2017年11月05日

【回想録】最初の記憶

「ブレードランナー」一作目(という書きかたをする日が来るとは)は、どこでどうやって見たのかを覚えていない。当時、いつも映画デート(ぉ をしていた畏友H君と一緒に劇場でか、それともテレビ放映だったのか、ビデオ視聴だったのか。

 これはわたしの記憶の悪いクセなのかもしれないが、かなりのめり込んで味わった作品は、それをどういう状況で観たり読んだりしているかを覚えていなかったりするのである。
 最近で言えば、マンガを電子書籍で読んでいたというのに、しばらくすると、「あれって冊子体で買っていたよなぁ」と本棚を探したりする。もちろん、逆の場合もよくある。

 映画も「劇場で観たよなぁ」と思っていたのがレンタルビデオだったり、テレビ放映で観たと思っていたのが劇場だったということもある。
 もっとも、あまりに記憶に残らない作品だったりすると、書斎の棚からパンフが落ちてきたとき、「こんなの全然観た覚えがないなぁ」と嘆息もしたり。



 そんなこんなで「ブレードランナー2049」はずいぶん前から楽しみにしていた映画のひとつだったのだが、どうも、同年齢のオッサンばかりに囲まれて劇場で尿意をこらえつつ(最近にしては長いんですよこの作品)観たという記憶はなくなりそうにない。
 まあ、そんな感じだったということで。

 この先、同作のネタバレがあるので、そういうのがお嫌なかたは、別ページへ飛んでいただきたく。

 作中、前作のヒロイン、レイチェルについて、ウォレス社の社長と前作の主人公デッカードが話すシーンで、聖書からの引用がある。

しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。(創世記 29:22-23)


 ラケルはヘブライ語の発音だが、英語に翻訳されるとRachelで、そのまま「レイチェル」である。

 ラケルは不妊症気味だったので、それ以前に夫ヤコブはラケルの姉レア(でも正妻)との間にルベン、シメオン、レビ、ユダをもうけた。
 それに嫉妬したラケルは、自分の側女ビルハとヤコブに子どもを作らせ、それがダン、ナフタリの二人。
 レアもまた嫉妬して、自分の側女ジルパをヤコブに与え、できた子どもがガド、アシェル。
 さらにレアもまた身ごもって生まれた子どもがイサカルとゼブルン。さらに女の子ディナも産んでいる。

 姉と妹の間で、壮絶な「子作り合戦」が行われていたわけだが、ラケル自身はなかなか身ごもることができなかった。そして上の引用のあと、ラケルから生まれたのが、ヨセフとベニヤミンである。

 ラケルとレアについては他にも書きたいことがあるのだが、それはまたの機会に。

 さて、ヘブライ語のヨセフは英語訳するとJosephとなり、ニックネームはJoeとなる。
 本作「ブレードランナー2049」の主人公K≠ヘ、途中、AIが超進んだGateboxみたいな「俺のヨメ」から「ジョー」という名前をもらうのだが、聖書読みとしてはデッカードとレイチェルの子どもが彼という暗喩なのかという深読みをしてしまった。
 が、そんなことはなかったぜ! なんだか肩すかしで残念である。

 それにしても主人公の名前がK≠ニいうと、これを連想して苦笑してしまう。


(原作:夏目漱石/漫画:バラエティ・アートワークス「まんがで読破・夏目漱石こころ=vより引用。お墓のシーンも有名ですが、この位牌にはK≠フDNAがメモリーされているのですきっと)

 この記事は、あまり映画評らしい内容にならないので、%title%としてみた。
「ブレードランナー2049」は、記憶≠ェひとつのテーマとなっている映画なので、わたしの最初の記憶≠追ってみる。

 あれは古い家の二階であった。掃き出し窓がある部屋で、ずいぶん広かったという印象があるが、それは自分が子どもだったからで、実際には四畳半くらいしかなかったのかもしれない。
 その部屋には白黒テレビとオルガンが置いてあり、姉が「妖怪人間ベム」を観ていた。わたしは恐くて恐くてたまらなくて、オルガンの影からこわごわとテレビ画面を観たり、隠れたりしていた。幼稚園に入る前の記憶、二歳か三歳ではないかなぁ。
 この古い家の思い出は他にもあるのだが、パッとひらめくのはこの情景だ。やはり「恐い」という感情は刷り込まれるのだろうか。

