2017年08月31日

【映画評】打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

 ネット評だと爆死街道邁進中? という感じなので、同日、押さえに「ベイビー・ドライバー」を入れておいたのだが、どうしてどうして、こちらもけっこういい映画じゃないですか。
 と思ってしまうのは、わたしが制作者側に立ってしまうからかなぁ。甘いかしらん。
 ともかく、観終わってあれこれ考えてしまう楽しみは、こちらの映画に軍配があがる。



 ネタバレらしいネタバレはない映画なので特に配慮はしないが、事前情報を入れて観るのがお嫌な方は、あらすじのうちに別ページへ移動していただきたく。

 あらすじ――主人公の典通は中学生男子。同じクラスの女の子、なずなが気になっているが、親友が彼女のことを憎からず思っていることも知っており、心中複雑だ。
 そんな夏休みの登校日、巡り合わせでプールに居合わせたなずなと親友、典通の三人は、勝った者のいうことを聞く、という条件で50メートルを泳ぐが、典通は負けてしまう。
 彼の知らないところで、なずなは親友と「今夜の花火大会を見に行こう」と約束。
 その夕方、浴衣をきたなずなは大きな荷物を持ち、親友の家を訪れるが、気後れした親友は、ことから逃げてしまっていた。そのことを知っていた典通は、「彼は戻ってこないよ」と彼女に伝え、なずなは落胆する。
 田舎道を典通とともに歩くなずな。「典通くんが勝つと思ってた」「勝った方とかけおちするつもりだった」――。なずなには家庭の事情があり、大きな荷物は家出のそれだったのだ。
 その場に現れた母親に連れ戻されそうになり、抵抗するなずな。カバンが開き、不思議な珠が落ちる。それは彼女が、朝、海で拾ったものだ。
 叫びながらも連れ戻されるなずな。そこに現れる親友。典通は思わず彼に殴りかかる。
 そして不思議な珠を持ち、看板に向けて投げつけた。「あのとき、俺が勝っていれば――」


 というわけで、珠が壊れるたびに、前の誤った選択肢のところに時間が飛び、やりなおせる、というストーリーだが、はっきり言って、上記「あらすじ」に書いた以降のことは、すべて典通の妄想だと思われる。これは作中でそう明言されているわけではないが、言い切ってしまってかまわないと思う。
 珠に不思議な力が宿っていて――などというSFではない。ただ、「あのときこうしていれば」という典通くんの童貞妄想を映像化したものだ(褒めているのか貶しているのか……いや、褒めているのです(断言))。

 似たような映画としては、ニコラス・ケイジの「NEXT-ネクスト-」を連想していただければ。あとは「ラ・ラ・ランド」の最後の方のシーケンスをながーく観させられる、といった感じだ。

 典通が選択肢を間違い、珠を壊してやりなおすたびに、ストーリーが現実から解離してファンタジックになっていくのが面白い。

 チラシには――



「繰り返す、夏のある一日。」――となっているが、別に繰り返さなーい。選択肢をやりなおすだけ。
「花火が上がるとき、恋の奇跡がおきる――」――となっているが、別に奇跡は起こらなーい。典通の妄想が激しくなっていくだけ。

 などと書くと身も蓋もないな……。
 しかし、そういう映画なのだとわかったら、とても映像の流れに身を任せやすくなった。
 これは、少し大人びた中学生の少女が家の都合で転校し、彼女に淡い恋心をいだいていた少年が、こんな未来もあったかもしれない、と、あれこれ思い惑う一夏の自涜行為をファンタジーに昇華したものである。

 正直な話、苦言を言うと、見始めは「ちぐはぐ感」が抑えられなかった。設定にも映像にも、妙に描写が細かい部分と、アラがある部分がある。登場人物たちの年齢もわかりにくく、高校生のような外見と、台詞の幼さが似合わない。
 わたしは、中盤でなずなが浴衣から白いワンピース(夏の定番!)に着替え「16歳に見える?」と言ったシーンで、初めて「ああ中学生たちの話なんだな」と思ったくらい。

 そういった点はあれど、わたしはこの映画を気に入った。
 未来にはたくさんの可能性、選択肢があるように見えていても、中学生くらいだと、実は選択できるそれは少ないものだ。そんな、自分も同じ年頃に感じた切なさが観劇後に残る。

