2017年10月12日

【回想録】半角カナ

 その昔、半角カナはネットで嫌われていた。これはパソコン通信時代からそうではなかっただろうか。
 パソコン通信で嫌われていた理由は、今となってはわからない。技術的には問題なかったはずである(後期になって、インターネットへメールを流せるようになった頃からは違うが)。やはり見栄えが悪いのと、文字化けっぽい感じが嫌がられたのだろう。

 インターネット時代になると、確実に半角カナは敵対視されていく。これはインターネットメールのsmtpプロトコルが7bitを通す仕様で作られていたからである。半角カナは8bitを使うため、メールを通すと文字化けしたり、過激な人は「ルーティング途中の機器を壊す可能性すらある」とまで言っていた。
 がしかし、半角カナでメールサーバ、中継ルータが壊れたというような話は、寡聞にして聞いたことがない。smtpは8ビット目をゼロにするだけなので、実際、機器破壊が(ソフトウェア的にも)起きたとしたら、それは機器側ファームの実装の問題ではないかなぁ、と思ったものであった。

 そんなこんなで、インターネットメールで半角カナを使うのは御法度、というのは、まぁ、黎明期のインターネットユーザーには常識であった。

 ところが、それが嵩じて、ウェブの方でもShift JISの半角はダメだ、と言い張る連中が出てきた。
 いや、ウェブの方はいいのである、半角カナ。まったく問題はない
 まったく問題はないのに、掲示板などで半角カナを使うと、当時は鬼の首でも取ったかのように「半角カナを使うな」と叫ぶ御仁がよくいらっしゃった。
 そんな彼らに「いやいや、そんなことを言ったら、httpで画像なんか貼れないじゃないですか」と言っても無駄なのであった。



 画像が表示されるということは、httpはsmtpと違って、8bitすべてのデータが送受信できるということである。どんなにボンクラな技術屋でも、上の一言でハッとする。そういやそうだよな、と。
 もともと「ウェブで半角カナを使うな!」と叫んでいたのは、技術畑の人間ではなかったのだろう。

 その昔、まだわたしが高校生のころ、コンピュータ雑誌に載っていた記事で、相手が技術畑の人間かそうでないかを見分ける方法、というものがあった。うろ覚えだが、たとえば「シミュレータ」を「シュミレータ」と誤記したり、富士通の大型コンピュータ「FACOM」を「ファコム」と呼んでしまったり(ある事情から「フェイコム」と呼ぶ)するような人は技術屋ではない、というもの。

 インターネット黎明期では、それに「ウェブで半角を使うな」という項目を付け加えてもいいだろう、と思ったものだ。

 そんなわたしだが、それでもウェブで半角カナを使ったことはなかった。これはGUI時代であるから、ウェブから文章をコピペしてメールに貼る可能性が万にひとつもないではない、という考えからである。

 その後、2ちゃんねるなどでAAが流行し隆盛を誇るようになり、「ウェブで半角カナはダメ」という間違いも、いつの間にか消えてなくなることとなった。

 半角カナは鬼っ子である。正直、エクセルの小さいカラムに書き込むときくらいにしか重宝しない。こうやって文章を書いていて、変換リストに半角カタカナが羅列されるとゲンナリする。
 このブログでも、今まで一切、半角カナは使っていなかったはずである(AAは画像にして貼っているから)。
 正直、レガシーな存在だと思っている。あの頃、「ウェブでも半角カナを使うな」という誤ったムーブメントがもっと大きくなっていたら、日本人のコンピュータ環境から半角カナは消えていたかもしれない。それはそれで、幸せな未来のひとつだったかもしれないのだ。

追記:上記「一切、半角カナは使っていなかった」は大嘘。わりと一行AAで使っていることに気づいた。( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー。ね、こうやってまぎれこんできちゃうんですよ。半角カナ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年10月11日

