2017年07月31日

【回想録】漢字含有率

 小説家となって、活字が誌面に載るようになってから、真綿のようにわたしの首にまとわりついて締めてくる、ひとつの呪縛があった。

「漢字含有率」

 である。

 中間小説誌の中で、わたしが書いた部分だけが、黒っぽいのである。なぜなら、漢字が多いから。

 ワープロで書いていたからではない。初期作品は万年筆と原稿用紙で書いていた。むしろ、その頃の方が誌面は黒かったかもしれない。
 パラパラとめくって大御所の活字を遠めに眺めたりして、「手練れの文章書きは漢字を多く書かないのだなぁ」という印象をもった。それでいて読みやすい。それこそがプロのプロたるゆえんである、と、感服したり。

 それ以来ずっと、小説の漢字含有率については、いつも頭に片隅にあった。
 実際、どのくらいが適切なのかを、数字を持って調べたこともあった。

 ワープロ時代に入り、自分はプログラマでもある。その手のプログラムを書いて、自分の作品の漢字含有率を算出してみた。
 いくつかの作品の数字をここに転記してみる。

「花のジャンスカ同盟」
 これはジュブナイル。読者層は低目を想定。
》102683 文字中 21681 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 21.11 %
》1346 文字の常用漢字外漢字を発見


「奴の名はゴールド」
 これもジュブナイル。でも読者層は少し高めを想定。
》116908 文字中 25488 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 21.80 %
》1929 文字の常用漢字外漢字を発見


「ヴァージンナイト・オルレアン3」
 今でいう「ラノベ」になるだろうか。読者層は少し高めを想定。
》101469 文字中 23909 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 23.56 %
》985 文字の常用漢字外漢字を発見


「コール」
 ミステリである。読者層は高目を想定。
》173683 文字中 44592 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 25.67 %
》1564 文字の常用漢字外漢字を発見


 漢字含有率25パーセントとなると、かなり「誌面が黒い」状態かもしれない。
 思い切って、「活字降る都(朝刊暮死)」ではかなり漢字を開き(ひらがなにし)、22パーセント以下を目指してみた。
 結果――

》143349 文字中 30675 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 21.40 %
》264 文字の常用漢字外漢字を発見


 この作品では誌面の活字充填率も算出してみた。

》143378 文字 で 8144 行
》【23 文字 × 18 行】換算で 452 枚 8 行
》文字充填率は 76.55 %

》143378 文字 で 9061 行
》【20 文字 × 20 行】換算で 453 枚 1 行
》文字充填率は 79.12 %


 このときは、むしろ漢字を開きすぎて、明らかに対象読者層にしては読書経験が浅く語彙数の少ない読者に「読みにくい」と評され、やりすぎたなぁとショックを受けた。

 ごいすうのすくないどくしゃはひらがなをおおくするとどこからどこまでがたんごなのかがわからないのでむしろこういうぶんしょうはよみにくくなるのである。

 上の段は極端な例だが、語彙数が貧困な読者はむしろ漢字を多めに入れてやらないと、「ひらがな→漢字変換」が脳の中で働かないので読みにくくなるのだということを知った。漢字で書いてあれば、だいたいの意味が(読めなくとも、知らなくとも)想像で補えるが、ひらがなだとそれができない。それが、その読者が「読みにくかった」原因だろうと思われる。

 今のラノベなどは、ざっと見た感じだと漢字含有率20パーセント以下、文字充填率は50パーセント以下くらいではないだろうか。
 この数字を低くしつつ読みやすく書くのはなかなか莫迦にできない匠の技なのである。これホント。書きなれていないとできないプロの技。

 しかし、最近のわたしはもう、歳もとったことだし、あまり漢字含有率や誌面の文字充填率などを気にしなくなった。多少、漢字マシマシなのが自分の文章である、と割り切っている。

 ちなみに、2016/06/13に始めたこのブログ、2017/06/12までの一年間のデータを数字にしてみると

》748823 文字中 174346 文字の漢字を発見
》漢字含有率は 23.28 %
》3726 文字の常用漢字外漢字を発見


 である。
 まあまあ、いい数字ではないかな、と思っている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年07月30日

【回想録】フィギュアの思い出

 といっても、スケートではない。もちろん、立体造形の方。
 千葉県立美術館で「立体造形の現在・過去・未来――THE フィギュアINチバ」という特別展をやっていたので、拝見してきたのであった(2017/07/22〜09/24)。



