2017年09月30日

【回想録】パンダの思い出

 ふっふふふ……。
 はーはっははははは!

 怖い、自分が怖い!

 パンダの赤ちゃんの命名、おめでとうございます。
 わたしはやってしまいました。「【日記】新元号を当ててみせる!」「新元号予想リスト(zip)」をご覧いただきたいッ!

 あるでしょう、2699065行目に!





「香香」!

 というわけで、新元号を当てる前に、パンダの赤ちゃんの名前を当ててしまった。
 これは運ではない、計算ですよ。ふふふ。これからわたしのことは「パンダの赤ちゃんの名前をコンピュータ演算で当てた男」と呼んでいただきたい。ふふ、ふ。
 なんか新元号よりちょっとパワーが少ない気がするのは、ま、ちょとあれだ。

 しかしこの調子なら、きっと新元号も当たる。当たる気がする。当たるんじゃないかな。これは吉兆である。

 これだけではなんなので、短く、パンダの思い出を。

 わたしは日中国交正常化を記念して中国から上野動物園に送られたカンカン、ランランを見に行った世代である。あれは小学校低学年のときではなかったかな。そんなだから、もちろんデートなどではなく、親が連れて行ってくれたのだ。

 パンダ舎の周りは人ごみでいっぱい。ラッシュの電車の中のようだった。列はゆーっくりゆっくり進み、ガラス越しのパンダは全然見えない。やっと見えてきたと思ったら、ランランかカンカンのどちらか一頭だけで、しかもずーっと動かない。寝ているのであった。
 たまにちょっと動くと、見物人から「おーっ」と歓声があがる。

 結局最後まで、遠くから豆粒のように小さいパンダを眺めて、列に流されるまま押し出されたという思い出しかない。家の14型テレビで見ている方がよっぽど大きいと感じた。
 それでも、日本に初めて来た生パンダを見たというのは自慢である。エッヘン。

 当時は「♪リンリン、ランラン、龍園、龍園行って幸せ食べよー」というCMも流れ、ちょっとした中国ブームであった。

 パンダと言えば、「深夜のお茶会」でアクセスログを眺めていて「panda.co.jp」というものがあり、「なんだこのパンダ.co.jpって」とビックリしたことがある。調べてみると、パソコンショップで有名なP&Aのドメインだった。
 P&A秋葉原店には何度か入った覚えがあるが、今現在は潰れるか、どこかに吸収されたかしたのだろうか。同ドメインは全然関係ない会社が使っているようだ。
「P&A パソコンショップ」で検索してもあまり情報が出てこないのが淋しい。

 カンカン、ランラン以降、実は生パンダを見たことがないことに気がついた。
 上野のシャンシャンちゃんはいつ公開されるのだろうか。今度は是非、細君とデートで見に行きたいと思っている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年09月29日

【日記】洋式トイレ、上げてからするか? 下げてからするか?(※小)

「【映画評】打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の追記で予告していた記事である。
 意識高い系男子のわたしはこの高尚なテーマの記事をスタバで書いている(笑)。


(マジですから)

 わたしは昭和の男であるので、生まれたときから洋式トイレがあった世代ではない。物心つくまでは和式歴の方が長く、どこの家庭でも「洋式がフツーでしょ」となったのは、大学生くらいになってからな気がする。


(星野泰視「デラシネマ」2巻より引用。これをご存知の方、懐かしいと思いません!?)

 なので、人生五十年、男子の「小」は立ってするのが常識、座ってするなどもってのほか。男の沽券に関わる、と思って、常にスタンディングスタイルを貫いてきていた。

 ある日のこと、なんの流れでか、細君とそんな話になった。
 異性のこういう姿はどうも想像ができないらしく、細君は、男子トイレの「立ってする方」の横にはトイレットペーパーが設置してあって、ことが済んだあと、それを切ってチョンチョンと本体から滴を取る、と思いこんでいたそうだ。
 聞いていたわたしは大爆笑である。

「そんなことあるわけないだろ」
「じゃ、滴はどうするの?」
「振って落とすんだよ。ブルンブルンって」
「それだけ?」細君の目が薄ーく軽蔑に変わっていった。「男って、フケツ!」

 なにをか言わんや、である。日本男児たるもの、なにごとにも潔く対峙するのがその生きざま。その連れ合いたる細君が大和撫子の心を失っているとは!

