2017年06月05日

【日記】テレビを見なくなった

以前「【昭和の遺伝子】テレビ」でも似たようなことを書いていたが、そちらは「テレビの思い出」の記事だったので、本稿では「テレビを見なくなった」ことをメインに書いていく。

ふだん居間では、細君が、録画したドラマを二倍速で流しているのだが、今日は珍しく、生のワイドショーをつけていた。
見るともなく聞き流していたが、今日の晩から明日の天気が荒れる、というので、その情報を得たいと思い、ワイドショーの天気予報を眺めてみる気になったのである。

「では、天気の情報はこのあとすぐ」
(CM)、(CM)、(CM)、(CM)……。
いつになったら番組になるんだよ! と、いい加減腹に据えかねて、次もCMだったら書斎に帰ることにした。
(CM)
ふ・ざ・け・ん・な!

今の若い人がテレビを見ない理由がよくわかる。
で、書斎へ帰ろうとしたら、細君が「天気の情報始まったよ」というので、もう嫌気がさしながら再びテレビのところへ。

「それでは天気の情報です」
「明日は荒れるそうですよ」
「こんな天気でも××さん、明日はどこそこへ行かれるんですか?」
「いやあ、さすがに明日は○○テレビを見て過ごそうと思います」
「ですよねぇ。☆☆さんは?」
「あ、明日はどこそこ劇場で芝居の稽古がありますので、無理してでもいかないと」
「大変ですね。本番はいつから?」
「某月某日から、まだ前売り買えますので、みなさん、よろしくお願いします」
「はい、大入りだといいですね。では、実際の天気予報を△△さんに伝えていただきましょう。△△さーん」
「はーい、こちらは□□の△△です。今、こちらの天気はですね――」

莫迦莫迦しい。もういい! と宣言して、書斎へ戻り蟄居房へと入った。
スマホで「ウェザーニュースタッチ」を起動して、数秒待たず、さっきテレビが伝えようとしてきた以上の詳しい情報を得ることができる。

振り返ってみるとテレビのワイドショーは、10年前も、20年前も、同じように、こんなやりとりの電波をたれ流していた。本当にテレビ界の皆様、こういう時代に、こんな旧態依然とした番組の組み立てで、ネットから人を取り戻せると考えていらっしゃるのだろうか。

この天気予報の前には、痛ましい事件の容疑者が逮捕されたことに関して、コメンテーターがつまらない意見の交換を行っていた。これなども、2ちゃんねるのニュー速プラス板の方がよほどいい意見がある。
タン壷、トイレの落書きと蔑まれ続けてきたが、偏見のない目で読めば、玉石混淆ではあっても、2ちゃんに書き込みする人々の知性、それも上の方は相当に高い。はっきり言えば、テレビのコメンテーターのそれなど、2ちゃんの平均的知性以下である、と、正直、感じずにはいられない。

テレビは偏差値30の人を対象につくられている、というような話を聞いたことがある。
なるほど、そういう枷があるのなら仕方がない。このネット時代、そういう傾向はさらに顕著になっているのかもしれない。

わたしが子どもの頃にも、二種類の人がいた。テレビが生中継などをやっていると、積極的にそれに写り込もうとするタイプと、忌避してカメラから逃げようとするタイプ。
わたしは後者の方。テレビなんぞに写りたくなかったから、そういうロケ風景があっても、写らないようにレンズから逃げていた。

今の若い人はどちらが多いのだろう。
最近のネットの進化で、ロケでインタビューされている人や写り込んでいる人は、テレビ局の仕出しであることも多いということがバレてしまっている。
昔は「目立とう精神」などといい、テレビカメラに向かってVサインをする人々もいたが、今はそういうのは「バカッター」へ移っているのかもしれない。

おそらくテレビは、これから先、もっともっと、視聴率を落としていくだろう。それはテレビマンが旧態依然としているから、という理由もあるが、テレビというメディア自体が、もう古くさいものとなっているからだ。

ただ不思議なことに、ネットでもよく「○○の視聴率が」「××の番組が」などと話題になることがあり、わたしはテレビを見ないので「ふーん」と、コモン・センスとして知識を得るだけにしているが、けっこう若い人も、なんだかんだいいながらテレビを見ているのだなぁ、と思うこともある。

ネットで「祭り」になると、その「燃料」が、既存の雑誌媒体やワイドショー頼みとなる、という現実も、残念ながらまだ残っている。
ネットは、まだ単体ではそのパワーを十全に発揮できるメディアにまでは成長していないのだろうか。

インターネット黎明期から今まで、数々の「祭り」に「名無し」で参加してきたわたしの感覚として、2020五輪のエンブレム撤回は、初めてネットパワーの勝利という実感をつかんだような気がした。それでも「祭り」の中にいて(ハイ、あのときも名無しのひとりだったんです、わたし)、やはり雑誌媒体やワイドショーの力はまだ強いな、という印象は拭えなかった。

今は、既存媒体とネットとが、睨みあいながらも、奇妙な相互共存関係を保っている、と、そんな雰囲気である。

予言は40年後くらいを目安にすると良いのだそうである。そのくらいになると、外れても大抵の人は忘れているし、言った本人も他界してしまっていたりするから、らしい。

というわけで、40年後のテレビを無責任に予言。

消えてはいない。残ってはいる、と思う。ただ、今の番組のような、垂れ流しの放映はしていないだろう。電波も使わず、ネット回線で、ビデオ・オン・デマンドのような形で、視聴者の好きな番組を好きな時間に観られるようになっているのではないだろうか。その中に、今のプログラムのような生番組がある、という組み立てである。
今のように、スポンサーが時間を買って番組を製作する、という形式は少なくなり、CMは視聴者の視聴傾向によって動的に挟み込まれる。Aさんの観ている番組と、Bさんの観ている同じ番組で、違うCMが流れるわけだ。

なお、NHKは依然としてスクランブル放送をしていない。全戸からの視聴料徴収を断固として進めている。
「奇跡の詩人」を知る者はわずかとなり、塵は大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
なんと空しいことか、と「テレビ世代」のわたしは言う。すべては空しい、と。


そう、いまさらながら、わたしは「テレビ世代」だったのだ。家に帰ればすぐテレビ、学校でもまずテレビの話題。細君と一緒に「101回目のプロポーズ」を観ていた世代なのだ。
その世代から、「テレビはもうダメぽ」と言われてしまうのだから、今、テレビは、本当に末期時代なのである。

あーでも、ある意味復権はあるかもね。今の時代にふんわり女子が「写ルンです」を使う程度には。

追記:この記事は上記のオチまでずいぶん前に書き、例のごとく時事ネタのたびに記事ストックラストに回されてきたのだが、その間にネットで「テレビを見ないとバカになる」という話題があがってしまった。なんでも同僚の女性から 「テレビ見ないからみんなバカになるんですよ。そういう人は芸能人の話にも疎いし、話に厚みがないじゃないですか。」 と言われて驚愕した方がいるというお話。
あぁそういう意味なら、わたしはすごくバカである。バカで結構。芸能人の話など興味がないし、そんな話の厚みが欲しいとは微塵も思っていないから。

ちなみに上記囲いのラスト部分は旧約聖書より「コヘレトの言葉」のパロディだが(ハイ、バカだから話に厚みがないのです)、同書にはこんな一文もあるのである。

愚者は道行くときすら愚かで  だれにでも自分は愚者だと言いふらす。(コヘレトの言葉 10:3)
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記