 フィギュアメーカーとして有名な海洋堂のフィギュアが3,000体以上展示されているという充実ぶり。きっと、食玩フィギュアやガチャガチャのそれが好きなマニアにはたまらない美術展であろうと思われる。


(等身大ケンシロウ。強い(確信))

 しかも、フラッシュを焚かなければ撮影もできる、というサービスぶり(一部、フラッシュOKの等身大フィギュアや、撮影不可ゾーンもあるので、そのあたりはよしなに)。


(等身大ダンボーとよつば)

 わたしは以前も書いたとおり、「コレクター」の趣味はないので、食玩やガチャガチャのフィギュアはネコのものくらいしか興味がないが、展示されている大小さまざま、多種多様なフィギュアの物量にはびっくりしてしまった。


(ミュシャの美人画の立体フィギュアなども)


(これまた懐かしい、ナショナルのラジオ、「クーガー」のフィギュアとな)

 また、テーマに「立体造形の現在・過去・未来」とあるとおり、フィギュアもここ数十年でどんどん進化しているのだなぁ、という印象を強く持った。
 今、販売されているフィギュアをショウ・ウィンドウなどで拝見すると、とても精緻かつ精密だが、海洋堂のそれは、総じて線が太い印象を受ける。
 アニメに例えると、今の流行が「君の名は。」だとしたら、海洋堂のそれはジブリに相当するのかな、などという話をしながら、細君と帰路についたのだった。

 そんなわたしだが、過去、唯一、フィギュアを12体持っていたことがある。1997年のことだから、これももう20年前のことになるということにびっくりだ。

 当時、わたしは、エルフが出していたPCゲーム「同級生2」が好きだったのだが、それのコンシューマー版、プレイステーションの限定セットで、女性キャラ全員のフィギュアつき、というものが発売されたのである。



 右のプレイステーションの箱の大きさと比べていただければ、当時、度肝を抜くほどの大きさであったことがよくわかるというもの。



 中身はこんな感じでフィギュアがつまっている。
 そしてこれ、塗装はされているが――



 なんと、「目」だけがデカールで別添付だったのである!
 そりゃないぜエルフさん。わたしのような不器用な人間が、震える手でデカールを貼ったりしたら、ひどいできばえになるのは明らかだ。
 ショックを受けて放置していたら、手先の器用な細君が「ウジウジ言ってるんならわたしがやってあげるから!」と、バンバカ量産してくれたのであった。


(量産中……。まるでモルグ!?)



 これが出来上がり。細君は上手くデカールを貼ってくれたが、20年前のフィギュアの技術である。今見ると、造形が荒いなあ、と思わずにはいられない。
 そうそう、当時の技術では、ロングスカートの娘を下から見ると――



 ダークマターで埋まっていた(笑)。

 そんなこんなで、数年はこの20体のフィギュア、書斎のどこかに置いていたのだが、だんだんと手狭になってきたので、お気に入りの「鳴沢唯」一体を残して、ほかは全部捨ててしまった。
 今となっては、その「鳴沢唯」もどこにあるかわからない。

 専門店のショウ・ウィンドウで見る最近のフィギュアは、素晴らしく美しい。これなら諭吉先生一枚でも納得。片付いた部屋があるのなら、一体くらいは飾っておいてもいいかな、と思う出来栄えである。
 ただやはり、わたしにはコレクターの趣味はないので、そうやってショウ・ウィンドウで拝見するだけで満足してしまうのであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年07月29日

【日記】平和の接吻を交わしましょう(ぇ

 カナダの聖フランシスコザビエル大学の研究チームが、5月に学術誌「Psychology & Sexuality」で発表した研究は興味深い。

 18歳から45歳の異性愛者の男性120名に、スライドショーで画像を見せ、唾液からストレスレベルをチェックしたのだという。
 流された画像は、文房具などのありふれたもの、男性同士のキス、男性同士の握手、男女カップルのキス、握手、そしてウジ虫や腐った魚など普通に考えて嫌悪を催すものも混ざっていた。
 唾液中のαアミラーゼの値がストレスレベルを反映するものとされ、それによって、画像を見たときのストレスレベルがわかるというものだ。

