2017年11月25日

【日記】メトシェラの死

 聖書の登場人物の中で、一番長寿の者は誰か――それくらい知ってるよ、という方もいらっしゃるのではないだろうか。創世記5:21-27に登場しているメトシェラ≠ナある。

メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。(創世記 5:27)


 口語訳だとメトセラ=Bそう、ロバート・A・ハインラインの「長寿」をテーマにした名作「メトセラの子ら」はここから取られている。

 わたしはカトリックなので、聖書を信仰的フィルタにかけて読むが、それはすなわち、プロテスタント福音派とは違い、 聖書に載っている一字一句すべてが字句そのままだとは思っていないということである。現代科学と照らしあわせて、これは寓話的な意味だろう、これは誇張された表現だろう、と「常識的に考えて」読む。

 それでもプロテスタントリベラル派とも違うので、イエスが湖上を歩いたことや、五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えたこと、そして一番大事な復活≠ワで「トリック」だとは言わない。そこはそこで奇跡として信じている。ここを譲ったら、カトリックの信仰ではなくなってしまう。
 このあたりのさじ加減が、各教派の微妙な違いにもなっているのである。
(もっともカトリックは幅が広いので、「聖書は一字一句すべて事実を記したもの」という修道会や、逆に「復活はトリックです」と言ってのける司祭がいてもおかしくはない。いやほんと、カトもいろいろなんですよ)

 さて、メトシェラだが、やはり常識的に考えて、人間が969年生きるということは考えられない。もちろん実際の没年齢はわからないが、当時としてはかなり長寿であったので、箔づけにそういう数字が出てきた、と捉えるのが正解だろう。

 では、メトシェラの死因がなんだったのか、わかる方はいらっしゃるだろうか。
 実はコレ、みなさんもご存知のはずなのである。

 ここで、メトシェラ前後の家系を追ってみよう。
 メトシェラの父はエノク。エノクはエノクで有名なのだが、それはまたの機会にして、メトシェラの子はレメク。そして孫があのノアである。ノアの箱船のノア。
 メトシェラがレメクをもうけたのは187歳のとき。

メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。(創世記 5:25)


 そしてレメクをもうけたあと、782年生きていたとなっている。

メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。(創世記 5:26)


 187+782=969。ピッタリ。間違いない。没年齢は969歳である。
 では、その年になにがあったのか――。

 メトシェラの孫、レメクの子であるノアが生まれたのは、レメク182歳のときとなっている。

レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。(創世記 5:28)


 つまりノアがうまれたとき、おじいちゃんのメトシェラは187+182=369歳であった。メトシェラの寿命が969歳であるので、969-369=600。ノアが600歳のとき、メトシェラは死んだことになる。
 では、ノアが600歳のとき、いったいなにが起こったのだろうか?

ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。(創世記 7:6)


 そう、ノアが「ノアの箱船」で乗り切った「洪水」が起きているのである。
 メトシェラの死因、それは、神が「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6:6)」ことで、地上から悪しき人間を拭いさるために起こした洪水だったのである。

 ちなみに、ノアの父親レメクは洪水の五年前に死んでいる。

 聖書を読みつつ電卓を叩いて、この数字の整合性を見たとき、旧約聖書を書いた太古のイスラエル人も設定厨だなぁ、と、クスッときたものだった。

 メトシェラがノアの箱船に乗せてもらえなかった理由はわからない。
 イスラエル民族の伝承によると、メトシェラは一万の悪魔を倒し、その名を刻んだ剣を持っていたともいわれている。となると、神さまに「地上から洗い流される」悪者ではなかったのかもしれない。

 聖書中の「人間の異常な長寿録」はこの先も続くが、その後、イスラエル民族がエジプトへ寄留し、出エジプトを経て荒れ野をさすらう民となったとき、

五十歳に達した者は務めから身をひかねばならない。二度とそれに従事してはならない。(民数記 8:25)