「男はね、外にいると七人のコビトがいるの。しているときに後ろから斬られないよう、常に周囲に気を配り、必要最小限の時間でことを済ませなければならないの! そういう武士の血なんだよ、立ちションは!!」
「今は平成だし、外にいても七人のコビトはいません。というかコビトじゃないし、あなたは農家の出でしょ」

 いつもは情緒的な細君が、今日に限っては妙に論理的である。

「じゃあ家の洋式トイレでするときも立ってしてるの?」
「と・う・ぜ・ん!」
「振っておしまいなの?」
「あ・た・り・ま・え!」

 多くの男子がそうであるように、わたしも洋式トイレでは便座を上げて用を足していたのは前述のとおり。

「じゃあ、これからは」細君は腕を組んで、長くため息をつき、きっぱりと「座ってしなさい」
「やーだぴー。さっきも言ったろ、男には七人の――」
「家のトイレに七人も入れませんから! なにそれ、ギネスチャレンジ? それ以前に、敵も小人もいません!!」

 もっともである。

「スタンディングスタイルはなぁ、男の生きざまなんだよ。最期まで立って前のめりに死ぬという決意を表しているんだ」
「死ぬときはわたしの膝枕で死なせてあげるからやめなさい」

 魅力的な対案は男の決意を鈍らせるのである。いやしかし!

「いちいち座ってことを成して、そのあと紙で拭いて流すなんて面倒なこと、男がしていられるかー!」
「いちいち便座をあげてして、ブルンブルン振ってまた便座を下げる手間と、そう変わんないでしょうが」

 まあそれは……そうだよな。

「あのね、あなたのブルンブルンは、実はとっても不潔だっていう研究結果もあるの。狭い空気中に飛び散って、同じトイレを使う女性が膀胱炎になりやすいという説もあるんだよ」
「んなバカな」と、スマホで検索してみる。「……あ、ほんとだ」
「わたしが膀胱炎になってもいいの?」
「それは……」
「シッティングスタイルに変えるよね」
「……」
「お手」
「ワン」

 人生半分を過ぎて、家のトイレでは小でもシッティングスタイルですると宗旨変えさせられました。クゥーン……。

 しばらく、子犬のようにクンクン泣きながら、シッティングスタイルでやってみたのだが、そのうち、これはこれで良いのではないかと思えてきた。
 かつて山岡鉄舟は、弟子が「自分は神社の鳥居に毎日立小便をしている。だが一向に罰などあたらない」と自慢げに吹聴したところ、「武士を名乗る者が、立小便などという畜生のごとき真似をしていること自体が罰なのだ!」と喝破したという。

「あれだな、人間、思いこみってやつはいけないな」
「なんの話?」
「トイレだよ。シッティングスタイルに変えた話。やってみると、便座の上げ下げはしなくていいし、滴もトイレットペーパーで取るのは利にかなってる。文明人としての誇りを取り戻した気分だよ」
「わかったから」細君は冷たく「食事中にそういう話はしないでちょうだい」
「クゥン」

 今ちょっと検索してみると、男子のシッティグスタイル(※小)には、それはそれで前立腺炎や尿道炎になる可能性などのデメリットもあるらしい。
 わたしは細君の軍門に下ってしまったが、武士の沽券に関わる! という方は、ぜひともスタンディングスタイルを貫いていただきたいと思う今日このご――

「なにくだらないこと炊きつけてんの!」

 クゥ〜ン……。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年09月28日

【回想録】ゲーム「同級生」の思い出

「【回想録】フィギュアの思い出」で、エルフが出していたゲーム「同級生」について触れたので、そろそろ書き時かな、と。

 今回書くのは最初の「同級生」の方。更に大ヒットした「同級生2」の方は、また別の記事で、ということで。


(もうだいぶ整理したと思っていたのに、まだ結構残っている。左からサターン版「同級生if」、「原画集」、Windows版「同級生」、サターン版「同級生麻雀」。トランプもあったはずだが、書斎のどこかに散逸)