 友人たちが好きな女の子の名をそれぞれ叫ぶシーンで、一人が「みずきありさー」と声を上げる。それがネットで「今の子が観月ありさ≠ヘない」とツッコまれていたが、わたしは普通に、同じクラスにそういう名の子がいるのだろうな、と納得してしまった。

 ラスト、二学期の始めに出席を取っている中で、典通の名が呼ばれるが、彼の返事はない。もしかしたら、なずなを追ってどこかへ行っているのかもしれないし、ただ風力発電所の下でサボっているのかもしれないし、たんに寝坊しているだけかもしれない。
 この「もしかして」を観た者にいろいろ考えさせるために、ストーリー上、典通に学校を休ませたのではないだろうか。
 なにしろ本作のキモは「もしかして」なのだ。ここでいろいろ考えてしまった観劇者は、それなりに制作者の手の内に入ってしまっているのである。

 今まで触れてこなかったが、原作である岩井俊二監督の同名テレビドラマ作品はもちろん観たことがあり、それの映像美、小学生だったヒロインのはかなげな美しさは今でも心に残っている。
 もし、同作の感動を期待して観に行っていたら、きっとガッカリしたことだろう。
 しかし、24年を経て、同作からインスパイアされた21世紀のアニメ作品単独として観れば悪くはない。2017年の夏、この作品を観られたことを幸せに思う。

 余談だが、わたしがよく行く映画館は港に面しており、出ると海の匂いがする。と言えば格好良いが、要するに磯臭い。
 ラスト近く、なずなと典通が海に飛び込むシーンはロマンチックだが、いやあれ、絶対、磯臭いよな、と思いつつ、映画館を後にしたのであった。

追記:あまりに内容がアレだったら「洋式トイレ、上げてからするか、下げてからするか(※小)」というタイトルで茶化して書こうと思っていたのだが、ちゃんと記事にしたということは、そういうこと。
 なお、その記事もそのうち書きますよ、きっと(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年08月30日

【映画評】ベイビー・ドライバー

 佳作なのに上映館が少ないのはもったいない。カー・アクションのドンパチ映画かと思っていたら、これは素敵な青春映画である。


(完全にノーマークだったのでチラシももらっていなかった……)

 ストーリーはけっこうストレートな映画なので、ネタバレらしいネタバレはしないと思うが、そういう事前情報を頭に入れるのがお嫌な方は、あらすじのうちに別ページへ移動していただきたく。

 あらすじ――主人公の通称ベイビー≠ヘまだ幼さの残る青年だが、ひとたびハンドルを握れば天才的なドライバー。子どもの頃に経験した自動車事故の後遺症で耳鳴りがやまず、それを止めるため、いつもアイポッドで音楽を聞いている。
 両親をその事故で亡くした彼は、養父とともに暮らしているが、養父も耳が聞こえず、二人は手話で会話している。互いに相手を思いやり仲も良い。そして養父は、ベイビーの仕事≠フことを心配している。
 そう、仕事=Bベイビーは謎の犯罪組織のボスドク≠ノ見込まれて、銀行強盗や現金輸送車強盗の一員として、その天才的なドライビングテクニックを用いて逃がし屋≠やらされていたのだ。
 ドクに課された借金も返し終わり、ベイビーに平穏な時が訪れたように見えた。母がかつて勤めていたレストランで知りあったウェイトレスとも仲良くなり、ピザの宅配という新しい仕事を見つけ、これから明るい未来が開けていると思っていた彼だったが――


「カー・アクションではなく青春映画」と冒頭に書いたが、もちろん、カー・アクションは凄いの一言である。自由自在にクルマを操り、接触することもなく狭い隙間を猛スピードですり抜けていくベイビーの技は、クルマにダンスを踊らせているかのごとく気持ちよい。

 こういう設定ではあるが、ベイビーは決して人間味を失った、犯罪者じみた青年ではない。むしろそれとは正反対。ウェイトレスのデボラに恋をしてどぎまぎしたり、幼い頃の事故の記憶に悩まされたり、義父の心配をしたり、また、逃走中でも同乗者が他人を射殺しようとするのを止めたりする。根は素直で善人なのだ(とはいえ、ドクにその腕を見込まれたのは、彼のクルマを盗んだから、というのが発端だったのだが)。