 わたしの両親は「恭介は玄関先で姉に抱っこされているとき、落とされて慌てたんだよ」と言うのだが、そちらの記憶はとんとない。
 そういえばバカボンのパパも子どもの頃は天才児だったのだが、クシャミをして頭の歯車を口から吐き出しバカになったのであった。そうか、あのとき、わたしも歯車を……(笑)。

 冗談はともかく、幼少期、少年期と、わたしは幸せに育てられたと思う。レプリカントではないが、そういった思い出が、今のわたしのベースになっているのは確かなのだな、などと感じつつ、劇場をあとにしたのだった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年11月04日

【書評】キリスト教は「宗教」ではない

 竹下節子「キリスト教は「宗教」ではない」

 今まで数々の「キリスト教の本」をご執筆していらっしゃる竹下先生の新著が「キリスト教は「宗教」ではない」というタイトルなのだから、これは手にとって読んでみたくなる一冊。



 サブタイトルには「自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜」とつけられている。

 個人的な理由であまり精読している時間がなく、竹下先生の言わんとするところを誤読している可能性もあるのが歯がゆいが、いささか挑発的な、この「宗教」ではない≠ニいう一文は、むしろイエスの教えが「宗教」的ではなかったからこそ、「キリスト教」が普遍宗教に変わっていったのだという根源的なロジックを、世界史から逆に読み取っていこうという大胆な試みを反映したものだという感想。

 本書は、原始キリスト教を「イズム」として捉えることから始まる。イエスの教えは本来、普遍的な「生き方マニュアル(イズム)」であり、もともとのユダヤ教だけではなく、宗教というもの自体からの自由を得ることだったのだ、と。

 日本人のほとんどは(エセ)仏教徒だが、仏教は宗教というより哲学だ、と言われると「そうだよな」とうなずく人も多いのではないだろうか。
 原始キリスト教もまた、仏教と同じような面があった、ということである。

 章は進み、世界史の中で「イエスの教え」が「キリスト教」になり、普遍宗教として成熟していく様子が詳説される。それが可能だったのは、まさしく「キリスト教が宗教≠ナはない」ロジックだったからだと。隣人愛という普遍的な利他意識が通奏低音にあったからこそ、普遍宗教たり得たという視点は、意外と、どころかキリスト者であるとむしろ盲点になっているような気がする。

 実に読み応えがあるのは第四章「宣教師たちのキリスト教」である。
 日本の戦国時代に訪れた宣教師たちは、ちょっと斜に構えた歴史好きに言わせると「日本の隷属化を目指した」などと揶揄されるが、実はもっともっと純粋だったのだ、という例が豊富に載せられている。
 また、この章にある――

 言い換えると、キリスト教は、「普遍宗教がカルチャーとしてしか表現できない」ことをヒエラルキーの頂上において自覚した珍しい宗教である。


 という一文は、まさしく「目からウロコ」の気づきであった。

 そして、本書を閉じ全編を通して思うのは――竹下先生、本書は実は、竹下先生の信仰告白本でしょう、ということだったり。

 タイトルが挑発的ではあるが、この一作はまさしく、竹下先生のキリスト教へ深い理解と、キリスト・イエスへの愛がにじみ出ている労作なのだと。
 その愛は教派を越えて――と書きたいところだが、少々(かなり?)カトリック寄りに感じるところも、カトリックのキリスト者として嬉しい。

 正直、今まで拝読していた竹下先生の本の中で、「ちょっと読みにくいな」というひっかかる部分があったりしたのだが(個人的に読書がつらい環境だったことが原因。これは先生の責任ではない)、「この本は先生の信仰告白本なのだ!」と気づいてからは、読み進めるのが実に楽しくなった一冊である。

 あと、とても面白かったのが、バッハの――

聖金曜日のライプツィヒで『マタイ受難曲』が初めて演奏された時には、最初のコーラルの時点で一人の婦人が「主よ、あなたの子らを守りたまえ、これではオペラ座か劇場にいるのと同じです」と叫んで教会を出て行ったという逸話が残っている。