「同級生」は、いわゆるアダルト美少女ゲームである。最初にプレイしたのはX68000版であったが、これはPC98版の移植版だったはず。
 当時のアダルト美少女ゲームのシナリオは、たいていが一本道で、まあ、言ってしまえば電気紙芝居のようなところはあった。
 しかし「同級生」は違ったのである。とても自由度が高かった。いや、実際にはそれでもシナリオが存在していたのだが、自由度が高い、と錯覚させるだけのうまい作り込みがなされていたのである。

 ゲーム自体は、主人公の男子高校生の一人称、夏休みの間を過ごすストーリーとなっており、移動画面ではチップキャラを操作して街中を移動。目的の場所につくと、一枚絵に変わって、女性キャラがいれば話しかけることもできるし、絵の全然違う場所をクリックすると、そこの情報も見ることができる、といった感じ。

 当時けっこうびっくりしたのが、出てくる女性全部を「攻略」できるということ。なにしろ親友の彼女まで「寝取る」ことができた。メインヒロインは「桜木舞」ちゃんという、クラスのマドンナであったが、気の迷いで、最初に攻略してしまったのは、この「親友の彼女」のくるみちゃんであった。いや、だって攻略できると思ってなかったんだもん(笑)。

 他にも、「同級生」というタイトルながら、担任の女教師や、保健室の先生などの、普通に考えて無理めな女性まで攻略できる。対象女性数総勢14名。こんなゲームは「同級生」以前には存在しなかった。

 わたしは基本的に「メインヒロイン推し」な人なので、二回目以降は舞ちゃん狙いで。恋敵なども登場し、うまく進めないと、この恋敵と舞ちゃんがラブホテル前でどうこうしているシーンを目撃してしまうのである(確か、目撃しなければこのシーケンスはないことになる。量子論である)。

 マップ移動では隣の繁華街へ移動することもでき、いかがわしいお店に入ることもできた。もちろん、そのいかがわしいお店にお勤めの女性とのハッピーエンドも迎えることができるという自由仕様。

 さて、舞ちゃん狙いでプレイしているとき、気の迷いで、このいかがわしいお店に入ってしまい、いかがわしいサービスを受けてしまったのであった。
 その後、舞ちゃんと無事結ばれたのだが、なんと翌日、男性の大事な部分に違和感を覚えてしまったのである!
 なんとなれば、上記のいかかがわしいサービスを受けたあとにはそうなるフラグが立つという仕様。プレイしていて、すわ、舞ちゃんに病気を伝染された? いや、違う、俺が彼女に伝染してしまったかも!? ととても悲しくなってしまったのであった。
 実際には悪い病気ではないというオチなのだが、やはり本命の女性がいるのに、遊んではいけませんな(笑)。

 普通のゲームだと、そういうことが重なったりしない紙芝居なのだが、「同級生」では、このように「たまたま起こること」が重なったりして、ストーリーが勝手に重層的になるのであった。
 いやしかし、初めて結ばれた舞ちゃんに性病を伝染された? いや自分が伝染してしまった? という流れになったときは焦ったなぁ。

「同級生」はBGMも良かった。ひとりひとりの女の子にテーマ曲があり、舞ちゃんのそれはバッハの平均律クラヴィーア曲集のプレリュード第1番であった。うーん、アヴェ・マリア(feat. グノー)。

「同級生」はアダルトゲームであったが、その後、コンシューマであるPCエンジンとサターンに「同級生if」として移植された。
 このサターン版のプログラマが凄腕だったと記憶している。たしか、ディスクをPCで読み、隠しテキストを拝読して感嘆した覚えがあるのだ。
 エンディング曲の「夏色のシンデレラ」もいい曲であった。

