2017年07月10日

【回想録】満開製作所の思い出

 と言っても「満開製作所」自体が、その筋の者にしかわからん時代であろうなぁ。

「満開製作所」というのは、コンピューター関係の有名人、故・祝一平氏が設立した株式会社(初期は有限会社)であった。設立年は1986年である。同社オリジナルのパーソナルコンピュータ「満開2号」を開発すべく立ち上げたと聞いているが、祝氏がどこまで本気だったかはわからない。

 主な事業は、シャープのX68000で動くディスクマガジン「月刊・電脳倶楽部」誌の発行であった。当時はパソコン通信そのものが黎明期。当然、インターネットなどというものは超高嶺の花で、まだJUNETと呼ばれていた時代である。
 そんな中で、X68000のフリーソフトウェア文化の一翼を担っていたのが、この「月刊・電脳倶楽部」誌であった。
 X68000のユーザというのは、BASICが使えて当たり前。Cはライブラリだけシャープのものを使ってGCC真里子版(*1)を使うのがフツー。アセンブラを使えてやっとスゲー。という猛者ばかりが集まった集団であった。

(*1)ところで、真里子版の「真里子」が知る人ぞ知るアイドル「吉田真里子さん」からとられていたことは、ここにこうやって残してネットに記録しておきたい。

(大きな瞳に丸い顔、太い眉。大好きなアイドルでございました)

 閑話休題。
「電脳倶楽部」には、ソフトウェアばかりではなく、ドット絵やコンピュータグラフィクス関係もすごい人たちが集まっていた。
 毎月送られてくる「電脳倶楽部」誌、今月号はどんな内容が含まれているか、楽しみだったものだ。

 媒体は5インチ2HDフロッピーディスク一枚。後期には二枚構成になっていた。残念なことに、時代の趨勢に押され、2000年8月号で廃刊を迎えている。

 わたしと細君は、この「電脳倶楽部」誌中期の、まあ常連の投稿者であった。わたしはプログラム、細君は絵の方で。

 今、Wikipediaで「電脳倶楽部」誌を確認してみると――

 採用作品には、謝礼として図書券などの金券が投稿者に送られ、記事によっては原稿料が支払われる事もあったという。


 と、なっているが、ここ、伝聞形ではなく、確かに大物ソフトが採用されたときは原稿料が直接、銀行振り込みされていた。ちゃんと源泉徴収もされていたと思う。
 このとき、今となっては、Wikipedia「祝一平」氏の項目に記してあるから書いても問題はないと思うが、なぜか振込者が「カ)マンカイセイサクショ」ではなく、祝氏のご本名の「三上之彦」氏個人からとなっていた。このあたりの経理が、ちょっと不思議だなぁと思ったことをよく覚えている。

 満開製作所には、一、二回、細君と遊びに行ったことがある。印象は、普通の書籍の編集部とは違い、やはりコンピュータ関係のモノが多く、出版社というよりオフィスのようだった(まあ同社が出版社かどうかは意見が別れるところだが)。
 平日だったのだが、祝一平氏はなかなか訪れず、編集の方が「読者の方が遊びに来ていらっしゃいますよ」と電話して(当時、携帯もまだなかった!)、出社してこられた。
 サングラスに、中肉中背姿だったと思う。握手をして挨拶をしたが、第一印象は「とてもシャイな方なんだなあ」というもの。そして実際、言葉少なく、ほとんど会話らしい会話を交わすことができなかった。

 当時、「電脳倶楽部」誌には、祝氏の書かれた編集後記である「変酋長の小屋」というテキストがあったのだが、そのテキストでよくお書きになられていた、饒舌でラジカルなイメージとは、ずいぶん違っていた。

 祝一平氏は、1999年4月2日にご病気で他界されている。
 その直前の頃から、「電脳倶楽部」誌は、外側から見ていてもボロボロの状態であった。パソコン通信に押され、インターネットに押され、ディスクマガジンというものが時代遅れになってしまったというのが大きかったのだと思う。

