2017年07月21日

【回想録】書店の思い出

 わたしが高校生の頃までは、わたしが住む小さな街に、個人経営の書店がふたつあった。
 二店の間は歩いて五分の距離である。よくそれで、お互い経営が成りたったものだと今では思うが、実際それで、わたしが物心つく頃から十数年、仲良くやっていたのである。

 二店は微妙に置いている書籍のラインナップが違ったのもよかったのだろう。A店は雑誌や実用書、マンガに重きを置き、B店は文芸書や文庫本、新書などを主に置いていた。規模はB店の方が少し大きかった。
 B店では、星新一の文庫本や、岩波新書の名著「維新と科学」などを買ったことを良く覚えている。
 また「SFマガジン」を買おうとしたら、ちょうどその号の表紙がエロティックなグラフィックで、カウンターのおばさんが「ちょっとこれはボクには売れないねぇ」と言い出し「えっ、でもこれ、エッチな本じゃないですよ」と押し問答をしたこともある。
 結局、その号のSFマガジンを買えたかどうか、記憶にない。

 高校生の頃、そのB店が、本当に突然、閉店してしまった。正直、びっくりしたが、それほど悲しくはなかった。
 わたしは都市部の学校にバス、電車通学しており、ターミナル駅ビルの大型書店で日常的に買い物ができたからである。

 ターミナル駅ビルの大型書店は有名なチェーン店で、ほぼひとつのフロアを使って書籍以外にも文房具や画材なども扱っているような規模だった。
 今でも中学生は、天気図帳を買って、ラジオの気象通報を聞いて自分で天気図を書いたりしているのだろうか。この書店では、そういう天気図帳や、国土地理院が出している地図なども購入できた。
 語学のコーナーには「フランス語四週間」「スペイン語四週間」というような「四週間」本が並んでいた。「エスペラント語四週間」を買ってみたが、四週間では体得できず、もちろん、今でも体得していない(笑)。
 PC雑誌ASCIIを最初に買ったのも、この大型書店であった。「Pascal ABC」や「K&R」も買った。中学生の頃「【昭和の遺伝子】聖書を読みに」で聖書に初めて触れたのも、この書店である。
 この書店の一週間の売り上げは新聞の地方版に掲載され、そこのベストテンに拙著が入ったこともある。あれは嬉しかった。

 話は過去に戻るが、中学生の頃、竹下景子さんが男性週刊誌で脱ぐ! というセンセーショナルなCMが打たれたことがあった。今で言えば、そうだな、新垣結衣さんが脱ぐとか、そんな衝撃である。
 我々、超革命的中学生集団は「これは売り切れ必至」と対策本部を設営、休み時間の10分の間に学校を抜け出して、学校近所の書店へ買い出し部隊を派遣する計画を立てたのであった。
 掲載誌は「プレイボーイ」だったか「平凡パンチ」だったか。今となっては笑い話だが、そばかすの中学生には少しハードルの高い男性誌である。そこで少しでも老け顔の者を選出、別れの水杯を交わして送り出した。

「買ってくるぞと勇ましく、誓って教室でたからは、手柄たてずに死なれよか。学校チャイム聞くたびに、まぶたに浮かぶ景子の肌」

 が、作戦は拍子抜けするほど、見事に無事、成功したのである。教室へ持ち込まれた竹下景子さんのヌードが載った男性誌は、クラスの男子たちの衆目の下にさらされ、みな、それぞれの感想を持ったのであった。

 まっ、男子って、いやーね!

 閑話休題。話は高校生時代に戻る。そのうち、高校に近い方の駅にも駅ビルができ、そこにも中型規模の書店が入った。
 正直、書店には困らない時代であった。どの駅にもたいてい、大型書店が入っているのが当然であった。

 わたしの住んでいる街では、個人店のA店が、依然、頑張っていた。ただだいぶ、大型書店の波に押されて、置かれる本がエロチック方面に傾いていっていたような印象がある。
 その頃でも一般書の棚に、わたしが出した二冊目、三冊目の本が並び、嬉しいなあ、と思ったことを、よく覚えている。A店のご主人は、わたしがその本の作者であることを知らなかったはずだ。

 この頃、大きな駐車場を備えた「郊外店」とでもいうような書店形式がだんだんと増えていく。
 正直、ラインナップの少ないA店に行くことは少なくなってしまったが、書店は本当にそこかしこにあった。スーパーにさえ、雑誌棚ではない、ちょっとした書店コーナーがつくられたほどだ。

