2017年09月07日

【日記】タイトルは作者がつけているとは限らない

 韓国発のゾンビ映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」は面白かった。超特急という狭い密室内でのゾンビ対人間という新機軸。しかもゾンビは動きが素早いタイプである。そんな絶望的な状況の中で、さらに人間対人間の醜い生存競争が繰り広げられる。
 すれ違い気味だった父娘の愛情、一見ダメ男と妊婦カップルの愛情、若いカップルを襲う悲劇、最後まで逃げ回る憎まれ役と、サービス精神もたっぷりだ。
 わたしは泣くまではいかなかったが、ラスト近く、隣席や後ろの方から涙をぬぐう雰囲気が感じられた。

 わたしがゾンビ映画で感動的なシーンがあっても泣かないのは、「こんな苦しい思いをするなら、早く楽にゾンビ側になっちゃったほうがいいよな」という日和見主義が根本にあるからだと思われる。

 それはともかく――。
 本作のタイトルはもともと、「釜山行き」だったとのことである。「新感染」というのは邦題だ。「ダジャレの好きな世代がつけたんだろコレ」という声もあるが、わたしはこれを、まあまあいいタイトルだと感じた。少なくとも、原題通り「釜山行き」だったとしたら、興味を持たなかったと思われるからだ。
 が、観終わったら「これは釜山行き≠フ方が良かったな」と思っていたりするのだから勝手なものだ。

 ちなみに各国のタイトルはこんな感じらしい。

 ブラジル:ゾンビの侵略
 チリ:ゾンビステーション
 フランス:プサン行き最終列車
 ポーランド:最終列車
 ロシア:プサン行きの列車
 スゥエーデン:プサン行き
 ヴェトナム:死の列車
 香港:ゾンビ高速鉄道

 そして日本が「新感染 ファイナル・エクスプレス」。
 みなさんの感性では、このタイトル、成功だろうか、失敗だろうか。

 ここ数年は、特にラノベなどで「正気か?」と思えるほど長いタイトルのものが多くなった。しかし読者諸兄姉、誤解してはならない。そのタイトル、著者がつけたとは限らないからである。むしろ、著者は抵抗に抵抗を重ねたのに、そのタイトルがつけられてしまった、ということもあるからだ。

 拙作のミステリ「朝刊暮死」がそうだった。
 わたしがつけたタイトルは「活字降る都」。もともとこの作品は、ミステリのカテゴリでラブ・ストーリーを描きたい、という気持ちがあったので、叙情的なタイトルにしたかったのである。
 また、本作はメタ的に作中作の通り殺人事件が起こるという再帰構造になっており、そこに登場する作品名が「活字降る都」だったので、どうしても変えたくなかったのだ。

 しかし、出版社であるSD社には「タイトル会議」という妙な風習があり、そこで作者の意向を無視した一方的なタイトルがつけられ、決定されてしまうのであった。作家への提案、ではない。決定、である。
 そこでついたタイトルが「朝刊暮死」。「ダジャレの好きな世代がつけたんだろコレ!」と、当時のわたしも叫んだ。しかも、作中作の作家も「結城恭介にしよう」というふざけぶりである。

「これで売れなかったら、タイトルのせいにしていいですよ」と担当氏はのたまった。だから言う。「タイトルのせいで売れなかったですよね!」

 というわけで、拙作「活字降る都」が、妙ちきりんな売れないタイトルに変えられたこと、作中作家の名前を変更させられたことは、今でも恨んでいる。
 のだ、が――。うーん、今回「新感染」は、いいタイトルだと思っちゃったんだよな、オレ。ただ、観終わった後は、やはり「釜山行き」がいいとわかったけれど。

 リアル書店で立ち読みできる環境が減り、Amazonのようなネット通販が増えてくると、ますますタイトルで「一発惹きたい」と思う編集者は多くなっているのかもしれない。このところは、長いタイトルも違和感がなくなってしまいつつあるし、売れた本の猿まねをして似たようなタイトルをつけた本も多い。
 編集者も売るためにいろいろ考えているのだろうが、実用書ではなく文芸書を売っている、という気持ちが少しでもあるなら、著者の意向も考えていただきたいなぁ、と、今でも思うわたしである。

 でも、あの遠藤周作も「沈黙」を本当は「日向の匂い」というタイトルにしたかったのに、編集者に変えられたのだよな。これは成功した例だと思う。
 なんとも、難しい。

 でも、約束したから何度でも言わせてもらう。
「変なタイトルつけられたせいで売れませんでしたよね!」
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記