【日記】目的指向型

 たいていの人間は、なにかの節目、たとえば新年を迎えたとか、新学期になったとか、月が変わったときに「目標」を立てて、それにむかって頑張るものだ、そうすべきだ――と、これまでの人生四分の三くらいまでは思っていたが、どうやら、必ずしもそうではないらしい。

 わたしの細君が、そういうタイプではないのである。「今年は○○を目標に」「○○までに××しよう」という目標を一切立てないタイプ。目的指向型ではなく、今を大事に楽しむプロセス重視型なのだ。

 逆にわたしは、かなり目的指向型のタイプであった。むしろ目標を立てないと実績が上がらない。目標に向かって邁進し、今のつらさは歯を食いしばって耐える。目的を完遂したら、次の目標を見つけて、今度はそれを目指し、また目をひんむいて頑張る。そんな生き方。

 若い頃、このタイプの違いで、細君とケンカしたことがある。事務所に大型のプリンタを導入したのだが、当時はネット通販などというものはなく、雑誌の広告を見て通信販売を頼むか、実店舗へ行って買うしかなかった。
 その大型プリンタを売っている店は、ちょっと誌面の広告でも「怪しい」感じがしたので(失礼。でも実際、取り込み詐欺目的みたいな会社がなかったとは言えない時代であった)、実店舗へ行って様子を見て購入し、事務所へ送ってもらおう、という話になった。
 その店舗は東京にある。二人で電車に乗って店舗へ行き、実店舗があり品も並んでいて信用できそうだ、と判断して、当時珍しい大型プリンタを購入。今のプリンタが10台以上買えるお値段である。慎重になるのもご理解いただきたい。事務所に宅急便で届けてもらうようにして、きちんと領収書ももらい、手続きは終了。
 ふー、買った買った、と店を出て――

 わたし「さ、帰ろうか」
 細君「え、せっかくここまできたんだから、どっかに寄っていこうよ」
 わたし「もう目的は果たしたんだからいいじゃない。帰ろ」
 細君「まだ時間も早いし、もったいないよお」

 二人ともまだ若かった。わたしは緊張が解けて疲れており、早く帰りたかったというのもある。駅に向かう道の真ん中で口ゲンカである。
 結局その日、どこかに寄ってから帰ったのか、直帰したのかは、もう記憶にないが、細君は「目的指向型」ではないなぁ、と強くわたしの心に刻み込まれた事件であった。

 以降、「目的指向型」のわたしと「プロセス重視型」の細君は、そのことで何度かぶつかりあうこととなる。
 よく離婚する夫婦が「価値観が違ったから」というが、そういう点では、わたしと細君もこのことに対する価値観はまったく正反対であった。
「価値観が違う」ことが離婚の正当な理由に本来なりえないのは、こんなところにも現れている。今までの結婚生活を振り返って、正直わたしは、二人の価値観が違っていたからこそ続けてこられたと思っているのだ。

 ひとつには、わたし自身の問題――「目標」を決めてそこに突っ走るという性格は、決して良い面ばかりではなかったということである。
 一度「目標」を決めたらそれを達成するために、脇目も振らず多少の怪我や故障にも目をつぶってひた走る。周囲の景色など見ている余裕はない。そんな生き方。昔のわたしは、そういう生き方しかできなかった。走れなくなっても前を向いてヨロヨロ歩く。いよいよ脚がダメになっても這ってでも進む。当然、身も心もボロボロだ。

 それが、いろいろな挫折や、自分や愛息の病気を通し、努力ではどうしようもないことがあるということを、嫌と言うほど人生に教えられて、「目的指向型」では、決して「本当の幸せ」はつかめない、ということを、やっと悟ったのである。

 ひとつの目標を達成すると、次の目標を立て、歯をくいしばって頑張る。目標が達成されたときは、束の間の脳内ドーパミン嵐で幸福感を感じるが、それは麻薬のようなものですぐ失せる。そうしたら次の目標を立て、また、しゃにむに頑張るしかない。
 だから、いつまでも満足することがない。いつまでも「本当の幸せ」を得られることなどできない。