 当時は雑誌の類いを、毎月、良く買っていた。「ラジオライフ」をはじめ「ASCII」、「Oh!X」、「Cマガジン」、細君は「おまじないコミック」を買っていた。
 それにしても、雑誌というものはすぐにたまり、書斎を圧迫する。わたしはけっこう思い切って定期的に捨てる方だったが、今になってみると、なんとか今の時代まで残しておいて、スキャンスナップで電子化すればよい資料になったのになぁ、と悔やむこともある。

 リアル書店の終焉は、いきなりは訪れなかった。しかしそれは、徐々に、だんだんと、忍び寄るように、しかし確実に、迫ってきたのであった。
 言うまでもない、Amazonの台頭である。Amazonは黒船ではなかった。いきなり訪れて、リアル書店を仰天させたのではない。リアル書店にとってみれば、Amazonはガン細胞のようなものであったのだ。いつの間にか、気づかぬうちに冒されていったのである。
 わたしはAmazon JapanがないころからAmazonを利用していたが、それでも、Amazonが将来、日本のリアル書店を潰しまくるだろうという予想は立てられなかった。

 しかしAmazonは容赦がなかった。日本の書店はどんどんと潰れていき、わたしの街のA店もついに店じまいした。わたし自身もほとんど足を踏み入れなくなっていたが、最後はエロ本、エロビデオ屋と化していたような気がする。

 そして次はターミナル駅の書店が規模縮小していく。改装の度に、あきらかに昔より売り場面積が小さくなっていくのである。
 わたしの直近のターミナル駅では、ついに書店そのものが消えてしまった。

 今現在、わたしの自宅に一番近いリアル書店へ行くためには、歩いて30分かけてターミナル駅へ。そこから出ている無料シャトルバスで15分の時間をかけて行かなければならない。着いた大型ショッピングモールに入っている中型書店、一軒だけである。

 そしてその一軒も、先日、入ってみたら、文房具売り場が増え、明らかに本のラインナップが減っているのである。
 わたしは必ず人文系の宗教関係の棚を覗くのだが、なんと、日本聖書協会の新共同訳聖書が一冊も入っていない!

「ああーっ、そういう時代になってしまったんだなぁ!」

 思わず、大きくため息をついてしまった。

 これも黒船ではないが、ガン細胞のように「電子書籍」はジワジワとリアル書籍を侵食している最中なのであろうか。

 わたしはAmazonを良く利用しているし、電子書籍も場所を取らないので大好きである。ただやはり、昭和の時代に生まれ成長した身からすると、冊子体の書籍に、まだ、心を残す部分がないではない。

 しかしこれも時代の趨勢なのだろう。
 神ならぬ身、未来のことがわかるわけはないが、この先のリアル書店の行く末を、まるで病床にいる祖父を見舞うような気持ちで、見守るばかりである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年07月20日

【映画評】メアリと魔女の花

 日本人の多くが知っている聖書の言葉として、このようなものがある。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイによる福音書 9:17)」
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコによる福音書 2:22)」
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。(ルカによる福音書 5:38)」


 共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカすべてに記されていることなので、イエス自身の言葉であることは確かなのだろう。

 ところがこれ、ルカ福音書にだけは、一言、余分な注釈がついている。

「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。(ルカによる福音書 5:39)」


 映画「メアリと魔女の花」を観終わって得た感想が、上記のルカ 5:39であった。



 とても楽しい映画であった。これははっきりと言っておきたい。思春期前の少女の冒険譚として、完成度は高い。

 ここはシナリオをもう少し練りこんだほうが、とか、人間関係をもうちょっとだけ、短いシーケンスをつけ足して深く表現することも可能だろうとか、出てくる魔法大学がただの「ステージ」になってしまっているとか、モブが本当にモブとしてしか使われていないとか、時代設定がちょっと不明とか、それは、アラを探せばたくさんある。

 それでも、赤毛のメアリは可愛らしかったし、ピーターを助ける、と決意した彼女は凛々しかった。魔法を使わず自力で助けに行くところも、最後に魔法を捨てたところも良い。
 全体的にキャラが「深くない」ところも、夏休みに子どもが観る映画としてはなにも問題はない。