 と、定年の規定ができていたりする。当時の五十歳はかなり老けていたと思われるので、これも妥当だろうか(ヨベルの年(*1)を越えた、ということももちろんあるのだろう)。

(*1)聖書中、7x7=49の翌年50年目は特別の年として「ヨベルの年」と言われる。クラシックなどで見かける「ジュビリー・エディション」はこの「ヨベル」からきている。

 聖書にはけっこう、こういう数字≠ェ出てくる。メトシェラのように前後関係「計算ぴったり」だったり、あるいは「大ハズレ」なこともある。設定厨甘いよ、なにやってんの! と苦笑してしまうこともあったり。
 そんな大ハズレの例は、またの機会に。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年11月24日

【昭和の遺伝子】昼休み

 自分の「昼休み」に郵便局へ配達物をお願いしに行き、ああそう言えば、と思い出したことがある。

 昔の郵便局には「昼休み」があった。
 うろ覚えだが、午前11時45分くらいから、午後12時30分くらいは、窓口がカーテンを引いて「お休み」してしまうのである。

 郵便局だけでなく、たしか銀行も同じ時間は「昼休み」を取っていたと思う。金融だけでなく、役所などもおなじく「昼休み」を取っていたような記憶があるが、なにぶん、当時わたしは小学生だったので、そのあたりのことはよく覚えていない。小学生が平日昼間、役所に行く用事などはなかった。
 郵便局くらいは小学生でも使ったので、一番覚えているのは、「平日昼間、郵便局は昼休みを取っていた」ということ。
 そうだ、思い出した。小学生の頃の冬休み、もらったお年玉をいそいそと貯金に行ったところ、この「昼休み」にひっかかって呆然とした覚えがあるのだ。そのときに、「郵便局には昼休みがある」ということが強く印象づけられたのであった。

 ただ窓口が閉まってしまうだけで、内部では仕事をしていたのかもしれないが、お客からしてみれば「利用できない」という点では同じこと。窓口にはカーテンが引かれ、紙に書かれた「昼休み中」の札がかけられてしまう。
 第一、当時の郵便局は、「利用者」を「お客」だとは思っていなかった。なにしろ郵便局も「お役所」のひとつだったのである。

 この「昼休み」がいつなくなったのかは定かではない。今、検索してみたが、「そういえば昔、郵便局に昼休みってありましたね」という書きこみはあっても、いつからなくなったのかはわからないという感じだ。

 わたしの感覚では、平成になった頃には確実に「昼休み」はなくなっていた。昭和後期、バブルの頃に廃止されたような気がするのだが、根拠はない。
 札束が宙を舞うバブルの金融狂乱の頃には、昼休みを取る余裕もなくなっていたのだろうか。

「昼休み」というと、わたしは食の細い子だったもので、小学生時代、「給食を残す子はダメ」という指導の下、他の子が遊んでいる昼休み中、ずーっと給食の盆を睨んでいたことを思い出す。もう満腹で、残りのパン一枚を食べることができない。それでも先生は許してくれず、食べきるか、時間切れまで残される。給食係には嫌がられるし、アレは本当に苦痛だった。
「味音痴」はともかく、わたしの「食べるのが嫌い」は、ひょっとしたら生来のものではなく、あの頃の給食教育によって培われたものかもしれない。
 給食の思い出は、また機会を見つけて、別の記事で書こう。

 今この二十一世紀に、郵便局を始めとして銀行やお役所が「昼休み」を取り始めたら大変なことになるだろう。たいていの人は職場のお昼休みに抜け出して郵便局や銀行へ行くものだからだ。きっとツイッターや掲示板で怒号が飛び交うに違いない。
 そんな時間に堂々と休んでいた昔の郵便局は、なんというか「おカミ」であったなぁ、と思う。

