2017年11月15日

【書評】ウワガキ

 八十八良「ウワガキ」(全4巻・完結)

 自分の想い人には、もう恋人がいる。そんなつらい状況に置かれたら、誰だってふと思う。もし、想い人が恋人と出会う前に自分が告白していたら、うまくいっていたのではないか、と――。
 そのようなif、「もしも」をシミュレートしてみたら、というのが、本作「ウワガキ」の導入部である。

 この記事に関しては、ネタバレ全開かもしれない。もし、ネタバレがお嫌いな方は、あらすじの前に別の記事へ飛んでいただけたら、と。

 しかし本作「ウワガキ」は、ネタバレを知っていても面白い! と太鼓判を押す。なにしろわたし、本作を四、五回は通して読んでいる。そして毎回、文句なく楽しく、また心地よい読後感に浸っているからである。

 あらすじ――
 安治川良男(アジオ)は高校2年生。同級生の照井千秋が好き。ところがある日、罰当番を一緒にしているとき、彼女に既に恋人がいることを知ってしまいガーン。告白前に失恋してしまう。
 ショック覚めやらぬ内に、罰当番を命じた化学の山田先生が、こんなことを言い出した。「研究対象として、照井君と相思相愛になってください」
 そしてなんと、不思議な力で千秋を二人に分裂させてしまう! ひとりは恋人とつきあっている今までの千秋、もうひとりは恋人とつきあっている記憶のない、コピーされた千秋。
 先生は言う。「照井君(千秋)には彼氏との愛を今までどおり育んでもらう。安治川君はコピー千秋を口説く。数ヵ月後、千秋とコピー千秋を融合≠オ、そのときふたりの好きな気持ち≠ェ、彼氏より安治川君に傾いていたら――照井君(千秋)の好き≠ヘ上書きされる」
 果たしてアジオはコピー千秋(後に小秋と命名)の心をつかむことができるのか。変な実験に巻き込まれた千秋の恋の行く末は?
 東京、門前仲町を舞台に繰り広げられる、ちょっと不思議でほろ苦く、そして楽しいラブ・コメディのはじまり、はじまり。


 なんとも、とんでもない導入部だが、この「とんでもない」を読者にサラリと納得させてストーリーに引き込んでしまう飄々とした展開力が素晴らしい。力づくではなく、ストーリーの主眼はそこにはないよ、と、読者の疑問をヒラリとかわす山田先生の台詞が良い。「宇宙人、未来人、異次元人、魔法使い、エトセトラ、エトセトラ。好きに呼んでもらって構わんよ」



 八十八良先生の描線はカッキリとしていてカラリと乾いた風のような絵柄がわたし好み。ヒロインの千秋も可愛らしい。

 コピー千秋こと小秋≠ヘアジオのところへ居候することに。恋人の記憶をなくした彼女はアジオのことがまんざらではない様子。
 対して千秋の方をネタバレしまうと、彼女は実験開始後、そうそうに彼氏にフラれてしまうのである。oops!
 小秋は千秋の双子の妹として学校にも編入。髪をショートにして見分けがつきやすいように。同居生活に学園生活、加えてデートなどもして、彼女の心はどんどんアジオに傾いていく。



 対して、彼氏にフラれてしまった千秋も決意する。自分の彼にたいする好き≠フ気持ちは失わない。失恋しても好き≠ネ気持ちが消えてしまったわけではない。融合≠フとき、彼氏への好き≠ネ気持ちで上回ってみせる、と。

 一方、アジオはバイト先で頼りになる男性、和也と知り合う。なんと彼は千秋の元カレ。この和也が、決して悪い人ではないのである。彼もずっと想い人がいたのだが、バイト先の女の子(千秋)から告白され、それで想い人のことを忘れられるかとつきあったが――という顛末。
 悪い人ではない、と書いたが、ちょっと男目線かもしれない。この和也、想い人から心を向けられて、それで千秋をフッたのだから。

 その事実を知ったとき、アジオも激昂。小秋とのデート前だというのに――



 千秋の想いを知った小秋は、自分がアジオから身を引くことを決意。そうすれば融合≠フとき、千秋の和也への想いが上書きされることがないから、と。アジオも千秋を大事に思っている。そこで――