 なにしろ「メアリと魔女の花」は子どもが観る映画である。オトナが観てあれこれ論評するような映画ではないのである。子どもがスクリーンの前で、ハラハラドキドキ、見終わって「楽しかったねーっ!」と言ってくれて、親も満足できる、そんな映画なのだ。

 もし、なんの「過去の呪縛」もなしにオトナが観れば、「いやこれ、けっこういいじゃない」と思えるくらいの出来である。実際、何度も繰り返すが、楽しく、良い映画だったのである。

 わたしが、ある単語を使わず、韜晦しつつこれを書いていること、カンのいい読者の方なら気づくであろうと思う。
 そう、残念ながら――せっかくの新しいぶどう酒なのに、古い革袋に入れてしまった、という感が、オトナのわたしにはあるのである。
 ちなみに、一番最初にあげた聖句には、三福音書ともこのような警告が実は記されている。

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。(マタイによる福音書 9:17)」
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。(マルコによる福音書 2:22)」
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。(ルカによる福音書 5:37)」


 この気概を持ってして、スタッフロールの最後にながれる三氏の名前を「あえて載せない」ということはできなかったのだろうか。
 わたしは、最後のあれを観て、本当に残念に思ってしまった。

 人間の子どもが巣立つときというのは、親に感謝してではない。親に呪詛の言葉を吐きながら、ひとり、出て行くのである。親に感謝できるのは、自分が親になってからだ、ともいう。そういう面は確かにあるのかもしれない。

「メアリと魔女の花」を制作した新生「スタジオポノック」が、親に感謝するのはまだ早い、と思うのである。

 最後になるが、映画館は子どもたちでいっぱいであった。小中学校はもう夏休みに入っており、子どもたちだけ、あるいは親に引率されて映画を見にきているのである。みなポップコーンやコーラを持っていそいそと劇場へ入っていくのはほほえましい。
 しかし、入っていくシアターは「メアリと魔女の花」ではなく「ポケモン」の方なのであった。「メアリと魔女の花」を観ているのは、オトナばかり……。
「ポケモン」にぶつける、という公開時期も、少し考えたほうが良いのではなかっただろうか、と感じた。

 作品の出来が子ども向けとして良いだけに、本来の対象層の子どもたちを別の映画にさらわれてしまうのは、とても悔しい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年07月19日

【日記】結婚について・その2

 結婚したいと思うのなら「婚活」なんてやめなさい。

 本当にくだらない言葉だと思う。こんな造語に振り回されて、婚活パーティだの自分磨きだのやっているうちは、男女どちらも、結婚なんてできない。
 そりゃあ、ほんのわずか、成婚するカップルもいるだろうが、そんなものは誤差範囲である。ほとんど100パーセントの男女が「婚活」していたら結婚できない。断言する。

 なぜか、簡単な話である。
「結婚」とは「愛」だからである。

 もし「結婚とは愛ではなく条件だよ」という人がいるのなら、それは結婚の本質を知らないか、あなたをだまそうとしている結婚仲介業の詐欺師か、莫迦なのかのどれかである。

「結婚とは、相手を愛し、愛されているからするものだ」

 この当たり前のことが、当たり前のこととして通らない現代を憂う。

 ひとつには、時代が違うのである。これが昔ならば「結婚とは条件だよ」でも良かった。ほとんどの人が「見合い」で結婚をしていた時代の話である。
 そういう時代は、周りが互いの「条件」をそれとなく測って、だいたい合いそうな相手を会わすようになっていた。第一、そうやって世話を焼く世代の方が「結婚は愛」だなんて思っていなかった。「愛」なんていうものは、結婚してから育てるものだというのが常識だったのである。

「愛」というから、キリスト教的にご大層になってしまう。仏教では「愛」は「欲」であり、良い概念ではなかった。そこで初期キリスト教は「愛」のことを「ご大切」と言ったのである。

 結婚してから、ともに生活して「ご大切」を育むのである。日本人は昭和中期まで、そうやって生きてきたのであった。
「見合い結婚」と「恋愛結婚」が逆転するのは1960年代で、それ以降、見合い結婚と恋愛結婚の比率はぐんぐんと逆転していく。2014年の時点では、見合い結婚5.5パーセントに対し、恋愛結婚が87.7パーセントとなっている。
 今や「フツー、恋愛結婚でしょ」という時代である。かくいう私も、わたしと同世代の人が「お見合い結婚したんですよ」というのを聞いてびっくりしたことがある。