 今は郵便局だけでなく、窓口がある会社が、昼休みにそこを閉めているということはまずない。
 それだけ社会が成熟したのか、それとも、日本全体がせわしくなったのか。便利になったのは良いことだが。
 昭和の日本はのんびりとしていた。時間の流れが遅かった。それが必ずしもいいとは思わないが、たまにあの空気感を思い出すと、懐かしく、ホッとした気分になるのも確かである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年11月23日

【昭和の遺伝子】黒い煙に街は栄え

 この記事で、わたしの小・中出身校がある程度わかってしまうかもしれないが、別に隠す必要もないので、それはそれでかまわない。第一、今まで書いてきた「いまさら日記」をチェックしていれば、だいたいどこなのかわかる人にはわかっていたはず。

 さて、わたしの小学校の校歌には、こんな一文があったのである。

♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる。


 いやちょっと、現代からすると仰天、の歌詞ではないだろうか。
 わたしが育った地方都市には、その地域の多くの人間が勤める巨大な会社があり、それが「黒い煙」をモクモクと出す業種だったのであった。

 やっと「公害」とか「光化学スモッグ」とかが社会問題として認知されはじめた頃である。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどを社会の時間に習い、特にイタイイタイ病などは当時のクラス皆を恐怖のどん底に陥れたのだが、それでも体育館に集まって学期始めと終わり、卒業式で歌うのは「♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる」なのであった。しかもこのあとに――

♪みーんなみーんな健やかに、楽しく歌って過ごそうよ。


 と続くのだからなんとも、である。
 校歌が制定されたのは、わたしが入学するよりかなり前。きっと当時は、煙突からモクモクと出る黒煙に、人々が豊かな生来、輝かしい未来を感じていたのだろう。
 歌詞を作った人の責任ではないとは思うが、高度成長期の日本のイケイケ路線がどのような雰囲気だったかが、わかるのではないか?

 二十一世紀の今、発展途上国の公害を日本人は嗤ったり、眉をひそめたりするが、日本だって、こういう歴史をたどってきていたのである。

 わたしの住んでいた街は、上記に書いた大企業の城下町だったので、黒い煙に街が覆われ、洗濯物が煤で汚れても、文句を言うものは少なかった。なにしろほとんどの住民が、その大企業の従業員だったし、あるいはその従業員にモノを売る商売をしていたのだから。

 ただそれでも、時代が進むとその大企業と関係のない住民も少なからず住むようになり、大企業相手に訴訟なども起こされるようになった。
 テレビで訴訟のニュースとともに、我が街の様子が映し出されたりもした。子ども心としては「あっ、知ってるところがテレビに映ってる」と、よくわからないまま大はしゃぎであった。

 バブル崩壊後、第二次産業の衰退もあり、その大企業もCI、同業他社との併合などをして時代を乗り越え、以前ほどの隆盛を誇らなくなっている。以前は埋め立て地に広い土地を持ち、正門は警備員が何人も歩哨している状態だったが、今はだいぶその土地も整理して、ショッピングセンターなどに移り変わった。
 ショッピングセンターのスタバを出ると目の前に、塀一枚隔ててその会社の工場が見える状態である。昔の関係者だったら、この開放的な現状にびっくりするのではないだろうか。

 わたしの出身校の校歌が、卒業後、違うものに変えられたのかどうかは知らない。しかし今の時代でも「♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる」と歌っているとは思えない。
 ひょっとしたら平成前に新しいものに変えられて、この歌詞は「昭和の遺伝子」になっているのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年11月22日

【回想録】メンテ落ちチャット

 今でこそ、スマホを使いそのテのアプリで、グループチャットなどがいつでもどこでもいくらでもできる時代だが、パソコン通信時代、チャットはブルジョアジーの楽しみであった。
 なにしろ、電話代にプラスしてパソ通会社へのアクセス料金が一分いくらでかかるのである。料金の安い深夜にチャットしても、一時間で五百円は確実に飛んでいく。十日やれば五千円、常連にでもなってしまったら、一ヶ月で一万四千八百円以上也。とてもではないが、フツーのネットワーカーが毎日やるのは無理な話である。

