2017年09月05日

【昭和の遺伝子】体罰はこれを容認してはならない

 体罰はこれを容認してはならない。これは、家庭においても、もちろん学校においても容認してはならない。どのような事情、経緯、相手であろうとも、体罰を行ってはいけない。

 現代だからいけない、昭和の頃なら体罰は良かった、というわけではない。昭和の頃だって体罰はいけなかったのだ。

 わたしは昭和の男であるので、「体罰上等」の学校生活を送ってきた。
 今、わたしに体罰をしてきた教師たちと同じ年代か、それ以上の歳になってわかることがある。わたしに体罰をしてきた教師たちは、みな弱虫で、指導力が低く、薄っぺらいプライドを保とうとしている、人間として尊敬できない者ばかりだった。

 逆に、当時はわからなかったが、体罰を絶対に行わなかった教師たちの方が、今、振り返ってみると「あの先生はいい人だった」「尊敬できる人間だった」「軟弱なようで強い指導力があった」「本当の教師としての矜持を持っていた」とわかる。

 教師には、教育者となるべく教育学部を出た者も多いだろうが、教育学の教科書のどこに「体罰のやりかた」という項目があるのか? 「生徒への効果的な体罰の方法」が記されているのか? 根本的に「体罰は必要である」と書いてあるのか?
 もちろん、そんなものが書いてあるはずがない。

 この記事はもちろん、トランペッターである日野皓正氏が、世田谷区で行われたライブで「ノリすぎた」中学生のドラムスにビンタ等をした事件と、その社会的な反応を読んで書いている。
 日野氏は(一般的に言って)教育者ではないから、これは「体罰」ではない。もっと悪い「傷害事件」である。
 だがことが公になっても警察が取り扱わず(刑事事件として通報されていない)、当の中学生とその親が「あれは仕方なかった」と言っているそうだから(民事でも訴える者がいない)、まわりがどうこう言える問題ではない。
 どうこう言うのなら、警察に電話して「傷害事件が発生した」と通報すればよかったのである。

 本来「体罰」も「傷害事件」なのである。だが、教育者が生徒に暴行を働いた場合にのみ、なぜか「傷害事件」が「体罰」と名を変えて容認されてしまう風潮が、過去には確かにあったし、今でも残っているのだ。もちろん、良いはずがない。

 こういうときは「体罰」という言葉をうまく言い換えるのが一番良い。「教育の名を借りた一方的暴行」というのはどうか。うーん、長すぎていまいち一般化しないか。
 ならば「ハラスメント」である。「エデュケーショナル・ハラスメント」で、「エドハラ」。ううーん、これもインパクト小でダメそうだ。

 なんにしろ、体罰はどんな理由があっても容認されない。
「体罰で育ってきた世代がまともなオトナにならなかったようで否定される気持ちになる」と言っているタレントがいるそうだが、うん。「体罰」を容認している時点で、やっぱりそのタレントはまともなオトナではない。

 わたしがクリスチャンと知ると、ニヤニヤしながら「右の頬を打たれたら左の頬も打たせるんでしょ?」という人がいる。わたしは答える。「ええ。左手でスマホを出して警察に電話しますよ」と。

 聖書を正確に引用すると、こう書いてある。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイによる福音書 5:39)」。
 左の頬を打たせなさいとは書いていない。向けなさい、だ。

 いろいろな説はあるが、ここでひとつ、考えていただきたい。二千年も前から、人間は右利きの人の方が多かったのである。普通に右手でビンタするとしたら、相手の左頬を打つのが当然である。なのにイエスは「だれかがあなたの右の頬を打つなら」と言っている。不思議ではないだろうか?
 実はこれは、主人が奴隷をしかるための打ち方だったのである。つまり、右手の掌ではなく甲の方で相手の右頬を打つやり方だ。

「奴隷」などと言うと、主人がなにをしてもいい存在、回転寿司の地下で機械を回すカッパたちのようなものを想像するかもしれないが、当時「奴隷」は「家畜」と同じであり、「家畜」が大切にされていたように「奴隷」も大切にされていた。その奴隷を傷物にしないために、思い切り打つことができない「右手の甲で右頬をはたく」方法をとるのである。