 実験結果は興味深いものだった。男性同士のキスの画像を見たときの画像と、ウジ虫などの画像を見たときのストレスレベルが同様に高い値を出していた、というのだ。

 この実験結果の考察は社会学者や心理学者に譲るとして、キスつまり接吻はキリスト信者には身近なものである。
 一番有名なのは、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったときである。

イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。(マタイによる福音書 26:48-49)


 かといって、聖書の中でキスがいつもいつもマイナスイメージで語られているわけではない。旧約の中では、友人同士の歓迎の形として、ありふれた状況で出てくる。「接吻」ではなく「口づけ」と訳されている箇所の方が多い。

エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。(創世記 33:4)
ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。(創世記 45:15)
ヨアブはアマサに、「兄弟、無事か」と声をかけ、口づけしようと右手でアマサのひげをつかんだ。(サムエル記下 20:9)



(田亀源五郎「ウィルトゥース」より引用)

 新約にももちろんある。

すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。(テサロニケの信徒への手紙一 5:26)



(田亀源五郎「雪原渺々」より引用)

 聖書の舞台となっているパレスチナの荒れ野では、男同士の接吻も嫌なものではなかったらしい。男同士でチュッチュしまくりである。今、わたしの唾液中のαアミラーゼは恐らく上昇中である。これは面白い研究テーマであるので、そのうち、ちょっと掘り下げて調べてみたい。

 さて、現代に戻ると、カトリックのミサの中には「平和の挨拶」という儀式がある。
「主の祈り」を唱えたあと――

司祭「主の平和がみなさんとともに」
会衆「また司祭とともに」
司祭「互いに平和の挨拶をかわしましょう」


 と、呼応の後、「平和の挨拶」を交わすのである。日本の場合、親指を組み合わせたカトリックの合掌をして、周囲の人にぐるりと「主の平和」「主の平和」「主の平和」と頭を下げた挨拶をして体を回す。
 これにはお国柄があって、メキシコからカトリック青年団がきたときは、お互いにハグや握手をしまくっていた。

 この「平和の挨拶」の大元が「平和の接吻」だったという話がある。
 初期キリスト教会の頃は、接吻は友情、親愛を示す行為として普通だったのである。
 ただ、今のミサのような形で、皆が「主の平和(chu!)」「主の平和(chu!)」とはやらなかったようで、1970年頃までは司祭がひとりで唱えていたという話もある。

 そのあたりの歴史は、もうちょっと深く調べてみる必要があるが、この「平和の挨拶」が皆で行われるようになったのは教皇パウロ6世の勧めの後からくらいのようだ。

 いやはや、正直なところ「主の平和(chu!)」「主の平和(chu!)」は一般的日本人の常識的に考えて勘弁というところがあるから、今の合掌でまわりにぐるりという挨拶の形はありがたい。
 ただ、個人的には正直なところ、現在の「平和の挨拶」は、ミサの中で「一番美しくないなぁ」と思うプロシジャであるのも確かである。


(中村春菊「純情ロマンチカ」16巻より引用。美青年同士ならαアミラーゼも上がらない!?)

 もし「主の平和(chu!)」が世界共通のミサ様式であったら、日本のカトリック人口はさらに減っていたことだろう(笑)。

 冒頭に戻って、カナダ・聖フランシスコザビエル大学の研究成果は面白いなあ、と思う。おそらく接吻が日本よりもフツーの地ではあろうに、それでも男同士のchu!が異性愛者には嫌悪感をもたらす行為であるというのは、LGBTへの差別解消は、けっこう力づくで行わなければ解決しないのかもしれないな、と感じるところだ。

「ああ、神さま、この唇は、彼と出会うために生まれてきたのですね♥」
 というわけで、この記事は「さくらんぼキッス〜爆発だもーん」をBGMに書いたのであった。ん〜、chu!
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年07月28日

【日記】映画「LIFE」を観て考える死刑

 衛星軌道上のISS内で、火星から持ち帰ってきた土の中に生物を発見、最初は単細胞生物でかわいらしかったそのその生物が――という映画「LIFE」を観たのだが、観劇後、つらつらと頭に浮かんでいたのは、なぜか続けて考えている「死刑制度」のことであった。

 ネタバレ避けに、ちょっとヨタ話をするので、その間に映画「LIFE」を未見の方でネタバレ嫌いの方は、例の如く、ほかのページへ移動していただきたく。

 やっぱりわたしは、宇宙が出てくる映画が好きなのだなぁ、と、「LIFE」を観ていて思ってしまった。それも「スターウォーズ」のようなスペースオペラではなく、「2001年宇宙の旅」のような、ある程度の科学考証が行われている映画、である。