 犯罪組織のボスであるドクは、ベイビーの腕を見込み、やはり彼を手放す気はなかった。デボラとデート中のベイビーを見つけ出し、なかば脅迫して、また犯罪に協力させようとする。

 このドクがいい味を出している。一見、ぶっきらぼうな紳士面した中年男。それでいて怜悧な感じもにじみ出ている。
 この先のストーリーは追わないので、見てのお楽しみ。
 だが、ラスト、郵便局強盗に失敗して仲間割れも起こし、ボロボロになったベイビーを冷酷に見捨てるか、と思ったドクが、寄り添うように現れたデボラを見て「昔を思い出した」と言い、ベイビーの逃走に手を貸すシークエンスがいい。
 ちょっとネタバレだが、このときドクがベイビーに手渡した黒いバッグが逃走資金とかではなく時限爆弾で、実は口封じをねらっていた――などと深読みしてしまったが、別にそんなことはなかったぜ!
 いやほんと、このドクの最期にわたしは惚れてしまった。

 こんな流れのクライム・ムービーだが、ラストはそれまでの伏線を回収して爽やかに終わる。
 今は友人だけれど、友人以上になりたい異性と観るデート・ムービーとして実にお勧めである。ドンパチ映画だけに、多少の流血シーンはあるが、グロ耐性が低い方にも大丈夫だと思う。大丈夫じゃないかな? まちょとそれは人それぞれか。

 前述の通り公開館が少ないのが残念だ。レンタルで観るのなら損はしない一本、と言い切ってしまおう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年08月29日

【日記】辛いもの

 今年の夏は少しおかしい。涼しくなったかと思うと、一転、酷暑がぶりかえす。涼しいだけ、暑いだけならまだ耐えられるのだが、こうも陽気が二転三転されると、心身へのダメージがかなり大きい。

 細君と外出して昼食。ココスに入る。正直、食欲がないので、自分はデザートにドリンクバーでいいや、と入店したときは思っていたのだが、メニューに「激辛・冷やし麻辣麺」という季節限定メニューがあるのを眺めていたら、ちょっと食欲がわいてきてそれを頼むことにした。




(※大変辛いメニューとなっております。辛さが苦手な方やおこさまのご注文には充分ご注意ください。)

 この惹句が「※ただしイケメンに限る」みたいで選民意識をそそられていい(笑)

 わたしは「甘党」だが、基本、「味音痴」なもので、辛いものもダメというわけではない。ただ最近は、主治医に無茶はしないでと釘を刺されているので、辛いものは避けてきていた。
 以前は辛いシシトウに当たる≠ニ嬉しくて、「辛い、痛い、辛い、痛い」とハフハフしたものだった。最近はそこまで辛いシシトウがなくて残念である。

 だいたい、ファミレスなどでの「激辛」メニューは、お客さまに遠慮して、本当に「激辛」なのはまずない、という経験則がある。
 三十年以上前だが、デニーズでバイトしていた友人から聞いた話。そこでは当時「鶏のステーキ小悪魔風」という、鶏ステーキの上にカラシを塗りたくったメニューを出していたそうなのだが、注文したお客さまが「こんなもの食えるか」と理不尽に怒り出し、オーダーを交換したのだそうだ。
「ファミリーレストラン」だけに、あまり無茶をしすぎると、こういうお客さまも出てきかねない、ということだろう。

 が、今回出てきた「冷やし麻辣麺」は、そこそこ「激辛」であった。試食した細君も「くるくるー、これは辛い!」と言う。ファミレスにしては珍しく、きちんと激辛である。
 一緒に花椒油もついてきて、辛さが足りない人は追加をどうぞ、というのだが、わたしは甘ちゃんな激辛喰いなので、それを注すまではさすがにできなかった。

 日ごろ「腹に入ってしまえばみな同じ」と言っている味音痴だが、腹に入ってもほんのり温かい激辛麻辣麺であった。
 ファミレスでもこういうメニューが出せるようになったのだなぁ、と、日本の外食文化が成熟したことに驚いている。