 逆に言えば、対等な人間関係の中でこのような打ち方をされたのなら、相手に人間として見られてない、ということなのだ。「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というのは「俺を奴隷扱いするな。やれるものなら左の頬を打ってみろ、そうしたらもう――


(福本伸行「賭博黙示録カイジ」5巻より引用)

 という意味なのである。
 だから、イエスの時代から二千年を経た今、もしわたしが右の頬を打たれたら警察を呼んで刑事事件にする。クリスチャンとしてなんら矛盾を感じない。

 話が飛んだが、本来「体罰」も同じだったのである。自分の権力を傘に着て、一方的に生徒を奴隷とみなして打っているのである。いや、二千年前の奴隷が大切にされていたことを思えば、現代(昭和・平成)の体罰の方がもっとタチが悪い。

 わたしは昭和の男だが、ノスタルジーに浸って「体罰は必要」と言っている同世代の人間は、やはり体罰を行う教師と同じで、弱虫で、口ばかりで、人間として尊敬できない者ばかりに感じる。
 もし今まで深く考えず「体罰は必要」と思っていたわたしと同世代の人間は、本当に体罰を行っていた教師が尊敬できる者だったか、いま一度、考えなおしてみていただきたい。本当に尊敬できる教師は暴力をふるっていただろうか?
 いかがだろう?
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年09月04日

【カットリク!】ゴルゴ13(文庫版)88巻解説

 さいとう・たかを「ゴルゴ13(文庫版)」88巻の解説より

 特殊性癖の質問を聴衆からいきなりされても動じないシンプソン博士のことを「血液型性格診断」の記事を書いて思い出して引用として貼り、そのストーリー「血液サンプルG」が載っている文庫版88巻の解説を読み、あらら、と筆をとった。

 なお、シンプソン博士についてご興味がおありの方は、「特殊性癖 シンプソン博士」あたりでググられるとよろしいかと。「血液サンプルG」の一ページをそれらしいコラ画像にしてあり笑ってしまうのだが、コラ画像は著作権的に貼れないので(引用にならず著作者の同一保持権を侵害する)、おのおのでお探しいただくしかない。

 さて、この「ゴルゴ13(文庫版)」88巻の解説、杉森昌武先生がお書きになられていらっしゃるのだが、一部間違いあり、しかし全体として間違っているわけでもなく、ちょっとセンシティブなので、いささか長めだが、前文全部を引用させていただいた。







 ゴルゴ13の名前の由来としてしばしば言われている、「ゴルゴダの丘でイエス・キリストにいばらの冠をかぶせた13番目の男」とは、すなわちイスカリオテのユダのことである。
 キリスト教世界で、史上最大の裏切り者として忌み嫌われてきたこのユダは、イエスが処刑された後、裏切った事を後悔して自殺したとも、あるいは事故死したとも言われている
 ゴルゴなら自責の念から自殺することも、ささいな不注意で事故に遭う事も考えられない。したがって、ゴルゴをユダになぞらえるのは、あまり適切とは言えないように思う。
 ところで、ユダが13番目の男と言われるようになったのには、ちょっとした誤解がある。
 イエスには生前、12人の主だった弟子がいて、新訳聖書(ママ)では、ユダの名前を12番目に記しているが、とにかく12人のうちの一人だった。
 それが、イエスの死後、弟子たちが教団を立ち上げる時に、ユダは裏切り者の汚名を着たまま死んでいた(ひょっとすると、内ゲバで殺されたのかもしれない)ので、経理担当だった彼の代わりを補充して、十二使徒と称するようになったのである。
 元来、12番目の男だったはずのユダは、いつの間にか13番目の男にされ、ついでに13という数字が忌み嫌われるようになってしまったわけである。
 イエスが処刑されようとした時、12人の弟子たちは誰一人としてその現場にはいなかった。みな、イエスの仲間として逮捕されたり処刑されたりするのがいやで、雲隠れしてしまったのである。
 そういう意味では、積極的か消極的かの違いはあっても、12人の弟子たちはユダと同じ裏切り者と言うしかない。
 ユダももちろん、現場にいなかったのだから、「ゴルゴダの丘でイエス・キリストにいばらの冠をかぶせた13番目の男」ではあり得ない。
 新訳聖書(ママ)を読めば、いばらの冠をかぶせたのがユダではないという事はすぐ分かるはずなのだが、こうした誤解は一人歩きをしていつしか定着してしまうもので、ユダはイエスを裏切った上に、いばらの冠をかぶせたひどい男という事にされてしまったのである。
「悪事千里を走る」(悪い噂はたちまち広がる)の典型的な例と言えるだろう。
 ゴルゴという男は、13という不吉な数字がよく似合う男なのかもしれないが、少なくとも相手が裏切らない限りは、誰かを裏切るという事はない。これはゴルゴにとって鉄壁のルールであり、ビジネス哲学でもある。
 そうした意味でも、ゴルゴの名称の由来が、「ゴルゴダの丘でイエス・キリストにいばらの冠をかぶせた13番目の男」というのには違和感がある。