 そんな悪循環に気づき、こんな生き方はもうやめよう。「幸せな人生を目指す」のではなく、「今幸せな人生を歩んでいることを知ろう」と、決意したのがいつかは覚えていない。漠然と、ぼんやりと、いつしか思っていたのである。いいことだと思っている。「決意」してしまったら、今度はそれを「目標」にしてしまうだろうから。

 とはいえ、「今を見つめて」「今起きていることを十二分に楽しむ」生き方は、わたしのような、生来、目的指向型のタイプにはとても難しい。ともすれば、すぐにまた以前のように「目標」を立てて頑張ろうとしている自分に気づき、「いかんいかん」と首を横に振ったりする。

 そんなわたしにとって、細君は北極星のような存在だ。わたしの人生の船がコントロールを失って、どこへ行ったらいいかわからなくなったとき、ふと見上げれば北極星がある。それを見つけるだけでホッとできる、そんな頼もしい光である。

 このブログも、とりあえず「毎日更新」しているが、それ自体が目的だとは思っていない。書くことが楽しめなくなったら、いつか途切れ途切れになって、休ませてもらうかもしれないし、また楽しさが戻ってきたら再開するかもしれない(「深夜のお茶会いまさら」のように)。

 そんなゆるーい感じで、これから残りの人生を送っていければ、と思っている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年10月10日

【昭和の遺伝子】インスタントラーメンの思い出

 おそらくわたしは、同世代の男性と比べて、インスタントラーメンやカップラーメンを多く食べている方だろう。

 ……と書いて、首をかしげた。いや、そんなことはないかもしれない。今は食べても週に一回くらいだし、細君が料理上手料理好きなので、夕飯をカップラーメンで済ませてしまった、などということは、結婚後、十回もなかったはず。

 そう考えると、同世代の男性の平均と同じくらいか、それ以下かな? という程度かもしれない。
 少なくとも、藤子不二雄先生のラーメン大好き小池さんや――


(藤子・F・不二雄「藤子・F・不二雄大全集 オバケのQ太郎」1巻より引用)

 ラーメン大好き小泉さんより食べていないのは確かである。


(鳴見なる「ラーメン大好き小泉さん」1巻より引用)

 みなさんは、初カップラーメンの記憶を思い出せるだろうか? わたしは鮮烈に思い出せる。最初に食べたのは日清の「カップヌードル」だった。
 なんとなれば、母が「発泡スチロールのカップから有害物質が出るかもしれない」と言って。カップから麺その他を丼にあけ、そこにお湯を注いで作ったものを食べたからである。
 今にして思えば、莫迦莫迦しい心配に過ぎないのだが、当時はインスタント食品に偏見も多く、小さな子どもに食べさせるものとして、母が心配するのも無理はなかったのかもしれない。
 味はとても「ジャンキー」で、子どものわたしはとても気に入った。 カップラーメン、インスタントラーメンとのつきあいはその日から始まったのであった。

 カップラーメン丼あけメイクは、母も面倒だと思ったのか、それ一回だけだった。食の細いわたしが食べてくれるのなら、それはそれで良いと割り切ってくれたのかもしれない。

 わたしは本当に食が細かった。
 小学生の頃は給食だったのだが、主食のパンもおかずも規定の量を食べられず、最後までいつも残されていた。それが苦痛で、さらに食べるのが嫌になるという悪循環。
 土曜は弁当の日だったが、母が愛情を込めて作ってくれた弁当でも食べきることはできず、結局、弁当箱一杯に「牛乳寒天」を作ってもらい、それなら食べきることができたのであった。
 ちなみに、こういうタチであるから、当然と言えば当然のように成長も悪く、身長はクラスで一番低かった。