 以前にも「星の数ほど」という慣用句が、実はそれほど大きな数ではない、ということを書いた。なぜといって、地球上から肉眼で見られる六等星までの数は、現在、8,588個しかないからである。しかも北半球から見るときは、その半分のおよそ4,300個しか見えない。この数字を聞いて「意外と少ないな」と感じる方は多いのではないだろうか。
 ISSから肉眼で観える星の数も、そう変わらないのだと聞く。
 この「とても大きな数を表す慣用句」である「星の数ほど」が、実は一万にも満たない、という事実は、皆様、ご記銘いただきたく。

 さて、映画「LIFE」だが、まあ、言ってしまえば、ISS内で繰り広げられる「エイリアン」である。SFというよりホラーとして観れば面白い。
「カルビン」と名づけられたこの火星生まれの単細胞生物は、栄養を得て、どんどんと大きくなっていく。そこでもっと慎重になればいいものを、ISSのクルーが、「13日の金曜日」に出てくる青年たちのようにあまりお利口ではないもので、次々と「カルビン」に殺され喰われていく。そんな映画である。
 ネタバレ――ラスト、カルビンを乗せた脱出ポッドは地球に着水してしまい、そこへ救助へ向かった漁民が脱出ポッドの扉を開けるかどうか、そんなシーンでカメラは上空からの撮影になり、次々と画面中心の脱出ポッドに救助へ向かっていく船が見えて終わりになる。
 きっと「カルビン」は漁民や海の生物を喰って、さらに大きくなり、地球人類が危なくなるのではないか……そんなバッドエンドで幕を下ろす。

 現実的には、宇宙空間ならともかく地球重力下だと、カルビンは自重でその体積に制限ができるので、それほど大きくはなれず俊敏に動くことも不可能で、シュワルツェネッガーによって退治されて終わり、だとは思う。

 さて、こんな映画でつらつらと死刑について考えたのは、「死刑ができるのは、人間が星の数ほどいるから」であるという事実があるからである。

 聖書的には、人類最初の殺人は兄弟同士で行われており、兄カインが嫉妬のあまり弟アベルを殺したことになっている(創世記 4:8)。しかしこのとき、神は殺人犯である兄カインを死刑にはしていない。追放つまり終身刑だ。

 聖書によると、最初の死刑は――精査するのが面倒ゆえ記憶に頼るので違うかもしれないが――レビ記 24:10-23にある「神の御名を冒涜する者」である。

モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒涜した男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。(レビ記 24:23)


 この時点ではイスラエル民族はすでに「星の数ほど」いた、ということに留意されたい。モーセが登場するはるか前、創世記の段階で、神はイスラエル民族の父アブラハムにこう約束しているのである。

わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。(創世記 26:4)


 十戒で殺人がご法度になっていることは、ここ日本でも周知のことだと思うが、それ以外のイスラエル民族の律法では「死刑」はアリなのだということは、「【日記】死刑についてつらつらと」で書いた。
 つまり、もう、ひとりふたり死刑にしたところで、イスラエル民族は絶えないよ、という人数になっていたので、カインとアベルの時代とは違い、神も「死刑アリ」と判断した、というわけである。

 新約の時代になり、イエスが「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書 28:19-20)」という大宣教命令を出したときの世界の人口がどのくらいだったか、ご存知だろうか。

 諸説はあるが、たった一億〜二億人だったのである。
 現代の日本の人口は一億二千万人。たとえて言えば、当時の地球は、今の日本人だけが世界中に散らばって住んでいるようなものだ。

 今現在、地球人口は70億人に達している。しかし、カトリック的、つまりバチカンが死刑はもちろん産児制限にも反対するのは、この「星の数ほどいる」と思われている人間が、実は「そう多くはない数字」と考えているのではないか、と思ったりするわけだ。

 いつ「LIFE」のような化け物に襲われて、地球人類が絶滅するとも限らない。まあ地球外生物が攻めてくるのはマンガ的にしても、小惑星の衝突は現実の問題としていつ起こりうるかはわからない。ほかにも未知の病原体によるパンデミックや、もちろん全面核戦争という人為的な「人類絶滅」の危機は常に隣にある、と。

