2017年06月11日

【映画評】ローマ法王になる日まで

 まず最初に一言「釘を刺しておく」が、日本のガチカトで「ローマ法王」と言う者は100パーセントいない。「ローマ教皇」である。あるいは親愛をこめて「パパ様」。
 日本のカト組織の総本山である「カトリック中央協議会」が、報道機関に「法王ではなく教皇と記して欲しい」というような申し入れをしているのかどうかは知らないが、日本のマスコミは昔から「法王」と呼び続けており、おかげで一般人も「法王」というのが普通だと思っている。
 もっともこれはこれで便利なもので、雑談の相手が、ガチカトかプロテスタントか、あるいはパンピーなのかを測るリトマス試験紙となる。いくら「自分はキリスト教に詳しい」と自称していても「フランシスコ法王」と呼ぶ者は、ガチカトに内心「ふーん」と思われているのである。

 さて、わたしの住む地方都市でも、一館だけ、この映画「ローマ法王になる日まで」を上映してくれたので、細君と一緒に、初日の一回目に馳せ参じてきた。というのも、初日一回目の観覧者には抽選で「パパーレ」というワインが当たるというイベントをやっていたからである。
 当日、観劇していたのは30余名くらいだろうか。残念ながら抽選には外れてしまった。まあ当たってもわたしはアルコールを飲まないので、親しい司祭に差し上げようと思っていたくらいだから、それほど悔しくはない、と、負け惜しみを書いておこう。



 この映画は、現教皇であるパパ・フランシスコこと、本名ホルヘ・ベルゴリオ師が、若くして神職の道を選び、日本への宣教の夢はかなわなかったものの、アルゼンチンのイエズス会管区長として「出世」し、軍事独裁政権下の中で、恐怖政治に真正面から立ち向かう――という理想の話ではない。
 しかし、ホルヘ師は、軍事独裁政権に尻尾を振って追従したわけでもない。むしろ、その両者の中に分け入り、命がけで「信じるもののために生きてきた」記録である。
 というか、はっきり言ってしまえば、アルゼンチン・イエズス会管区長の彼は――

「中間管理職ベルゴリオ」

 である。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」1巻より引用)

 真正面から「解放の神学」を武器に圧政に立ち向かう司祭たちを「このままでは暗殺される」といさめ、同時に、上役である枢機卿には、解決の糸口を求めて、詰め寄るでもなく、丹念に、慎重に、大胆に将校との面談をとりつける。

 中間管理職であるからといって、そのスタンスは最初から最後までブレることはない。貧しく、虐げられている者たちの側に立つことで一貫している。
 権力に日和ることもない。部下に雰囲気で迎合することもない。ホルヘ師の視線は、常に一歩先、いやそれよりも先を見ているようにもとれる。

 ホルヘ師にもアルゼンチンにも大きな痛みと傷を残し、軍事独裁政権は1983年に終焉を迎え、民主主義国家となった。それは同時に、アルゼンチンの資本主義国家化でもあり、ブエノスアイレス補佐司教となったホルヘ師は、再び、貧しい人々と、彼らを貧民街から追い出し、新しい街を造ろうとする資本家たちとの間に立つことになる。補佐司教として出世しても、またしても――

「中間管理職ベルゴリオ」

 なのである。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」2巻より引用)

 圧巻なのは、警官らが、貧民街から貧しい人々を追い出さんと激突し、あわや大暴動が起きる一触即発のそのとき、ホルヘ師が枢機卿をクルマから引っぱりだし、ミサを始めるシークエンスだ。
 ミサの進行に従って、怒り狂った住民たちも落ち着きを取り戻し、また、警官隊も、ひとり、またひとりとヘルメットを脱いで、十字を切るのである。
 これこそがカトリックのミサの持つ力だと思わずにいられない。
 住民の立ち退きは撤回され、ホルヘ師は住民に胴上げされる。

 そして2013年3月13日、バチカンのコンクラーベによって、新教皇「フランシスコ」が誕生した。

 ホルヘ師が最初、イエズス会士として日本への宣教を上役へ上申したとき、彼らはこう言ったのだった。「君が行けば、日本の宣教はさらに遅れるだろう(意訳)」。そして鼻で笑い「笑うことで悪魔を祓うのだよ(意訳)」とも。