 こんなわたしでも、「成長期」というものはやってくるのである。遅れてやってきたそいつは、わたしに「食欲」というものがあることを教えてくれた。高校生の頃だ。
 この頃は、早弁こそしなかったが、弁当は全部食べられるようになったし、なにより、家に帰ってから夕食までに腹が減っていて、よくインスタントラーメンを作って食べたのである。

 わたしが料理できないダンスィであったことは前にも書いたが、さすがにインスタントラーメンくらいは作れる。ただし、具なしの素ラーメンだが。
 良く作ったのは「サッポロ一番塩ラーメン」と「カレーうどん」。「塩ラーメン」は今でも伝統の味だが「カレーうどん」の方はスーパーでも見かけなくなってしまった。

 カップの方は、これも伝統の日清の「どん兵衛」が好きだ。同社のカップヌードルも好きだが、これは最近、麺量に比して値段が高く、コスパが悪いのではないか? と思っている。が、たまに無性に食べたくなる。ノーマルのカップヌードルとチリトマが好きだ。

 カップ焼きそばもまたいい。わたしはとても初期のカップ焼きそばを食べたことがある。メーカーは忘れたが、カップヌードルと同じ円柱型で、捨て湯をする穴を「箸でブスッと開けてください」という斬新なものであった。そしてこれは――まずかった(笑)。
 当時のメーカーはカップライスなども試行錯誤していたが、それらも食べられた代物ではなかったと記憶している。

 その後出てきたペヤングなどはとても美味で、これもまた好きに。ごく最近起きたG混入事件はもちろんよろしくないことだが、その後、工場が新しくなり、また食べられるようになったのは良いことだ。

 カップラーメン、インスタントラーメンは、製品寿命が短いものも多い。一時は「つけ麺」ブームがあり、専用の器までつくられる人気だったのだが、すぐに飽きられてしまった。
 お湯なしで作れる「アルキメンデス」とかもあったはず。これは正月、友人皆で砂浜へくりだし、初日の出を見ながら食べた思い出があり、よく覚えている。

 深夜に食べるラーメンと言えば「チキンラーメン」である。



 作家になりたての頃、一人、午前三時のキッチンで丼にこいつを入れて卵を落とし、お湯を注して銀紙で蓋をし、書斎へ持っていく。
 銀紙の蓋を開けても、卵は商品写真のようにうまく固まってはいない。まあ、そういうもんだ、と思いながら食べるのが常であった。

 コクヨのケ-35N原稿用紙にボールぺんてる。広辞苑と岩波の国語辞典。深夜ラジオを聞きながら食べるチキンラーメン。そのうち夜も明けて窓から朝日が入ってくると、そろそろ寝るか、と、床につく昼夜逆転生活。そんな若い日々を、懐かしく思い出す。

 今でもチキンラーメンは、体調が悪く食欲がないとき食べられる、唯一の食事である。健康な人にはちょっとわからないかもしれないが、あれは一種、流動食みたいなものなのだ。
 あのラストエンペラー溥儀も、最期の時に「チキンラーメンが食べたい」と言ったそうである。なんとなく、わかる気がする。

 わたしが最期の時、なにを食べたがるかはまだわからないが、それが高級料理でないだろうことだけは確かである。
 ひょっとしたら、丼に入れたカップヌードルをほしがる、かもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年10月09日

【回想録】首相官邸

 わたしは首相官邸に入ったことがある。
 もちろん、悪いことを企んで、ではない。新潮社で賞をいただいた翌年、与党だった自民党主催で、前年の文化功労者を招いて開くパーティがあったからである。時の首相は中曽根康弘さんであった。


(原作:西村ミツル/漫画:大崎充「グ・ラ・メ!」1巻より引用)

 若干十九歳のわたしのところに、招待状が届いた。
「結城恭介様・令夫人様」
 残念ながら、当時、令夫人はいなかったので、独り身で参上つかまつった。時がねじ曲がって、未来の細君を連れて行けたとしても、年齢的に「犯罪」である。