 こりゃあ小秋ちゃんもキュンときますなぁ。

 話は佳境に入り、謎の山田先生を追っている組織とともに修学旅行へ――。


(修学旅行の予備部屋でふたりきり。「ウワガキ」屈指の名場面)

 敵の組織に追われながら、融合≠フ準備を急ぐ山田先生。遊園地で追いつ追われつのアクションシーンが続く。追い詰められたアジオと千秋&小秋。そこで我を失った追手のひとりが拳銃を発砲。



 アジオをかばって、千秋が撃たれてしまったのだ。
 駆けつけてきた山田先生が、撃たれた千秋を救うために、小秋との融合≠試すが、機械にエラーが出てしまってうまくいかない。融合≠ナはなく上書き≠ェできずに失敗してしまうのだ。
 山田先生は一言。「千秋君、安治川君の事、好きになってるね?」



 千秋の想いも和也から離れ、アジオのことが好きになってしまっていたのだ。
 ということは? 上書きではなく? 融合すると、どうなるの?


(好きの足し算! アジオ、男冥利につきますな)

 緊迫した中にも、とてもユーモラスで、ニマニマしてしまうシークエンス。この一連のコマ運びは、何度読んでも楽しいところ。

 ラストは計算されつくした大団円。
 融合した千秋&小秋に「なにせアタシふたり分で、アジオの事好きだからな」と言われ「俺もふたり分好きだから」と返すアジオ。これもキュンときますわなぁ。



 実に実に読後感が良い。街中でこんなキスをしている高校生カップル、普段なら「許せん(嫉妬)」だが、隅田川の中央大橋でこんなに絵になる二人に祝福を!

 ところで、アジオが好きになったのは千秋なのか小秋なのか、ちょっと気になりません?
 それがわかるのがこの後の番外編。これがまた読者サービスの一本、スラップスティック色満載で楽しい。本編の「一分でも一秒でも早く」の伏線まで回収して、読者は心の底から満足できること間違いなし。

 四巻という長さで、急ぐことも間延びすることもなく、遊び心も満載で、読後感はホッコリ。引用が多くなってしまうので貼れなかったが、ほかにも名シーン、グッとくるシーケンス、楽しいサイドストーリー。そして、登場人物みなが、本心から悪い奴ではないことも特記しておきたい。
 八十八先生のサービス精神がつまったこの「ウワガキ」。ラブコメ好きなら絶対に読んで損しない作品。お勧めです。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年11月14日

【日記】怖い絵展

 先日、上野の「上野の森美術館」で開かれている「怖い絵展」へ行ったことを書いた。今回はその感想など。


(「怖い絵展」図録)

 その昔、おそらく現代の「パソコンの大先生」は知らないインターネット黎明期に、nntpというプロトコルを使ったNetNewsというサービスがあった。そこに「tasteless」というNewsGroupがあり、そこでは、uuencodeを使って画像を分割したものが毎日プットされていたのである。
「tasteless」とは「無味乾燥」という意味だが、プットされていたのは、つまりは「死体画像」に類するものだった。事故写真や水死体や惨殺死体、シリアルキラーの犯行現場など、そういったものが毎日、無数にプットされていた。
 ダイアナ妃の事故現場の写真(後にフェイクと判明)も、そこで初めてゲットしたと記憶している。
(今は「アップロード」「ダウンロード」と言うが、当時はサーバに対し「プット」「ゲット」というのが常識であった)

 当時のわたしは、興味本位によくそれらをゲットしてはuudecodeして画像に戻し、CRT上で鑑賞していた。若かったのだなぁ。今はそういう画像に対して、めっきり耐性がなくなってしまった。しかし当時は、そういった画像は自分にとってtastelessであり、人間も結局は皮に黄色い脂肪と赤い体液を詰めた塊なのだな、と理解したつもりになっていたりした。
 MOに数百枚はそんな写真を納めただろうか。「悪趣味」でも「興味本位」でもない。それらは「tasteless」としか言いようがないジャンルであった。

 今回の「怖い絵展」は、目玉のポール・ドラローシュ作「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を日本に招くことができたことができたからこその展示会だと言えると思う。


(ポール・ドラローシュ作「レディ・ジェーン・グレイの処刑」(著作権切れ))

 その絵が展示されているフロアには真ん中に椅子があり、わたしはそこにしばらく座って、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を真正面に見ながら、流れていく人々の様子を眺めていたのであった。

