2017年07月20日

【映画評】メアリと魔女の花

 日本人の多くが知っている聖書の言葉として、このようなものがある。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイによる福音書 9:17)」
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコによる福音書 2:22)」
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。(ルカによる福音書 5:38)」


 共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカすべてに記されていることなので、イエス自身の言葉であることは確かなのだろう。

 ところがこれ、ルカ福音書にだけは、一言、余分な注釈がついている。

「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。(ルカによる福音書 5:39)」


 映画「メアリと魔女の花」を観終わって得た感想が、上記のルカ 5:39であった。



 とても楽しい映画であった。これははっきりと言っておきたい。思春期前の少女の冒険譚として、完成度は高い。

 ここはシナリオをもう少し練りこんだほうが、とか、人間関係をもうちょっとだけ、短いシーケンスをつけ足して深く表現することも可能だろうとか、出てくる魔法大学がただの「ステージ」になってしまっているとか、モブが本当にモブとしてしか使われていないとか、時代設定がちょっと不明とか、それは、アラを探せばたくさんある。

 それでも、赤毛のメアリは可愛らしかったし、ピーターを助ける、と決意した彼女は凛々しかった。魔法を使わず自力で助けに行くところも、最後に魔法を捨てたところも良い。
 全体的にキャラが「深くない」ところも、夏休みに子どもが観る映画としてはなにも問題はない。

 なにしろ「メアリと魔女の花」は子どもが観る映画である。オトナが観てあれこれ論評するような映画ではないのである。子どもがスクリーンの前で、ハラハラドキドキ、見終わって「楽しかったねーっ!」と言ってくれて、親も満足できる、そんな映画なのだ。

 もし、なんの「過去の呪縛」もなしにオトナが観れば、「いやこれ、けっこういいじゃない」と思えるくらいの出来である。実際、何度も繰り返すが、楽しく、良い映画だったのである。

 わたしが、ある単語を使わず、韜晦しつつこれを書いていること、カンのいい読者の方なら気づくであろうと思う。
 そう、残念ながら――せっかくの新しいぶどう酒なのに、古い革袋に入れてしまった、という感が、オトナのわたしにはあるのである。
 ちなみに、一番最初にあげた聖句には、三福音書ともこのような警告が実は記されている。

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。(マタイによる福音書 9:17)」
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。(マルコによる福音書 2:22)」
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。(ルカによる福音書 5:37)」


 この気概を持ってして、スタッフロールの最後にながれる三氏の名前を「あえて載せない」ということはできなかったのだろうか。
 わたしは、最後のあれを観て、本当に残念に思ってしまった。

 人間の子どもが巣立つときというのは、親に感謝してではない。親に呪詛の言葉を吐きながら、ひとり、出て行くのである。親に感謝できるのは、自分が親になってからだ、ともいう。そういう面は確かにあるのかもしれない。

「メアリと魔女の花」を制作した新生「スタジオポノック」が、親に感謝するのはまだ早い、と思うのである。

 最後になるが、映画館は子どもたちでいっぱいであった。小中学校はもう夏休みに入っており、子どもたちだけ、あるいは親に引率されて映画を見にきているのである。みなポップコーンやコーラを持っていそいそと劇場へ入っていくのはほほえましい。
 しかし、入っていくシアターは「メアリと魔女の花」ではなく「ポケモン」の方なのであった。「メアリと魔女の花」を観ているのは、オトナばかり……。
「ポケモン」にぶつける、という公開時期も、少し考えたほうが良いのではなかっただろうか、と感じた。

 作品の出来が子ども向けとして良いだけに、本来の対象層の子どもたちを別の映画にさらわれてしまうのは、とても悔しい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評