 招ばれたのは、もちろん、わたしだけではない。むしろ行ってみてびっくりである。数百人は招いていたのではないか? わたしは普通にネクタイに背広(昭和っぽいね)姿で行ったが、中には燕尾服を着込んでいる紳士もいらした。テレビで見かける有名人もいたと思うが、そういうのは「有名人枠」であって、あらかじめテレビカメラが狙える位置に配置され、近寄ることなどはできなかった。

 豪華な絨毯が敷かれた廊下を通って、確か、中庭へ案内されたと思う。そこには屋台が並び、寿司や乾き物を始めとする立食パーティ用の食事が用意されていた。アルコールは出ていなかったと思う。いや、あったのかなぁ? これはわたしが当時、未成年であったから興味がないせいで記憶にない。
 喫煙はみんなしていた。これは灰皿を倒した御仁がいらっしゃったのでよく覚えている。いつでもどこでもプカプカは昭和の常識であった。
 それにしても、さすが安定政権だった頃の自民党。わたしのようなどこの馬の骨ともわからない若造にまで招待状をくれるとは、実に羽振りがよかったものだ。

 中曽根首相が挨拶をして、たしか、みなさんが芸術文化活動などを安心して行えるのも、自民党へのご理解があるからです、などのようなスピーチをなさったと思う。えらいショッテるなぁ、と思ったが、その自民党の金で飲み食いしに来たのだから文句は言えない。

 特に知りあいもいないので、一人で飲み食いしていると(わたしはおひとり様行動が平気)、ふと、声を掛けられた。わたしからすると年配の女性であったが、今思うとそう感じたのは失礼だったかも。
「結城恭介先生でいらっしゃいますか?」
「はい――」
「あ、やはり。フォーカスで拝見して、お顔を存じております」
 賞をいただいたとき、わたしはあの「フォーカス」誌に、見開きで授賞式が掲載されたのであった(だって「フォーカス」って新潮社ですから。ある意味内輪ボメなわけで(笑))。

 と書いてきて、うーん、今の若い人は「フォーカス」自体を知らないか。写真スクープ誌のさきがけで、その後「フライデー」や「フラッシュ」といった似たような雑誌が続々と出たのである。
 その頃、「フォーカス」に掲載されるというのは、良いことでも悪いことでも、まあ、ある程度は注目されることではあった。

 その女性は和装の正装ではなかったかなぁ。確か、「婦人公論」誌で賞をお取りになられたとお聞きした覚えがある。
 パーティも終わって、せっかくだから、と、その方に誘われて近くの喫茶店でお話しをした。

 その方は、押し入れ一杯に原稿をお書きになり、その甲斐あって、今度の受賞に結びついた、とおっしゃっていられた。いやぁすごい。わたしなんぞは、受賞作の前は、二、三作、学校で回し読みするような小説を書いただけだった。
 その女性は、「結城先生は小説新潮ですから、格が上なんですよ」と度々おっしゃるので恐縮してしまった。わたしはただ恐いもの知らずで応募しただけの身、格が上とか下とか、考えたこともなかったのである。

 まことに、実に、ひたすら申しわけないのだが、このときの女性作家のお名前を、わたしは忘れてしまっているのだった。お名刺もいただいたような覚えがあるので、書斎のどこかの名刺ホルダーに入れてあるかもしれない。今と違って、メールで情報をやりとりできる時代ではなかったのである。
 こういう努力する作家さんが、将来的に芥川賞とかを取られるのかなぁ、などと、若いわたしはボンヤリ思っていたのだった。もしかしたら、すでに芥川賞作家になられた方なのかもしれない。
 今思うと、わたしを見つけて話しかけてくださった方のお名前を忘れるなど、本当にわたしは失礼な奴である。若いわたしは、いつも自分のことで手一杯で、とても周りに気を遣うことなどできなかったのだ、と、言い訳させてください。
 もし、これをお読みになられていらっしゃいましたら、ぜひともあの頃の非礼をお詫びしたく、メールいただければ幸いです。