 そして思った。これは、絵が描かれた1833年当時も、二十一世紀になった今でも変わらない、「tasteless」な画像なのだと。
 鑑賞に来た人々は、自分が「悪趣味」だとも「興味本位」だとも思っていないだろう。ただ、これから殺されゆくジェーン・グレイの絵画を見て、なにかを心の中に思う。それらはおそらく、NewsGroupでわたしが死体写真を見たときの「tasteless」な気持ちとそう変わらないはずだ。

 怖いのは、絵でも、その絵の背景(解説)でもないのである。自分たちが「実は恐ろしいものを見ているということ」をスルーして、tastelessになっている、この感覚なのだ。

 話を過去に戻すと、わたしはいつしか、tastelessな画像を見ることができなくなっていた。それは、わたし自身が死に近くなり、また、近親者や愛息の死を通して、死が決してtastelessではないことを悟ったからである。
 一枚一枚のtastelessな写真の中にある死体に、ひとりひとりの人生があることを思い知らされずにはいられなかった。

「レディ・ジェーン・グレイの処刑」に描かれている1554年、十六歳だったジェーン・グレイは、後の日に自分のその瞬間が絵画に書かれ、世紀を隔て、まさか極東の国で、多数の目に晒されるとは、想像もしていなかっただろう。

 会場を出ると、しかもその「レディ・ジェーン・グレイの処刑」のグッズがたくさん売られている。人々が笑顔でそれを買っていく。
 これをtastelessと言わずしてなんと言おう。

 おそらく「怖い絵展」は、それのみで完成するのではない。観客であるあなたが会場を出て「今夜の晩ご飯はなんにしようかな?」と思ったときに完成するのである。

 中野京子先生の「怖い絵」シリーズは、初版の頃から1、2、3と拝読していたが、三冊の中で一番「怖い」と思っているのは「ベラスケス〈教皇インノケンティウス十世像〉による習作」である。
 これはベラスケスの「教皇インノケンティウス十世像」という元絵があり、それを反カトリックのフランシス・ベーコンが憎悪を込めて戯画化したもの。

 元絵は著作権切れなので貼れるが――


(ディエゴ・ベラスケス作「教皇インノケンティウス10世」・著作権切れ)

 フランシス・ベーコンは没年が1992年と最近なので、著作権バリバリである。引用の形でも全絵を貼るのはちょっと無理かと思ったので貼らずにおく。「ベラスケス〈教皇インノケンティウス十世像〉による習作」で検索すれば、そのあたりの気を遣わないサイトでたくさん見られると思う。

 中野先生はこの絵自体より、ベラスケスの本質を見抜いた画力が怖い、と締められているが、わたしはやはり、フランシス・ベーコンの憎しみが筆ににじむ心の方が怖い。絵そのものが怖いのではなく。

 いつの世も、一番怖いのは人間の憎悪する心≠ナある、そう思う。

 なお、「怖い絵展」は2017/12/17まで、「上野の森美術館」で開催中である。あなたもこの展覧会を完成させる一人の観客となられてはいかがだろう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年11月13日

【日記】太陽を見るとくしゃみが出ませんか?

 教会を出たら陽光まぶしく、サングラスにかけかえたら、子どもたちから「カッコつけてるー」と笑われてしまった。フッ、関係、ないね(柴田恭平さんの声で)。
 カッコつけならまだいいが、実は遠近両用サングラスである。おいちゃんがこれをかけているのはね、健康上の理由があるんだよ。うわダサイ。

 ひとつは、以前にも書いた「閃輝暗点」を起こしやすい体質だから。これが起こると、一、二時間はその場を動けなくなってしまう。光のギザギザが去ったあとも偏頭痛や吐き気が起こることがあり、これはできるだけ避けたい。それで、まぶしいときはサングラス。

 もうひとつ。わたしは「光くしゃみ反射」の持ち主なのである。太陽や、ライトのまぶしい光を見ると、鼻の奥がムズムズして、へーっくちん! くしゃみが出てしまうのである。
 英語だとsun-sneezer。輝け! 太陽戦隊サンスニーザー!! いやむしろ、七人のコビトの一人みたいで、やっぱりカッコよく、ないね(柴田恭平さんの声で)。

