2017年08月04日

【日記】人はなにかの役に立たなければ生きていてはいけないのか?

 教師が教室の教壇に乗って数学を教えておられると、生徒が手を上げて言った。「数学って、なんの役に立つんですか。」
 教師はお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、数学がなんの役に立つのか、あなたたちに言おう。君って、なんの役に立つんですか?」
 生徒らは論じ合った。「『役に立たない』と言えば、『では、なぜ生きているんですか』と我々に言うだろう。『役に立つ』と言えば、数学は役に立つことになる。」
 そこで、生徒らは教師に、「分からない」と答えた。すると、教師も言われた。「それなら、数学がなんの役に立つのか、わたしも言うまい。」(数学教師による福音書 21:23-27)

 できの悪いパロディだが、こんな感じ。久々にネットで不愉快な気分にさせられて、こんな記事を書いている。

「数学ってなんの役に立つんですか?」って質問に対して一番衝撃的だった回答が「君ってなんの役に立つんですか?」でした。


 という、ツイートと、それに賛同する反応が、である。
 ちなみに発言者は「衝撃的だった」と書いているのみで、良いとも悪いとも書いていない。ツイート主が悪いわけではまったくない。わたしも同様に「君ってなんの役に立つんですか?」という回答が「衝撃的」だと思い、そして不愉快になっている、ということ。

「やまゆり園」で多くの知的障害者が殺された「相模原障害者施設殺傷事件」から、ちょうど一年が過ぎた時期に、こんなくだらない「回答」が「イイネ」としてネットでウケる日本を憂う。こんなものは、ウィットでもなんでもない。
「やまゆり園」で19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた犯人は「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」と述べていたという。
 上記の回答を「イイネ」と思う人間は、この犯人と同じ思考をしているのではないか、と、自問自答したほうがいい。

 人は、何かの役に立たなくても、生きている、というだけで存在価値がある。こんな簡単なことが、あたりまえの思考になっていない時代を悲しく思う。
 なお、数学が、何かの役に立たなくても、存在価値があるかどうかは、わたしにはわからない。それをこそ、この「回答者」は真摯に答えるべきではなかったか。

「回答者」は、おそらく若い数学好きの人なのだろう。そして、何度も「数学なんて役に立たない」と言われ続けた経験があり、その相手を「やりこめる」アイデアとして「君ってなんの役に立つんですか?」という「回答」を発明したのだろうと推察する。

 同時に根源的なことを言ってしまえば、おそらくこの「回答者」は、自分自身の中に「数学は役に立つ」という確信がないのだ、とも思える。

 たとえば「食事って何の役に立つんですか?」という質問に「君って何の役に立つんですか?」と「回答」する人はいるまい。「食べないと死んじゃうからね」という「回答」一発で解決である。
「君って何の役に立つんですか?」という逆質問で韜晦しないと、自分の中の「数学は役に立つ」という信念が揺らぐから、こんな「回答」をしたのである。

 いやひょっとして、回答者は「数学なんて役に立たない」と思っていて、また、「人は役に立たなくても生きているだけで尊い」という正しい見地を持っているからこそ、「君ってなんの役に立つんですか?」と答えた、とも考えられる。しかし、そうだとしたら、この「回答」は質問者に非常に失礼だ。

 なんにしろ、数学は有用性で語られる分野であるが、人間の存在というものは、そういったものから切り離されているものなのだということ。比較すること自体が間違っている、ということ。それがわたしの不快感の根っこにあるのだと思われる。

 神は言われた。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。(イザヤ書 43:4)」

 わたしは数学を、神が創造したこの世界を解明するための重要な学問のひとつだと思っている。学問というものはジャンルは違えど、すべてその道の頂点は同じところにつながっている――神と人間との関係性を明らかにし、この被造世界を解明する――ものだとも。
 だから学者は、古今東西、尊敬される存在だったのである。

 すべての道はローマに続き、ローマにはローマ・カトリックがあるのである(これはもちろん冗談である)。

 人間の尊さを軽視するような者は、根本的なところで学者にはなりえない。
 この回答をした方がどういう方かはご存知あげないが、そこのところを理解していない段階では、数学者ではなく、まだ、ただの「数学好き」なのだと思う。

 まあ、真面目にとりあげるようなことでもないのかもしれないが。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記