2017年07月07日

【書評】呪街

 惣本蒼「呪街」1〜4巻(完結)

 ただ存在するだけで、思うだけで、人を殺傷せしめる力を持つ「呪力」を持った者たちがいる世界。彼らは国家によって、ある街へ隔離されている。
 物語は、その街での権力争いと、その街へと送られる新しい呪力者とパートナーを交互に描いていく。

 作中に日本聖書協会の「文語訳聖書」を引用したシーンがある。このシーンがそうなのだが――。


(惣本蒼「呪街」2巻より引用)

男性「……わが靈魂をいかし、名のゆゑをもて――=v
男性「我をたゞしき路にみちびき給ふ=B…だったかな?」
優愛菜「…………たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも、禍害をおそれじ


 これはクリスチャンの間では、通称「PS23」で通る、「詩篇第23編」である。とても有名な聖句だ。
 最初、アフタヌーン連載時にこのシーンを読んだとき、ちょっと違和感があったのである。というのも、このシーンでPS23はないよなぁ、という感じが、ガチカトとしてはあったのだ。
 詩篇にしろほかの書にしろ、もっとピッタリする聖句があるよなあ、と。
 しかし、今回、1巻から通して読んでいってみると、ここでPS23は、「まあありかな」という気がするのである。

 シーンとしては、呪街に送られる最中、まだ新米で、力を抑えることがむずかしい呪力者の少女「優愛菜」と、名もない先輩呪力者が出会い、自分たちの存在の「なぜ」を語りあうところだ。


(惣本蒼「呪街」2巻より引用)

男性「生きてると、なぜ? って思うことが多いだろ? さまざまな不幸……災厄……「なぜ?」その時、我々は知らずに神と向き合ってる……。彼女はそう考えていたんだよ」
男性「神≠ニいう名の人生、そこから学ぶことはたくさんある……。いつも何かしらのヒントを……くれている。気がつくのはなかなか難しいことだけど」


 上記の台詞で「彼女」というのは、この男性に十字架を渡し、別れた恋人のことだ。
 けっこう、信仰の本質をついた台詞である。


(惣本蒼「呪街」2巻より引用)

男性「狹き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。
男性「生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。=v
優愛菜「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。=c…」


 男性の言った聖句はマタイ7:13-14、優愛菜の言った聖句はマタイ7:7である。

「(自分たちの生きていく道を見出すためには)狭い門から入りなさい、しかしその道は見つけにくい」と男性が言った聖句に対し、その前段にあたる節の「門を叩く者には開かれる」で受けた優愛菜。うまいシーンだと思う。

 振り返ってみると、これもモーニング連載当時は、ちょっと唐突な気がして、うーん、ほかにいい聖句があったのではないかな、と感じていた。

 しかし、PS23にしてもマタイ7:13-14、マタイ7:7にしても、通して読んでみると、とてもいい。引用もほぼ完璧で(一部、送り仮名が余計についている箇所がある)、「新興宗教カットリク!の研究」として突っ込むところがない。
 作中の雰囲気から言って、ここで「口語訳」とか「新共同訳」というのもない。「文語訳」の使用がピッタリである。

「カットリク!」シリーズをやろうと思った原点は、『新・警視庁捜査一課9係「殺意のロザリオ」』であったことは以前に触れたが、実はこの「呪街」も、当時、「なんかガチカトだとこういう引用はしないんだよなぁ」という思いがあり、いつか「カットリク!」でとりあげたいと思っていたのである。

 しかしこうして全巻を通してみると、聖書の引用シーンはいささか唐突な感じがあれど、ストーリーにも合致して、良いシークエンスである。

 確かに、当時、わたしが感じた違和感は確かだろうし、もっとこの状況に合う聖句はあると今でも思うが、それらはポピュラーではないし、ここでこの聖句を使った惣本先生は、ひとりの読者として「さすが!」だと思う。

「カットリク!」を離れても、「呪街」自体、知られざる名作である。
「呪街」の権力争いに勝利した、もう一人のヒロイン、「笠音」と、旅を続けてきた優愛菜が出会ったところで、この物語は幕を閉じる。結末は書かない。4巻で綺麗にまとまり、読む者の心に重い感触を残す。

 読後の印象を、わたしも文語訳聖書の聖句で締めくくろう。
「われ山のために泣き咷び野の牧場のために悲しむ。これらは焚かれて過ぐる人なし。またこゝに牛羊の聲をきかず、天空の鳥も獸も皆逃げてさりぬ。(エレミヤ9:10(尚、節番号は翻訳により異なる))」
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評