 そんなこんなでかなりハマった「同級生」であったが、満を持して発売された「同級生2」の出来がさらに良かったため、ちょっと思い出もセピア色になりがちだ。

 さて、基本的に「メインヒロイン」推しのわたしだが、その中でも桜木舞ちゃんは特別なのである。


(原画集では茶髪だがゲームではピンク髪。そういう時代でした)

 ロングのストレートヘアでセーラー服がよく似合う清楚系――出会った頃の細君に、雰囲気が似ていたのである。ある。ある。

 ハイ、もいでくださって結構です。ポロン ωっ
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年09月27日

【日記】クーポン券

 細君はクーポン券のたぐいが大好きである。チラシ広告のクーポン券をマメに切り取っておいたり、スマホで表示できるクーポンを使える店を優先したりと、かなりのクーポン大好きっ子。

 わたしはと言えば、極度の面倒くさがり屋なので、そういったものは滅多に使わない。
 よく、店を利用するとカードにスタンプを押してくれて、一定数溜まるとなにか割引があったりプレゼントがある、というサービスがあるが、細君と交際前は、そんなもの、もらってもすぐ捨てていた。

 これには理由がある。わたしは、物との出会いはある意味、運命的なものがあると思っていたのである。なので、購買する店をひとつに決めたくなかったのだ。
 昔はアマゾンなどなかったから、欲しい商品を探しにいくつかの店を回る、などということは珍しくなかった。そこで「ピン!」ときた商品に巡り会ったら、しがらみなく、その店ですぐに自分のものにしたいのである。
 そういうとき、クーポンとか、スタンプサービスに囚われていると、自分の「買い物」の自由度が減ってしまう。「ピン!」ときた直感が酸化して錆びていってしまうように感じるのだ。

 こういう感覚は、けっこう若いダンスィにはあるようで、ある人に同じ話をしたときに、「そうそうそうなんだよね」と同意してくれたことがある。

 ところが細君はわたしとはまったく逆のタチ。目に見える形で安くないと嫌なタイプの吝嗇家なのである(つまり、ガソリンなどの経費を念頭に入れず遠くの店まで行ってクーポンを使って買う、といったタイプ)。

 交際当初は、わりとこの意見の違いでぶつかった。わたしは気に入ったレコードを見つけると、その店で買ってしまいたいタイプ。細君は「どこそこの店で取り寄せてもらえば、スタンプを押してもらえるよ」と言う。「俺は今買って、家に帰ってすぐ聞きたいんだよ!」とケンカである。

 現代で定期的にネットにあがる話題に「デートのとき、男性がクーポン券を使っていてガッカリしてしまった、という女性の話」があがるが、ウチはまったく逆。わたしがクーポンとかスタンプとか、そういうものを使いたくなくて、細君が使いたくてケンカになるのだから、時代が変わったのか、ウチがもとからおかしいのか、ちょっと可笑しい。

 交際期間を含めると、細君とは30年近く過ごしているわけだが、結局、折れたのはわたしの方だった。
 もう、クーポンもスタンプサービスも自由にして、という気持ちである。店も細君の裁量度を高くして、自分はもう適当でいいや、という感じ。
 ただ、レジで会計中、サービスカードを探して財布やカバンをひっくり返されるのはイヤなので、その前に「サービスカード使うなら出しといてね」と注意をするようにはしている。

 ひとつにはAmazonやヨドバシドットコムなどネット通販の隆盛と、それをスマホですぐ調べられるようになった現実が確実にある。
 昔の自分だったら、店頭で見て「ピン!」と来たらそこで買っていたが、今や検索するとAmazonやヨドバシドットコムの方が安いのだから、そうなると店頭で買うのはちょっとためらうようになる。
 買い物対象の知識も、あらかじめネットで調べるようになったから、店員さんに聞く必要もなく「せっかく丁寧に教えてくれたのだからここで買おう」という流れもなくなってしまった。
 リアル店舗は、本当に今、厳しい岐路に立たされているのだろうな、と思う。