 そこでわたしとわたしの仲間たちは、月に一回、チャットの日を設けて、その日に楽しむことにしていた。それがタイトルの「メンテ落ちチャット」である。
 そう、普通の日にチャットするのではなく、ニフティサーブがメンテを行う直前一時間前からチャットを始めるから「メンテ落ち」。



 ニフティサーブは月に一回、午前二時からしばらく(時間失念)、すべてのアクセスを途絶してメンテナンスをする日があったのである。
 そこで、メンテの日の午前一時からチャットを始める。一時間後の午前二時になると、皆、強制的に「落とされる」ので、無駄に話が長引いてお財布が痛むこともない、という、実にエコなチャットであった。

 そうそう、一口にチャットと言っても、ニフティサーブにはいくつかチャットがあった。ニフティの仕組みをたとえて言えば、まず大通りがあって、そこに大公園(ニフティ全体のチャットや掲示板)がある。
 その通りに軒を連ねている専門店(フォーラム)があり、そこにも個別に掲示板やチャットがあるのである。実際には「掲示板」はほとんど機能しておらず、今の皆さんが想像できる「掲示板」は「電子会議室」と呼ばれていた。
 で、フォーラムごとのチャットも、それにならって「リアルタイム電子会議室」と呼ばれていた。通称RTC。2チャンネルあり、好きな方に参加できる。

 といっても、前述の通り、パソコン通信のチャットは高い。昼間アクセスしても、RTCにまず人はいなかった。深夜、電話代とアクセス代が安くなってから、常連のブルジョアジーが集まり、我々プロレタリアートは電子会議室で知っている人がいたりすると、ちょっと入って挨拶、すぐに抜け、と、そんな感じである。

 大通りの「ニフティ全体のチャット」は出会いの場と化していたり、ちょっとふつうの感覚をお持ちでない方も多かったので、我々はそのフォーラムRTCの方でメンテ落ちチャットを楽しんでいた。

 リアルタイム会議室と言っても、特に「会議」をしているわけではない。ただ仲間内で集まってダベっているだけである。みな、手練れのPC使いだったので、会話は早く、ノリのボケとツッコミが決まると実に楽しい。
 以前「【回想録】カーナビの思い出」でソニーのGPSを貸してくださったK氏が、このチャットに、シャープのPDA「ザウルス」で乱入してきたことがある。ご存知の方はご存知だと思うが、ザウルスにキーボードはない。手書き入力なのである。「今、ザウルスの手書き入力でやってます」というK氏に一同爆笑、であった。

 さて、メンテが午前二時に始まり、システムに落とされる、と言っても、全員同時に、ではないのである。そこはやはり全国からチャットしているわけで、網の違い、サーバの違いから、早く落とされる者、最後まで残る者、悲喜こもごもである。
 ログアウト時間は記録されるので、翌日、会議室の方に「自分は何時何分に落とされた」と報告。一番最後まで残った者が、その「メンテ落ちチャット」の優勝者となる。特に賞品などはでない。

 後期になると、皆で示し合わせて、閑散としているフォーラムのRTCを乗っ取り(というと言葉は悪いが、誰もいないので、ちょいどお邪魔している感覚である)。そちらで話したりしていた。
 SYSOPにはユーザーのアクセス総量によってキックバックがあったそうだから、ギブ&テイクなところはあったのである。

 この懐かしい「メンテ落ちチャット」だが、時代がインターネットへシフトしていくのに従って、当時、台頭しはじめたヤフーメッセンジャーでのチャットへとみな移って行き、そもそもニフティ自体に全員がアクセスしなくなって、自然、とりやめとなった。
 今このときのメンツはSkypeチャットに落ち着いている。

 この記事を書いていて、深夜二時に強制的にログアウトされ「あー、やられたー」と苦笑していたあの感覚を思い出している。
 当時のメンツで、今は連絡途絶してしまった方々も多い。みなさん、元気にしていらっしゃるだろうか。もし、この記事で「ハタ」と気づかれた方がいらっしゃいましたら、メールいただければ幸い。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年11月21日