 という話。ちょうどバッハのカンタータを流しながら本書を読んでいたので、大ウケしてしまった。

 いつの時代にも反動はあるが、キリスト教はその「反動」をこそ好意的に受け止めるイエスの教え(イズム)があったからこそ、二千年の歴史を刻んできているのである。

「宣教の沼地」日本にいるキリスト者としては、「宗教」であるキリスト教に満足して、その根源である「信仰・希望・愛」を見失っているのではないかと内省させられる。

 ノンクリはもちろん、むしろキリスト者にお読みいただきたい一冊である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年11月03日

【回想録】夏休みの思い出

 あ…ありのまま、今、起こった事を話すぜ!「おれの風邪は治ったと思ったら、いつのまにか寝込んでいた」。な…、なにを言っているのかわからねーと思うが、おれも、何をされたのかわからなった…。頭がどうかなりそうだった。肺炎とか、肺水腫とか、そんな重いもんじゃ、幸いねえ。一週間以上寝込む恐ろしさの片鱗を味わったぜ……。


(荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」27巻より引用。ポルナレフってけっこう報われないキャラだよね……)

 というわけで、実は「【回想録】モノポリーの思い出」の記事から一週間以上が経っている。今も体温計をくわえながら書いているが、ひさびさのポメラの打鍵感が心地よい。
 ピアニストは一日弾かないと一週間の練習ロスになるなどと聞くが、さて、雑文書きはどうだろう?

 せっかく長期休暇をいただいたのだから、インプット量を増やしておこうと思ったのだが、いかんせん体調が悪いときは活字もマンガも頭の中に入らない。
 そこで、ボーッとしているときに思い出した、小学生の長期休暇、夏休みの思い出をひとくさり。

 夏休みと言えば宿題だが、わたしは宿題で苦労したという覚えはなかった。わりと長期計画で物事をコツコツとやっていくのが苦にならないタイプだからである(けど、締め切りは守らなーい)。
 最初の数週で全部やって、残りは遊ぶとか、遊びまくって、ラスト一週間でつじつまを合わせるとか、そんな極端な方法はとらない。七月二十一日から八月三十一日まで、余裕を持った予定をつくって、それをコツコツとやっていく方。急ぎもしない、先送りもしない。これが一番である。

 ただ、やはり体の弱い子であったので、寝込んで計画通りにいかない夏はあり、そういうときは最後の一週間で頑張るとか、二学期に入っているのに終わっていないとかはあった。それでも先生に、宿題遅れについて目くじらを立てて怒られたというような記憶はない。

 自分の転機となった夏休みの宿題があった。あれは小四のときだったと思う。
 なぜかクラスの半分が国語組、半分が算数組となり、一年下の小三のドリルを徹底的に何度もやる、というものであった。
 わたしの小・中学校は実験校でもあったので、なにかの対照実験だったのかもしれない。

 わたしは算数は苦手だった。国語はまあ、普通だったかな? そんなわけだから、苦手な算数グループに入れられると嫌だなぁと思っていたのだが、なぜか先生はわたしを国語グループに入れたのだった。

 夏休みの期間中、小三のドリルを徹底的に何度もやる。一年下のドリルだから簡単である。
 わたしはヒネた子どもであったが、「なんか意味あんのかなコレ」とは思わなかった。なにしろ、夏休みの宿題が簡単に済ませられるのだから気は楽である。算数グループも同じような感覚だったと思う。

 夏休み後、その成果は驚くほど現れた。算数グループも国語グループも、それぞれの科目が大得意になっていたのである。しかもそれは持続するのであった。わたしは以降、現国、古文など国語のテストで九割以下の点数をとったことがない。共通一次レベルならばケアレスミスをしなければ最初の三十分で満点を取れる。
 おそらく算数グループも、この小四の夏以降、ずっと算数、数学が得意のままでいられたのではあるまいか。

 大学入試の勉強をしていて、数学に苦しんで頭を掻きむしっていた自分は思った「あぁ、あのとき、算数グループに入れられていれば、数学で苦労することはなかったろうに」と。
 現金なものである。

 いやしかし、あのとき、先生がどういう考えでわたしを国語グループに入れたのかはわからないが、あのとき、算数グループに入れられていたら、後の「物書き・結城恭介」はいなかったかもしれない。

 夏休みの宿題ひとつで、人ひとりの人生が劇的に変わるかもしれないのである。
 教育の醍醐味は、そういうところにあるのではないだろうか。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年11月02日