 さて、先述の「デートのとき、男性がクーポン券を使っていてガッカリしてしまった、という女性の話」。まあ、うちの細君とは全然違う女性のタイプ、というわけだが、今どきのダンスィはきっと、三十年以上前のバブル世代のわたしより、要領良く、頭が良い子ばかりなのである。
 こういう時代に、持っているクーポン券を使わないという選択はない。そんなダンスィを莫迦にしていると、きっとあなたの婚期がバブルになると警告しておこう。

 わたしはクーポン券もサービススタンプも集めないダンスィだったが、そういうものにこだわる細君を見て(ケンカをしつつも)しっかりしているいい娘だな、と思っていたのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年09月26日

【日記】人は自分の経験内でしか物事を語れない時期がある

 あれは、FF8が発売されて間もない頃のこと。物語のなかに、宇宙空間に宇宙服のみで放り出されたヒロインを救いにいく、というミッションがあった。

 このシーンを若いプレイヤーは、黎明期のインターネットやNIFTY-Serveで「ガンダムF91」のパクりだと騒いだのである。

 それを読んでびっくりしたのが、わたしのようなオッサンであった。FF8のそのシーンは、1968年のキューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」のオマージュであると、すぐにわかったからである。


(映画「2001年宇宙の旅」より引用)

 若いプレイヤーは、いくらそれが「2001年宇宙の旅」のオマージュなんだよ、と言っても聞き入れず、F91のパクリだ、の繰り返しであった。

 わたしはこのとき、「人は自分の経験内でしか物事を語れない時期がある」ということを悟ったのである。

 このブログの最初の方でも書いたが、人間の記憶というものは、20〜30年くらいの容量しかなく、そこから先は、重要なもの以外、FIFO(First In Last Out)で消えていく。逆に言えば、物心ついてからその事実を悟るまでの間は、「自分は自分の人生に起こったことをすべて記憶している」と誤解しているのである。
 そういう若い人で、かつ謙虚さがないと、自分の持っている経験、記憶がすべてという「勘違い」を起こす。「自分の知らない知識が無数にある」ということが肌で実感できていないからである。

 最近で言えば「君の名は。」に感動した、通称「君縄キッズ」だろうか。「君の名は。」が名作であることは言を待たないが、わたしの人生で十指に入る作品か、と聞かれたら、それはさすがにない、と言える。
 しかし、おそらく「君縄キッズ」の彼または彼女は、今までの自分の人生で一番、感動した物語だったのだろう。
 なので、それ以降の似たような絵柄、シチュエーション、設定などのアニメを、短絡的に『「君の名は。」のパクリだ』と、拳を振りあげて言えてしまうのである。

 似たようなケースは他にもある。女の子がホウキに乗って黒猫を連れ空を飛ぶと、即、ジブリ映画「魔女の宅急便」のパクリ……ってあなた、もともと、魔女が黒猫を従えホウキに乗って空を飛ぶ、というのは、「魔女の宅急便」のはるか以前からあった、魔女のイメージでしょうが。

 ここでちょっとまとめておくと――

 パクリ(剽窃):元ネタがわかってしまうとまずいもの。
 オマージュ:元ネタへのリスペクトがあり、むしろ元ネタがわかる人にニヤリとしてほしいもの。
 パロディ:元ネタへの揶揄があり、元ネタがわかってくれないと意味がないもの。

 基本はこんな感じである。

 その昔、ネットで話題になった有名なパクリ事件としては、2005年に、中島みゆきさんの「ファイト!」をHIGHWAY61が剽窃した「サヨナラの名場面」事件がある。わたし自身の感想としては「カバー」ならば納得できるレベルだが、これは中島みゆきさんサイドには無許可で行われたもので、「オリジナル」はもちろん「オマージュ」と言い張るには難しい出来であり、発売元のワーナーミュージック・ジャパンは自主回収の憂き目にあった。
 おそらく、若いHIGHWAY61のメンバーとしては「中島みゆきなんて過去の人」「多少似ててもバレやしない」という思い込みがあったのだろう。