 新教皇として選出されたとき、ホルヘ師は笑う。笑う。笑う。身をのけぞらせて笑う。とても印象的なシーンだ。
 このときから、ホルヘ・ベルゴリオ師は、優しい笑顔が有名な、パパ・フランシスコとなったのであった。
 カトリックのトップである教皇とは、すなわち、神と教会の間に立つ者である。つまりここでも――

「中間管理職パパ・フランシスコ」

 なのである。


(協力:福本伸行/原作:萩原天晴/漫画:橋本智広・三好智樹「中間管理録トネガワ」3巻より引用)

 しかし、今度の上役は、今まで以上にホルヘ師をうまく用いてくださるに違いない。
 そして、わたしたちカトリック信者は、ミサの度に教皇のために祈るのである。「わたしたちの教父フランシスコ、わたしたちの司教ペトロ岡田武夫(例)、補佐司教ヤコブ幸田和生(例)、すべての教役者をはじめ、全教会を愛の完成に導いてください」と――

     *     *

 さて、その日その週の日曜日、バチカンから遠く離れた極東の島国の、あるカトリック教会広報のひとりが、「教皇フランシスコ一世の誕生をお祝いいたします」というでかいポスターを作って、教会入り口の掲示板に貼り出そうとしていたのだった。
 と、そのとき、カトリック中央協議会から連絡を受け取った教会事務から驚愕の一言が。
「一世はいらないんだって。フランシスコ≠セけだって」
「えっ、マジすか。どうするんですかコレもう作っちゃいましたよ」
 仕方なく、「一世」の部分を切り貼りしてうまくごまかし、「教皇フランシスコの誕生をお祝いいたします」に変えて貼り出したのだった。
 パパ・フランシスコが知るはずもない、極東の島国での笑い話である。

     *     *

 ひとつ、言っておかねばならないことがある。
 本作「ローマ法王になる日まで」は、はっきり言って、映画としては、いまいち、いまに、いまさ……くらいの出来である。
 正直なところ、アルゼンチンの軍事独裁政権の予備知識がないと描かれている事象を理解しにくい。独裁政権下で「失踪者」と呼ばれる粛正が行われていた背景などを知らないと、いったいなにがなんでどうなってそうなっているのか、ストーリーを追うだけで大変である。そして映画の中では、そういったバックグラウンドについて、ほとんど説明がない。スターウォーズ・エピソード4冒頭で宇宙に流れる「これまでのあらすじ」の方がよほどましである。

 そして主人公であるホルヘ師の、神への深い信仰が一向に伝わってこない。「ここでその台詞はちがうだろ!」というようなシーンも、多々、あったように思う。
 本作は、ガチカトにとって、どこか事象の表面だけをなぞっていくような、信仰の深みのなさとでもいうような感覚が残るのである。

 そして、監督であるダニエーレ・ルケッティのインタビューをパンフレットで読み、ご本人はカトリックではなく、また信仰もないという事実を知り、「ああ、やはりね……」と思った。
「【日記】ブリューゲル「バベルの塔」展」の最後でも少し触れたが、信仰がない者では、その世界≠外側からしか見ることができないのである。

 わたしはガチカトとして、このような激動の日々を送り教皇様となったパパ・フランシスコを新しい視線で見られるようになったし、ざっと一読して放り出していた、パパ・フランシスコ著「使徒的勧告・福音の喜び」を、もう一度、読んでみようという気になった。前回読んだときよりも、おそらくパパ・フランシスコが書かれた言葉に重みを感じられると思う。

 しかし、ガチカトでない人、クリスチャンでもプロテスタントの方、キリスト教に縁のない方には、あまり、この映画をお勧めする気にはなれない。シナリオも演出も凡庸で、押し寄せるような感動も、事実だけが持つ感銘も、涙がこぼれるような情動の揺らぎもないだろうから。

 逆に言えば、ガチカトならば観るなら早い内に、である。現状でもかなり上映劇場が少ない上に、おそらく、数週で打ち切りになる可能性が高いと思うからである。

 正直、番宣でやっていた「ヒトラーへの285枚の葉書」の方が期待大になってしまったわたしである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評