 この解説は、聖書に記されていることと、歴史的なユダヤ教ナザレ派新興宗教(つまりキリスト教)教団の成立史として考察とされていることが併記されているので、突っ込むほうもどこまで突っ込んでいいものやら悩むのだが、わたしはリベラルなカトリックなので、平均的カトリックの知識を持って「カットリク!」を指摘することにする。

 さて――
 まず、完全に間違っている部分として「新訳聖書」はありがちな校正ミス。「新約聖書」が正しい。まあこれは、単純ミスだろう。

 次に、「イエスが処刑されようとした時、12人の弟子たちは誰一人としてその現場にはいなかった。」の部分だが、これは明らかな間違いである。十二弟子のうち、ヨハネだけはイエスの十字架のもとにいたとされている。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。(ヨハネによる福音書 19:26)


 ヨハネだけは少年だったので、捕吏に捕らえられることもなく、イエスの母マリアとともに十字架のもとにいた、というのが定説である。そこでイエスは死の間際、上記のように、母マリアをヨハネに託したのである。

カットリク!ポイント71――
カットリク!の十二弟子は、イエスの十字架の下から、みんな逃げてしまった。


 次、「イエスが処刑された後、裏切った事を後悔して自殺した」の部分。イスカリオテのユダの死因だが、少なくとも聖書的には、彼は、イエスの「処刑前」に自殺したことに(マタイ福音書では)なっている。

そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタイによる福音書 27:5)


 ところが、使徒言行録ではこれが違うからややこしい。

ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。(使徒言行録 1:18)


 解説中にある「事故死」というのがこれを指すのなら、まあ間違ってはいない。しかしモニョるところでもある。
 このあたり、歴史的事実と聖書的記述の差が曖昧になっており、わたしの筆鋒がなまるのもご理解いただけたら、と。

 十二使徒の呼び方だが、解説だと歴史的事実の方を重視し、イエスの死後に十二使徒を自称したということになっているが、聖書的にはイエスが十二使徒を指名した、と、マタイ、マルコ、ルカの共観三福音書には明記されている。

十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、(マタイによる福音書 10:2)


そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、(マルコによる福音書 3:14)


朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。(ルカによる福音書 6:13)


 歴史的事実としては、イエスの死後に固められた教団の主要メンバーが、自らの地位を高めるために十二使徒を名乗り出し、それを福音書として記し、そのうちの一人イスカリオテのユダを内ゲバで亡き者にした、ということはありうることではあるが、そういった証拠はなにもない。
 わたしはリベラルなカトリックなので、上記のような柔軟な思考もできるが、「聖書信仰に立つプロテスタント」は、杉森先生の解説は間違いだらけだ! と拳を振り上げるかもしれない。