 もしなにかの事件の容疑者として捕まって、取調室で刑事に電灯を向けられ「吐け!」と言われたら、わたしは「へーっくちん!」と返してしまうだろう。

この「光くしゃみ反射」は、日本人では25パーセントの人が持つ症状らしい。優性遺伝とのことで、英語版Wikipediaには「Photic sneeze reflex」として、そのあたりのことも図解で詳しく書いてある。
 またの名をACHOO Syndrome。ACHOOは大文字。アチョーではなくアチュー・シンドローム。外人には「へーっくちん」が「ACHOO!」に聞こえるからそう名づけられたのだという。

 ということは、日本人の75パーセントは、この「光でへーっくちん」を知らないということで、ちょっとそっちの方にびっくりだ。
 なぜこんな症状が起こるかというと、光の刺激が三叉神経でどうたらこうたららしいが、詳しいことは上記Wikipediaに譲る。

 わたしの父はサンスニーザーではなく、母はそうであるという。ということは、わたしのこれは母方の優勢遺伝であったということだ。ちょっと親戚が集まったときに、こんな話で盛りあがったら、面白くありません?
 以前にも書いたが、自分が禿げるかどうかは「母の叔父(母方の叔父ではなく)」を見ればわかるという。もしかしたら、そのあたりもわかるかもしれない。

 このサンスニーザーも、成長とともにだいぶ反射が落ちてくるように思う。子どもの頃は、太陽、ライト、電灯を見上げるだけで、すぐに、へーっくちん! とやっていたのだが、今は子ども時代よりコントロールできる感がある。まぁ、そのためにサングラスなどで防護しているのだが。

 体力的なものもあるようだ。この前、風邪を引いたときはひどかった。ベッドの読書灯をつけただけで、へーっくちん、へーっくちん! 連発してしまう。
 くしゃみをすれば鼻水が出るようになるし、頭はボーッとしてくるし、熱も上がるわで、ひさびさに自分が「サンスニーザー」であることを痛感したのであった。

 英語の成句で、not to be sneezed atというものがある。「ばかにできない」という意味だ。くしゃみを浴びせる相手ではない、イコール、ばかにできない、ということらしい。

 というわけで、出てくるのがクシャミだけに、ちょっと面白おかしく語られる「アチュー・シンドローム」だが、戦闘機パイロットの適格性や、トンネルから出たドライバーの事故原因としてもありうることと考えられており、あまりふざけたことばかり言えない。

 わたしのサングラス姿は、柴田恭平さんのようにカッコよくはない。むしろアレ。わかる人にはわかる「苦労と試行」じゃない「玄人志向」のロゴの人みたいな感じ。
 そんなわけで、日中、ぁゃιぃサングラス男として街中を徘徊しているわたしだが、世の中、こういう理由でグラサンかけている人もいるのである。関係、ないね。へーっくちん!
 サンスニーザーを知らない75パーセントの世間の方々に、少しでもお許しいただければ幸いである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年11月12日

【日記】暗いと不平を言うよりも

 すすんであかりをつけましょう。

 これは皆様ご存じ(かな?)、カトリックの宣教番組「心のともしび」のコピーである。
 義務教育と高校の頃、バス・電車通学だったわたしは、学校へ早くいくために、早朝のニッポン放送を聞いていたものだった。その時間帯に「心のともしび」が流れていたのである。
 今思うと、わたしのカトリック体験は「心のともしび」が初めてだったのかもしれない。

「心のともしび」には別のコピーもあった。「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない――聖パウロの言葉より」である。これは1コリ13:1の意訳であるが、聖書由来の言葉である。正確にはこう。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリントの信徒への手紙一 13:1)


 1コリ13はなんちゃってキリスト教の結婚式でもよく朗読される箇所なので、ご存知の方はいらっしゃると思う。最後の節はこんな感じだ。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一 13:13)


 言ってくれるぜ聖パウロ。そこにしびれる、あこがれるゥ!