 検索してみると、これでも「辛さはまぁまぁかな」という人がいてすごい。
 わたしは「味音痴」を自覚しているのでいいのだが、激辛メニュー大丈夫という人は味蕾が破壊されているのではないかと、他人事ながら心配している。

 ところで、上記で「辛いシシトウ」に当たらなくなったという話を書いたが、実は当たらない<Rツがあるのである。食べて「あっ、これは辛いかも」と感じたら、すぐに飲み込んでしまうこと。爆弾処理みたいなもので、舌の上で爆発させないで、胃にすぐ落とし込んでしまえば辛さを感じずに済むのである。

 まあ、こういうことをやっているから、毎日、クスリが欠かせないのかもしれないが……。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月28日

【日記】Gが恐くなくなった

 と言っても、G13型トラクターの話ではない。あっちは恐い。まあ、わたしを暗殺しようとするような奇特な人はいないだろうが。

 Gとはもちろん、ゴキブリである。その昔、少年期から青年期の始めにかけては、ゴキブリが恐くてしょうがなかった。
 部屋に一匹、ゴキブリが現れただけで、もうその夜は眠れない。殺虫スプレーとハエたたきで、とにかく退治するまでは安心できない。
 書斎を改装して広くするまでは、モノが多く、隙間に逃げ込まれてしまうと、こっちとしては必死である。ハエたたきでバンバン威嚇して、ふと顔を上げると、全然違う場所の壁を走っていたりする。やつらは神出鬼没だ。
 そしてたまに、飛んできたりするのがまた恐い。

 その昔、オウム真理教が「世界が滅亡したときに生き残るのは我々だけなんです」と言ったとき「じゃおまえらゴキブリと同じじゃん」と毒づいたくらい、ゴキブリというのは生命力に溢れている。

「ゴキブリホイホイ」が出始めた頃、これはよい、と、部屋に設置してみたのだが、これの弱点には気づかなかった。もし、ゴキブリがまんまとかかっている場合、ゴキブリホイホイ本体を手にとってゴミ袋に捨てるまでが地獄なのである。中にゴキブリが数匹はいっている箱を手に取ると思うだけで寒気が走る。
 それでも、なにもかかっていないホイホイを捨てるのはもったいないから、一応、中をおそるおそる覗いてみる。うっ、動いている何者かがいる……。どひゃー。おぞぞぞ。

 そんなわたしだったが、ある日を境に、ゴキブリが恐くなくなった。これは本当に突然に、である。その変化は180度の転換と言ってもいいくらい。
 いったいなにがわたしに起こったのか――考え方を変えたのである。
 こう変えたのだ。

「相手はたかが指先程度の大きさの虫。こちらは人間である。体の大きさ、重量、体積から言っても、勝負になるわけがない。こちらのハエたたきのひと振りがかするだけで致命傷になるような、殺虫ガスが漂うだけで動きが鈍るような、その程度の相手なのである。ゴキブリ一匹がどんなに必死になろうが、こちらは命を奪われることはもちろん、傷を負うことすらない。ただ、嫌悪感があるだけで、これは精神的な問題だ。つまり、むしろ、怖がっているのはこちらではなく、ゴキブリの方なのだ」

「怖がっているのはこちらではなく、むしろゴキブリの方」という真実を悟ったとたん、ゴキブリが恐くなくなった。その姿形に嫌悪感はあれど、圧倒的に精神的優位に立つことができたのである。
 それ以来、ゴキブリを見たら、瞬時にスリッパでバンバン、新聞を丸めてバンバン、迷いがないぶん、殺虫率も高くなった。
 年を取ってからは、だいぶ目がかすんできたので、ゴキブリのあの嫌悪感をもよおす脚とか翅とかをはっきり認識できず、黒く動く塊にしかすぎない。細君はおののくが、わたしはホイヨッ、バン! でおしまいである。
 それでもさすがに、直接手でつかんで捨てる気分にはなれないので、、死体はそのまま庭に捨てている。すると翌日、アリさんたちが食糧にしてくれている。
 面白いモノで、殺虫剤で殺したゴキブリの死体は、アリさんたちは見向きもしない。わかっているのだなぁ、やっぱり。

