクッションエリアが設けられており、しっかりPCがホールドできるよう、ベリクロの飛び出し防止ガードもつけられている。

とはいえわたしは、最近ノートPCはもう持ち歩かないので、ここにポメラDM100かDM200、あるいはタブレットを入れるようにしている。
しかし、リュックにして背負った場合、背中の曲面に沿ってこのバッグが曲がり、ポメラやタブレットが曲がってしまうのが心配だ。
そこで、ガラスよりも剛性が高いというアクリル板「アクリサンデー」を加工して、三枚、入れることにした。背部に二枚、PCポケットクッション部の外側に一枚である。



写真の黄色と緑の板が内側。赤が外側である。入っているのはDM200を専用ケースに収納したもの。これで折り曲げ耐性やショックはほぼ大丈夫だと思うが、やはり精密機器を持ち歩くのは気を遣う。
ポメラDM5を持っていくときは、このPC収納エリアはカラにして、システム手帳の横に入れていく(心配なので、やはり専用ケースには入れている)。やはりDM5のコンパクトさと軽さは良い。なにしろnew 3DS LLより軽いときている。

外側の収納部にはビー・ナチュラル株式会社の「カバンの中身」を入れて小物を収納している。これもなかなかいい製品である。



こんなところで、レギュラーの総収納物は――

・システム手帳+万年筆モンブランノブレス+無印万年筆
・文庫本
・ポメラ(DM100 or DM200 or DM5)or タブレット
・原稿用紙(コクヨケ-35N)
・万年筆(プラチナ#3776MS+パイロットカスタム743スタブニブ)
・近用メガネ
・遠近両用サングラス
・遠用メガネ
・名刺入れ
・モバイルバッテリー
・各種ケーブル
・USBメモリ
・スマホとコンデジの替えバッテリー
・Bluetoothイヤホン
・常備薬・耳栓・絆創膏
・エネループ(単四二本+単三二本)
・小型折り畳み傘
・小型新約聖書
・折り畳みエコバッグ
・お薬手帳他
・扇子
・ロザリオケース


改めて書いてみると、収納力にびっくりだが、メイン収納部の余裕がないのが不満ではある。文庫、新書本なら入るが四六判のハードカバーは入らない。

長々と書いてきたのは、こんなお気に入りのkanana 3wayバッグでも、不満点があるからである。
それは、リュックとして使うとき、リュックのベルト部が上部の金具に通されているのだが、本来なら――



となるべき状態が



となってしまうことが多いのである。三角形のリングが正しい位置にならず、リングとカバンの縫製に想定外の負荷がかかっているのではないかと心配である。
リュックとして使うとき、総重量はこの部分にかかると思われるので、この接続部は二箇所にわけて、支える重量を分散させてほしかったな、というところ。

あまり同じバッグを使っている方と遭遇したことがないのだが、ある日、百均で会計中に、前の方が同じバッグを背負っていることに気づいた。そしてやはり、リュック部の三角形リングが、正しい位置になってはいなかった。

この「Kanana project アクティブリュック 48128 横型」はもう旧版で、新版は「48147」という型番になり、持ち手が上部に変わったらしい。確かに、わたしが使っている旧版は持ち手が前後に分散しているので、メイン収納部が開けにくいという難点があった。ただ、重量分散という意味では、旧版の方が好きかもしれない。
そして、上記に書いた、リュック部の上部接合部は、新版でも未改良のようである。

kananaのバッグは耐久力が高い(ということに期待して)、このバッグが壊れるまでは使っていくつもりである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年06月11日