「フツー、恋愛結婚でしょ」という時代だというのに「結婚には互いの条件が――」というのは、矛盾しているのである。
 端的に言う。矛盾しているから、婚活などをしている者は結婚できないのである。

「婚活」は「現代流お見合い」ではない。ここが気持ちの悪いところだ。なんとなく恋愛をほのめかしながら、さりげなく条件というカードを出して、うまく恋愛ぽい雰囲気に丸め込もうとしている。
 しかし、根本のところが矛盾しているから、うまくいくわけがない。条件カードには、「あなたを大切にします」という肝心の「ご大切」が抜けているからである。

 こういう時代に成婚率を上げるとしたら「見合い結婚」を復活させるのが一番なのかもしれないが、それはもう不可能だ。今は昔と違って、人ひとりが受け取る情報量が膨大な時代だからである。現代人の一日の情報量は江戸時代の人の一年分、とも言われている。親戚の誰々さんがお勧めしてきた人よりも、なんちゃらネットのコンピュータがリストアップしてきた人数の方が多い。
 大抵の人間は浅はかなので、選択肢が多ければ多いほど、選べなくなってしまう生き物なのである。

 なんちゃらネットでご成婚、で思い出したが、そういう業者の「成婚者の声」を読んでみると良い。確実に「金銭的な条件がピッタリで」「年齢的な条件がバッチリで」などとは書かれていない。だいたい「相性が合って」「性格に惹かれて」と、「条件」ではなく「愛」の方を謳っている。
 要するに、「ウチのなんちゃらネットで婚活すると、恋愛結婚ができますよ」と謳っているのである。なんとも、やり口が汚い。

 だから、もっとがんばれ、男の子! 女の子! ちゃんと恋愛をするんだ。婚活だなんて意地でも口に出すな。こんな時代に結婚できるのは、ちゃんと恋愛をした男と女だけなのだ。

 できれば若い頃から、そうだな、中学、高校、大学と、その間に好きな人を見つけてつきあいなさい。その頃ならば、収入とか、年齢とか、仕事とか、そういう条件なしで、ただその人の性格や相性を見て恋愛できる。
 そして、できるだけ早いうちに結婚しなさい。恋人なしで社会人になってしまったら、結婚できる確率はガクンと落ちる。

 世の中を見渡してごらんなさい。「なぜあの人が?」という「条件の悪い」人たちが、ごく普通に、たくさん結婚している。そういう人たちは「ご大切」つまり「愛」で結婚しているのだ。

 しかし現実には、この先、成婚率はもっと下がっていくだろう、という気がする。それはそれでいいのかもしれない。愛ではなく条件で結婚するということの無意味さを日本人が思い知るまで、どん底に落ちればいいのだ。

 聖パウロもこう言っているのである。

未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。(コリントの信徒への手紙一 7:8)

posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年07月18日

【日記】結婚について・その1

「その1」としたのは、もしかしたら気分によって「その2」「その3」をいつか書くかもしれないから。
 まあ今回はそのしょっぱなの「その1」である。

 10年くらい前だっただろうか、細君とドライブをしながら、こんな会話をしていた。そのころ自分は、何作か連続してミステリを望まれて書かされ、これから先もそのようなオーダーばかりで、もうこんな、人が人を殺してどうこうするようなお話は書きたくないと思っていた。

自分「もう正直、ミステリは書きたくないんだよ」
細君「それは知ってた。わかってた」
自分「うん。わかってくれてるとは思ってたけどね」
細君「で、次はどういうのを書きたいとかあるの?」
自分「そうだね……。実は、結婚≠ノまつわるストーリーを描いてみたいと思っているんだ」

 時代はまだ「婚活」とか「結婚難」とかの言葉が出てくる直前であった。わたしは、わたしの友人たち、そして細君の友人たちの結婚の波がパッタリと止まってしまった状況から、「これはこの先、なにかあるぞ」という不穏な空気感を感じていたのだ。

 その頃、わたしたちは幸福な結婚生活を送っていた。もちろん、新婚当時も幸福な結婚生活を送っていた。そして驚くべきことに、25年経った今でも、幸せな結婚生活を送っている。

 おっと、ここで南極越冬隊のみなさんから無線が入りました
「南極の大地は地平線まで白い。もげろ」


(榎本俊二「えの素」4巻より引用)