【回想録】居眠り運転

 繁華街の交差点での思い出。
 赤信号の右折レーンで先頭車に続き停車してしばらく、青信号になったのだが、前の営業車が出発しない。
 こういうことはあまりしたくないのだが、あまりにスタンバイが長いし後続車もいるので、クラクションを短くひとつ。しかし反応がない。車窓越しに見えるドライバーも微動だにしていない。

 しかたない。クルマを下りて、前の営業車を覗きに行くと、なんとそのドライバー、よだれを垂らして寝ているのであった!
 窓ガラスを何度叩こうと起きる様子がない。こちらは後続車もいるので、気が気ではない。声も掛けてみるが反応なし。
 とりあえず、情報を共有しようと後続車のもとへ行って、そちらのドライバーさんに話しかける。

 後続車ドライバー「どうしたんですか?」
 わたし「なんかねぇ、寝てるんですよ」
 後続車ドライバー「えぇっ!」
 わたし「とりあえず、わたしが起こしますから、左の安全確認して、抜いてっちゃっていただけますか?」
 後続車ドライバ−「わかりまし、あっ!」
 わたし「えっ!?」

 後続車ドライバーの視線を追うと、もう黄信号に変わった交差点を、先頭車が猛然とスピードをあげて走り去って行くところだった。件の先頭車ドライバーがとび起きて、急スタートさせたらしい。もちろん右折レーンを無視である。
 残されたわたしたちはポカーン。

 わたし「そ、それでは次の信号で出ますから」
 後続車ドライバー「わかりました。お互いおかしなクルマには気をつけましょう」

 今思うと、あの先頭車ドライバーはてんかん≠フ発作を起こしていたのかもしれない。
てんかん≠フドライバーが発作を起こして、歩行者の列に突っ込む事件が続発し問題となる、数十年も前の出来事であった。

 わたし自身は、居眠り運転はしたことがないし、本当に危なそうなときは安全な場所に停めて、十数分でもいいから仮眠をとるよう努めている。
 おかげでいまのところ、居眠り運転事故のようなことは経験したことがない。
 それでも、「仮眠しよう」と決意するに至る、眠気が満ちてくる時間というものはあるもので、それを凌ぐのはなかなか大変である。
 わたしのクルマには、助手席に可搬型細君ナビが搭載されているのだが、この細君ナビはたびたびスリープモードに入るので、居眠り運転防止には役に立たない。
 以前も書いたが、大雪のスキー場への道のりを、チェーンを巻いたクルマで尻を滑らせながら登っていくときですら、スリープモードに入っていたほど高性能なのである。こっちは滑るたびに肝を冷やしていたというのに。

 居眠り防止として、ガムを噛んだり、窓を開けて外気を入れたりするのだが、なかなかこれは! という効果はないものである。
 普段、ベッドに入ると寝つかれないで、一時間、二時間と目が冴えてしまうのに、こんなときに限って眠くなるのだから腹だたしい。

 今でも思い出すのは、北海道からの帰り道、東北道下りの夜の運転で眠くなったときのこと。このときは事情があって、行きは細君とその友人の三人旅、帰りは一人で運転での帰路であった。
 夜の東北道下りは単調で眠い。しかもPAで夕食をとったあとで、疲れも出て、睡魔が覆い被さるように体を包む。
 このままではまずい。コックリきそうだ。ウトッとしかけたわたしは、とっさにドアポケットにあったボールペンを手に取ると、エイヤッと自分の右太ももに突き刺してみた。
 いや突き刺したといっても、映画のようにズブリとではなく、先端でグリグリする程度。

 だが効果はあった。少しだけ。

 そんなこんなで、何度も自傷行為を繰り返しながら次のPAまでたどりつき、やはりそこで仮眠を取ることにした。
 ひと眠りしてから起きて確かめると、ボールペンに血は滲んではいなかったが、ズボンに幾筋ものボールペン跡が着いていて笑ってしまった。その頃には、もう白々と夜が明けていたのを思い出す。

 やはり仮眠に勝る居眠り運転防止策はないようである。

 最初に戻って、てんかん≠フ方が運転をする件。わたしは無碍に「てんかん患者から免許を取り上げろ」とは言わない。きちんと服薬を続けていれば、運転をしても問題ないことを知っているからである。公道で危険運転をするDQNよりよっぽど安全だ。
 逆に言えば、どうして、てんかんを自覚していながら服薬をきちんとしない患者がいるのだろうとは思う。他人に迷惑をかけることはもちろん、自分で運転中、意識を失うかもしれないことが恐くないのだろうか。
 わたしは、もし自分が運転中意識を失う病になったとしたら、恐くて服薬なしではハンドルを握ることはできないだろう。自分が畳の上で死ねるとは思っていないが、気づいたら煉獄(*1)にいるなど最悪である。
 是非とも、該当者には自重を望みたい。

