2017年10月24日

【昭和の遺伝子】国鉄ストライキの思い出

 現代の「鉄ちゃん」が逆立ちしても体験できない鉄道体験を、昭和の人間たちは持っている。

 そのひとつがタイトルの「国鉄ストライキ」なのであった。
 電車に乗れないことを「電車体験」と言ってしまっていいものかどうかわからないが、あの混乱と困憊の記憶がたまに蘇ると、優しかった上級生の手の温かさも一緒に思いだし、ホッとするという一面もある。

 若い方のために念のために言っておくと、国鉄とはいまのJRである。「日本国有鉄道」を略して「国鉄」。民営化前の公社であり、職員は半公務員であった。
 そもそも半公務員である国鉄職員に「ストライキをする権利があるのかどうか」ということも焦点にされることがあり、根本的にその権利を求めてストをするという「スト権スト」などもあったのであった。

 当時、小学校低学年であったわたしは、あまりそんなことは理解していない。その日、いつも通りバスで駅へ行くと、そこで電車が止まっているので、ただ、困ってしまった。
 今思うと、国鉄がストをしているのにどうして親が登校させたのかが不思議だが、ストが回避できるorできないの線が微妙だったのかもしれない。
 なんにしろ、当時の親の世代に「学校を休ませる」というアタマがなかったのは確かである。
 また、今は新学期のはじめに「つらいなら学校に行かないでウチへおいで」と公共機関がツイートする時代だが、あの頃は補導員≠ェ随所をパトロールしていて、捕まると学校へ連れていかれ叱られる、というのが、子どもたち側の共通認識でもあった。


(弓月光「エリート狂走曲」1巻より引用。こうやって捕まっちゃうわけですよ。今でもある?)

 そんなこんなで、親にも子にも無意識にすりこまれた「なんとしてでも登校させる&する」という気持ちがあったのである。なんという学校畜(笑)。

 人でいっぱいの駅は、客の怒号と駅員の応酬で渦巻いている。
「電車、止まっちゃったの? え、なんで?」と、子どものわたしはあたふたするばかり。
 事故で電車が止まったときは、私鉄に振り替えの切符が発行されたと思うが、このときはそのようなことはなかった。
「どうしよう……」この期に及んでも、家に帰って休むという考えが沸かないわたしに今びっくりである。「待っていれば動くのかなぁ……」

 台詞にすれば冷静なように聞こえるが、実際には半べそだったと思う。
 と、そのとき――

「君も××小の子だね」と、詰め襟のお兄さんから声を掛けられた。わたしの行っていた小・中学生の男の子は制帽をかぶっており、それでわかってくれたのだ。「僕は××中だから、一緒に行こうか」
 見れば、お兄さんと一緒に、自分と同じ小学校の子が数人。その中で、自分は一番小さかった。

「電車でひと駅だから、歩いて行こう。みんなで行けば大丈夫だよ」と、お兄さんはわたしの手を引いてくれた。「歩けるかい?」

 コクコクうなずく自分。お兄さんがとても格好よく、オトナに見えた。
 振り返れば、おそらく彼も中一か二くらいだったのではないだろうか。その年で、駅で困っている同じ学区の小学生を見つけて、こうやって手を差し伸べてくれるのは、なかなかできることではないと思う。

 お兄さんに手を引かれて、チビたちは、いつもは車窓から見る道路を歩いて隣の駅まで。朝からちょっとした冒険気分である。でもこのお兄さんがいれば怖くないなぁ、という気持ちであった。

 ××中は××小よりも先にあるので、お兄さんはわたしたちが校門に入るまで見送ってくれた。一時間目を遅刻、くらいで済んだと思う。
 今思うと、わたしが女の子だったら、ラブコメの第一話のような出会いである。が、 こんなに良くしてもらったのに、薄情なわたしは、お兄さんの名前も学年も聞かず仕舞いであった。はぇーさすが小学生(小並感)。

 ストライキは昼頃に終わり、午後は普通に電車に乗って帰ることができたと記憶している。
 帰宅したら、母から尋ねられた。

 母「恭介、あなた今日、学校行けたの?」
 わたし「行けたよー。電車止まってたけど、歩いて行っちゃった」
 母「えっ、すごいねぇ」
 わたし「うん、親切な××中の人が連れてってくれた」
 母「ええっ、名前とか聞いた?」
 わたし「ううん。全然」
 母「そう――。優しい人がいてくれてよかったね」
 わたし「うん!」

 まぁ、この程度の会話で終わりである。今だったら「どうして名前を聞いておかないの。お礼しないといけないじゃないの」とか、それ以前に「知らない人についていっちゃいけないでしょ」と叱られてしまうかもしれない。

 昭和はなんとも、大らかであった。
 今なら、小学生低学年の子どもが駅で半べそをかいていても、わたしのようなオッサンが声をかけたら「事例」になってしまうだろう。
 インフラ企業のストライキはもちろん勘弁だが、人と人とをつなぐ、昭和時代の大らかさは、もう少し、残っていても良かったかなぁ、と。

 あのときのお兄さんの手の暖かさと優しさは、名も知らず顔も覚えていない今となっても、わたしの中にほんのりと残っているのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子