2017年08月11日

【昭和の遺伝子】夏の海の思い出

 小学生の頃、わたしの両親は、毎年、同じ県にある海水浴場へ、泊まりがけで旅行に連れて行ってくれた。
 のんびりとした時代ではあったが、自分がオトナになってみると、毎年、夏休みに子どもをどこかレジャーへ連れて行くのは大変面倒なことであったろうと思う。父母には感謝しかない。

 遠浅の海は、お世辞にも綺麗とは言えない海水であった。泥が混色し、沈めば数メートル先もみられない。そこに、海草やらゴミやらが浮いたり沈んだりしている。
 砂はたまにガラス片や、缶ビールの蓋(当時は外すタイプであった)が埋もれていたりして、かかとをサクッとやってしまうこともあった。
 今の時代はモラルの低下が云々と言われているが、モラル自体は当時の方がよっぽど低かった。と、わたしは思う。ただ当時はみんな「そんなもんだ」と思っていたから、問題にならなかっただけなのである。それが昭和という時代であった。

 もちろん、砂浜も汚れたものだった。飲み捨てたビール缶、コーラの瓶、ビニールのたぐいからスイカの皮、食べ捨てたトウモロコシの芯などが、山になって捨てられていた。
 しかしみんな「そんなもんだ」であったのである。

 当時の海には、閉口してしまう、あるものが混入していた。クラゲ、ではない。いやもちろん、シーズンオフになればクラゲは大量発生してはいたけれど。
 その「あるもの」とは「重油」である。わたしの県は日本有数の工業港を有しており、そこを出入りするタンカーに張り付いた「重油」が、どうしてか山を隔てた海水浴場にまで流れ着き、体にひっつくのである。
 黒く、べったりとしていていて、粘着力がつよい。皮膚についても、水着についても、ちょっと洗ったくらいでは取れない代物である。
 我慢できないほど体に着いてしまったときは、ベンジンで洗い流すのであった。

 旅行の予定日がちょうど台風とぶつかってしまい、二泊三日、結局宿から出られなかったことがある。父母は残念そうに「ごめんね」と繰り返すのだが、子どものわたしは旅行ができるということ自体が楽しく、特に海に行けなくても楽しかった。雨戸を閉め切った宿の中で、買ってもらった雑誌「小学×年生」の付録などを組み立てて、楽しく過ごしていたと思う。

 だいたい毎年、同じ海水浴場へと行くのだが、都合によって、少し違う場所へ行ったときもあった。
 その海水浴場には、磯場があり、そこの岩を切り取って、四角いプールにしてあったのである。
「おっ、これはいい」と家族皆で行ってみると、「ゾゾゾゾーッ!」
なんと、フナムシが岩のプール一杯に詰まっているのである(このあたり、子どもの記憶なので変質はしているかも)。
 しかも、横に止めた船が波で揺れると、船腹についたフナムシが一斉に移動するのである。うげぇーっ!
 一匹二匹ならともかく、数百数千のフナムシとなると、もう全体がひとつの生物のようなものである。
 這々の体で逃げ出して、砂浜の方へ。今でもあの情景はよく覚えている。

 1975年、沖縄で「海洋博」が開かれ、わたしはその夏、母に連れられて二人で沖縄へと行ってきた。他の家族はなにか用事があってこられなかったのだと思う。
 海洋博はもちろん、ひめゆりの塔や、ハブとマングースが闘うショウなども回るツアーであった。ハブとマングースのショウでは、解説のおじさんが「ハブというやつは性欲が強く、一晩中楽しむんですよ」と言い、囲んでいた数十人の観衆から笑いがあがった。小学生のわたしは、母を隣にして、笑っていいものかどうか悩んでしまった(笑)。

 海水浴の予定はなかったのだが、自由時間に海に行ってみると、これが美しい! わたしが毎年行っている海とは全く違う。水はどこまでも澄み、砂は星の形をしていて美しい。
 これは泳がないのはもったいないよ、と母が言うので、思わず、トランクス一丁で水に入ってしまった。
 沖縄海洋博旅行で、三指に残る思い出である。

 それ以来、沖縄には一回も行っていない。いつか細君を連れて行って、あの美しい海で、数日ゆっくり過ごしたいと思いつつ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子