2017年08月16日

【日記】ニセウイルスの詐欺ページ

 某月某日、楽しくネットサーフィンしていると――


(クリックで拡大できます)

 いきなりこんなウィンドウが。
 言うまでもないが、もちろん詐欺である。

 中央のダイアログにはこんな脅し文句が並ぶ。



 検索に引っかかるよう、文字起こしもしておこう。

 support.Microsoft.comは言う:
**お使いのコンピュータは、BLOCKEでした。

 エラー # DW6VB36.

 すぐにお知らせ下さい:03 4579 5825.
 もしこの警告批判。<br>無視しないでください。このページを閉じると、コンピューターへのアクセスは無効となります 私たちのネットワークにさらなる損傷を防ぐため。私たちのコンピューターは私たちに警告 それは、ウイルスやスパイウェアに感染しています。情報 次は盗まれた.

Facebookのログイン
>クレジット カードの詳細
>アカウント ログイン用メールアドレス
>このコンピュータに保存されている写真。
お問い合わせをする必要がありますすぐに、当社のエンジニアは電話を削除するプロセスをガイドすることができます。お使いのコンピューターが無効であるを避けるために次の5分でお電話ください。

携帯電話:03 4579 5825


 ところどころおかしい日本語でおわかりいただけるとおり、再度繰り返すが、言うまでもなく、詐欺である。こんなところに電話などしたりしないように。

 しかもご丁寧なことに、これに延々とリピートされる女声アナウンスがつく。録音してみた。

 詐欺サイトに流れる音声(mp3)

 これが再利用されて悪用されないよう、BGMに「♪たーんたーんたぬきの」が入れてある。
 実は「♪たーんたーんたぬきの」は賛美歌である。が、カトリックの使う「カトリック聖歌集」「典礼聖歌集」にはもちろん、「讃美歌」「讃美歌21」にも載っていない。なのでわたしは教会で歌ったことがない。曲名は「まもなくかなたの」だそうだ。うーん、この世界、本当に奥が深い……。

 詐欺サイトの話に戻ると、いきなり流暢な女性音声のアナウンスが流れるものだから慌てたりするかもしれないが、こんなものはただの脅かしなので、ウイルスだのFacebookのデータが盗まれただのを信じてあたふたすることはない。タスクマネージャからブラウザを落とすか、よくわからなければ再起動でよし。あなたのPCが(このページのせいで)ウイルスを仕込まれたりしていないことは、わたしが保証する。

 それにしても、詐欺の連中も手が込んだことをするものだ。女声アナウンスも合成音声ではなさそうだし、どんな気持ちでこんな録音をしたのだろう、などと想像してしまった。もしかしたら彼女もだまされて、マイクロソフトの仕事だと思って録音していたりして。

 しつこいようだが、再々度繰り返す。これは詐欺サイトなので、載っている電話番号に決して電話してはならない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月15日

【日記】聖母の被昇天

 8月15日は、カトリックの祭日で「聖母の被昇天」である。

 神の子で復活後のイエスは、復活後40日後に自ら昇天したので、復活の主日から40日後の木曜日が本来の「主の昇天」の祭日なのだが、平日にミサに与るというのはむずかしい国もあることを考慮し、聖座によって、「主の昇天の祭日は、復活節第七主日に移す」ことも可能となっており、日本ではそれを採用している。

 対して神の母聖マリアは、自らの力で昇天したのではなく、「天に引き上げられた」ので「被昇天」となっているわけだ。
 マリアは無原罪でなくてはならないというカトリックのドグマ(教義)から延長してできた概念ではある。


(2009年の「聖書と典礼」より引用)

 プロテスタントの一部の人には「カトリックは聖母マリアを崇拝しているからおかしい」という方がいるが、これは悪意を持った誹謗中傷か、おかしな教導者に刷り込まれた無知かのどちらかである。
 カトリックのキリスト信者で「聖母マリアを崇拝しています」という者はひとりもいない。「崇敬」である。この漢字が読めないプロテスタントの一部の人のために、ひらがなでも書いてあげよう。「すうけい」である。

