2017年08月15日

【日記】聖母の被昇天

 8月15日は、カトリックの祭日で「聖母の被昇天」である。

 神の子で復活後のイエスは、復活後40日後に自ら昇天したので、復活の主日から40日後の木曜日が本来の「主の昇天」の祭日なのだが、平日にミサに与るというのはむずかしい国もあることを考慮し、聖座によって、「主の昇天の祭日は、復活節第七主日に移す」ことも可能となっており、日本ではそれを採用している。

 対して神の母聖マリアは、自らの力で昇天したのではなく、「天に引き上げられた」ので「被昇天」となっているわけだ。
 マリアは無原罪でなくてはならないというカトリックのドグマ(教義)から延長してできた概念ではある。


(2009年の「聖書と典礼」より引用)

 プロテスタントの一部の人には「カトリックは聖母マリアを崇拝しているからおかしい」という方がいるが、これは悪意を持った誹謗中傷か、おかしな教導者に刷り込まれた無知かのどちらかである。
 カトリックのキリスト信者で「聖母マリアを崇拝しています」という者はひとりもいない。「崇敬」である。この漢字が読めないプロテスタントの一部の人のために、ひらがなでも書いてあげよう。「すうけい」である。

「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」
「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」
「カトリックは聖母マリアを崇敬しています」

 大事なことなので、先生、三回言いました。これから先、「カトリックは聖母マリアを崇拝している」と言う人がいたら、内心、「あ、おバカさん発見」とさげすんでいただきたい。

 誰でも、この世に生を受けて生活を営めば、尊敬する人がいる。過去に尊敬できる人物がいることを知る。そういう人に対する感情が「崇敬」。
 カトリックの「マリア崇敬」を中傷するプロテスタントの方には「尊敬する人」はいないのだろうか。イエスを崇拝するだけで、過去にこの世界を善なる方向に変えていった人々も「ただの人間だから特に何の感情も持たない」と言うのだろうか。
 むしろ、そういう一部のプロテスタントの方の感情の方を、わたしは異常というか、エゴイズムが深いと感じてしまう。

 カトリックに「聖人」は多いが、これも「崇拝」しているのではく「崇敬」しているのである。今風に言えば「リスペクト(respect)」だ。
 ことあるごとに「イエス崇拝のみ」を御旗にして、同じ人間に対してリスペクトの心を持たない人は、むしろ根本的になにかダメな人のような気がする。いかがだろうか。

 わたしはカトリックだが、マルチン・ルターも、キング牧師もリスペクトしている。そのことになんの矛盾も感じない。

 わたしにしてはやけに筆鋒鋭くなってしまったが、それだけ「カトリックはマリア崇拝をしているからおかしい」と筋違いのイチャモンをつけてくる変なプロテスタントの人がいる、ということである。
 もちろん、大部分の普通のプロテスタントの人は、これまで書いてきたようなことは理解してくれていると思う。ちょっと厳しく書いてしまって、正直、すまんかった。

 さて、「8月15日」と「聖母マリア」は、日本にとって、不思議な因縁がある。
 普通の人が連想できる8月15日は1945年の「終戦記念日」である。
 その396年前の1549年8月15日、キリスト教宣教のため、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日した。ザビエルはその日が「聖母の被昇天」であったため、この日本を聖母マリアに捧げたのであった(勝手にw)。
 というわけで、日本は聖母マリアに捧げられた国なのである(勝手にww)。
 その日が「終戦記念日」となり、日本が大きく変わった日であるというのは感慨深い。

「聖母の被昇天」の祭日は、「主の昇天」と違って、主日(日曜日)に移動するようなことはない。そして、やはりこの日は8月15日固定が一番良い、と思う。

「マリア崇敬」はカトリックのウィークポイントどころか、最強の武器のような気もする。
 わたしも、心身がつらいときはもちろん、PC作業のCPU空き待ち時間に、眠れない夜に、早く目覚めてしまった朝に、「アヴェ・マリアの祈り」をとなえていると、不思議と心が静まり、なんとかなるか、と思えてくる。

 日本人論のひとつとして、土居健郎の「甘えの構造」があるが、外国人に日本人のこの「甘え」を理解してもらうのに「カトリックが持つ聖母マリアへの感情」というと理解してもらいやすいのだという。
 こんな時代、今の日本だからこそ、「甘え」を許してくれる大きな存在があってもいいのではないかな、と、そう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記