【昭和の遺伝子】釣り堀の思い出

 やったー!
「とびだせ、どうぶつの森」をコツコツ遊び続け、タイムトラベルもせずに三年、ついに、ついにやりました。







 ご褒美として「きんのつりざお」をいただけましたヤター。
「きんのつりざお」になると、より釣りのタイミングが甘くなる(釣りがうまくなる)という話だが、釣り名人になってからくれるというのは、なんだか、本末転倒なような気がしないでもない。

 現実の釣り体験と言えば、実は子どもの頃、父親と一緒にちょっと釣りをした体験しかない。
 わたしの父は昭和初期の田舎出身なので、子どもの頃、自作の竿で川に行き、釣りを楽しんだそうだ。昔はいろいろな魚が家の裏の川で釣れたものだ、と懐かしげに言う。

 一緒に釣りに連れて行ってもらったのは、海と釣り堀≠ナある。針にエサをつけてもらって、海に浮きを入れたはいいものの、すぐに魚に持って行かれてしまって、釣り自体は「なんだかつまらないなぁ」という感想しかなかった。なにぶん、飽きやすい子どもである。それでも、父と一緒に過ごせる埠頭は楽しく、一日遊んで真っ黒になって帰ったという記憶がある。

釣り堀≠ヘ、家から歩いて五分のところにあった。
 わたしが育った街は、ある大企業の城下町≠ナあり、街全体がショッピングセンターのようなものであった。
 そこの釣り堀も、父に連れられて何度か一緒に行ったのだが、のんびりとした雰囲気が良かったという思い出しかない。わたしはどうも、釣りに興味を示さない子どもであったようだ。

 その頃でも、マンガの「釣りキチ三平」の一巻は読んでいた。作中に出てくる「鮎の塩焼き」の作り方が美味しそうで、大きくなったらやってみたいなぁ、と思っていたが、結局、釣り趣味人にはならなかった。


(矢口高雄「釣りキチ三平」1巻より引用。左下の「青竹焼き」が美味そうです)

 釣り堀の思い出はそれくらいしかないが、そこから流れていた用水路には忘れられない思い出がある。
 まだわたしが小学校低学年、姉が高学年の頃、ふたりで冒険をしに、その釣り堀のちょっと先まで行ってみたのだ。
 姉が用水路の上にかかっている、10センチくらいの幅の足場を使って、ヒョイヒョイヒョイ、と向こう岸に渡っていってしまった。その上で「恭介は危ないからきちゃダメ!」と言うのである。
 わたしは取り残された不安で、えぇー、と思い、ついていってしまった。幅10センチの橋渡り。今なら気分はカイジの鉄骨渡りである。そして案の定――落ちてしまったのだ。
 いきなりバシャンと水が首の上まで来て、喫水線が目の上を過ぎていったのを覚えている。
「この莫迦!」と姉が叫び、すぐに手を伸ばして助けてくれた。
 なんとか助かったからいいようなものの、子ども二人の冒険譚。今、思うと、あのときわたしは死んでいてもおかしくなかったのである。
 昭和はそのあたり、実に鷹揚であった。当時はおそらく、わたしのように莫迦をやって死んだ子どものニュースなどあまり記事にならないから、人知れず、多くの子どもが成長する前に亡くなっていたのではないかな、などとも思ったり。

 昭和が終わる前に、その釣り堀は閉鎖され、土で埋められて駐車場になり、平成になってからはアパートが建てられるようになった。
 今、その地につくられたアパートの住人に、そこは昔、釣り堀があったんだよ、と言っても信じないだろう。

 用水路に落ちたわたしは、ワンワン泣きながら、全身びしょ濡れのまま、姉に連れられて家に帰った。怒られたかどうか、記憶にない。ということは、怒られもしなかったのだろう。
 昭和は、そういう時代であった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子