「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」
「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」
「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」

 大事なことなので、先生、三回言いました。これから先、「カトリックは聖母マリアを崇拝している」と言う人がいたら、内心、「あ、おバカさん発見」とさげすんでいただきたい。

 誰でも、この世に生を受けて生活を営めば、尊敬する人がいる。過去に尊敬できる人物がいることを知る。そういう人に対する感情が「崇敬」。
 カトリックの「マリア崇敬」を中傷するプロテスタントの方には「尊敬する人」はいないのだろうか。イエスを崇拝するだけで、過去にこの世界を善なる方向に変えていった人々も「ただの人間だから特に何の感情も持たない」と言うのだろうか。
 むしろ、そういう一部のプロテスタントの方の感情の方を、わたしは異常というか、エゴイズムが深いと感じてしまう。

 カトリックに「聖人」は多いが、これも「崇拝」しているのではく「崇敬」しているのである。今風に言えば「リスペクト(respect)」だ。
 ことあるごとに「イエス崇拝のみ」を御旗にして、同じ人間に対してリスペクトの心を持たない人は、むしろ根本的になにかダメな人のような気がする。いかがだろうか。

 わたしはカトリックだが、マルチン・ルターも、キング牧師もリスペクトしている。そのことになんの矛盾も感じない。

 わたしにしてはやけに筆鋒鋭くなってしまったが、それだけ「カトリックはマリア崇拝をしているからおかしい」と筋違いのイチャモンをつけてくる変なプロテスタントの人がいる、ということである。
 もちろん、大部分の普通のプロテスタントの人は、これまで書いてきたようなことは理解してくれていると思う。ちょっと厳しく書いてしまって、正直、すまんかった。

 さて、「8月15日」と「聖母マリア」は、日本にとって、不思議な因縁がある。
 普通の人が連想できる8月15日は1945年の「終戦記念日」である。
 その396年前の1549年8月15日、キリスト教宣教のため、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日した。ザビエルはその日が「聖母の被昇天」であったため、この日本を聖母マリアに捧げたのであった(勝手にw)。
 というわけで、日本は聖母マリアに捧げられた国なのである(勝手にww)。
 その日が「終戦記念日」となり、日本が大きく変わった日であるというのは感慨深い。

「聖母の被昇天」の祭日は、「主の昇天」と違って、主日(日曜日)に移動するようなことはない。そして、やはりこの日は8月15日固定が一番良い、と思う。

「マリア崇敬」はカトリックのウィークポイントどころか、最強の武器のような気もする。
 わたしも、心身がつらいときはもちろん、PC作業のCPU空き待ち時間に、眠れない夜に、早く目覚めてしまった朝に、「アヴェ・マリアの祈り」をとなえていると、不思議と心が静まり、なんとかなるか、と思えてくる。

 日本人論のひとつとして、土居健郎の「甘えの構造」があるが、外国人に日本人のこの「甘え」を理解してもらうのに「カトリックが持つ聖母マリアへの感情」というと理解してもらいやすいのだという。
 こんな時代、今の日本だからこそ、「甘え」を許してくれる大きな存在があってもいいのではないかな、と、そう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月14日

【日記】そうそう当たるものではない!

 と、シャアは言うが、当たったら「いやけっこう当たるっすよ、あのビーム」と言える証言者が昇天してしまうのだから、ずいぶんいい加減な励ましである。

 いやしかし、実際、拳銃の弾丸などはそうそう当たるものではなく、もし相手が拳銃を取り出したらジグザグに逃げるなどという小手先の技を弄したりせず、一目散にかつ一直線に相手から逃げる方が良いのだと聞いた。
 わたしの住んでいる地方都市には、ちょっと有名な盛り場があって、昔は(今も?)反社会的勢力が仕切っている街であった。一応、メインストリートには老舗のまともな店もあるのだが、そのシャッターに弾痕が残っているという話であった。これはわたしが直接見た話ではないので、都市伝説かもしれない。