 ええと、もぐものが違うという指摘は置いておいて、と。

 そして、わたしたちがそんな会話を交わした頃から、日本社会は「結婚難」がリアルな現実として表面化していく。最初は小さな雪球が、雪の坂を転げ落ちていくうちに、マンガのように大きく巨大になっていくように。

 わたしたち夫婦が、幸福な結婚生活を送れているのは、二人が血のにじむような努力をしてきた――からではまったくない! これは強く明記しておかねばならないと思う。神の憐れみ、いわば、運≠ナある。
 しかしその、運≠焉A良くする方法というものがある。それは非科学的な方法ではない。たとえば、宝くじだって買わなければ当たらない。連番で数枚買っておけば当たったときの賞金が大きくなる。競馬にもある程度「鉄板レース」というものがあり、そんなときに一攫千金を狙って駄馬に賭ける者は愚かと言われても仕方ないだろう。

 しかも、結婚の運≠ネんて、「フツー」でいいのである。宝くじを10枚買えば、末尾0〜9が入るので、末等は必ずあたる。その程度の運≠ナいいのだ。

 もうひとつ、結婚については、「スカウター」がある。ドラゴンボールでサイヤ人がつけているアレである。こと「結婚」についてなにか語るとき、その話の説得力の裏に「結婚維持力」というバックグラウンドは確実にある。
 わたしたちは銀婚式を迎えたので、結婚維持力25である。、結婚して5年目、まだ木婚式の夫婦がいろいろいう「結婚について」のアレコレなど、


(鳥山明「ドラゴンボール(完全版)」14巻より引用)
 である。

 もちろん、30年目の真珠婚式、35年目の珊瑚婚式……にはかなわない。
 離婚したらリセット、全部パァである。たとえ70年目のプラチナ婚式を迎えた夫婦でも離婚したらパァ。その者の言う「結婚」の話など鼻紙にしかならない(「離婚」の話なら参考になるとは思うが)。
 ただし、死別は違う。死別後、再婚せずにずっと独り身を保っているのなら、結婚年数は上がっていくと思う。死別後に再婚した場合は、1からやりなおし、だ。

 というわけで、これからわたしが書く説教じみたことは、結婚維持力25程度の力しかない者が言うアレコレである。まあ、話半分に。

 さて、「その1」の今回は、「結婚適齢期」を再定義してみたい。
 その昔、女性の結婚適齢期はクリスマスケーキと言われた。24までが限界で25を過ぎるともう価値がない、というわけだ。
 わたしは、結婚の価値が子どもを生み育てることだけだとは思わない。なので、子どもを生みやすい女性の年齢が「結婚適齢期」だとは思わない。

 そして、上記結婚スカウターの、ひとつの到達点は「50年」ではないかな、とも思う。「金婚式」が目標である。
 いささか古い統計だが、金婚式を迎えられる夫婦は、1995年に発表された「結婚の生命表」によると、全体の31パーセントである。

 2015年の統計だと、男性の平均寿命は80歳、女性は87歳らしい。
 つまり、結婚50年である金婚式を迎えるためには――

 男性:30歳までに37歳までの女性と
 女性:37歳までに30歳までの男性と

 結婚しろ!
 ということである。

 これを過ぎたら、金婚式を迎えられる可能性が低くなっていく。

 結婚上限年数にリミットを設けるというのは、実はとても理にかなっているのである。
 まだ先がある、さらに先がある! と思っているから、いつまでもウダウダと物事を決められない、というのは、結婚に関わらず、日常どんなことでも、誰しも経験則的におわかりいただけることだと思う。

 今つきあっている者よりいい人がいるかも。今の出会いよりもさらにいい出会いがあるかも、と思っている限り、結婚は絶対にできない。

 とりあえず、未婚で、結婚したいと思っている若い方は、上に記した「男は30まで。女は37まで」を、頭の片隅に入れておいて欲しい。
 たとえ子どもはできなくとも、お互い「とも白髪」で金婚式を迎えるには、これがギリギリの年齢なのである。

 追記:具体的な数字を挙げたのは、いささかセンセーショナルに書くためで、実際には平均値より長く生きる方々も多く平均寿命も長くなる昨今、この数字にいたずらに囚われる必要はないとは思う。100歳まで生きる気概があるなら50で結婚だってGO!GO!だ。
 しかし、「結婚して金婚式まで迎えたいなあ」ということを考えるのなら、自分にも相手にも寿命がある、ということを忘れてはいけない。
 この視点を指摘している「結婚指南書」は読んだことがない。それは「結婚すること」がゴールになってしまい、スタートであるということを忘れてしまっているから(あるいは意図的に無視しているから)だと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年07月17日

【日記】ビニテじゃ無理!