 迷ったが、このあたりはまだ、ギリで間違いとも言えないとも思うので、カットリク!ポイントはなしということで。

 いばらをかぶせた13人目の男がイスカリオテのユダというのが誤解云々は、まさしく杉森先生の仰るとおりである。

 以前、なにかのハッキング事件の新聞記事で、「犯人が被害者を13人としたのは、キリスト教の裏切り者である13番目の使徒イスカリオテのユダにちなんでと供述している」というものがあり、この明らかな間違いは無知な刑事の作文かと思っていたのだが、この間違いは、けっこうカットリク!として一般的なのだろうか。その記事を切り取っておかなかったことをずっと悔やんでいる。

 本著、さいとう・たかを先生の「ゴルゴ13(文庫版)」88巻には、ほかにも「マルコ福音書」を扱ったちょっとしたネタがあるので、そのうちカットリク!で扱うかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年09月03日

【日記】詐欺まがい光回線商法電話

 ここまで卑劣だと、アタマがクラクラしてくる。
 最近、うちの事務所の番号に連続して掛かってくる、詐欺まがいの光回線商法電話である。
 通信履歴をルータで確認すると、FAXで使っている回線にも掛けてきている。どうやら漏れた名簿に総当りで突撃しているようだ。
 それがなんと、自動音声によるものなのである。ピポパのプッシュを押させて、契約変更をさせようとしているらしい。
 ここまで一方的で悪劣非道な行いは、さすがに取り締まり対象にしてもよいのではないか?

 総務省が警告を出している「光コラボレーションモデル 不適切な電話勧誘にご注意ください」だと思われる。

 しかも掛けてくる番号が0800-300-31xxなのである。
 一見、最初の番号が080なので「携帯」からだと思って取ってしまいやすいが、これは0120と同じフリーダイヤルの0800なので要注意だ。
 フリーダイヤルからの電話は一切取らない、と決めているわたしでも、間違えて一度取ってしまった。

 この詐欺まがい業者が、留守電に録音を残しておいたので晒す。

 0800-300-31xx.mp3

 ちなみに上記番号「0800-300-31xx」にこちらから電凸してやっても常にお話中で文句の持っていきどころもない。まったく、腹が立つ。
 どんな業者がやっているのかわからないが、詐欺まがいであることは明白だ。

 対処は簡単である。ピポパ一切せず、ガチャ切りでよし。もし少しでも腹いせしてやりたいのなら、受話器を外したまま放置しておけば、少し電話代を相手持ちにしてやれる。長い無言のあと、向こうが勝手に切るので、それを待てば良い。

 とにかく、こういうことをやっても持ち出しばかりで成功しない、と、この詐欺まがい業者にあきらめさせるのが一番だ。

 なお、該当番号で検索すると、大阪のブティックがイベントで使用していたらしい過去の紹介ページがひっかかる。どうやらこのブティックが以前使用していた番号を、今は詐欺まがい業者が流用して使っているらしい。
 なのでこのお店に迷惑がかからぬよう、番号自体は晒さないことにした。

 オレオレ詐欺はもちろんだが、詐欺まがい業者も次々と手を変え品を変え、いろいろな方法を考え出すものだ。成功率も低いだろうに、そんなに一件の契約を取るともらえるキックバックが大きいのだろうか。
 人をだまして食う飯は美味いか? と言ってやりたくなる。

追記:同様の電話が0800-300-3350からもかかってきた。こちらは検索しても「詐欺まがい注意」のページしか引っかからないから公開してもいいだろう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年09月02日

【日記】夏祭り

 わたしが住んでいる町は、夏になると町内会で夏祭りをやる。
 六、七年前、「経費削減のため、夏祭りは一年ごとにやる」と決めたはずなのに、なぜか、ここ数年は、当然のように毎年やっている。

 わたしも持ち回りの町内会の評議委員として会議に出ることはあるが、この夏祭りに関しては、なぜか触れてはいけないことのように、今や「お盆の頃にやるのが当然」ということになってしまった。
 どうも、太鼓の練習をするグループがいるらしく、夏祭りをなくしてしまうと、彼らが活躍する場がなくなってしまうから、という理由から……らしい。

 我が家はこのお祭りの場所から少し離れてはいるのだが、それでも、夏祭りが始まると、この太鼓の連打が苦痛である。

 ドン! ドン! ドン! カラカッカ! ドドン! が、ドン!

