2017年08月05日

【日記】時代の時間の流れ

「【日記】スマホ版がたまに更新されない件」で「城之内死す」ネタをやったら、中学生の読者に「先生ってネタに詳しいんですね」というリアクションをいただいて、のけぞってしまった。

「遊☆戯☆王デュエルモンスターズ」のアニメ版で、予告で盛大にやらかした上記のネタの放映日は、2002年10月22日である。つまり今から15年も前。リアクションをくださった中学生が、まだ生まれていないか、幼児のときに放映されたものなのである。

 わたしの感覚で言えば、わたしが生まれる前のテレビのネタを中学生が「自分の世代のもの」と思っているようなものなのだ。
 そう、たとえて言えば、中学生時代のわたしが、先生が白黒テレビ「赤銅鈴之助」とか、「ゲバゲバ90分」とかのネタを使い「へぇー、先生って、ネタに詳しいんですね」というような感覚。
 実際に中学時代のわたしに先生がそんなことを言ったら、「先生、ふるっ。知らないよそんなの。アナクロ!」という反応をしたに違いない。

 言えるのは、ネット常時接続時代になってから、「時代の時間の流れ」が遅くなったということである。15年前のネタでも、今の中学生が、ついさっき流れた自分のネタとして使えるようになったのである。

 以前、自殺志願者をネットで集めて集団自殺をした「ドクター・キリコ事件」のとき(これは中学生、知ってるかな? 1998年12月12日のことである)、ラジオで「ネットに詳しい作家」としてコメントを求められ、わたしはこう答えたのであった。

「ネットはあらゆる情報を暴力的≠ノ平坦化するメディアです。今、テレビやラジオだけが特権的に持っていると思っている情報がネットによって突き崩され、むしろ、ネットの方が情報を持っている時代が必ず訪れます」

 聞いていたアナウンサーは、半信半疑、というような反応であった。
 しかし、こう言っていたわたしも、まさかネットが情報だけでなく「時代」まで暴力的に&ス坦化するとは思っていなかった。

暴力的≠ニ書いてきたが、これは決してネガティブに言っているのではない。vaiolenceには「激しい」「強烈」「強引」という意味もあり、それだけのパワーをネットは持っている、ということを、いささか強調する意味で、当時「ネットは暴力的に情報を平坦化するメディア」と伝えたのである。
 1998年当時でも、2017年の今でも、ネットの暴力的≠ネところは変わっていないと思う。

 もちろんネットにも流行りすたりはあるので、今どき「藁」とか「逝ってよし」とか「ヌクモリティ」とかの言葉を使うのは憚られる。15年の年月をかけても「城之内死す」がネタとして残っているのは、それが「古典」になる要素があったからだろう。

 なにが「古典」となって、現代の若者にも通じるネタになるか。そしてなにが流行遅れになるかは、なかなかわからないところがある。わたしも2ちゃんの「名無し」としてけっこうコピペやらAAやら流行語を作ってきたが、その多くが流行遅れになってしまった。ちょっと寂しく、悔しい。

 若い人が「昨日のことのように」ネットで過去の情報に触れられる、というのは、良い時代だと思う。「温故知新」である。
 青年になったわたしにとって、「連続企業爆破事件(1974年)」は、すでに過去のことになってしまっていた。事件の詳細を知るには、図書館で本を探し、新聞のマイクロフィルムを読むしかなかった。
 今の若い人は、1995年に起きた「地下鉄サリン事件」を、ネットで調べ、昨日のことのように追体験することができる。

 昔は「なにを知っているか」が、その人の知識人としてのメルクマールだったが、今の時代は知識量だけではその人が知識人かどうかはわからない。
 iモードが出始めたときのCMで、板前役の田村正和が、客に知らない品を注文されて、店の裏でケータイで調べる、というものがあった。今はこれが笑い話にもならない時代である。

 その人の知識量が重宝される時代は、とうに過ぎ去った。現代は、国会議員なのに人の容姿を罵ったり、病気の人に「自業自得だから実費負担にせよ。無理だと泣くならそのまま殺せ」という人の知性を疑う時代である。

 ネットは暴力的に、本当に頭の良い人とそうでない人を、ふるいにかけるのである。

追記:と、書きつつ、わたしは人間にとって知性は進化における「キリンの首」だと思っているので、知性が低い方が幸せな人生を送れるのかもしれないな、とも思っていたりもするのだが。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記