 オマージュの事件としては、2003年から2004年にかけて起きた、PE'Zの「大地讃頌」事件がある。ジャズバンドのPE'Zによって佐藤眞さんの「大地讃頌」がアレンジされ、JASRACを通し適正な権利処理をした上で東芝EMIからCDリリースされたのだが、これが「大地讃頌は一切の編曲を認めていない」という佐藤眞さんから著作憲法上の同一保持権を侵害するものであるとして提訴されたのである。
 結果として、PE'Zは佐藤眞さんと争うことを望まず、東芝EMIはCDを出荷停止にした。
 わたしの感性からすると、このアレンジは素晴らしいもので、これが今、多くの方に聞かれずオクラ入りしたことがとても残念である。
 しかし、原作者の佐藤眞さんがアレンジを望まないのならば仕方がないことも確かであり、単純に割り切れない問題だ。

 閑話休題。

「ねぞうアート」にも書いたが、アイデアというものは、「海の水をすくう」ことに似たところがある。海の水は無尽蔵だ。すくってもすくっても、底が見えることがない。そしてどこの海の水も塩気があるが、東京の海、新潟の海、カンクンの海、それぞれを調べれば、成分は確かに違う。同じ海でも水深によって差異があるのも当然だ。
 このわずかな違いが「アイデア」なのである。
 同じ海の、同じ深度の水をすくえば、その成分が似てくるのも当然なのだ。

 これは特に若い創作者に言っておきたいことなのだが、あなたが描き始めた物語と似たようなそれがメディアに登場してきたとき、「アイデアをパクられたー」と思うのは、あなたの人生経験が、まだ浅いからなのである。
 アイデアは海の水をすくうようなものなのだ。あなただけではなく、何十人もの創作者が、同じ海から、同じような深度で、海の水をすくっていたのである。

 だから、手練れの創作者は「自分のアイデアがパクられた」などと騒ぐことはない。なぜなら、「自分が頭の中で暖めていたアイデアを実現された」経験が、山ほど、それこそノート数冊分くらいはあるからである。「先にやられたなぁ」と苦笑こそすれ、「あのアイデアは俺のだったの。パクられたの」などと憤慨したりはしない。

 以前、統合失調症の方が書いたアイデアノートを拝見したことがある。その方は、自分の思考が周りに漏れていて、自分のアイデアがどんどんパクられていく、と訴えていたのだった。ノートには当時流行っていた「エヴァンゲリオン」から「マトリックス」から、あるいはパソコンの関連製品までが「自分のアイデアをパクったもの」としてリストアップされていた。
 なんとも、病気とは言え、悲しい話である。
 しかし「○○は××のパクリ」と根拠なく騒ぐ人々も、この統合失調症の方と同じ思考に陥っているのではあるまいか。

「人は自分の経験内でしか物事を語れない時期がある」ということを、まだ若く、経験が浅いと自覚している創作者、そして読者も心に銘記しておくべきだと思う。でないと、嘲っているつもりのあなたがの方が、嘲い者になっているかもしれないからである。

 同時に、海からすくったアイデアは、「後もう少し経験を積んでから」などと思わず、背伸びかもしれないと感じても、なんとか形にする努力を惜しまない方が良い。あなたと同じ海、同じ深度で、同じ海水をすくっている人がたくさんいるのである。「デキが悪くても早い者勝ち」なのである。言葉を選べば「拙速は巧遅に優る」だ。
 そしてそれが臆せずできるのも、若さゆえだからである。

 もちろん、中には、歳を取ってもこのことがわからない人がいる。そういう人は、年齢に比して世界が狭く、海の広さを学ぶことができなかった、経験の浅い人なのである。
 巻き込まれるのも面倒だから、遠巻きにして、あまり関わり合いにならないほうがよい。

 若いあなたが経験を積んで、白髪が似合う歳になったとき、オマージュをパクリと叫ぶ若い人に、ニヤリと笑い「あれはあなたが生まれる前の名作のオマージュなんだよ」と教えてあげられる、渋いオッサンになれますように。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記