2017年08月19日

【書評】聖なるあきらめが人を成熟させる

 発売日からずっと、Amazonの「干芋リスト」に入れていて、いつかは読もうと思いつつ、なかなかショッピングバスケットに入れる機会がない、そんな本だった。

 今回、聖霊に導かれて(という言い方をクリスチャンはする)、ポンと購入。
 特に読みにくいところなどもなく、サラサラと一時間程度で読めてしまった。その感想など。



 著者は元聖心女子大学教授で、聖心会のシスターである鈴木秀子先生。
 まあ「自己啓発本」の一種だが、クリスチャンとして、シスターである鈴木先生が「あきらめ」をどのように考えていらっしゃるのかな、という興味もあって一読。

 ところで、この本で記されている「聖なるあきらめ」は「諦め」ではない。また、「明らめ」でもない。そのふたつを合わせたものを、鈴木先生は「聖なるあきらめ」と名付けられたのであった。

 ここで自分語りをして申し訳ないのだが、わたしが道を求めて宗教を勉強しだしたとき、大きな岐路はふたつあった。キリスト教と仏教である。
 多種多様の書籍を読み人と会い、結局、わたしはキリスト教カトリックを選んだ(というのは傲慢な言い方で、神に「おまえはカトリックね」と選ばれたわけだが)、今でも仏教の教えはとても魅力的、というか、すんなり理解できるところがある。

 結局、仏教徒にならなかったわたしが、こんなことを語るのは恥ずかしいことだが、仏教にとって「諦め」はとても大事な教えであると聞いている。「諦観」――物事を諦め、執着しないことが大事だと。
 わたしはカトリックでありながら、この「諦め」が実にすんなりと心に染みる。わりとなんでも、すぐに諦めてしまうタチなのである。

 対してキリスト教は、実に諦めが悪い宗教である。
 なにしろ――

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイによる福音書 7:7)」


「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカによる福音書 18:1)」
(中略)
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。(ルカによる福音書 18:7)」


 である。諦めなければ門は開ける、神は必ず聞いてくださる、というのが基本なのだ。


(石垣ゆうき「MMR マガジンミステリー調査班」13巻より引用。キバヤシ隊長もこうおっしゃっておられます)

 しかしこの本を読んで、「ああ、なるほど、仏教でいう真の諦観とはこういうこと――聖なるあきらめ――なのかもしれない」と、ふと思ったのであった。

 鈴木先生は、まず問題があったとき、それを分析することを「明らめる」と呼ぶ。たとえば授業中、お喋りをする生徒がいたとき、自分ができることを分析する(明らめる)。その結論として、その生徒を黙らせることはできないと「諦め」、思案の結果、お喋りをしている隣の生徒に当てる、という方法でこの問題を解決した――これが「聖なるあきらめ」である。

 本作は、上記を始めとした豊富な実例が載っているばかりで、基本的なところは変わらない。Aさんの場合、Bさんの場合、Cさんの場合……と続き、Qさんまできてついに笑ってしまった。途中、アルファベットを校正ミスしているくらい、豊富な例があげられているが、基本は上記の「聖なるあきらめ」である。

 さて、おそらく最初の例で、よく勉強しているクリスチャンならば、これがイエスの宣教の第一声「メタノイア(μετανοια)」である、ということに気づくのではないだろうか。
 おそらく鈴木先生は、「メタノイア」を日本人にわかりやすく「聖なるあきらめ」という言葉に置き換えてくださったのである。

 イエスの宣教の第一声は、日本語訳だと「悔い改めよ」。英語訳のたとえばKJVだと「Repent」で、意味はそのまま日本語と同じ「悔い改めなさい」である。
 しかし、新約聖書原文の同箇所はコイネー(公用ギリシア語)で「メタノイア」である。これは実は「悔い改めなさい」というものではない「考え方を変えなさい」という意味なのである。

「メタノイア」自身には「良い方へ」「悪い方へ」というベクトルは含まれていないのだという。ただ「考え方を変えなさい」なのだ。

 現状を把握し(明らめ)今やっている方法に執着せず(諦めて)、考え方を変える――「聖なるあきらめ」とはまさしく「メタノイア」ではなかろうか。

 イエスは宣教の第一声を、こう言っていたのである。「考え方を変えなさい。神の国は近づいた」。
 そしてイエスは、山上の垂訓で「幸福なるかな、心の貧しき者。(マタイ傳福音書 5:3)」をはじめとする、常識を覆す「考え方を変えた」真福八端で、聴衆の度肝を抜いたわけだ。

「執着」というから、モノに固執する心、と思いがちだが、実は仏教の「諦観」も「メタノイア」と同じところがあるのではないだろうか。

 ところで、神の子イエスは簡単に「考え方を変えなさい」と言うが、実はこれこそが、普通の人間にとってむずかしいことだとは承知していたのだろう(だからこそ、教え≠ノなるわけで)。

 世の中の毎日のニュースを見ていても「どうしてそんなことで自らの命を絶つのか?」「どうしてたかが金のために人の命を奪うのか?」と思う事件が多くないだろうか?
 しかしなにをどうあがこうと、「考え方を変えなければ」「神の国(幸福)は近づかない」ということこそが、実は真実なのである。

 話を本作に戻すと、途中で触れた通り、この書籍には「考え方を変えた」例が満載である。しかしその一例一例が、あなたの今の「悩み」にバッチリあうかというと、そのようなことはおそらくない。
 もちろん、本作は良作なので、もし機会があったらご一読をおすすめするが、「聖なるあきらめ」とは「考え方を変えること」なのだ、ということがわかれば十分だと思う。

 追記:しかし、この「考え方を変える」のは、簡単に見えて、本当に難しい。
 現代医学でも「認知療法」という「考え方を変える」カウンセリング療法が確立されつつあるが、実は日本の認知療法の第一人者が、雅子様のご治療にあたっていて、未だ雅子様が現場復帰にまで至らないという現実を思えば、おわかりいただけるかと。

 こればかりは、むしろ宗教の分野なのかもしれませんよ? マジでマジで。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評