【映画評】ローマ法王になる日まで

 まず最初に一言「釘を刺しておく」が、日本のガチカトで「ローマ法王」と言う者は100パーセントいない。「ローマ教皇」である。あるいは親愛をこめて「パパ様」。
 日本のカト組織の総本山である「カトリック中央協議会」が、報道機関に「法王ではなく教皇と記して欲しい」というような申し入れをしているのかどうかは知らないが、日本のマスコミは昔から「法王」と呼び続けており、おかげで一般人も「法王」というのが普通だと思っている。
 もっともこれはこれで便利なもので、雑談の相手が、ガチカトかプロテスタントか、あるいはパンピーなのかを測るリトマス試験紙となる。いくら「自分はキリスト教に詳しい」と自称していても「フランシスコ法王」と呼ぶ者は、ガチカトに内心「ふーん」と思われているのである。

 さて、わたしの住む地方都市でも、一館だけ、この映画「ローマ法王になる日まで」を上映してくれたので、細君と一緒に、初日の一回目に馳せ参じてきた。というのも、初日一回目の観覧者には抽選で「パパーレ」というワインが当たるというイベントをやっていたからである。
 当日、観劇していたのは30余名くらいだろうか。残念ながら抽選には外れてしまった。まあ当たってもわたしはアルコールを飲まないので、親しい司祭に差し上げようと思っていたくらいだから、それほど悔しくはない、と、負け惜しみを書いておこう。



 この映画は、現教皇であるパパ・フランシスコこと、本名ホルヘ・ベルゴリオ師が、若くして神職の道を選び、日本への宣教の夢はかなわなかったものの、アルゼンチンのイエズス会管区長として「出世」し、軍事独裁政権下の中で、恐怖政治に真正面から立ち向かう――という理想の話ではない。
 しかし、ホルヘ師は、軍事独裁政権に尻尾を振って追従したわけでもない。むしろ、その両者の中に分け入り、命がけで「信じるもののために生きてきた」記録である。
 というか、はっきり言ってしまえば、アルゼンチン・イエズス会管区長の彼は――

「中間管理職ベルゴリオ」

 である。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」1巻より引用)

 真正面から「解放の神学」を武器に圧政に立ち向かう司祭たちを「このままでは暗殺される」といさめ、同時に、上役である枢機卿には、解決の糸口を求めて、詰め寄るでもなく、丹念に、慎重に、大胆に将校との面談をとりつける。

 中間管理職であるからといって、そのスタンスは最初から最後までブレることはない。貧しく、虐げられている者たちの側に立つことで一貫している。
 権力に日和ることもない。部下に雰囲気で迎合することもない。ホルヘ師の視線は、常に一歩先、いやそれよりも先を見ているようにもとれる。

 ホルヘ師にもアルゼンチンにも大きな痛みと傷を残し、軍事独裁政権は1983年に終焉を迎え、民主主義国家となった。それは同時に、アルゼンチンの資本主義国家化でもあり、ブエノスアイレス補佐司教となったホルヘ師は、再び、貧しい人々と、彼らを貧民街から追い出し、新しい街を造ろうとする資本家たちとの間に立つことになる。補佐司教として出世しても、またしても――

「中間管理職ベルゴリオ」

 なのである。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」2巻より引用)

 圧巻なのは、警官らが、貧民街から貧しい人々を追い出さんと激突し、あわや大暴動が起きる一触即発のそのとき、ホルヘ師が枢機卿をクルマから引っぱりだし、ミサを始めるシークエンスだ。
 ミサの進行に従って、怒り狂った住民たちも落ち着きを取り戻し、また、警官隊も、ひとり、またひとりとヘルメットを脱いで、十字を切るのである。
 これこそがカトリックのミサの持つ力だと思わずにいられない。
 住民の立ち退きは撤回され、ホルヘ師は住民に胴上げされる。

 そして2013年3月13日、バチカンのコンクラーベによって、新教皇「フランシスコ」が誕生した。

 ホルヘ師が最初、イエズス会士として日本への宣教を上役へ上申したとき、彼らはこう言ったのだった。「君が行けば、日本の宣教はさらに遅れるだろう(意訳)」。そして鼻で笑い「笑うことで悪魔を祓うのだよ(意訳)」とも。

