2017年08月02日

【日記】ギャンブル

 わたしがギャンブルをしないタチということは、以前にも書いた。競輪、競馬、競艇の類いは一度もやったことがない。やったことがないから賭けの仕組みもよくわかっていないほど。
 パチンコは18歳になったとき、友人たちと「せっかくだから」と入ってみて、1,000円が瞬時に消えていくのにおののき、自分には縁のない場所だと悟った。ゲーセンなら100円で一時間粘れるというのに。もったいなさすぎる。
 当時、タクシーの中でそんな話をしたら、運転手さんに「あれは一万円以上賭けないと返ってはこないよ」と言われ、住む世界が違うなぁと思ったものである。


(福本伸行「賭博破戒録カイジ」5巻より引用。ギャンブルマンガは読んでる分には面白いですな)

 仲間内の麻雀でも一切金銭や対価の類を賭けない。単なるゲームとしてやっている。使役を課したこともない。
 どうも自分は、ギャンブルそのものに熱くなれない性格のようで、むしろ確率や期待値や計算して冷めてしまうのである。

 それでなくても、若くして賞をいただき小説家になったり、同世代よりは早く結婚したり、会社を起業したり、寛解はあれど完治はない病気にいくつかかかったりと、人生そのものがギャンブルみたいなものなので、いまさら金銭程度でハラハラするような博打では、わたしの脳内エンドルフィンは上昇しないのだと思われる。

 というか、わたしは脳内エンドルフィンがあがるような状況が嫌いなのである。ことギャンブル性が高いことに関しては、石橋を叩いて叩いて叩きまくり、それでも石橋を信用できずに素っ裸になって、脱いだ衣服を頭にくくりつけ、橋の横を泳いで渡るくらい「賭けない」タイプなのである。。
 いやそれじゃ、流れが速くて向こう岸にたどりつけこともあるんじゃないの? という疑問はごもっとも。
 ギャンブルはしない、と大上段に構えておいて、実は石橋を叩いて渡らず泳いでいくのも、ある意味、大博打の一種ではあるかもしれない。

 ギャンブルとは選択肢である。そう考えれば、人生そのものが、逃げては通れないギャンブルの連続なのかもしれない。
 そしてギャンブルには二種類あるのである。「自分に賭ける」か、「他人に賭ける」か、という。

 たとえば、競輪、競馬、競艇、などは「他人に賭ける」ギャンブルである。もちろん、いろいろな考察や観察眼などは必要だろうが、結局、他人のレースに賭けているという点はかわらない。

 対して「パチンコ」「麻雀」などは「自分に賭ける」ギャンブルである。勝ち負けはすべて自分の責任にあり、勝てば自分の腕を誇れるが、負ければ自分のいたらなさを反省するしかない。

 こういうのは日常生活でも言える。たとえば、旅行するとき、電車より自分の運転するクルマで行く方が好きな人は「自分に賭ける」タイプである。遅れても事故っても自己責任だ。
 店で店員のお勧め品を買うのは「他人に賭ける」タイプ。あらかじめ調査済みの商品を決め打ちで買うのは「自分に賭ける」タイプ。
 彼氏彼女を決めるとき、他人の評判を気にする人は「他人に賭ける」タイプ。あくまで自分のフィーリングを信じる人は「自分に賭ける」タイプである。

 どうだろう、人生の選択肢は山ほどあるので、全部が全部「他人に賭ける」「自分に賭ける」タイプと振りわけるわけにはいかないだろうが、自分にどちらの傾向があるか、ということはあるのではないだろうか。

 もちろん、さすがに飛行機レベルまで行けば、自分で操縦するわけにはいかないが。

 で、わたしがどちらのタイプかと言えば、明らかに「自分に賭ける」タイプの人生を選ぶギャンブラーなのである。

 振り返ってみて「あぁ、あのとき、あの人(の言った選択肢に)賭けておけば」と思うことも、もちろんないではないが、それで勝っても充足感はなかったかもしれないし、負けていたらその人のせいにしていつまでもグジグジいじけていたかもしれない。

 でも、大方の人生の選択肢で、わたしは自分に賭けてきた。賞をいただいて大学を辞めたのも、早くして細君と結婚したのも、コンピュータ関係の自営から法人化も、カトリックの洗礼を受けたのも、全部、自分に賭けたギャンブルである。

 勝ち負けはいろいろあったが、人生半分終わってみて、このギャンブルは「ちょっと浮き」くらいかなぁ、と思っている。
 冷静にギャンブルの収支を考えられる方ならば、「ちょっと浮き」くらいというのは、かなりいい成績だとは思いませんか?

「自分に賭ける」タイプには、「他人に賭ける」タイプに比して、大きなメリットがある。それは、自分のペースで物事を進められるということだ。旅行のたとえで言えば、すてきな景色の場所でクルマを止めて道草ができる。

 そんなわけで、この記事も、ぽっかりスケジュールがあいた平日の映画待ちの時間に書いている。こういうことができるのも、「自分に賭けた」勝ち分のひとつ。

 ああでも誤解されないように書いておくと、自分は本当は「人に賭ける」タイプの人間になりたかったし、その方が(実際はそうではないだろうけれど)人生を謳歌していそうでうらやましいのである。
 競馬、競輪、競艇場で盛り上がっている観客の一人にはなれない、という寂しさがある感じ、である。おわかりいただけるだろうか。

 ま、隣家の芝生は青い、ってやつですかね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記