 そんなわけで、ゴキブリが苦手、という人は少なくないだろうが(いや、わたしだって、得意というわけではないが)、ひとつ、考え方を変えて「怖がっているのはゴキブリの方」と思えば、精神的優位に立てる、ということをお伝えしたい。
 スポーツでもなんでも、「精神的優位に立つことができる」だけで勝利は半分決まったようなものなのである。

 もっとも、マンガの格闘モノなどでは、現実的な実力を見誤って、自分の方が強いと勝手に思い込みボコボコにされる、ということもないではないから、ま、闘うのは地球に住む小さなゴキブリ相手にしときましょうね、というところで。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月27日

【回想録】写ルンです

 iPhoneでコンデジよりいい写真が取れるというこの時代、ふんわり系女子に、いにしえの「写ルンです」が人気なのだとか。あのレトロ感がいいのだそうである。
 写真が撮れるスマホがあればいいじゃん。と思うわたしには、その感覚はちょっと理解できない。

 そんなわたしだが「写ルンです」にはずいぶんお世話になった。「写ルンです」は正確には「レンズ付きフィルム」であり、カメラそのものではない。現像は写真屋に持っていって、フィルムと紙焼きをいただき、外箱はそのまま回収される仕組みである。

 この「写ルンです」の革命的なところは、「レンズつきフィルム」であり、カメラが精密機器であることを忘れさせてくれるところだった。
 良く持っていったのはスキー場。ポケットに入れておいて、いいところでパシッと撮れる。転んでもそう簡単には壊れない。
 あとは、出先でいきなり写真をとりたいときに、キオスクやコンビニですぐに買えて使えたのが良かった。
 将来の細君にちょっと落ち込む出来事があったとき、クルマで飛んでいって、もう閉園間近のディズニーランドへ連れて行ったことがあった。そのとき、わたしは細君にプロポーズをしたのである。
 そして記念に、売店で「写ルンです」を買って、キャストに撮ってもらった。
 こういうことは「写ルンです」登場前にはできなかったことだ。

 交際中はマメに現像に出していた「写ルンです」を始めとする写真フィルムだったが、結婚式後の新婚旅行から、いきなりわたしは自分の本性をあらわし始める。もともとわたし、すごく現像無精だったのである。
 交際中は、デートの写真を現像して見せることで話題が広がったので、フィルム一本撮ったらすぐに現像へ回していたが、新婚旅行で撮った写真は、なんと、なんと、なんと、20年近くもそのまま放置というていたらく。

 細君がまたそういうことに文句を言わない(気づかない)人なので「いつかは現像しないとね」「もう真っ黒になってんじゃない?」などという恐い会話を何度か繰り返しても、カメラ屋へ持っていくことがなかったのであった。

 そして時代はデジカメの時代となり、現像されなかったフィルムはずーっと箱にしまいっぱなしであった。
 ミレニアムを越え、新しい一眼レフデジカメを買おうかどうか迷ったわたしは、ひとつの賭けに出た。昔撮った、このパトローネに入ったフィルム7本分、168枚の写真が、もし、現像できたら、神さまに感謝して新しいカメラを買おう、と。


(「写ルンです」も分解してパトローネだけ保存していました)

 ヨドバシカメラに持っていって、現像は普通にやってもらい、どうせデジタル化するのだからと紙焼きにはせず、フォトCDにして納品してもらった。
 結果――



 写ってる! のである。色は褪せているが、当時、シャッターを押してフィルムに焼き付けた情景が、確かに残っている。
 色は緑色へ偏向しているが、解像度はそれほど落ちていない。むしろそれが、懐かしさをかもしだして、どこか良い。
 自分の現像無精を棚にあげて「写真って、やっぱりいいなぁ」と思ってしまった。


(ここはどこでしょう?)


(「もう二度とくるんじゃないぞ」。いやもう一度、いってみたいなあ)

 ごらんの通り、えらく退色しているが、それでもちゃんと写真である。むしろこの退色具合が「レトロでいい!」

 かといって、いまさらわたしが銀塩写真に戻るかというと、そんなことはない。この程度の効果、デジカメで撮ってPhotoShopでできてしまう。もうフィルムに戻るなんてありえない。
 なんというか、ウォシュレットの時代に、レトロで素敵だから汲み取り式のトイレがいいの、という感性は、わたしにはないのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録