 さて、実は、祝一平氏ご本人も存じなかったであろう、ニフティサーブと雑誌をはさんだ、ちょっとしたいさかいの裏を、わたしは知っている。内的なネットでは書いたことがあったが、表で書くのは初めてだ。

 祝一平氏は、LDB03541のIDで、ニフティサーブにたまに書き込みをしていらっしゃった。
 ハンドル名は「青林檎」。なぜ、わたしがそのハンドル名が祝氏ものだとわかったかというと、一度だけ、LDB03541で祝氏が本名の三上氏で書き込みをしてしまったことがあったからである。気づいた方は、おそらくわたしだけだったと思う。
 ちなみにLDで始まるIDは「ビジネスアカウント」と呼ばれ、ちょっと個人ユーザではないのだな、ということがすぐわかるようになっていた。

 なお、祝一平氏がハンドル名「祝一平」で書き込むときは、NIF00350のIDで書き込んでいた。上記の痛恨のオペミスがなければ、わたしに「青林檎」イコール「祝一平」であることは気づかれなかったはずである。

 そのLDB03541のハンドル「青林檎」氏が、FSHARPUの8番会議室、9番会議室で、雑誌「ざべ」について批判記事を書いたことがあったのである。

》00935/00935 LDB03541 青林檎 『ざべ』3月号について
》00955/00956 LDB03541 青林檎 『ざべ』3月号について

 正直言うと、これがどういう批判記事だったのかはよく覚えていない。もうMOの奥底だ。ただかなり、記事の内容にお怒りになられていたような覚えがある。
 この批判記事の元となった記事は「ざべ」誌上で、(ハウ)という記者名で書かれていた。この記事を書かれたのは技術評論社のOさんであった。実はわたし、Oさんもリアル社会でお会いしたことがあった。
 そしてOさんは、以前、「パソコン倶楽部」という雑誌にいらしゃったとき、祝氏を取材したことがあったのである。そう、お二人は面識があったのだ。

 実は面識のある二人が、まったくそれに気づかず、誌面とニフティサーブ上でいさかいをしていたのであった……。
 しかも、まったく関係ないわたしだけが、それに気づいているという、皮肉な状況であった。

 祝氏は、非常にクセのある人物であった。
 上記の編集後記「変酋長の小屋」に書いた内容があまりに偏った見方であったので、読者から「幼い内容」と指摘され、誌面で一方的に逆上したこともあった。
 実はわたし自身も、祝氏と半分、ケンカ別れのような形で袂を別っている。その事件にはわたし以外にも何人か絡む方がいらっしゃるので、おそらく、かなり自分の中で整理された状態にならないと、ここに書く気が起きない。あまり思い出したくない事件でもある。

「満開製作所の思い出」とタイトルをつけつつ、祝氏の話ばかりになってしまうのは、まあ、「満開製作所イコール祝一平」というところがあるから仕方ないだろう。

 当時、編集部でわたしと仲良くしてくれて、オフで一緒にお酒も飲んだNさん、Iさん、Fさんの思い出ももちろんあるが、今でもみなさん、お元気でいらっしゃるだろうか。きっとコンピュータ業界のどこかでがんばっていらっしゃるに違いない。

 なんにせよ、1999年4月2日、日本のコンピュータ界は、知られざる大きな逸材を一人、失ったのであった。
 正直なところ、祝氏がご存命であったとしても、孫正義さん、三木谷浩史さん、堀江貴文さんに並ぶようなIT実業家にはなられなかったろうなぁ、とは思う。
 祝氏は、骨の髄までコンピュータ屋であった。実業家や経営者向きではなかった。
 ただ、このモバイルですら常時接続の時代に祝氏がご存命であったら、どんなアプリケーションを作っていただろうと思う。「満開製作所」製のSNSツールだったら、自分も喜んで使っていたかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録