 おまえらワンピースの登場人物の決めポーズかよ、というくらい――

ドン! ドン! ドドーン! カラッカ! ドドン! ドーン!


(尾田栄一郎「ONE PIECE」36巻より引用)

 もう、本当に、辛抱ならないほど、うるさくて、やかましくてたまらない。家も揺れそうなほどの大音響で、家族の会話もままならないほどだ。

 しかも流れる曲が、「東京音頭」「炭坑節」「おバケのQ太郎」の三つだけ。これが夜の六時から九時半まで、延々と流れ続ける。これが一種の拷問でなくしてなんであろう。クリリンでなくとも「JASRACさん、はやく来てくれーっ」と叫びたくなるくらい。
 いや、これだけあからさまにやっているのだから、著作権料、ちゃんと払ってるのかもしれないけどね。

 昔、そう、昭和の頃は、まだこの「町内の夏祭り」も楽しみだったのである。道路には屋台がいくつも出て、まだ通りには小売店も多く、その日には店を遅くまで開いて、お祭りムードをもりあげていた。
 当時はわが町も「帰省する町」だったのだろう。子どもたちが浴衣を着せてもらい、盆踊りの輪に参加するのであった。
 子どものわたしも綿菓子や水ヨーヨーなどを買って、ホクホクしていたものだった。

 しかしもう、あれから数十年が経ち、新しい路線網も発達して、わが町も「帰省する町」から「ベッドタウン」化したのである。近くに大学もあり、アパートも増え、町内会に参加している地域住民も減った。こんな町に、もう夏祭りは時代遅れの感がいなめない。

 規模はどんどん縮小し、小売店も廃業していく。警察に許可を得るのが面倒になったのか、屋台も道路から公園内に設置されるように。いつの間にか、店を出すのが、テキ屋さんから、太鼓グループの人たちになっている。うーん。

 なのに、太鼓のデカい音だけは変わらない。
 ドン! ドン! ドン! カラカッカ! ドドン! が、ドン! である。
 ほんとお前ら、ワンピースかよ!!


(尾田栄一郎「ONE PIECE」36巻より引用)

 幸いなのは、昔は三日連続だったのが、二日間に短縮されたことである。二日間、この太鼓の騒音に耐えれば、また静寂な町が戻ってくる。
 毎年、どのくらい人がきているのか、ひやかしに行ってはいたのだが、今年はついに家から一歩も出ず、部屋に閉じこもって、耳栓をしてひたすら耐えていた。

 毎年、楽しみにしている人がいるのだから、一概に「迷惑だ、やめてしまえ」とは言わない。二日間の夜、わたしが耐えれば済むことだ。しかし、家人に病人でもいたらたまらないだろうなぁ、と思いつつ……。

 振り返ってみると、その昔は町内の一丁目、二丁目、三丁目、四丁目……でそれぞれ夏祭りをやっていたが、今や残っているのは、うちの丁だけだ。なんぞこれ。ひょっとしてなんかの利権でもあるんかいな?
 まああれだな、そこまで大げさではなくとも、町内会のお偉いさん方の、いい飲み会の口実になっているのだろう。

 ああ、やっと太鼓が止まった。ホッ。
 これでまた一年、「東京音頭」「炭坑節」「おバケのQ太郎」のリピート太鼓地獄を味わわなくて済むと思うと、夏も後半なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年09月01日

【映画評】きみの声をとどけたい

 まいったなぁ。これが最初の感想。いや、いい意味で。
 こんなに丁寧に作られた作品を「きみの膵臓をとどけたい」とか「きみの声を食べたい」とか茶化すことはできない。

 これもネタバレらしいネタバレはない、むしろミットに入るボール音が心地いいほどストレートなお話なので、特にそのあたり、配慮はしないが、お約束なので、事前情報などあらかじめ入れるのがお嫌いな方は、このあたりで他ページへ移動していただきたく