 この「聖パウロの言葉」は、コンタロウ先生の「1・2のアッホ」というギャグマンガでツッコミに一度使われ、当時小学生だったわたしは爆笑した覚えがある。当時から不敬な子どもである。
 ま、パウロは自分に酔って、ときたま自分でもわけのわからないことも言うからね(笑)。

わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。(コリントの信徒への手紙一 10:19)


 こんな感じ。

 さて、「聖パウロの言葉」は聖書由来だが、ずっと「暗いと不平を言うよりも」の方はどこ由来なのかを不思議に思っていた。「暗いと不平――」のような箇所は、意訳であっても聖書の中に登場しないからである。

 今回、「心のともしび」のメールマガジンでその由来を初めて知ったので、ご存知ない方のためにも、ぜひご紹介したい。

 第二次世界大戦より前、アメリカにケラー神父という方がいらっしゃった。
 そのケラー師、講演のため中国を訪れたとき、たった一本のマッチで暗かった会場が隅々まで照らされるという素晴らしい体験とともに、中国に伝わる「有灯掌 在暗処」ということわざを知ったのだそうである。
 ケラー師は終戦の年の1945年、アメリカで「心のともしび」と同じような宣教番組「クリストファー」を開始し、そのときのコピーを「It is better to light a candle than to curse the darkness.」としたのだった。

 ケラー師のもと「クリストファー」で働いていたマクドナル神父は、1964年に「心のともしび」で働くようになったとき、同労のハヤット神父に「It is better to light...」の話をしたとのこと。
 ハヤット師はその逸話に感動し、このコピーを日本語に翻訳した。
 それが半世紀を越えた今でも日本人に愛されている「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」なのである。


 恥ずかしながら、この由来を知らなかった。もとは中国のことわざであったのだという。

 あかりと言えば、カトリックにはこんな笑い話がある。

 カルメル会とフランシスコ会とイエズス会の各神父が、夜、会合を開いているとき、停電になった。あかりの消えた部屋で、カルメル会の神父は闇の神学≠ノついて語り、フランシスコ会の神父は暗闇を賛美する歌を歌い、イエズス会の神父は部屋を出てブレーカーを上げた。


 バージョンによって、ベネディクト会(祈り続ける)、ドミニコ会(闇の神学=j、フランシスコ会はうたた寝、などというものもある。

 この笑い話から言うと、「心のともしび」運動はイエズス会的という感じだろうか。

 ハヤット神父さまは2009年1月14日に帰天された。
 わたしが洗礼を受けたとき、「心のともしび」を子どもの頃から聞いていた思い出をメールにしてハヤット神父さまにさしあげた。神父さまからは丁寧なお返事をいただき、恐縮したものだった。

「カットリク!」なんてやっている不敬な信徒ではあるが、天国のハヤット神父さまに、神父さまのまいた種は、枯れることなく育っていると伝えたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年11月11日

【日記】上野で美術館めぐり

 上野の森美術館で開かれている「怖い絵展」が評判なので――




(最後尾はこのくらい待ちでございます)

 そこを起点に、東京都美術館の「ゴッホ展・巡りゆく日本の夢」。



 甘いものも補給して――


(東京都美術館内のcafe Artのゴッホ展コラボメニュー=Bゴッホが聖職者を志した地アムステルダムの定番スイーツをアレンジしたのだそう)

 国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム」も回ってきた。



 さらには「国際子ども図書館」で「日本の絵本の歩み」展。



 ついでに国立科学博物館の特別展示「古代アンデス文明展」まで観てくるというハードスケジュールで、わたしも細君もクタクタである。



 足を棒にして帰宅し、振り返ってみると、この日一番の、心に残った収穫は、「古代アンデス文明展」で見られた、ディエゴ・デ・ラ・ペンテの「アンデスの最後の晩餐=vと――


(フラッシュを炊かなければ撮影可でした)

 国立西洋美術館の常設展示にある、エル・グレコの「キリスト磔刑像」であったような気がしないでもない。

 個々の展示会の感想は、おいおい書くかもしれない。
 たまにはこういう、本当の日記もいいでしょう。

 体調のこともあり、たまにしか上京しないものだから、どうしてもいくつも行きたいところをリストアップしてしまい、そのあと数日はグロッキーである。

 上野の森美術館:「怖い絵展」は2017/12/17まで。
 東京都美術館:「ゴッホ展・巡りゆく日本の夢」は2018/01/08まで。
 国立西洋美術館:「北斎とジャポニスム」は2018/01/28まで。
 国際子ども図書館:「日本の絵本の歩み」は2017/11/30まで。
 国立科学博物館:「古代アンデス文明展」は2018/02/18まで。

 だそうである。
 特に「怖い絵展」はこの先も人気が落ちないと思うので、興味がおありの方は、早いうちに行かれてみたらいかがだろうか。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記