2017年08月12日

【映画評】夜明けの祈り

 教会や修道院には、子どもたちの明るい声がよく似合う。ラスト近く、それまで静謐だった修道院に子どもたちが走り回るシーンを見て、そう感じた



 と、記事の冒頭部に書こう、と決めたはいいものの、そこから先、筆が進まない。
「夜明けの祈り」は、重く、淵は深く、漆黒の陰を持った映画だ。一応のハッピーエンドを迎えるが、爽快感などはなく、見た者それぞれに、なにかおのおの十字架を背負わすような終わり方である。

 そうそう、ちょっと茶目っ気を出せば、実は本作、「日本カトリック中央協議会推薦映画」である。逆にこの日本で、クリスチャン以外がこの映画を見たいと感じたきっかけを知りたい、と思うほど、エンターテイメント色はまったくない。

 あらすじ――第二次世界大戦が終わった1945年、冬のポーランド。赤十字施設でフランス人負傷兵の治療にあたる女医マチルドのもとに、決死の表情でポーランド人の修道女が助けを求めに来る。
 修道院に助けて欲しい患者がいるという願いを、マチルドは最初「ポーランド赤十字に頼みなさい」と一蹴するが、修道女マリアは、それができない理由があるのだ、という。
 彼女を赤十字から追い出したマチルドだが、休憩中、窓の外に、雪の中、たたずみ祈り続けるマリアの様子を見つけてしまう。
 赤十字に無断でクルマにマリアを乗せ、修道院へと向かうマチルド。そこにいたのは、女子修道院にいるはずのない妊婦≠ナあった。
 修道院長マザー・オレスカは、最初、事実をごまかそうとしているが、やがて、修道院がソ連兵に襲われ、修道女たちがレイプされて身ごもっている、という事実をマチルドに告げざるを得なくなる。そう、この修道院長さえも陵辱され、性病を感染されていたのだ。
 無神論者であり共産主義者でもあるマチルドだが、信仰のみでは解決できない現実に苦しむ修道女たちの悲劇、そして自ら医師としての「命を救いたい」という思い、そして、自らもソ連兵に陵辱されそうになる経験を通して、修道女たちを救うことを決意する――。


 最初に「このストーリーは現実を元にしている」と一文が入る。「TRUE STORY」と大上段に構えつつ、エンターテイメントであった「ハクソー・リッジ」より謙虚でよい。

 なお、上記の「あらすじ」はいろいろなメディアで公開されているような内容なのでネタバレにはならないだろうが、ストーリー中、ひとつ、大きな事件がある。ので、そのことには触れず書ければと思っている。

 さて、この修道会。作中では明言されていないが、モデルとなったのは、戒律厳しく外部から閉ざされた「ベネディクト修道会」であったとのこと。

 ちなみに、修道会には二種類ある。「観想修道会」と「活動修道会」である。
「観想修道会」は一般からは閉ざされており、ほぼ一生を修道会の中で、祈りと黙想の内に過ごす。現代から見ると、ちょっと浮き世離れしていて信じられない修道会だが、現実に存在する。自給自足の他に、聞いた話だが、教会用のホスチア(ご聖体になる前のタネなしパン)や、ガレットなどのお菓子などをつくったりして生計を立てているらしい。
 一度、こういう修道院に教会のイベントで行ったことがあるのだが、ちょっとした手違いで、ちょうどシスターたちは黙想期間に入っており、彼女たちは誰とも話さず、ただ祈りと無言で神と対話する期間を送っていた。
 ので、みなで、手入れの行き届いた綺麗な中庭を散策させていただき帰ったのだが、なにか不思議な、二十一世紀とは思えない空間に入ったような気持ちになったものだった。

 対して「活動修道会」は地域に開かれており、修道院で共同生活をしながらも、社会へ出て行って福音宣教のために働く。普通「シスター」と言って思い浮かぶのは、こちらのシスターだと思う。
 やはりシスターたちを描いた映画「天使にラブ・ソングを」でも、最初、観想修道会だった修道院が活動修道会となって、地域に入っていく、という描写があったと思う。

 この映画「夜明けの祈り」で描かれている修道院は、前述の「観想修道会」である。
 最初はマチルドの中で「シスター」という記号で描かれていた彼女たちが、マチルドに心を開くにつれ、人間性を見せていくのが良い。自分を犯したソ連兵に恋していると密かに告白する者。生まれた赤ん坊を抱いて、母性に目覚める者。一方、自分が懐妊しているということの嫌悪感から、まったく無意識に出産し、授乳を拒む者……。

 しかし、観想修道会で赤ん坊がいる、ということは許されない。修道院長マザー・オレスカは、無情に赤ん坊と母親を引き離し、「里子」に出していく――。

 やがて出産はラッシュを迎え、次々と赤ん坊が生まれていく。マザー・オレスカの思惑通りにことを進ませていてはいけない、とマチルドはマリアとともに、ある作戦をもって、修道院の朝食の時間に乗り込むのであった。
 このときの聖書朗読が「マタイ12:38-42」なのは、修道院長の思惑と、神の意志との差異を示そうとした暗喩であろうか。

ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。(マタイによる福音書 12:41)



(安易にマタイ19:14あたりを使わないところが、この映画のエンターテイメント色皆無なところでそれも良い)。

 これから映画を観る読者のために詳しくは書かないが、つまりは、マチルドとマリアは、この修道会を、観想修道会から活動修道会へ変革したのである。
 それまで、暗く、陰鬱で、静寂に満ちていた修道院に、子どもたちが走り回り、それをシスターが笑顔で見守り、また、地域の人々とパーティを開いているシークエンスにホッとする。

 しかしマザー・オレスカは、副院長が見守るなか、ひとり、病床に伏したまま、ただ、身を神にゆだねる生き方を変えない。彼女のしたことが間違っていたと言うことはたやすい。しかし、それを裁けるほど清い人間は、この世界にはひとりとていないだろう、と思う。

 活動修道会となり、赤ん坊を抱いたシスターたちの記念写真を、異動先の病院でマチルドが見て、それを白衣のポケットに入れるシーンで物語は幕を閉じる。
「あなたは否定するだろうけれど、あなたはわたしたちにとって、神に遣わされた人(意)」というマリアの言葉が胸に染みる。

 マチルドのモデルとなった「マドレーヌ・ポーリアック」は、現実では1946年2月に事故死なさっているそうである。


(マチルドのモデル「マドレーヌ・ポーリアック」)

 聖人は、教会や修道会にいるのではない。自分ができることを精一杯果たし、弱い人をいろいろな意味で救う、市井の人々の中にこそいるのだ。そう思う。

 エンターテイメント色は皆無といっていいほどない映画なので、デートムービーやちょっとした息抜きには向かない作品だが、カト、プロ問わず、クリスチャンにはお勧めの一本であると思う。

 あなたの背中には、どんな十字架が背負われましたか?
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評