2017年07月26日

【日記】洗礼なしにキリスト信者と名乗れるや否や

 つらつらとネットサーフをしていると、わりとこのような質問があることに気づく。
「わたしはひとりで聖書を読み、イエスの教えに感銘をうけました。また、その教えに従い生きようと決めました。けれど、洗礼を受けて特定の教会に属するというのは躊躇があります。こんなわたしでも、クリスチャンと名乗っていいでしょうか?」

 まあ、ベストアンサーマークがつくのは「あなたは立派なクリスチャンです。洗礼を受け、特定の教会に属していても、クリスチャンと呼ぶのは憚られるような人はたくさんいます」というような返信である。

 いや、わかるんだなぁ。質問者さんの気持ち。だって、わたしもそういう人のひとりであったから。ひとりで聖書を読んでいた頃、やはり洗礼を受けてどこかの教会に属さないと「クリスチャン」になれない、ということに、どこか抵抗があった。

 でもね、カトリック教会に通い、勉強会に出て、洗礼を受けて、所属教会ができた今のわたしは、はっきりと言う。

「洗礼を受けていなければ、あなたをクリスチャンとは呼べません」

 酷だけれど、これは明確である。ひとりで聖書を読んで、キリストの教えを守っている、などという人は、残念ながらクリスチャンではない。「ちょっとイエス・キリストが好きな人」くらいで留めておくのがよろしい。


(アサダニッキ「青春しょんぼりクラブ」11巻より引用。珠算部も部員一人なら「ただのそろばんの好きな人だ!!」)

 何度かこのブログにも書いたことがあるが、もともとクリスチャン≠ニいう言葉自体、アンティオキアで信者たちが、あまりに「キリストキリスト」とうるさいものだから、「あいつらクリスチャン≠ト呼んでやろうぜ」と、周りに付けられた蔑称なのである。
 いわば「おたく」と同じなのだ。ひとりでプリキュアを見てテレビの前で「ぷいきゅあ、がんばえー」と言っていても、それはひとりのプリキュアが好きな人。
 映画館でプリキュアの映画を見て、ちびっこたちに混じって大きなお兄さんたちが「ぷいきゅあ、がんばえー」とやって、はじめて「やだ、あの人たち、プリキュアおたくじゃない?」と言われるのである。

 わたしはこんな想像をする。
 船旅で事故に遭い、ひとり、無人島に流れ着いたとする。一冊の聖書とともに。
 その人は、たったひとり無人島で暮らすというサバイバルの中、生きる希望を聖書の中に見つける。そして、ひとりでも死を選ばず、神から与えられた生をまっとうして、寿命が尽きるまでその島に留まり帰天する。
 その人を、誰がクリスチャン≠ナはない。と言えようか。こういう状況だったら、わたしも、この人は洗礼の有無関係なく、クリスチャン≠セと思う。

 しかし、この人が救助されて、現代社会に復帰したとする。そうしたら、自分はイエスの教えで助かったと、誰かにキリストの話をしたくてたまらなくなるのではないだろうか。ただ胸の内に、島の中で得た信仰を留めておくことは、クリスチャンなら&s可能なのである。

 この現代社会で、ひとりで聖書を読み、洗礼を受けずに、イエスの教え通りに生きよう、と思う程度の「イエス好き」に、わたしはクリスチャン≠名乗る信仰などないと思う。

 パウロも、イエスと信者の関係を結婚に例えている。好きだけれど結婚はしないというのは、聖書の教えに反しているのである。
 第一、イエス自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることを「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(マタイ 3:15)」と言い、マタイ 28:19-20では「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と使徒たちに使命を与えているのである(これを教会用語で「大宣教命令」という)。

 ひとりで聖書を読んで、クリスチャンを名乗りたい人の奥底にある気持ちは、結局のところ、教会という人間関係の中に身を置きたくない、というところがあるのではないだろうか。
 しかしイエス自身が、こう言っているのである「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ 18:20)」と。ひとりで聖書を読んでいても、その中にイエスはいないのだ。

 世の中にキリスト教の教派はたくさんあるから、中には無洗礼派や、無教会といった形をとる教派もあることは承知している。しかし彼らはやはり特殊であるし、同時にやはり、結局のところ人間の集まりであるという教会≠ナあるという指摘はしておきたい。

 要するに、無人島でもなければ、クリスチャンというものは、ひとりではなりえないのだ。この現代社会の中にいるのなら、どんなに聖句を暗記して、イエスの教えを守って生きようが、それは聖書マニアのイエス好きにしかなれない。

 洗礼を受けたからクリスチャン≠ノなるのではない。クリスチャンだから$礼を受けるのである。夫婦だから愛し合うのではなく、愛し合ったから夫婦になるのである。愛してはいるけれど、夫婦にはなりたくない、そんなごまかしは、イエスもパウロも良しとしないだろう。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。(マタイ 10:38)」である。

 実際、人間関係の煩わしさから、教会と関わりを持ちたくない、という気持ちもわからないではない。
 だったらそういう人は、カトリックへいらっしゃい。カトリックの人間関係はプロテスタントに比べれば希薄である。良くも悪くも一線を守り、ラインを越えて踏み越えてくることは(まず)ない。特に大きなカトリック教会ほどそうだろう。

 それでも、ミサという同じ食卓で、同じご聖体をいただく我々は、まごうことなきクリスチャンなのである。

 最初に戻って、不思議なことに「聖書だけ読んで無洗礼だけどクリスチャン」を認める人々はプロテスタントに多く、カトリックでは皆無、という気がする。このあたり、プロテスタントの方々はちょっと甘いのではないだろうか。
 プロテスタントの言葉を借りれば、無洗礼者をクリスチャンと認めるのは「聖書的」ではないと、カトリックの自分は思うのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記