 そうそう、パーティ出席者には、もれなく「お土産」がもらえた。「Prime minister Nakasone」とサインが入ったボールペンである。これは母にあげてしまった。今はどこにあるかわからない。

 後日、筒井康隆先生、井上ひさし先生に、「こんなパーティに招ばれて行きましたよ」とお話ししたら「あんまり自民党よりになっちゃだめだよ」と笑い混じりに返されたのを思い出す。
 右も左もわからない若造の、今となっては、あれは夢だったのではないかとすら思う思い出だ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年10月08日

【日記】本当に調子が悪いとき

 本当に心身の調子が悪いときは、音楽すら聴けない。わたしは持病自体もそうだが、特に体調がダイレクトに聴覚へ影響を及ぼすタチらしい。

 ドンシャリしたポップスなどはもう全然ダメ。鳥肌が立つ。オーケストラも金管楽器がつらくて聴いていられない。声楽もつらい。バイオリンも音が紫色にチラついてダメだ(こういうのを共感覚というらしい)。

 本当につらくて、そういうときは耳栓をし、枕を抱きしめて、ただひたすら耐えるしかない。ちなみに抱き枕はニトリのものを愛用。アニメ絵のおたく抱き枕じゃないですヨ。
 しかし耳栓をして音を遮断していると、今度は耳鳴りと、全身の皮膚がシャリシャリする感じがなかなか治らないのである。聞いた話によると、いつも耳栓をしていると、むしろ聴覚過敏が進んでしまい、あまり治療にはよくないらしい。

 そういうとき、唯一、聞けるのが「自然音」である。「川の音」「海の音」「朝の高原」「秋の虫の声」とか、そういう類。なので、わたしのPCのmp3フォルダには、そういった音源がたくさん入っている。
 そういう音を聞いて、心身が少し落ち着いてくると、ああ、こんなコンクリートの中に住んでいても、人間、やっぱり自然の一部なんだなぁ、と思ったりする。



 お気に入りは「奥入瀬の清流」だ。川の流れる音は基本的に好きだが、録音によっては、まるでドブを汚水が流れているような出来になっていて、聴覚過敏の身には、臭いが鼻についてくるようでゲッとしてしまう。

 海外の自然音の音源もいくつかもっているが、これもやはり、どこかお国柄を感じてしまう。わたしはやはり、日本の山間を流れる川の音が好きだ。

 わたしが中学生の頃、「生録ブーム」というのがあった。パラボラ型のマイクを持って森や林の中で鳥の声を録る、というものである。わたしも生録できるラジカセを一台もっていたが、そのパラボラが屋外に出たことは一度もなかったような気がする。
 思えば、当時、山や森へ行く必要などなかった。ただ、街中へ行って、昭和の音を録音して残しておけば、きっと今、いい記録になったろうに。

 自然音を聴いて多少、楽になってくると、今度は頭の中に「パッヘルベルのカノン」を流してみると、つらさが鎮まることがわかった。実際に曲を聴くのではなく、自分で頭の中に流すのである。あのコード進行は、神のつくりたもうた人間への贈り物だ。
 それでもう一段、心身が治まってきたら、本当の音楽を流してみる。復帰まであと少し。だが、光は見えてきた。

 体調不良が始まってから治まるまで、短いときは三日、長いときは二週間。こんな感じの期間を、年に一、二回は経験している。

 今はポップスを聞きながら、これを書いている。つまり、調子は悪くない、ということ(いや、悪いときはそもそも書けないんですけどね)。
 いいクスリはあっても、特効薬はない持病なので仕方がない。長く断酒禁煙し、なるべく良い睡眠をとり、良い生活リズムでノンカフェイン生活を送っているのだが、季節の変わり目、というか、気圧の急変に弱いのは仕方がないこととあきらめている。
 そういう体を、神さまがくださったのだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記