 なぜわたしはこんな話をしているのだろう?
 そうだ、当たった話をしようとしていたのだった。
 映画「ハクソー・リッジ」を観たあと(「【映画評】ハクソー・リッジ」参照)、キャンペーンのチラシがあったので、応募するだけしてみるか、とネットからチョコチョコとエントリーしてみたら、当選したのである。それも、5名様にしかあたらないという「オリジナル・キャップ」が。
 配給会社のキノフィルムズに感謝、感謝である。



 当たるにしても、10名様の「プレスシート」だと思っていたので、もうびっくりである。


(良く見ると、Tシャツは「10組20名様」となっている。この部分、本当は「映画チケット」だったのではないかと思われる。あわてて作った感が満載!?)

 なにしろ、わたしはクジ運が悪い男なのである。振り返ってみると、わたしの名前で応募してなにかに当たったという記憶がなにもないほど。

 対して細君はけっこう「当てる」ほう。ここ十年でデカいものは、折りたたみ自転車を当ててくれた。
 ちょうどその頃、ちょっと体調が良かったわたしは、ロードバイクかA-bikeを買って外出に使うか、と思っていたもので、ありがたくその折りたたみ自転車をいただいた。これは神の采配だと今でも思っている。なんとなれば、きっとロードバイクを買ってもすぐに飽きてしまったろうし、A-bikeはわりと危険ということが後にわかってしまったから。きっと神さまが「ロードバイクやA-bikeで大けがをする前に、これに乗っておきなさいよ」とわたしにプレゼントしてくれたのだ。
 いや、当てたのは細君なんですけどね。

 他にも細君は、コンパクトデジカメや、アフロ犬の抱き枕や、ネットゲームのスターターディスクや、覚えきれないほど小物をちょくちょく当てている。つい最近も、市立美術館の特別企画展の招待状を当てた。
 しかし本人曰く「ネット時代になって当たらなくなったねぇ」とのこと。

 さて、せっかくいただいた「ハクソー・リッジ」のキャップだが、カトリックのわたしが、セブンスデー・アドベンチストの英雄を描いた映画ということを承知でかぶるのは抵抗が……いや、全然ないんですけどね。モルモン教のトートバッグを4つ持ってるくらいだし。
 ありがたく、機会があったらかぶって外出しようと思っている。

 ちなみにこのプレゼント応募、映画を観る必要すらなかった。チケットの半券すら必要ない。映画館に置いてあるチラシから誰でも応募できる。一緒に入っていた紙には「ハクソー・リッジ」観てね、と記してある。いやもう、やってるハコがないんですけど……。とても配給会社の後手後手を感じずにはいられない。
 アカデミー賞二部門受賞で、あわてて公開、という感じだ。本当、最近の映画関係の洋画の冷遇ぶりは悲しい。昔は世界同時公開も普通だったというのになぁ……。

 というわけで、はっきり言うが賄賂に弱いわたしは、プレゼントをいただいたので「ハクソー・リッジ」お勧め。DVDになったら是非ともご鑑賞を。

 そうそう、当たらなくていいものが当たらなかった!
 先日の胃カメラと血液検査の結果で、わたしの胃にはピロリ菌がいなかった。これはもう、絶対当たりだと思っていたので、嬉しい「当たらない」だった。

 というわけで、わたしの「当たらない」クセはまだ続くのである。
 ま、いいのですよ。
 わたしはすでに細君という、人生で一番の当たりを引いたので、ふふり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月13日

【日記】血液型性格診断

 日本には独特の「血液型性格診断」というものがあって、血液型でその人の性格が四分類されるという、世間話では半ば常識のような概念がある。
 これは、もし理系ダンスィが飲み会の席で「血液型性格診断なんて科学的にありえないよ」とでも言い出したりしたら、女子から総スカンを食いそうな勢いで、日本社会にはすでに根づいた概念である。
 一般的には――

 A型:几帳面。
 B型:マイペース。
 O型:ズボラ。
 AB型:二重人格。

 あたりの性格に分類されるようだ。


(空えぐみ「天野家四つ子は血液型が全員違う。」1巻より引用)

 理系の人間はこれを嫌って、「血液型で性格は決まらない」ということを細かく解説してきたりする。


(さいとう・たかを「ゴルゴ13(文庫版)」88巻より引用。さすがシンプソン博士だ…専門外の質問にも動じない!)