(*1)カトリックには「天国」と「地獄」の間に「煉獄」があるという教えがあり、よほどの聖人でもなければ、死者はまずそこに送られて火で清められ罪をあがなってから天国へ行くというロジックがある。「気づいたら天国」などと言ってしまうと、ちょっと謙遜が足りないと思うのでこう書いてみたり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年11月01日

【回想録】側弯症

 なぜだか、左手が背中の後ろに回せなくなってしまった。
 左手を後ろに回そうとすると、二の腕と肩に痛みが走って、だいたいベルトより10センチから上にあげられない。
 以前はそんなことはなかったと思うのだが、今月にはいってからこのことに気づいた。おかげで、背中がかゆいときに閉口している。今は定規や棒でしのいでいるが、そのうち百均で「孫の手」を買ってこようと思っている。

 あぁ、こんなときに孫がいてくれれば(ぉ

 それで思い出したのが、中学校のときに行われた「側弯症」のテストである。
 わたしの小・中学校は実験校でもあったので、他の学校に先駆けて、なにか生徒にテストを実践することがあった。そんなわけで、側弯症の検査も、他校より一足早く、実験的に行われたのである。
 なので、わたしと同世代および上の世代の方は、側弯症のテストは知らない、という方が多いようだ。

「側弯症」――正確には「脊柱側弯症」の検査は、今はどこの学校でも行われているそうなので若い方はご存知だと思うが、背中にシマウマのような影を投影して、そのモアレが左右対称かどうかで、脊柱が曲がっているのかどうかをチェックするのである。

 当時は「側弯症」という名前すら知られておらず、検査する方も、まだ手慣れていなかった感があった。
 この一次スクリーニングテストに、わたしは引っかかってしまったのである。

 後日、引っかかった生徒が大学病院に送られた。そこではなぜか医師が、再テストの前に生徒たちにスライドを見せて、側弯症について解説してくれたのであった。
 医学写真というものは、ともすれば下手なホラーより人間の恐怖感を煽るものだが、その日集められた中学生たちは、脊柱がS字に曲がったレントゲン写真に震えあがった。
「肩掛けカバンを片方でばかりかけていると、こうなっちゃう可能性がありますよ」と脅かされたことを覚えている。
 再テストでわたしは側弯症ではなかったと診断された。どうも、ただ姿勢が悪いだけだったらしい。
 というか、一人も本物の側弯症として診断された生徒はいなかったように記憶している。

 実は当時、側弯症は専門家もよくわかっていない疾患であった。上記に書いた「カバンを片方の肩でばかりかけていると――」のくだりは、現在では明確に否定されているという。ただ、原因そのものは未だ不明のようだ。

 わたしが検査を受けた頃は「姿勢が悪いことも原因になる」と言われたものだが、それも今は「根拠のないこと」とされている。
 女子の患者数が男子の5〜7倍だそうだが、あのとき、チェックにひっかかったのは、男女同数くらいではなかったかなぁ。

 上記に記したとおり、カバンを片側にかけ続けたり、姿勢が悪いことが側弯症の原因ではないことは、重ねて書いておきたいと思う。
 だからこそ、側弯症の検査と治療は大切である。努力や気をつけることで治るものではないからである。

 本当のことを言うと、今回、この記事を書こうと調べるまで、カバンの片側掛けや姿勢の良悪が側弯症の原因ではないと明確に否定されていることを知らなかった。

 この試験に引っかかってからしばらく、わたしは左にばかり掛けていたカバンを右に掛けなおしたり、猫背を治そうと努めてみたのである。しかし数週間で元の習慣に逆戻り。結局カバンは左に掛けているし、猫背もひどいものである。
 いつかは側弯症になってしまうのかなぁ、と思っていたが、とりあえず、背骨は真っ直ぐなまま半生を過ごすことができた。
 当時の医者が子どもたちに話した、あの脅かしはなんだったのだろう、と恨みごとをボソリ。

 根性は曲がってしまったかもしれないけどね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録