 あらすじ――「コトダマって、あるんだよ」。そう信じるなぎさは高校二年生のラクロス部員。試合に負けたことより、幼なじみの友人同士が仲たがいしていることに心を傷めてしまう、心の優しい女の子だ。
 そんな夏休みの午後、夕立に追いたてられ、ひょんなことから、廃墟のように店じまいしていた喫茶店に雨宿りしたなぎさは、そこにあったラジオブースの電源を入れてしまう。よくわからないまま、レコードを流し、マイクに声を流してDJの真似事をしてしまうなぎさ。それは実は、かなり昔に閉鎖された「ミニFM局」であった。
 その放送を、たまたま見舞いに来た病室で聴いていたのが、昔、そのミニFM局「アクアマリン」でDJをしていた女性の娘、紫音。紫音の母は事故に遭い、意識不明のまま寝たきり状態で十数年を過ごしていた。
 最初は不快感からなぎさにメールをした紫音だったが、なぎさの優しさに触れて心を開き、なぎさの友人たちとミニFM局を放送することに。それを聴いた同級生の仲間も加わり、新生「アクアマリン」が本格開局。商店街でも評判になっていく。
 しかし、紫音だけは知っていた。この放送ができるのは、夏休みの間だけだ、と――。


 冒頭にも書いたが、「まいったなぁ」というのが素直な感想。丁寧に大切に作られた作品である。キャラクター造形も、鎌倉・湘南・ミニFM局という舞台も、話構成も、演出も、ストーリー構造体として美しく、非の打ちどころがない。
 ということは、もちろん「お約束」部分も多いわけだが、それをパロディなどにせず、直球でスパーンと投げ込んでくる。しかも剛速球ではない。いいじゃないですか、こういうの。こじらせたオタク向けじゃないですよ、この作品。

 女子高生たちを演じる声優たちは「キミコエ・オーディション」という企画で選ばれた六人。だが、こういう企画モノの延長の作品としてありがちな、「この程度でいいだろう」という妥協もない。新人の彼女たちを、がっちりとそれぞれのジャンルの手練れの職人たちが支えており、最初の数分から「ああこれは安心して観られる作品だ」とわかる作品である。
 この作品がデビュー作となる新人声優さんたちは幸福だ。余談だが、菊池桃子さんはいつまで経っても、「デビュー作『パンツの穴』」なのである。

 ヒロイン「なぎさ」の素直さ、ピュアさがまぶしい。何度か、彼女のストレートな感情表現にウルッときてしまった。いい娘だなぁ。
 また、湘南の夏の描写が素晴らしい。特に暑い晴天だけでなく、夕立の表現、激しい雷雨のシーンなどが「夏らしい」のが見事だ。

 六人を演じた新人声優さんたちは「NOW ON AIR」というユニットで曲も出しているとのこと。それにしても、最近の声優さんたちはうまくなった。キャラクターたちそれぞれの特徴を上手に演じ違和感もない。むしろ器用すぎて、それが故に「業界に潰されないでね」と老婆心ながら心配したり。

 ラストがちょっと時間が飛びすぎか――「なぎさが新しい夢を持った」程度でいいのではないかとも感じたが、これはむしろ、観劇者への大サービスととろう。こういうエンディングも嫌いではない。

 あまり映画同士を比べたくはないのだが、正直、この夏のアニメ映画として本命だったろう「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」とどちらを観るか悩むとしたら、こちらをわたしはお勧めしたい。
 観劇後の爽やかさが段違いだ。

 この映画を観た帰り道、わたしの住む地方都市で長く長く続いていた個人経営の喫茶店が閉店し取り壊されているのを目撃して、そのシンクロに少々びっくりしてしまった。
 しかもその喫茶店は旧NHKの局舎前にあり、かつてそのNHK局でちょっと仕事をしていたわたしも、そのたび何度か入っていて、また寄ってみたいな、と、数ヶ月前に思っていたところだったのだ。

 時代の移り変わりは仕方ないのかもしれないが、それでも、若い新人声優さんたちの熱演に元気をもらったような気がする。
 ED主題歌「キボウノカケラ」を聴きつつ、この記事の筆を置く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評