 ところが、同じ○○型性格診断でも、なぜか科学界では「アリ」とされている仮説があることをご存知だろうか。
 そう、知っている人なら知っている、「クレッチマーの性格類型論」である。

 言い出したのは近世ドイツの医学、精神科医だったエルンスト・クレッチマー。


(山上たつひこ「喜劇新思想大系 完全版」下巻より引用。懐かしい)

 彼は血液型よりもっとあからさまにわかる、「体型」に目をつけ、それで性格がわかる、とぶちあげた。
 それによると――

 デブ:社交的、善良的、親切、温厚。
 ガリ:非社交的、静か、控えめ、生真面目、変人。
 マッチョ:エネルッギッシュ、頑固、執着、興奮、激怒。

 まあこんな感じで三分類される、という。
 これもずいぶん、いい加減な話ではないだろうか。たとえばデブがダイエットしてガリになったら性格が変わるのだろうか。さらに鍛えてマッチョになれば、温厚だった人物が激怒しやすい性格になるのだろうか。これら三分類も、実は科学的根拠はまったくない。

 血液型性格診断に比べても、ずいぶんいい加減な分類だと思う。が、科学界で(血液型性格診断のように)はっきりと「あれは非科学的です」と言ってのけた学者をわたしは知らない。

 わたしは、クレッチマーがアリなら血液型性格診断もアリだと思う。
 飲み会で「血液型性格診断」はナイ! と怒る理系ダンスィがいるなら、「クレッチマーはどう?」と聞いてみるとよろしい。「クレッチマーも非科学的だよ」というなら筋が通っている。「クレッチマーは科学的」というなら物事の真偽を自分で考えない教科書を鵜呑みにするお利口さん。「クレッチマーってなに?」と聞き返してきたらただの莫迦だから相手にしなくてよし。

 もし「クレッチマーは非科学的だけど、血液型性格診断はアリかもね」という人だったら――是非とも見解を聞く価値がある。
 なぜなら、わたしもそう思っているタイプだから。

 そう。わたしは、クレッチマーはナシだが、血液型性格診断はアリだと思っている。社会科学的に。
 たとえば、男の子は小さい頃から寒色傾向のモノ、女の子は暖色傾向のモノを与えられることが多い。結果、男子トイレのマークは青に、女子トイレのそれは赤として表示される。
 血液型性格診断にも同じことが言えるのだ。
 なにか几帳面なことをしたとき「さすがA型だねぇ」とまわりに褒められれば「自分は几帳面なA型なんだな」という心理が強化される。マイペースで物事を進めて「あなたはマイペースなB型だからねぇ」とまわりにしかめ面をされれれば「自分はマイペースなB型」という心理が強くなる。O型、AB型も同じ。もともとの血液型が性格に反映されるのではなく、行動を周りに評価されて、「自分はx型」という意識が強くなるのだ。血液型で分類されるピグマリオン効果である。

 血液型性格診断を「非科学的」と言ってしまう人間は、社会科学という面まで考慮していないのである。

 日本では血液型性格診断は隆盛を誇っているが、海外では奇異な目で見られる。だから血液型性格診断は非科学的、というのも、上記、社会科学的な側面から見れば当然、ということになる。血液型性格診断は日本のみに見られる現象なのである。