「最小存続可能個体数」という言葉があって、これは天災や環境変動などによって種が絶滅することなく存続できる最小の個体数を言うのだが、人間の場合、諸説はあるが「オス15個体、メス50個体」らしい。この数字がどれほどの信憑性があるかどうかはわからない。実際にはその数倍の個体がなければ人類は滅ぶような気もする。
 ともあれ、それだけの少ない数の中で、死刑や産児制限のようなムダが許されるわけもない。

 産児制限や死刑に反対するバチカンの視野は、近視眼的に見えて、実は過去の長い歴史と、これからの未来を見据えた姿勢なのだ、と思ったりもするわけだ。

 あいかわらず記事内容にまとまりがないのは、わたしの死刑反対に対する姿勢が左翼的思想をベースにした、自己を省みない一点張のものではないから。

「特定の信仰がない」と嘯く者は「信仰を持つ者はなにも揺らぎがない」と思い込んでいる。「トップが言えば盲目的に従うものだ」とも。そんなことはもちろんない。特定の信仰がないから、そんな非人間的な考えを持つのである。
 わたしはカトリックであるし、その立場では死刑に反対だし、人工妊娠中絶は良いことではない、と思う。しかし大事な人が惨たらしく殺されたとき、その殺人者の死刑に反対できるかというとわからないし、友人が人工妊娠中絶をしたからと聞いて、責めるような真似はできない。

 かつてわたしの指導司祭は、信仰とは結果ではなくプロセスなのだ、とおっしゃった。今、そのプロセスをわたしは歩いている。これが信仰なのだ、ということが、少しわかってきたような気もしている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年07月27日

【書評】ナビガトリア

 アサダニッキ「ナビガトリア」1〜3巻(完結)

 今、一番お勧めのマンガ家、アサダニッキ先生の「ナビガトリア」。



 本当は、一番お気に入りの「青春しょんぼりクラブ」をご紹介したいところなのだが、最終15巻は八月発刊とのことだし、それまでおあずけにしよう。
 完結している「星上くんはどうかしている」も別記事でそのうち。それだけ今、アサダニッキ先生は結城のお気に入りということである。
「ナビガトリア」――その意味は「北極星」。三巻で綺麗にまとまっているが、仕舞い方に少し戸惑いが残るキャラクターもいたりして、番外編があってもいいかな、という感もあったり。
 それにしても「ナビガトリア」。いい言葉である。このストーリーは、都会暮らしで「人生の北極星」を見失ったヒロインが、それを島根で見つけ直すというお話。



 あらすじ――
 東京での生活に疲れたヒロインこより≠ヘ、ネットで知りあった友人に誘われて、彼女のいる島根へと休暇旅行へ出る。ところが着いてみると、なんと彼女≠フ正体は中学生の男の子。
 少年に謝らせるため出迎えた彼の家族に流されるまま、こよりは島根の野々村一家にお邪魔することに。さらに流されるまま田舎の大歓迎の宴の中、少年の兄、昭(あき)≠フ彼女ということにされ、さらにさらにアルコールに流されて、酔った勢いで昭にプロポーズまで。
 しかし昭に一蹴され、正気に戻ったこよりは東京へ戻る。
 が、その東京では選択の余地がないリストラが彼女を待ち構えており、こよりは再び、島根の野々村一家のもとへと居候することになる――。



(軽くスルーされてしまったプロボーズ)

 ところで、わたしの細君は、田舎生まれの田舎育ちである。そして、田舎を嫌っている。
 田舎といっても、所詮は関東の地方都市の田舎、市街化調整区域≠フそれであるから、民放が二局しかないとか、東京キー局が同じ時間に見られないとか、そこまでの田舎ではない。
 つまり、本当のド田舎≠ノお住まいの方からすれば「十分、都会じゃん」レベルの田舎かもしれない。
 それでも細君が嫌っているのは、田舎の物質的不便さではなく、そこにあるゲマインシャフトな人間関係の煩わしさが嫌い、というもの。
 確かにそういう意味では田舎は凄いと思う。聞いた話で、今はさすがにできないだろうが、信用金庫で「ヨメの口座から姑が、通帳も持たず顔パスで行員に命じて勝手にお金を出し入れしていた」などという話を聞いたこともある。

