2017年06月18日

【回想録】ミュシャと悪徳絵画商法

 六本木の国立新美術館で開かれていた「ミュシャ展」も、来場者60万人を越えて閉展したとのこと。公式ツイッターを見ていたら、待ち時間が最長で150分となっていたときもあった。いやあ、日本人のミュシャ好きを改めて知ったという感じである。

 と同時に、この日本人が好きな「ミュシャ」はあくまで「ミュシャ」であって、今回の大目玉であった、祖国チェコのために連作絵画「スラブ叙事詩」を描いた後期の「ムハ」ではなかったのだろうなあ、とも思う。
 多くの日本人にとって、下の美女画に代表されるようなミュシャの絵が「彼の仕事」として認識されていたのではないだろうか。


(「ジスモンダ」ポスターより一部)

 恥ずかしながら、わたしもそうだった。今回初めて、アール・ヌーヴォーのコマーシャル・デザイナーとしてのミュシャではなく、画家ムハとしての絵画を見、また、彼が東方正教会の敬虔な信徒であることを知ったのだった。

 ミュシャ――チェコ語読みでは「ムハ」の偉業は、わたしがここでいろいろと書くよりも、ちょっとググって他のページでごらんいただく方が正確で情報も多いだろうし、今回の展示会の図録もまだご購入いただけるだろうから、あらためて何かを記すようなことはしない。


(今回の「ミュシャ展」の図録)

 ただ、日本人の「ミュシャ好き」の多くは、その昔の、あの「悪徳絵画商法」がきっかけのひとつになっているのではないだろうか、と、その思い出を書くべく筆を執った次第である。

 あれはまだ昭和の時代だったと思う。将来の細君と東京でデートをしていたら、街なかで何かを配っている人がいる。なにかの絵の展示会をやっているので、是非ともいらしてください、という。それがミュシャだった。
 そう、今で言う「エウリアン」「ビバン商法」「イルカ絵売り」である。しかし当時は、インターネットはおろかパソコン通信がやっと始まったばかりの頃。そういったイカサマ絵画商法はまだまだ知られておらず、警戒する人もいなかった。まあ、時間もあるし、ということで、ビルの一角へ。エレベータで上って上のフロアだったと思う。

 入ると、ミュシャの絵のしおりのようなものをくれたと思う。広い場所を借り切って、ミュシャの美人画絵が並んでいた。一枚一枚の大きさもそこそこ大きい。人の入りも悪くなく、普通の美術展のようである。
 イラストレーターの細君は、けっこう興味津々で、端からずっと見て回っていった。あら、展示会なのに、一枚一枚の下にお値段が書いてある。時はバブルの頃で、だいたい、一冊本を出した印税の四分の一くらいのお値段だったかな? それでも安いお値段ではない。
 それまでも、ミュシャの絵はもちろん見たことがあったが、この時初めて、わたしはこの美人画の作者がミュシャであることを強く結びつけて知ったのであった。

 細君は熱中すると、時間を忘れて自分の世界に入ってしまうところがあるので、わたしは少し離れたところで、やあ美しいなあ、日本で言えば竹久夢二的な商業画家なのかな、ミュシャって。などと思っていた。

 すると突然「素敵なおネクタイですね」と声をかけられた。
 今でもその一言をよく覚えている。横を見ると、今にももみ手をしそうな雰囲気で、パンツルックで名札をつけた女性が立っている。すぐに会場側の人間であることがわかった。
 なんだこいつは、キモいなあ(当時はこんな言い回しはなかったと思うが)と思いつつ、向こうの言うままに会話に入る。
「絵にご興味はおありですか?」
「ええ、彼女がイラストレーターなので。わたしはつきあいみたいなもので」
 なんて感じの会話を交わしたと思う。
「どの絵が良いとお感じになられました?」
「そうですねぇ、あれなんかいい感じですよね」
「でしょう! さすが彼女さんが本職だけあってお目が高い」
「はあ……(関係ねーじゃん)」
「今ならですね、この絵が××万円なんですよ。いかが思われます?」
 時はバブルである。しかしわたしは根っからの吝嗇家なのであった。
「いや、高いですねぇ」
「みなさん、最初はそうおっしゃられます。けれどこれは絵の価値としてだけではなく、ここだけの話、投機目的でお買いになられる方も多いんですよ」
 いやそりゃ、ミュシャの美人画はすばらしい。しかしこれは「複製」である。そんなものが投機の対象になるわけがない。
 こんな感じでのらーりくらりと相手の攻撃を交わしていたら、だんだんと相手の表情が険しくなっていった。
 そして、最後に、衝撃の一言が彼女の口から出たのであった。
「あのですね。ここは、絵を買う方が来る場所なんですよ。あなたのように見物目的で来る人は迷惑なんです!」

 ムッカー!