 四半世紀前くらいに、書斎を改築したときのこと。
 そのころの電話線は、当然、二本のメタル回線だった。
 改築中、様子を見に行って、むき出しになった床下をふと見ると、そこに引かれた電話線が、なんとブッツリと切断され、ビニテで修復されている。
 大工さんが工事の邪魔なので一度切って、つないだという。
 なんとまあ、呆れたが(当時、電話回線は宅内でも買い取りしなければ電電公社に所有権があり、本当は勝手に切ったりつないだりはできなかった)、それでもつながってしまうのが、メタル回線二本で着呼、発呼、通話まですべてできてしまう「電話」のたくましいところだった。
 実際、書斎の改築が終わるまで、このビニテで修復された電話線は、ごく普通に用を足してくれたのである。

 大工さんの鷹揚さというか、いい加減さには恐れ入ったが、きっとどこへ行ってもそんな感じでやっているんだろうなぁ、と、内心、思ったものだった。

 その改築工事のときは、工事後、電話線をFAX線と一緒に宅内パイプの中へ引き直したので、この「ビニテで修復」した電話線は未使用となった。きっと未だ、床下を這っているはずである。

 さて、時代は移って、21世紀のこと。
 ある日、お得意様の邸宅から、「ネットがつながらない」とご相談をいただいた。
 あそこは確か光回線だったはずだなあ、と思いつつ、とにかく、行ってみなければ話は始まらない。クルマでご邸宅へ。いつもながら見事に手入れされているお庭の植木に感心しながら、お宅にお邪魔し、さっそくメインPCがあるリビングへと。

 デスクトップPCを立ち上げる。確かにネットにつながっていない。が、ルータには入れる。PCの問題ではなさそうだ。
 ルータがネットにつながっていないとなると、プロバイダに登録しているIDやパスワードを誤って変更してしまったことなどを疑うが、話を聞いてみると、なにもいじってはいないという。
「昨日の夕方から、突然、つながらなくなっちゃったんですよ」とは、もうお年を召した旦那様の弁。
 ルータからONUへのラインはつながっている。ん? んんん? ONUがオンラインになっていない。なんだこれは!?

 ONUから出ている光ファイバーはエアコンのダストから外に出ている。
 ひょっとして――と閃き、一言声をおかけしてから邸外へ出て、電柱へと伸びている光ファイバーのラインを見上げると、一直線に伸びていて、特に問題は……ん? なんだあれ!

 なんと、光ファイバーが途中で、ビニテでつながれている!

 原因はこれか! 昨日、植木の職人が入って剪定をしたとき、光ファイバーを誤って切ってしまったのだ。そして、なんということか、「ビニテで修復」していたのである。メタル時代の電話線のように。

 あまりのことに、思わず、笑ってしまった。この光ファイバーを切った植木の職人さんも、昔、ウチの電話線を切った大工さんと同じ感覚でしでかしてくれちゃったのである。
 違うのはメタルラインと違って、光ファイバーはビニテでつなぐのは無理、ということ。
 居間に戻って、これはわたしの手に負えない、NTTに頼む事案である、と話すと、よくわからないからそこまでやってほしい、と懇願されたので、仕方なくNTTへ連絡。光ファイバー補修工事の立ち会いまで見届け、外が暗くなるころにはネットは回復していた。
 NTTの工事が当日に間に合い、迅速に行ってくれたのはありがたかった。


(光ファイバーの接続にはそれなりの治具が必要です)

 それにしても、切れた光ファイバーがビニテでつながれているのを見たときは、本当に吹き出してしまった。
 ご主人には、剪定の職人さんに気をつけるよう一言お願いします、と伝え、某チェーン店なら数万円取るだろうところを、その消費税くらいのお代をいただいて、今日のお仕事、終了。

 ネットがいきなりつながらなくなった、というご相談は少なくないが、以降、こんなケースもある、という話を、笑い話のひとつとしてするようにしている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記