2017年09月23日

【日記】夢あれこれ

 久々に「テストの夢」を見たような気がする。「テストの夢」とはそのまま「学校の机でペーパーテストを受けている夢」である。
 最後にそういうペーパーテストを受けたのは、十数年前に四級アマチュア試験を受けたのが最後の経験だというのに、この「テストの夢」は年に数回は見ているように思う。

 たいてい、舞台は高校である。わたしは高校のペーパーテストで、それほど悪い点を取ったという記憶はないし、授業をサボる生徒でもなかったので、出席日数が足りなくて進級できない、というようなことは万が一にもなかった。
 なかったというのに、夢の中ではペーパーテストが解けなくて、しかも出席日数が足りないことにも気づいたりして、ああああもう絶望的だ、と頭を抱えているのである。

 起きて、冷や汗がびっしり……ということもない。むしろ「どうしてこんな夢を見るんだろう。不思議だなぁ」と毎回疑問に思っている。

 わたしは寝付きが悪く、そして、毎夜、必ず夢を見る。いや、人は必ず夢を見ているのだそうだが、起きるとすぐ忘れてしまうので「見ていない」と思っているだけだという。わたしは眠りも浅いので、朝方の夢は覚えたまま起きてしまうせいで「毎夜必ず夢を見る」と思えるのだろう。

 見る夢は総天然色である。これは子どもの頃から変わらない。夢が白黒、という人が信じられない。
 また面白いことに、たまに人称が変わる。大抵はわたしの一人称だが、わたしを含めた登場人物たちを俯瞰して眺める三人称に変わったり、わたし以外の登場人物にわたしがなっていることがある。女性になっていることもある。

 いつも不思議に思うのは、夢の中の登場人物の台詞は誰が言わせているのだろう? ということだ。もちろん、わたしの脳が言わせていることは理解しているのだが、それを聞く(夢の中の)わたしは、相手が喋る台詞を想像できず聞いているわけだ。夢の中で自分以外の登場人物が喋る台詞は、一種、幻聴のようなものである。

 夢の中だけで出てくる街、というものがある。夢の中で、「ああ、この街が出てくるということは夢なのだな」と理解していたりする。どこをどう行けばなにがあって、書店があって、文房具屋があって、電気屋があって、と、わかっている。現代からすると、少し旧い街並だ。
 その街には大きな川があって、その川の土手を歩くのが好きだ。春には見事な桜並木が花を咲かせる。細君とそこのベンチでのんびりしている夢を見た朝は幸せだ。

 夢の中で「これは夢だな」と意識できたときは、「飛ぶ」こともできる。ところがおそらく、多くの方の想像とは違う飛び方だ。格好よくスーパーマンのように飛ぶのではなく、地上十センチくらいの高さを立ったまま飛ぶ。透明なセグウェイに乗っている感じ、と言えばおわかりいただけるだろうか。あんな雰囲気で、すーっと地上十センチの高さを滑って進んでいく。爽快感などあったものではない。

 そう、わたしはけっこう、夢の中で「あ、これは夢だな」と気づく方。映画「インセプション」では「夢の中で夢を見てその夢の中で夢を……」というアイデアが出てくるが、それもよくある。
 夢の中で「これは夢だ、起きなければ」と焦るのだが、なかなか起きられない。起きたと思っても、まだ夢の中にいる、ということに気づいて、また起きようと必死になる。
 よく、頬をつねって痛ければ現実、というマンガ描写があるが、あれは意味がない。夢の中で頬をつねればやはり痛いからである。

 人によっては、こういう夢を「悪夢」だと思うのかもしれないが、考え方の違いなのだろうか。わたしは「面白い夢を見た」と、起きたあと余韻に浸ったりする。

 夢が物語のアイデアになるかというと、どうもそういうことがないのが残念だ。枕元に手帳はいつも置いていて、起きて「これは」というアイデアをメモしておくのだが、後で見るとなにがなんだかわからない。
 先日も「三角錐の空間」、「三位一体の時空間」という文字とともになにか図が書いてあった。メモしたときはいいアイデアだと思ったのだろう。



 細君と交際を始めたとき、「俺のどんなとこが好きなの?」と聞いたら「夢をいっぱいもってるとこ」と答えたのだった。
 ふーむ、そうだね。宝くじで一億円でも当たったら、無菌の蚊を培養し、君の入っているお風呂場に投入して「蚊取り線香を焚いて欲しかったら俺のことを好きだと言え−!」と蚊責めにするという大きな夢を持っているのは、この世でわたしくらいだろうから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記