「はてな匿名ダイアリー」に「農家の常識・世界の非常識」というものが紹介されているのだが、もしもの404のために、いくつか引用してみると――

・多胎は下品扱い(畜生腹)
・嫁の稼ぎは農協振込み→姑が搾取(顔パスで勝手に下ろす・姑の口座に振り替え)
・長男教で跡継ぎにこだわる
・嫁の物は姑の物、姑の物は姑の物
・汚宅が多い
・従順でない女性は「生意気」
・全ての女性はコンパニオン
・結婚できないと自分の事は棚上げで「女がわがままになったから」
・ジジイに差し掛かった奴が20代の妻を臆面も無く希望
・贈答品は質より量(挙句しまいこんで劣化してから使う)
・隣近所と虚しい見栄の張り合いをする。
・婚約の際、「農作業しなくて良い」と言うのはほぼ100%嘘(しかもその嘘をつくのは常識なので騙している自覚もない)
・結婚したら「農家なんだから農作業は当たり前」
・息子には嫁が来て酷使するのが当たり前だが、娘を農家に嫁がせることは絶対しない
・嫁は若ければ若いほどいいので、16歳大歓迎、15歳以下の青田刈り上等
・いくつになっても男の初婚の価値は消えない(むしろ円熟味が増して価値があがる)と妄信している


 いやはや、これは確かに耐えられない……。大げさに書いているところもあるのだろうが、火のないところに煙はたたないともいう。ある田舎の犯罪者は、「つけびして、煙喜ぶ、田舎者」という名句を残しているくらいである。

 地方都市とはいえ、ゲゼルシャフト的な街で生まれ育ったわたしには、こういった田舎の嫌なところは伝聞でしかわからない。田舎を実際に知っている細君には、その怨嗟がリアルなものとしてあるのだろう(と同時に、モノを溜め込むところなど、田舎の風習が遺伝子レベルで残っているようにも都会育ちのわたしからは見える)。

 土曜の夕方に「人生の楽園」というテレビ番組をやっていて、これの内容がたいてい「第二の人生を田舎で店を出し楽しくやっていく」等の内容なのだが、細君はこれを見て舌打ちし「どうせ数年後は閉まってるよ」「むーりむり」「田舎をなめてるね」等の罵詈雑言を吐くのであった(細君のそういうところがまた可愛らしいので、わたしには珍しく、毎週、このテレビ番組をつけてしまうのである)。

 話がずいぶん遠回りしたが、本作「ナビガトリア」は、こういう細君からしたら「ありえない」話だと思う。
 作中には、上記のような「田舎の嫌なところ」はそれほど描かれていない中、ヒロインこよりは、島根のゲマインシャフトな雰囲気と、野々村一家に馴染んでいき、島根で職を見つけて、やがて昭と結ばれるのである。彼女は島根の地で、昭という「北極星」を見つけたのだ。そして二人は出雲大社で式を挙げる。

 東京の出版社とネットでやりとりしながら漫画家生活を送りつつ、認知症の老母の面倒を見ている昭の友人、信太郎の最後がせつない。こよりが懐妊し、野々村家がバカ騒ぎで盛り上がっている頃、老母に言われる。



母「あんたも、もう、あたしのことより、自分の幸せを考えなさい」
信太郎「…なんだよ、それ。寒いだろう。窓しめるぞ」


 信太郎の胸のうちはわからないが、本当は島根の田舎から東京へ行って、さらにマンガ家として活躍したい、という心もあるのではないだろうか。それでも、老母の面倒を見る者が自分しかいないという現実はいかんともしがたい。その原因の老母とのこの会話が、ハッピーエンドの中にビターな感触を残す。
 アサダ先生、番外編かなにかで、信太郎に島根で恋の予感とか、ダメですか、ね?

 野々村家でもそうなのだが、ゲマインシャフト社会である島根であっても、介護問題はなんら解決できていない。
 いやしかし、簡単に解決できないのが当然なのだ。それが人生なのだから。
 こよりの人生の旅はまだ始まったばかりなのである。彼女は自分の北極星を見つけた。これからの田舎での生活という荒波の中で、一番頼りになるナビガトリアを見失うことがなければ、きっと、幸せに航海を終えられるに違いない。

追記:この記事を読んだ田舎嫌いの細君が、どんな反応をするのかが楽しみなのである(笑)。ぜひとも「ナビガトリア」を読んで、感想をお聞かせくださいな>細君。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評