 ここまでくると、次は社会科学を「そんなもの科学じゃない」という理系ダンスィがいるかもしれない。なにをかいわんや、である。そのロジックで言えば「性格診断」そのものがまず「純粋な科学」ではないのである。
「純粋な科学」とは「記録」して「量化」できることが基本である。几帳面さやマイペースさ、ズボラ度、二重人格性は、数字に量化して記録することができないものである。もともと、性格を診断するということが科学的ではないのだ。

 なので、飲み会で「血液型性格診断なんて科学的じゃないよ。人間の性格が血液型で決まるわけないじゃん」などと言っているダンスィは、性格というものが科学的に量化できると思っている点で、すでに論理破綻をきたしているのである。

 血液型性格診断が科学的かどうかはひとまずおいておいて、このことについて、ひとつ占える事象がある、とわたしは思っている。
「血液型性格診断の話でもりあがれるダンスィは女子にモテる。もりさがるダンスィは女子にモテない」ということである。
 さてこの診断、正しいや否や?
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年08月12日

【映画評】夜明けの祈り

 教会や修道院には、子どもたちの明るい声がよく似合う。ラスト近く、それまで静謐だった修道院に子どもたちが走り回るシーンを見て、そう感じた



 と、記事の冒頭部に書こう、と決めたはいいものの、そこから先、筆が進まない。
「夜明けの祈り」は、重く、淵は深く、漆黒の陰を持った映画だ。一応のハッピーエンドを迎えるが、爽快感などはなく、見た者それぞれに、なにかおのおの十字架を背負わすような終わり方である。

 そうそう、ちょっと茶目っ気を出せば、実は本作、「日本カトリック中央協議会推薦映画」である。逆にこの日本で、クリスチャン以外がこの映画を見たいと感じたきっかけを知りたい、と思うほど、エンターテイメント色はまったくない。

 あらすじ――第二次世界大戦が終わった1945年、冬のポーランド。赤十字施設でフランス人負傷兵の治療にあたる女医マチルドのもとに、決死の表情でポーランド人の修道女が助けを求めに来る。
 修道院に助けて欲しい患者がいるという願いを、マチルドは最初「ポーランド赤十字に頼みなさい」と一蹴するが、修道女マリアは、それができない理由があるのだ、という。
 彼女を赤十字から追い出したマチルドだが、休憩中、窓の外に、雪の中、たたずみ祈り続けるマリアの様子を見つけてしまう。
 赤十字に無断でクルマにマリアを乗せ、修道院へと向かうマチルド。そこにいたのは、女子修道院にいるはずのない妊婦≠ナあった。
 修道院長マザー・オレスカは、最初、事実をごまかそうとしているが、やがて、修道院がソ連兵に襲われ、修道女たちがレイプされて身ごもっている、という事実をマチルドに告げざるを得なくなる。そう、この修道院長さえも陵辱され、性病を感染されていたのだ。
 無神論者であり共産主義者でもあるマチルドだが、信仰のみでは解決できない現実に苦しむ修道女たちの悲劇、そして自ら医師としての「命を救いたい」という思い、そして、自らもソ連兵に陵辱されそうになる経験を通して、修道女たちを救うことを決意する――。


 最初に「このストーリーは現実を元にしている」と一文が入る。「TRUE STORY」と大上段に構えつつ、エンターテイメントであった「ハクソー・リッジ」より謙虚でよい。

 なお、上記の「あらすじ」はいろいろなメディアで公開されているような内容なのでネタバレにはならないだろうが、ストーリー中、ひとつ、大きな事件がある。ので、そのことには触れず書ければと思っている。