 路上で「来てください」と券を配っておいて、いざ入ってやると、最後にこの言いぐさ。これにはさすがに腹が立った。
 将来の細君を呼び戻し、頭から湯気を立てながら階段を駆け下りてビルを出た。

 今思うと、この「悪徳絵画商法」もまだ始まったばかりで、カモに対する受け答えがマニュアル化されていなかったのだろう。でなければ客を怒らせて帰らせてしまうようなチャートはなかったと思われる。しかしこれが「悪徳絵画商法」の本音であることも確かだ。

 それ以降、似たような「悪徳絵画商法」は、イルカ絵、あと、ゴルフ場の絵などで、デパートの一角を借り、ツアーのように、いろいろな場所で、素人相手にあの手この手で複製絵画を売りつけるようになり、パソコン通信でも「注意」の書き込みが出るようになったのだった。
 ミュシャは出始めの頃だけだったように思うが、記憶は定かではない。
 インターネット時代になり、秋葉原にエウリアンが出るようになって、皆がみな警戒するようになったので、この「悪徳絵画商法」が下火になったのは、みなさんご存知の通り。
 それにしても、わたしにかけられた最初の「素敵なおネクタイですね」と、最後の「あなたは迷惑なんです!」がインパクト強すぎて、もう、わたしの中では笑い話である。

 それでも、あの「悪徳絵画商法」が出始めにミュシャの美人画を選んだことで、コマーシャル・デザイナーとしてのミュシャを知った、という日本人は少なくなかったのではないだろうか。わたしのように。
 なんとも、皮肉なことだが、日本のミュシャ人気のひとつのきっかけに、例の「悪徳絵画商法」が噛んでいたのだとしたら、それはそれで、時代のいたずらだったのかもしれない。

 ミュシャはコマーシャル・デザイナーとしての地位を確固とした後、自分が裕福な者の位置に立ち甘んじていたことを悟り、50歳にして故郷チェコに帰り、大作である連作絵画「スラブ叙事詩」に取り組んだ。しかしその連作絵画が完成する16年の間に時代が変わり、完成した「スラブ叙事詩」はチェコの国民には不評だったという。
 ミュシャ本人もプラハ入城したドイツ軍に捕らえられ、厳しい尋問を受けたという。その4ヵ月後、彼は帰らぬ人となった。
 彼の失望を想うと、連作絵画「スラブ叙事詩」が再評価され、今こうやって日本で観られることを、神に感謝するしかない。

 ただ、ミュシャ本人は不本意かもしれないが、わたし自身には、コマーシャル・デザイナーとしてのミュシャの仕事の方が好きだと感じるところがある。
 今で言えば「萌え絵」である。もし現代の日本にミュシャが転生してきたら、スマホゲーでSレアカードのグラフィックを描かされていたに違いない。


(四芸術より「ダンス」「絵画」「音楽」。無課金勢でも取れるかナ?)

「スラブ叙事詩」を観て思うのは、現代のカトリックのわたしが思う以上に、当時のカトリックと東方正教会の溝は広く深かったのだなぁ、ということだ。
 連作の一枚「ヴィートコフ山の戦いの後」の中に司祭がオステンソリウム(聖体顕示台)を掲げている箇所があり、ああ、東方正教会はプロテスタントではないのだなぁ、とあらためて強く思った。


(「ヴィートコフ山の戦いの後」の一部)

 そんなわけで、この記事は「キリストの聖体」の祝日に掲載することにした。
 すべてのキリスト信者が一体となる「エキュメニカル」が、言葉だけの遊びにならず、キリストの聖体のもと、ひとつになれる日が訪れますように、と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録