 新教皇として選出されたとき、ホルヘ師は笑う。笑う。笑う。身をのけぞらせて笑う。とても印象的なシーンだ。
 このときから、ホルヘ・ベルゴリオ師は、優しい笑顔が有名な、パパ・フランシスコとなったのであった。
 カトリックのトップである教皇とは、すなわち、神と教会の間に立つ者である。つまりここでも――

「中間管理職パパ・フランシスコ」

 なのである。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」3巻より引用)

 しかし、今度の上役は、今まで以上にホルヘ師をうまく用いてくださるに違いない。
 そして、わたしたちカトリック信者は、ミサの度に教皇のために祈るのである。「わたしたちの教父フランシスコ、わたしたちの司教ペトロ岡田武夫(例)、補佐司教ヤコブ幸田和生(例)、すべての教役者をはじめ、全教会を愛の完成に導いてください」と――

     *     *

 さて、その日その週の日曜日、バチカンから遠く離れた極東の島国の、あるカトリック教会広報のひとりが、「教皇フランシスコ一世の誕生をお祝いいたします」というでかいポスターを作って、教会入り口の掲示板に貼り出そうとしていたのだった。
 と、そのとき、カトリック中央協議会から連絡を受け取った教会事務から驚愕の一言が。
「一世はいらないんだって。フランシスコ≠セけだって」
「えっ、マジすか。どうするんですかコレもう作っちゃいましたよ」
 仕方なく、「一世」の部分を切り貼りしてうまくごまかし、「教皇フランシスコの誕生をお祝いいたします」に変えて貼り出したのだった。
 パパ・フランシスコが知るはずもない、極東の島国での笑い話である。

     *     *

 ひとつ、言っておかねばならないことがある。
 本作「ローマ法王になる日まで」は、はっきり言って、映画としては、いまいち、いまに、いまさ……くらいの出来である。
 正直なところ、アルゼンチンの軍事独裁政権の予備知識がないと描かれている事象を理解しにくい。独裁政権下で「失踪者」と呼ばれる粛正が行われていた背景などを知らないと、いったいなにがなんでどうなってそうなっているのか、ストーリーを追うだけで大変である。そして映画の中では、そういったバックグラウンドについて、ほとんど説明がない。スターウォーズ・エピソード4冒頭で宇宙に流れる「これまでのあらすじ」の方がよほどましである。

 そして主人公であるホルヘ師の、神への深い信仰が一向に伝わってこない。「ここでその台詞はちがうだろ!」というようなシーンも、多々、あったように思う。
 本作は、ガチカトにとって、どこか事象の表面だけをなぞっていくような、信仰の深みのなさとでもいうような感覚が残るのである。

 そして、監督であるダニエーレ・ルケッティのインタビューをパンフレットで読み、ご本人はカトリックではなく、また信仰もないという事実を知り、「ああ、やはりね……」と思った。
「【日記】ブリューゲル「バベルの塔」展」の最後でも少し触れたが、信仰がない者では、その世界≠外側からしか見ることができないのである。

 わたしはガチカトとして、このような激動の日々を送り教皇様となったパパ・フランシスコを新しい視線で見られるようになったし、ざっと一読して放り出していた、パパ・フランシスコ著「使徒的勧告・福音の喜び」を、もう一度、読んでみようという気になった。前回読んだときよりも、おそらくパパ・フランシスコが書かれた言葉に重みを感じられると思う。

 しかし、ガチカトでない人、クリスチャンでもプロテスタントの方、キリスト教に縁のない方には、あまり、この映画をお勧めする気にはなれない。シナリオも演出も凡庸で、押し寄せるような感動も、事実だけが持つ感銘も、涙がこぼれるような情動の揺らぎもないだろうから。

 逆に言えば、ガチカトならば観るなら早い内に、である。現状でもかなり上映劇場が少ない上に、おそらく、数週で打ち切りになる可能性が高いと思うからである。

 正直、番宣でやっていた「ヒトラーへの285枚の葉書」の方が期待大になってしまったわたしである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評