 さて、この修道会。作中では明言されていないが、モデルとなったのは、戒律厳しく外部から閉ざされた「ベネディクト修道会」であったとのこと。

 ちなみに、修道会には二種類ある。「観想修道会」と「活動修道会」である。
「観想修道会」は一般からは閉ざされており、ほぼ一生を修道会の中で、祈りと黙想の内に過ごす。現代から見ると、ちょっと浮き世離れしていて信じられない修道会だが、現実に存在する。自給自足の他に、聞いた話だが、教会用のホスチア(ご聖体になる前のタネなしパン)や、ガレットなどのお菓子などをつくったりして生計を立てているらしい。
 一度、こういう修道院に教会のイベントで行ったことがあるのだが、ちょっとした手違いで、ちょうどシスターたちは黙想期間に入っており、彼女たちは誰とも話さず、ただ祈りと無言で神と対話する期間を送っていた。
 ので、みなで、手入れの行き届いた綺麗な中庭を散策させていただき帰ったのだが、なにか不思議な、二十一世紀とは思えない空間に入ったような気持ちになったものだった。

 対して「活動修道会」は地域に開かれており、修道院で共同生活をしながらも、社会へ出て行って福音宣教のために働く。普通「シスター」と言って思い浮かぶのは、こちらのシスターだと思う。
 やはりシスターたちを描いた映画「天使にラブ・ソングを」でも、最初、観想修道会だった修道院が活動修道会となって、地域に入っていく、という描写があったと思う。

 この映画「夜明けの祈り」で描かれている修道院は、前述の「観想修道会」である。
 最初はマチルドの中で「シスター」という記号で描かれていた彼女たちが、マチルドに心を開くにつれ、人間性を見せていくのが良い。自分を犯したソ連兵に恋していると密かに告白する者。生まれた赤ん坊を抱いて、母性に目覚める者。一方、自分が懐妊しているということの嫌悪感から、まったく無意識に出産し、授乳を拒む者……。

 しかし、観想修道会で赤ん坊がいる、ということは許されない。修道院長マザー・オレスカは、無情に赤ん坊と母親を引き離し、「里子」に出していく――。

 やがて出産はラッシュを迎え、次々と赤ん坊が生まれていく。マザー・オレスカの思惑通りにことを進ませていてはいけない、とマチルドはマリアとともに、ある作戦をもって、修道院の朝食の時間に乗り込むのであった。
 このときの聖書朗読が「マタイ12:38-42」なのは、修道院長の思惑と、神の意志との差異を示そうとした暗喩であろうか。

ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。(マタイによる福音書 12:41)



(安易にマタイ19:14あたりを使わないところが、この映画のエンターテイメント色皆無なところでそれも良い)。

 これから映画を観る読者のために詳しくは書かないが、つまりは、マチルドとマリアは、この修道会を、観想修道会から活動修道会へ変革したのである。
 それまで、暗く、陰鬱で、静寂に満ちていた修道院に、子どもたちが走り回り、それをシスターが笑顔で見守り、また、地域の人々とパーティを開いているシークエンスにホッとする。

 しかしマザー・オレスカは、副院長が見守るなか、ひとり、病床に伏したまま、ただ、身を神にゆだねる生き方を変えない。彼女のしたことが間違っていたと言うことはたやすい。しかし、それを裁けるほど清い人間は、この世界にはひとりとていないだろう、と思う。

 活動修道会となり、赤ん坊を抱いたシスターたちの記念写真を、異動先の病院でマチルドが見て、それを白衣のポケットに入れるシーンで物語は幕を閉じる。
「あなたは否定するだろうけれど、あなたはわたしたちにとって、神に遣わされた人(意)」というマリアの言葉が胸に染みる。

 マチルドのモデルとなった「マドレーヌ・ポーリアック」は、現実では1946年2月に事故死なさっているそうである。


(マチルドのモデル「マドレーヌ・ポーリアック」)

 聖人は、教会や修道会にいるのではない。自分ができることを精一杯果たし、弱い人をいろいろな意味で救う、市井の人々の中にこそいるのだ。そう思う。

 エンターテイメント色は皆無といっていいほどない映画なので、デートムービーやちょっとした息抜きには向かない作品だが、カト、プロ問わず、クリスチャンにはお勧めの一本であると思う。

 あなたの背中には、どんな十字架が背負われましたか?
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評